宮下奈都さんの『太陽のパスタ、豆のスープ』を読んだ。
なんとも美味しそうなタイトルだ。
太陽のパスタに、豆のスープ。
タイトルだけなら、休日の昼下がりにでも読みたくなるような、のんびりした物語を想像する。
ところが、物語の始まりはなかなかに残酷だ。
主人公の明日羽(あすわ)は、結婚式を目前にして突然、婚約を解消される。
これから結婚して、一緒に暮らして、その先も人生を歩いていく。
そんな未来を疑うことなく生きていた明日羽の前から、ある日突然、その未来が丸ごとなくなってしまう。
失意のどん底にいる彼女に、叔母のロッカさんが提案したのが「ドリフターズ・リスト」だった。
やりたいこと、欲しいもの、行きたいところ。
大小関係なく、自分が望んでいることを書いていく。
そのリストをきっかけに、明日羽は自分の気持ちと少しずつ向き合い始める。
これは失恋から立ち直る物語でもある。
でも僕には、それ以上に、
「自分の人生を、自分でもう一度選び直す物語」
に思えた。
失恋で失うのは、その人だけじゃない
婚約を解消される。
考えてみれば、とんでもないことだ。
昨日まで当たり前にあると思っていた未来が、突然なくなる。
失ったのは好きな人だけじゃない。
その人と過ごすはずだった時間も、住むはずだった家も、何年後かの自分も、自分の中ではすでに始まっていた未来も、一緒になくなってしまう。
作中にこんな言葉がある。
「並んで歩くはずの人が消えるということは並んで歩いていくはずの道も消えるということだ。」
(p149より引用)
この言葉が、明日羽の状態をものすごくよく表していると思った。
一人になったから寂しいだけじゃない。
道そのものがなくなったのだ。
目的地がわからないどころか、どっちへ足を出せばいいのかさえわからない。
だから、この小説に「ドリフターズ」という言葉が出てくるのが面白い。
ドリフターズとは、漂流者。
明日羽はまさに、人生の海に突然放り出された漂流者だった。
自分が何をしたいのか、いくつ言えますか
そんな明日羽にロッカさんが勧める「ドリフターズ・リスト」。
作中ではこう表現されている。
「ドリフターズ・リスト。波間に漂う人間が流木に縋るように、それを支えに生きていくためのリストだ。」
(p73より引用)
やりたいことを書くだけ。
そう聞くと簡単そうに思える。
僕も最初はそう思った。
でも、「じゃあ今、やりたいことを好きなだけ書いてください」と言われたら、意外と手が止まるんじゃないだろうか。
どこへ行きたい?
何が欲しい?
何を食べたい?
どんな仕事をしたい?
誰に会いたい?
明日、何をしたい?
十年後はどうなっていたい?
こうして考えていくと、だんだん怖くなってくる。
毎日、自分として生きている。
朝起きた瞬間から寝るまで、ずっと自分と一緒にいる。
それなのに、自分が何を望んでいるのかを、自分がいちばん知らないことがある。
明日羽も同じだった。
「二十何年間もやりたいことをやらずにどうしてきたというのだろう。」
(p74より引用)
自分では、自分なりに生きてきたつもりだった。
でも立ち止まって「本当にやりたいことは?」と聞かれると、答えられない。
この感覚はちょっと怖い。
「自分の人生を自分で引き受ける」ということ
僕がこの小説で特に引っかかった言葉がある。
「つまり自分の人生を自分で引き受ける気概がなかった。」
(p61より引用)
かなり強い言葉だ。
明日羽は、結婚すれば人生がある程度決まると思っていた。
もちろん、それ自体が悪いわけではない。
誰かと生きていくことも、誰かを頼ることも悪くない。
ただ、その人生を「自分で選んだ」と言えるのか。
そこが重要なんだと思う。
僕は、自分の人生を自分で引き受ける気概のある人が好きだ。
それは何でも一人でやるという意味ではない。
人に頼ったっていいし、失敗したっていい。
途中で「やっぱり違った」と引き返してもいい。
ただ、
「自分で選んだ人生なんだから、最後は自分で引き受ける」
という感覚だけは持っていたい。
明日羽にとって婚約解消は、とんでもなくつらい出来事だった。
でも、その出来事がなければ、自分が人生の選択をどこか他人に預けていたことにも気づかなかったのかもしれない。
そう考えると、失うことと気づくことは、案外すぐ隣にある。
失恋すると、知らなかった自分まで出てくる
失恋した明日羽は、当然きれいには立ち直らない。
悲しくなる。
腹が立つ。
みっともないこともする。
人を羨んだり、自分を惨めに感じたりもする。
でも、それがいい。
人間なんだから、そんなに綺麗に傷つけるわけがない。
そして明日羽自身も、そんな自分を知ることで、それまで理解できなかった誰かの感情に近づいていく。
「いろんな感情が私の中にも、そして隣にいる誰かの中にも潜んでいるのだ。」
(p94より引用)
僕はここが好きだった。
失恋によって明日羽が得たものは、「強くなりました」とか「一人でも平気になりました」みたいな単純な成長じゃない。
自分の中にも、こんな感情があったんだ。
という発見なのだ。
人間は、自分が経験していない感情について案外わからない。
「あんなことで怒る?」
「そんなに落ち込む?」
「もう忘れればいいのに」
外から見ていると簡単に言える。
でも、自分が同じ場所に立った瞬間、景色が変わる。
失恋によって世界が狭くなるどころか、それまで理解できなかった人間の感情が少しわかるようになる。
だったら確かに、つらい経験にも何かしら残るものはある。
もちろん、できれば失恋なんてしたくないけど。
人生最悪の日にも、腹は減る
そして、この小説でもう一つ好きなのが「食べること」だ。
タイトルからして『太陽のパスタ、豆のスープ』。
豆のスープをはじめ、美味しそうな料理がいくつも登場する。
明日羽も鍋を買い、料理をする。
誰かと食卓を囲む。
読んでいると普通に腹が減る。
でも、この作品における「食」は、単なる美味しそうな小道具ではないと思う。
母は明日羽に言う。
「あすわ、毎日のごはんがあたなを助ける。それは間違いのないことよ。」
(p143より引用)
これ、本当にそうかもしれない。
どれだけ人生がぐちゃぐちゃになっても、腹は減る。
大失恋した日にも腹は減る。
会社を辞めた日にも腹は減る。
泣きすぎて目が腫れていても、そのうち喉が渇く。
そして眠くなる。
朝が来る。
人間の身体は、本人が「もう全部終わりだ」と思っていても、案外しぶとく今日を続けようとする。
だから、とりあえず何か食べる。
風呂に入る。
寝る。
起きる。
また食べる。
そういう何でもない生活を繰り返しているうちに、昨日よりほんの少しだけ傷が遠くなっている。
人生を立て直すというと、僕らは何か大きなきっかけを想像しがちだ。
運命的な出会いがあった。
仕事で成功した。
新しい夢を見つけた。
突然すべてを悟った。
でも実際には、そんな劇的なものではないのかもしれない。
人間を立ち上がらせるのは、生活そのものなのかもしれない。
「毎日」がいちばん偉い
終盤に、明日羽が母親について考える場面がある。
そこで出てくる、
「『毎日』がいちばん偉い。」
(p258より引用)
という言葉がすごくいい。
毎日ごはんを作る。
毎日仕事へ行く。
毎日洗濯する。
毎日眠る。
毎日誰かを気にかける。
どれも一日だけなら大したことじゃないように見える。
だから、やってもらっている側は簡単に「あたりまえ」だと思ってしまう。
でも、それを毎日やるのは全然あたりまえじゃない。
人生って、結局ほとんど「毎日」でできている。
特別な日は一年に何日もない。
残りの大部分は、なんでもない火曜日とか、ちょっと眠い木曜日とか、特に予定のない日曜日だ。
そのなんでもない日をどう過ごすか。
何を食べるか。
誰と話すか。
何を読むか。
何を選ぶか。
その積み重ねが人生になる。
そう考えると、「毎日のごはんがあなたを助ける」という言葉が急に大きく見えてくる。
天啓なんて、来なくてもいい
もう一つ、この作品で好きだった考え方がある。
人生に迷うと、僕らは「これだ!」という答えを欲しがる。
天職。
運命の人。
本当にやりたいこと。
人生の目的。
どこかに正解があって、それを見つけた瞬間すべてが一本につながるような気がする。
でも、そんなものはなかなか来ない。
作中には、
「天啓は来なくても、ひらめきがなくても、じわじわわかっていけばいいんだよ。」
(p219より引用)
という言葉がある。
これくらいでいいんだと思う。
33歳になった瞬間、突然「俺の人生はこれだ!」と雷に打たれるわけじゃない。
今日ちょっと面白かったこと。
なんとなく嫌だったこと。
またやってみたいと思ったこと。
もう二度としたくないこと。
そういう小さな反応を拾っていく。
それを何年も続けていたら、後ろを振り返ったときに「ああ、俺ってこういう人間だったのか」とわかる。
人生って案外、そのくらいなのかもしれない。
リストを書いたら、あとは歩くしかない
だから「ドリフターズ・リスト」も、願いを書けば人生が叶う魔法のノートではない。
作品の終盤では、そのこともちゃんと語られる。
「リストはつまりきっかけだったんだよね。今の自分やこれからの自分を考えるきっかけ。」
(p251より引用)
ここがいい。
リストそのものが人生を変えてくれるわけじゃない。
書いたから願いが叶うわけでもない。
自分の気持ちに気づくためのきっかけにすぎない。
あとは自分で歩く。
そりゃそうだ。
ノートが会社を辞めてくれるわけでもないし、勝手に旅行へ行ってくれるわけでもない。
「いつか小説を書きたい」と百回書いたところで、一文字も書かなければ小説は完成しない。
でも、自分がそこへ行きたいと知っていることには意味がある。
迷ったときに、
「ああ、俺はこっちへ行きたかったんだった」
と思い出せるからだ。
人生の地図ではなく、方角くらいのものなのかもしれない。
私が選ぶもので、私はつくられる
そして、この物語の最後の方に出てくる言葉が、ドリフターズ・リストの話ときれいにつながっている。
「私が選ぶもので私はつくられる。」
(p266より引用)
結局、人生ってこれなのかもしれない。
今日何を食べるか。
何を読むか。
誰と一緒にいるか。
どんな仕事をするか。
どこに住むか。
何を断るか。
何を諦めないか。
もちろん、自分では選べないことも山ほどある。
生まれる場所も、親も、身体も、突然起こる出来事も選べない。
明日羽だって「婚約を解消される人生」を選んだわけじゃない。
それでも、そのあと何を選ぶかは残っている。
人生のすべてを自由にはできない。
でも、自分に残された小さな選択くらいは、自分で選びたい。
それを繰り返していくうちに、自分という人間が少しずつ出来上がっていく。
そう考えると、ドリフターズ・リストに書く「やりたいこと」は、単なる願望ではなくなる。
これから自分が何を選んでいきたいのか。
その確認なのだと思う。
僕もドリフターズ・リストを作ってみたい
この本を読み終えて、僕もドリフターズ・リストを作ってみたくなった。
別に壮大じゃなくていい。
行ってみたい場所。
読みたい本。
食べたいもの。
やってみたい仕事。
書きたい文章。
くだらないことでもいい。
途中で「やっぱりいらんわ」と消したっていい。
今すぐ叶わなくてもいい。
重要なのは、全部実現することではなく、
自分が何を望んでいるのかくらい、自分だけは知っておくこと。
毎日自分として生きているのだから、それくらいは知っておきたい。
人生を変えるのは、ものすごく大きな決断だけじゃない。
今日何を食べるか。
どんな服を着るか。
何を読むか。
どこへ行くか。
何をやめるか。
何を始めるか。
そんな小さな「自分で選ぶ」を積み重ねることも、自分の人生を引き受けることなのだと思う。
立ち止まったっていい。
道を見失ったっていい。
天啓なんて降りてこなくてもいい。
とりあえず今日はちゃんとごはんを食べる。
そして、自分の気持ちをひとつ拾う。
明日はもうひとつ拾う。
そうやってじわじわ進んでいけばいい。
『太陽のパスタ、豆のスープ』は、人生の答えを教えてくれる小説ではなかった。
むしろ、
「あなたは、どうしたい?」
と静かにこちらへ問い返してくる小説だった。
読み終わったあと、昨日よりほんの少しだけ、
上を向いて生きてみようと思った。
