※この記事には『ゾンビ回収婦』の物語の展開や結末に関するネタバレが含まれます。
すごい小説だ。
読み終わって、最初に浮かんだ感想がそれだった。
AIによって仕事を失った女性が、VRの世界でゾンビの死骸を回収する。
あらすじだけを聞けば、奇妙なSF小説のように思える。ゾンビが登場するのだから、ホラー小説だと思う人もいるかもしれない。
しかし、読み進めていくと、そんな単純な分類では収まらないことに気づく。
労働とは何か。
人間の価値とは何か。
誰かに認められるとは、どういうことなのか。
私たちが現実だと信じているものは、本当に現実なのか。
そして、誰かを愛するということは、その人自身を愛することなのだろうか。
次々と問いが生まれてくる。
特に印象的だったのは、仕事を失った主人公が、仮想世界でも再び働き始めるという設定だ。
仕事から解放されたはずなのに、なぜ、また働くのだろう。
しかも、そこで彼女が求めるのは自由でも娯楽でもない。誰かに認められることだ。
やがて物語は、労働や承認欲求だけでなく、夫婦関係、他者への支配、AIと人間の境界、そして現実そのものの不確かさへと広がっていく。
今回は、小砂川チトさんの『ゾンビ回収婦』について、登場人物たちの関係や物語の構造、そして作品に込められた問いを、自分なりに深く考えてみたい。
『ゾンビ回収婦』のあらすじ。仕事を失った女性が、仮想世界で再び働き始める
主人公は、AIの普及によって仕事を失った女性だ。
夫もまた仕事を失い、やがて演奏旅行に出たまま戻らなくなる。
それまで当たり前だった生活が、少しずつ崩れていく。
仕事がある。
夫がいる。
毎日を過ごす場所がある。
そうしたものによって支えられていた日常が、突然、頼りないものになってしまう。
主人公は夫が残したVR機器を通じて、別の世界へと入り込む。
そこはゾンビが存在する、奇妙な仮想世界だった。
そして彼女は、ホテルでゾンビの死骸を回収する掃除婦として働き始める。
倒されたゾンビの身体を拾い集め、汚れた場所をきれいにする。
華やかな仕事ではない。
誰かに感謝されるわけでもない。
それでも彼女は、その仕事にのめり込んでいく。
やがて現実と仮想世界の境界は曖昧になり、主人公自身の存在まで揺らぎ始める。
この小説のすごさは、単に変わった設定を思いついたことではない。
奇妙な世界を作り上げ、その世界を通して、人間の極めて現実的な問題を描いている。
しかも、読者自身の現実感覚まで揺さぶってくる。
そこに、この作品の恐ろしさがある。
仕事から解放されたはずなのに、なぜ人間はまた働くのか
最初に強烈な違和感を覚えたのは、主人公がVRの世界で働き始めることだった。
AIに仕事を奪われた。
だったら、もう働かなくてもいいのではないか。
少なくとも仮想世界の中くらい、好きなことをして過ごせばいい。
冒険してもいい。
景色を眺めてもいい。
誰かと遊んでもいい。
何もしなくてもいい。
ところが主人公は、そこで再び労働を始める。
しかも、ゾンビの死骸を回収する仕事だ。
何とも奇妙な話ではないか。
しかし、この奇妙さを考えているうちに、私は少し怖くなった。
もしかすると、人間は仕事をしたいのではない。
仕事をしていない自分に、耐えられないのではないか。
私たちは働く理由を尋ねられると、たいていお金のためだと答える。
生活費が必要だから。
家賃を払わなければならないから。
食べていかなければならないから。
もちろん、それは間違っていない。
しかし、本当にそれだけだろうか。
働くことで、自分の役割が生まれる。
誰かに必要とされる。
自分が社会の一部であることを実感できる。
反対に、仕事を失うことで、そうした感覚まで失ってしまう人もいる。
主人公が失ったのは、収入だけではなかったのかもしれない。
自分が何者であるかを説明するための、重要な言葉だったのではないだろうか。
私は会社員です。
私はこの仕事をしています。
私はここで必要とされています。
それらをすべて失ったとき、最後に残る自分とは何なのか。
主人公は、その答えを見つけられなかったのかもしれない。
だから、仮想世界で再び役割を手に入れようとした。
そんなふうにも読める。
人間の価値は、誰かの役に立つことで決まるのか
この作品を読んで、最も長く考え続けたのは、人間の存在価値についてだった。
私たちは幼い頃から、努力することを教えられる。
勉強しなさい。
頑張りなさい。
人の役に立ちなさい。
社会に貢献しなさい。
そうした言葉は、必ずしも悪いものではない。
努力によって得られるものはあるし、誰かの役に立つ喜びもある。
しかし、それがいつの間にか、別の意味を持ち始めることがある。
役に立たなければ、価値がない。
頑張らなければ、認められない。
何かを成し遂げなければ、存在している意味がない。
そんな考え方だ。
主人公は、かつて社会の中で働いていた。
しかし、仕事を失ったことで、自分自身の価値まで揺らいでしまう。
「わたしのわたし性は宿っていたのだろう?」(p14より一部引用)
この問いが、非常に印象的だった。
仕事をしている自分。
誰かの役に立っている自分。
社会から必要とされている自分。
それらを取り除いたとき、何が残るのだろう。
そもそも、自分らしさとは何なのか。
趣味だろうか。
性格だろうか。
好きなものだろうか。
それとも、誰かとの関係だろうか。
私は、ここにこの小説の大きなテーマがあると思う。
私たちは、自分自身の価値を、あまりにも外側のものに預けすぎているのではないか。
仕事。
肩書き。
収入。
社会的評価。
他人からの承認。
そうしたものがなくなったとき、自分自身を肯定できるだろうか。
もちろん、仕事がなくても人間には価値がある。
理屈では、そう言える。
しかし、本当に自分が何の役にも立たなくなったとき、同じことを言えるだろうか。
誰からも必要とされなくなったと感じたとき、自分自身を認められるだろうか。
私は、この問いに簡単には答えられない。
支配人に認められたい。主人公の承認欲求は、どこから生まれたのか
主人公は、ホテルの支配人に認められることを強く望んでいる。
自分の仕事を見てほしい。
褒めてほしい。
許してほしい。
自分にしかできない仕事だと言ってほしい。
その願いは、単なる仕事上の評価を超えているように感じられる。
なぜ、そこまで支配人に認められたいのだろう。
しかも、主人公の仕事は、そもそも他人から見えにくい。
ホテルがきれいに保たれていることは、当たり前のように受け取られる。
汚れがなくなったことには、誰も気づかない。
掃除が完璧であればあるほど、そこに掃除婦がいた痕跡は消えてしまう。
「わたしの仕事は無視され、軽んじられ、それきり忘れられてゆく。」(p41より一部引用)
これは、清掃という仕事の持つ、非常に興味深い逆説だと思う。
仕事をきちんと終わらせる。
すると、仕事をしたこと自体が見えなくなる。
汚れていない床を見て、誰かが一生懸命掃除したのだと想像する人は、どれほどいるだろう。
主人公は、そんな仕事に自分の存在価値を託している。
誰にも気づかれない。
誰にも褒められない。
それでも、いつか支配人が見てくれるかもしれない。
今日ではなくても、明日には認めてくれるかもしれない。
この期待が、彼女を働き続けさせる。
私はここに、承認欲求の恐ろしさを感じた。
人は必ずしも、実際に褒められるから頑張るのではない。
いつか褒められるかもしれないという期待だけでも、頑張り続けてしまう。
しかも、その期待は、簡単には捨てられない。
ここまで頑張ったのだから。
これだけ我慢したのだから。
いつか報われるはずだから。
そう考えるほど、そこから離れられなくなる。
そして、主人公が求めているものは、もはや仕事の評価だけではないように思える。
自分という人間を、丸ごと肯定してほしいのだ。
その願いを、支配人という存在に預けてしまっている。
支配人は誰でもよかったのか。承認欲求が生み出した奇妙な関係
物語が進むにつれて、主人公の支配人に対する認識は変化していく。
最初は、支配人に認められることが重要だった。
しかし、やがてその関係そのものが問い直される。
「〈支配人〉は誰でもよかったのだ」(p132より一部引用)
この一文が、非常に印象的だった。
主人公にとって重要だったのは、支配人という個人ではなかったのかもしれない。
自分を評価する人。
自分を裁く人。
自分に許しを与える人。
そうした機能さえ果たしてくれるなら、相手は誰でもよかったのではないか。
もしそうだとしたら、何とも皮肉な話だ。
主人公は、誰かに自分自身を認めてもらいたかった。
ところが、その誰かについては、必ずしも相手自身を見ていなかったことになる。
相手をひとりの人間として愛していたのではない。
自分を認めてくれる存在として、必要としていた。
これは、仕事だけの話ではないと思う。
恋愛でも、友人関係でも、似たようなことが起こる。
自分を好きでいてくれる人が好き。
自分を必要としてくれる人が必要。
自分を認めてくれる人に認められたい。
もちろん、そうした気持ちがあること自体は自然だ。
しかし、相手の存在が自分の価値を証明するための道具になってしまったら、どうだろう。
そこにあるのは、愛情なのか。
それとも依存なのか。
この小説は、労働を描きながら、人間関係の根本にある問題まで突きつけてくる。
夫は本当に、主人公が知っていた夫だったのか
主人公と夫の関係も、非常に重要だと思う。
物語の序盤で、主人公は自分が夫について、実はよく知らなかったのではないかと気づく。
「わたしはあの男のことを、まるでよく知らなかった。」(p13より一部引用)
これは、かなり恐ろしい発見ではないだろうか。
結婚して、一緒に生活してきた相手だ。
毎日顔を合わせていたはずだ。
会話もしていただろう。
それなのに、相手のことを知らなかった。
なぜ、そんなことが起こるのか。
私は、人間が他人を理解するとき、必ず何らかのイメージを作っているからだと思う。
この人は優しい。
この人は真面目だ。
この人はこういう性格だ。
こうしたイメージは、相手を理解するために必要なものでもある。
しかし、一度作ったイメージが、相手自身よりも強くなってしまうことがある。
本当の相手が、そのイメージから外れた行動を取る。
すると、私たちは戸惑う。
そんな人だと思わなかった。
昔はこんな人じゃなかった。
変わってしまった。
でも、本当に相手が変わったのだろうか。
最初から、自分が見ていなかっただけではないのか。
主人公は、夫という人間と生活していた。
しかし同時に、自分が作り上げた夫のイメージとも生活していた。
そう考えると、現実と虚構の境界は、VRの世界に入る前から曖昧だったことになる。
そもそも私たちは、現実の人間をそのまま見ているのだろうか。
自分の記憶や期待を通して、都合のいい姿を見ているだけではないのか。
この問いは、夫婦関係だけでなく、あらゆる人間関係に当てはまると思う。
アラスカという存在。主人公は何を求めていたのか
物語に登場するゾンビのアラスカも、印象的な存在だった。
アラスカは、ほかのゾンビたちとは異なる印象を与える。
臆病で、どこか頼りなく、主人公の感情を強く引きつける存在だ。
主人公は、そんなアラスカに特別な感情を抱いていく。
ここで興味深いのは、主人公がアラスカに向ける感情と、夫に向けていた感情との関係だ。
主人公の夫は、彼女のもとから去っていく。
そしてアラスカもまた、主人公にとって失われる存在となる。
主人公は、いなくなった相手を思い、戻ってくることを期待する。
ここには、似た構造がある。
大切な存在がいなくなる。
その不在を受け入れられない。
そして、もう一度会えることを願う。
もちろん、アラスカと夫が同一人物であると断定することはできない。
しかし、二人の関係を重ねて読むことには、十分な意味があると思う。
もしアラスカが夫を象徴する存在だとしたら、主人公はVRの世界でも、現実で失った関係を繰り返していることになる。
ただし、私はアラスカを単なる夫の代用品として扱うことにも違和感がある。
アラスカにはアラスカとしての姿があり、振る舞いがある。
主人公がそこに独自の感情を抱いたのだとすれば、それは夫への感情とは別のものだった可能性もある。
重要なのは、アラスカの正体をひとつに決めることではない。
なぜ主人公はアラスカに心を動かされたのか。
なぜ、そこまで大切な存在になったのか。
そこに、この物語の核心のひとつがあるように思う。
私たちは相手を見ているようで、本当は見ていないのかもしれない
この作品で特に印象的だったのは、人間が他者を理解することの難しさだ。
「わたしたちは相手を見ているようで見ていない」(p111より一部引用)
私は、この一文がとても好きだ。
私たちは、相手を理解しているつもりでいる。
長く付き合っているから。
何度も会話しているから。
一緒に生活しているから。
しかし、実際には、相手の一部分しか見ていないのかもしれない。
それなのに、その一部分をもとに、相手の全体を理解したつもりになる。
そして、相手が自分の予想と違う行動を取ると、裏切られたように感じてしまう。
でも、相手は最初からそういう人間だったのかもしれない。
自分が勝手に、別の人物像を作り上げていただけなのかもしれない。
主人公と夫の関係には、そうした問題が見えてくる。
そして、これは夫婦関係に限った話ではない。
友人でも、家族でも、職場の人間でも同じだ。
相手のことを知っていると思っていても、実際には何も知らないのかもしれない。
だからこそ、人間関係は難しい。
そして、だからこそ面白いのだとも思う。
ミーシカ・コソラープィ。AIは人間を理解できるのか
作中には、クマの姿をした対話相手も登場する。
ミーシカ・コソラープィという存在だ。
この存在を考えるとき、私は「理解される」ということについて考えた。
人は、誰かに話を聞いてほしいと思う。
つらかったこと。
悲しかったこと。
納得できないこと。
自分の中にある感情を、誰かに受け止めてほしい。
しかし、相手が本当に理解しているかどうかを、私たちはどうやって確かめるのだろう。
たとえば、悩みを相談したとする。
相手は優しく話を聞いてくれる。
共感してくれる。
自分の気持ちを言葉にしてくれる。
それだけで、少し救われることがある。
では、その相手がAIだったらどうだろう。
同じ言葉を返してくれたとしても、人間とは違うのだろうか。
もちろん、人間とAIには大きな違いがある。
しかし、少なくとも話をした側が感じた安心まで、簡単に否定することはできない。
反対に、人間同士であっても、本当に理解し合えているとは限らない。
親しい友人。
恋人。
家族。
長い時間を一緒に過ごしていても、相手の本心がわからないことはある。
そう考えると、理解されることと、理解されたと感じることは、必ずしも同じではない。
ミーシカの存在は、そんな問題を考えるきっかけになる。
そして、ここでも夫との関係が重なってくる。
主人公は夫を理解していたつもりだった。
でも、本当に理解していたのだろうか。
仮想世界の存在が自分を理解してくれると感じることと、現実の人間を理解していると思い込むこと。
その違いは、私たちが考えているほど明確ではないのかもしれない。
グッドニュース氏。誰にも気づかれない仕事を、誰が引き受けるのか
主人公だけでなく、前任の掃除人であるグッドニュース氏についても考えたい。
この人物を通して浮かび上がるのは、仕事の引き継ぎと、個人の代替可能性という問題だ。
社会には、誰かがやらなければならない仕事がある。
しかし、その仕事を誰がやっているのかについては、あまり関心を持たれないこともある。
きれいな場所がある。
整えられた環境がある。
問題なく動いている仕組みがある。
その裏側には、必ず誰かの仕事がある。
しかし、仕事がきちんと行われているほど、その存在は見えにくくなる。
そして、担当者がいなくなれば、別の誰かが引き継ぐ。
仕事は続く。
世界も続く。
では、それまで働いていた人の存在には、どんな意味があったのだろう。
私は、ここに非常に冷たい現実があると思う。
会社を辞めても、会社は続く。
誰かが退職しても、新しい人が入ってくる。
昨日まで自分が担当していた仕事を、明日から別の人が行う。
それ自体は、組織として自然なことだ。
しかし、人間の感情は、そう簡単には割り切れない。
自分がいなくても、何も変わらない。
そう感じたとき、人は寂しさを覚えることがある。
自分にしかできない仕事だと思っていた。
自分が必要とされていると思っていた。
ところが、いなくなってみれば、誰かが代わりにやっている。
その事実は、ときに残酷だ。
でも、ここでひとつ考えたい。
代わりがいることは、その人に価値がないことを意味するのだろうか。
私は、そうは思わない。
仕事を代わることはできても、その人が過ごした時間まで代わることはできない。
その人が感じた喜びや苦しみまで、別の人が引き受けることはできない。
仕事における代替可能性と、人間としての存在価値は、本来別の問題なのではないだろうか。
ゾンビと人間は、本当に違う存在なのか
この小説には、当然ながらゾンビが登場する。
しかし、私は読み進めるうちに、ゾンビと人間の違いがわからなくなってきた。
ゾンビは、決められた行動を繰り返す存在として描かれる。
同じ動きを繰り返す。
同じ場所を歩く。
与えられた役割に従って行動する。
では、人間はどうだろう。
朝起きる。
仕事に行く。
決められた作業をする。
帰宅する。
眠る。
そして翌日、また同じことを繰り返す。
もちろん、人間には感情があり、意思がある。
しかし、その生活があまりにも習慣化すると、自分が何のために行動しているのかわからなくなることもある。
最初は意味があった。
目的もあった。
しかし、同じことを繰り返すうちに、その意味が薄れていく。
ただ動いている。
ただ働いている。
ただ毎日を過ごしている。
そうした状態は、ゾンビと何が違うのだろう。
ここで、作品に登場するゾンビたちの存在が、単なるホラーの道具ではなくなってくる。
彼らは、人間の姿を映し出す鏡なのかもしれない。
しかし、この小説は、そこで終わらない。
むしろ、正常に機能している人間のほうが、本当は壊れているのではないかという疑問まで生まれてくる。
働き続けること。
改善し続けること。
成長し続けること。
誰かに認められるために、自分を傷つけ続けること。
それらを当たり前だと信じている人間のほうが、よほど奇妙な存在なのかもしれない。
AIに仕事を奪われることは、本当に不幸なのか
この作品の背景には、AIによる失業がある。
現代の私たちにとって、決して遠い話ではない。
AIは、さまざまな作業を人間に代わって行うようになっている。
文章を書く。
画像を作る。
情報を整理する。
複雑な計算をする。
これまで人間が時間をかけて行っていたことが、短時間でできるようになってきた。
便利なことだ。
しかし、その便利さによって仕事を失う人もいる。
では、仕事を失うことは、必ず不幸なのだろうか。
私は、そうとも言い切れないと思う。
そもそも、人間はなぜ働かなければならないのだろう。
生活のために必要な労働が減ること自体は、本来、喜ばしいことのはずだ。
危険な仕事。
過酷な仕事。
単調な仕事。
そうしたものから解放されるのであれば、人間にとって大きな進歩だろう。
しかし、ここで問題が生まれる。
人間が、自分の存在価値を仕事に結びつけすぎていた場合だ。
仕事がなくなる。
すると、自分の価値までなくなったように感じてしまう。
本当は、仕事から解放されたはずなのに。
自由になったはずなのに。
その自由に耐えられない。
私は、この逆説が非常に恐ろしいと思った。
人間を苦しめていたはずの労働が、同時に人間を支えていた。
だから、労働を取り除けば、そのまま幸福になるとは限らない。
この小説は、そんな矛盾を描いているように思う。
「もっと成長しろ」という社会は、いつまで人間を追い立てるのか
もうひとつ、強く印象に残ったのが、人間に求められる成長についての問題だ。
私たちは、何かにつけて成長を求められる。
昨日より今日。
今日より明日。
もっと効率よく。
もっと正確に。
もっと早く。
もっと優秀に。
もちろん、成長すること自体は悪いことではない。
しかし、成長し続けなければならないとしたら、どうだろう。
どこまで頑張ればいいのか。
いつになったら、もう十分だと言ってもらえるのか。
そもそも、なぜ昨日の自分より優秀にならなければならないのだろう。
私は、この問いがとても好きだ。
昨日と同じ自分では、いけないのだろうか。
昨日と同じように働き、同じように食事をして、同じように眠る。
それだけでは、駄目なのだろうか。
何かを成し遂げなくてもいい。
特別な才能がなくてもいい。
誰かより優れていなくてもいい。
そうした生き方が、もっと自然に認められてもいいのではないか。
しかし、現実には、成長することをやめるのが怖い人もいる。
周囲に置いていかれるから。
必要とされなくなるから。
自分の価値がなくなるように感じるから。
主人公もまた、そうした価値観の中で生きてきたのかもしれない。
だから、仕事を失っても、仮想世界で再び働き始める。
成長しなければならない。
役に立たなければならない。
認められなければならない。
そうした考え方から、なかなか抜け出せない。
この小説を読んでいると、人間はAIに仕事を奪われる以前に、自分自身を仕事に奪われていたのではないかとさえ思えてくる。
VRの世界は逃避なのか。それとも救済なのか
主人公は、現実の世界で居場所を失い、VRの世界へと入り込む。
これを現実逃避と呼ぶことは簡単だ。
現実がつらいから、ゲームの世界に逃げる。
現実の問題と向き合わず、仮想世界に没頭する。
そう考える人もいるだろう。
しかし、私は逃避することが必ずしも悪いとは思わない。
本を読むことだって、ある意味では現実から離れる行為だ。
映画を観ることもそうだろう。
音楽を聴いているとき、目の前の現実を忘れることがある。
好きな物語の世界に入り込み、何時間も夢中になることがある。
その時間によって救われる人もいる。
つらい現実から一時的に離れることで、明日を生きる力を取り戻すこともある。
だったら、現実から離れることを、すべて逃避として否定する必要はないのではないか。
問題は、そこから戻れるかどうかだけなのだろうか。
そもそも、戻るべき現実とは何なのだろう。
現実の世界では誰にも必要とされない。
しかし、仮想世界では自分の役割がある。
現実の世界では孤独だ。
しかし、仮想世界では誰かとのつながりを感じられる。
そのとき、どちらがその人にとって大切な世界なのだろう。
私は、簡単には決められないと思う。
もちろん、現実の身体や生活を損なうほど没頭することには危険もある。
しかし、だからといって、仮想世界で感じた幸福まで否定することはできない。
この小説は、現実と虚構のどちらが正しいかを、単純には決めさせてくれない。
そもそも、現実とは何なのか
読み進めるうちに、何が現実で何が虚構なのか、だんだんわからなくなってくる。
私は、この描き方が本当にすごいと思った。
普通、私たちは現実と虚構を区別している。
現実は、自分が生きている世界。
虚構は、誰かが作り上げた世界。
そう考えている。
しかし、本当にそれほど簡単なのだろうか。
たとえば、夢を見ているとき。
私たちは夢の中で、泣いたり、笑ったり、恐怖を感じたりする。
目が覚めてから、あれは夢だったと気づく。
でも、夢を見ていた最中には、その世界を現実として受け取っていた。
VRも似ている。
目の前に広がる世界が人工的に作られたものだと知っていても、身体は反応する。
高い場所に立てば怖くなる。
何かが近づいてくれば驚く。
仮想世界であっても、そこで起こる体験は、人間にとって確かな感覚を伴う。
では、現実と虚構の違いは何なのだろう。
実際に存在していることなのか。
身体で感じられることなのか。
他人と共有できることなのか。
この作品を読んでいると、そうした基準が次々と揺らいでいく。
しかも、面白いのは、現実の世界に戻ればすべてが解決するわけではないことだ。
主人公が生きてきた現実もまた、思い込みや役割によって作られた世界だったのではないか。
夫について抱いていたイメージ。
仕事によって得ていた自分の価値。
社会から求められてきた役割。
それらも、ある意味では虚構だったのかもしれない。
そう考えると、VRの世界だけが偽物なのではない。
現実の世界にも、私たちが信じ込んでいる物語が存在している。
そして、その物語が崩れたとき、人は自分が何者なのかわからなくなる。
現実は、ひとつだけではないのかもしれない
この作品で特に印象的だったのが、現実の捉え方についての表現だ。
「人数ぶんの現実が、並行して起動している」(p147より一部引用)
私は、この一文がとても好きだ。
同じ場所にいて、同じ出来事を経験していても、人によって見えている世界は違う。
ある人にとっては幸せな出来事が、別の人にとっては苦しい出来事かもしれない。
ある人にとっては何でもない言葉が、別の人にとっては忘れられない言葉になることもある。
私たちは、同じ世界に生きている。
しかし、同じ現実を見ているとは限らない。
それぞれの記憶。
それぞれの経験。
それぞれの価値観。
そうしたものによって、現実の見え方は変わってくる。
だとしたら、現実とは何なのだろう。
誰かにとっての現実が、別の誰かにとっては虚構のように感じられることもある。
この小説は、そうした問題をVRという設定によって描き出している。
しかし、その問いは、私たちの日常生活にもつながっている。
自分が見ている世界だけが、唯一の現実だとは限らない。
そう考えると、他人を理解することの難しさも、また違った形で見えてくる。
人間は誰かの役割を演じながら生きている
この小説を読んで、私は人間が日常生活の中で演じている役割についても考えた。
会社では会社員。
家庭では夫や妻。
子どもの前では親。
友人の前では友人。
私たちは、さまざまな役割を持ちながら生活している。
それ自体は、ごく自然なことだ。
しかし、役割がなくなったとき、何が残るのだろう。
仕事を失えば、会社員ではなくなる。
離婚すれば、夫や妻という役割がなくなる。
子どもが成長すれば、親として求められることも変化する。
それまで自分を支えていた役割が消えたとき、人は不安になることがある。
なぜなら、役割は自分の存在を説明してくれるからだ。
私は何者なのか。
その問いに対して、役割は簡単な答えを与えてくれる。
しかし、役割と自分自身は、本当に同じなのだろうか。
私は掃除婦です。
だから、掃除をします。
掃除をしているから、私は必要とされています。
では、掃除をしなくなった私は、何者なのか。
この問いが、主人公の中で大きくなっていく。
そして私は、そこにこの作品の切実さを感じた。
なぜ主人公はゾンビを倒さず、回収するのか
『ゾンビ回収婦』というタイトルも、非常に面白い。
ゾンビを倒す物語ではない。
ゾンビを回収する物語なのだ。
普通のゾンビ作品であれば、主人公はゾンビと戦う。
敵を倒す。
生き延びる。
危機を乗り越える。
そうした行動が物語の中心になることが多い。
しかし、この作品の主人公は、戦いが終わったあとの世界で働く。
誰かが倒したゾンビの死骸を拾い集める。
汚れを落とす。
世界を元の状態に戻す。
私は、この設定に強く惹かれた。
戦う人間が主役で、後片づけをする人間が脇役。
そんな価値観を、ひっくり返しているように感じたからだ。
現実社会でも、似たようなことがある。
華やかな仕事は注目される。
目立つ成果を上げた人は称賛される。
しかし、その裏側で環境を整えている人たちは、あまり注目されない。
誰かが使った場所をきれいにする人。
誰かが残したものを片づける人。
誰かが気づかない問題を処理する人。
そうした仕事がなければ、社会は成り立たない。
それなのに、目立たないという理由だけで、その価値が見過ごされることがある。
この小説は、そんな仕事を物語の中心に置いている。
しかも、単に清掃という仕事の大切さを訴えているだけではない。
その仕事に没頭する主人公自身もまた、承認欲求に苦しんでいる。
仕事の尊さと、仕事に自分の価値を預けてしまう危うさ。
その両方が描かれている。
だから、単純な労働賛歌にはならない。
そこが面白い。
最後に変化する「働くこと」の意味
物語の終盤、主人公にとって、回収という行為の意味が変化していく。
それまでの彼女は、誰かに認められるために働いていたように見える。
支配人に褒められたい。
自分の価値を証明したい。
必要とされたい。
そうした願いが、労働の原動力になっていた。
しかし、やがて回収という行為そのものに、別の意味が生まれてくる。
「行為がそっくりそのまま、音楽にかわり、舞踏になった。」(p151より一部引用)
私は、この一文が非常に美しいと思った。
誰かに褒められるためではない。
誰かに認められるためでもない。
自分の価値を証明するためでもない。
ただ、目の前の行為に心を注ぐ。
丁寧に取り組む。
その時間そのものに、意味が宿る。
ここには、これまでの主人公とは異なる労働観が見えてくる。
働くことが、自分の価値を証明するための手段ではなくなる。
労働そのものが、ひとつの表現になる。
私は、この変化がとても美しいと思った。
仕事を通して誰かに認められようとしていた人間が、仕事そのものと向き合い始める。
そのとき初めて、労働は他人の評価から少し自由になるのかもしれない。
もちろん、現実社会の仕事をすべてそのように考えることは難しい。
生活のために働かなければならない人もいる。
過酷な労働環境に置かれている人もいる。
だから、仕事に心を込めればすべて解決するという話ではない。
しかし、自分が何のために働いているのかを考え直すきっかけにはなると思う。
誰かに認められるためなのか。
生活するためなのか。
それとも、その行為自体に意味を感じているのか。
その違いは、案外大きいのではないだろうか。
まとめ。私たちは、何かの役に立たなければ価値がないのだろうか
この小説を読んで、最後に残った問いがある。
私たちは、何かの役に立たなければ、価値がないのだろうか。
私は、そんなことはないと思っている。
仕事がなくてもいい。
誰かに褒められなくてもいい。
何かを成し遂げなくてもいい。
ただ生きているだけで、その人には価値がある。
そう信じたい。
でも、本当に自分が何の役にも立たなくなったとき、同じことを言えるだろうか。
誰からも必要とされなくなったと感じたとき、自分自身を肯定できるだろうか。
簡単には答えられない。
そして、もうひとつ。
私たちは、なぜそこまでして誰かに認められたいのだろう。
なぜ、自分自身の価値を、他人の評価によって決めようとしてしまうのだろう。
誰かに必要とされることは、確かに嬉しい。
褒められることも、認められることも、幸せなことだと思う。
しかし、それがなければ自分には価値がないと思い始めたとき、人は苦しくなる。
主人公は、そんな苦しさの中で働き続けていたのかもしれない。
そして、最後には、働くことの意味を少しずつ変えていったようにも思える。
誰かに認められるためではなく、自分が目の前の行為に心を注ぐために。
私は、そこにわずかな希望を感じた。
ただし、この小説は決して単純な救済の物語ではない。
すべての問題が解決するわけではない。
現実と虚構の境界も、簡単には元に戻らない。
だからこそ、読み終わったあとも考えてしまう。
主人公は何を失い、何を取り戻したのか。
そして、自分自身は何のために働き、何のために生きているのか。
まだ答えは出ない。
むしろ、問いばかりが増えていく。
だからこそ、すごい小説だと思った。
