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『さいはての彼女』感想・あらすじ|旅に出たくなる原田マハの短編集

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小説を読んでいて、「どこかへ行きたい」と思うことがある。

物語の舞台になった場所を実際に見てみたくなったり、登場人物が歩いた道を自分も歩いてみたくなったりする。

原田マハさんの『さいはての彼女』を読み終えたあと、僕が猛烈に行きたくなったのは北海道だった。

広い空。どこまでも続いていく一本道。夏の緑と、冬の雪。地平線の向こうまで続いていきそうな風景。

そして、その中をハーレーで走るナギ。

読んでいるだけなのに、風まで吹いてくるようだった。

『さいはての彼女』は、旅をきっかけに、立ち止まっていた人たちの心が少しずつ動き出していく短編集だ。

収録されているのは、「さいはての彼女」「旅をあきらめた友と、その母への手紙」「冬空のクレーン」「風を止めないで」の四編。

それぞれ独立した物語でありながら、読み終えて振り返ってみると、どの物語にも「ここではないどこかへ行く」ということが描かれている。

知らない場所へ行く。

いつもとは違う景色を見る。

知らない人と出会う。

そして、普段とは少し違う場所から、自分の人生を眺めてみる。

旅に出たからといって、抱えている問題がすべて解決するわけではない。

仕事がうまくいくわけでもないし、人間関係が元通りになるわけでもない。過去をなかったことにもできない。

それでも、場所を変えることで見えてくるものはある。

自分の中で世界のすべてみたいに膨らんでいた悩みが、北海道の広い景色の中では、ほんの少し小さく見えるかもしれない。

この本を読んで、何度も思った。

旅って、いいな。

この記事では、『さいはての彼女』に収録された四編について、心に残った言葉とともに感想を書いていきたい。

※ここから物語の内容に触れています。


目次

『さいはての彼女』のあらすじ

表題作「さいはての彼女」の主人公は、鈴木涼香。

25歳で起業し、会社を成長させてきた若手女性社長だ。

仕事では成功している。

猛烈に働き、結果を出し、自分の力で会社を大きくしてきた。

ところが、その一方で私生活はうまくいかない。

結婚とは縁遠く、絶大な信頼を寄せていた秘書の高見沢まで会社を去ってしまう。

そんな中、涼香は一人旅へ出る。

本来なら沖縄で優雅なヴァカンスを過ごすはずだった。

ところが、手違いによってたどり着いたのは北海道の女満別。

沖縄とはまるで違う。

海でのんびりするつもりだったのに、目の前にあるのは北海道の広大な風景。

そこで涼香は、ナギという女性と出会う。

この出会いが、涼香の旅を大きく変えていく。

そして僕は、このナギという人物がとにかく好きだった。


ナギがとにかく魅力的だった

ナギは耳が聞こえない。

けれど、この物語は彼女を「耳が聞こえないかわいそうな人」として描かない。

涼香が初めてナギに会ったとき、こんなふうに感じている。

「彼女がいるだけで、そこはたちまち春の野原、夏休みの浜辺になってしまうのだ。」(p37より引用)

この表現がすごく好きだった。

ナギの魅力を説明するのに、明るいとか、元気だとか、前向きだとか、そんな言葉だけでは足りない。

彼女がそこにいるだけで、その場所の空気まで変わってしまう。

そんな人なのだ。

そしてナギは、ハーレーに乗る。

北海道の広い道を、ハーレーで走っていく。

もう、この組み合わせだけでかっこいい。

北海道。

ハーレー。

ナギ。

読んでいるうちに、自分までどこか遠くへ連れていってもらっているような気分になった。

特に好きだったのが、夕日についてナギが語る場面だ。

「夕日が沈むのを見届けて、まにあってよかった、って。がんばって走ってきて、よかった。生きてきて、よかった。そんなふうに思って、嬉しくなるんです。」(p41より引用)

すごく素朴な言葉だ。

でも、だからこそ残った。

夕日に間に合った。

ただそれだけのことなのに、「生きてきて、よかった」とまで思える。

人生の幸福って、本当はこういうところにもあるのかもしれない。

大きな成功をする。

たくさんのお金を稼ぐ。

誰かから評価される。

もちろん、そういうものを求めることも悪くない。

でも、必死に走って、ギリギリ夕日に間に合って、その景色を見ながら「今日ここまで来てよかった」と思える。

それだって、ものすごく豊かな時間だと思う。

涼香は仕事の世界で成功してきた人だ。

だからこそ、ナギのこういう価値観との対比が面白かった。

成功するために走る涼香。

風を感じるために走るナギ。

同じ「走る」でも、ずいぶん違う。


自分で引いてしまった「線」を越えていく

ナギの明るさだけを見ていると、最初から何でも乗り越えてきた強い人のようにも見える。

でも、そうではない。

彼女にも、自分ではどうすることもできないと思っていたことがあった。

そんなナギに向けられた言葉がある。

「そんな『線』は、どこにもない。もしあるとしたら、それは耳が聞こえる人たちが引いた『線』じゃない。お前が勝手に引いた『線』なんだ。」(p62より引用)

そして、

「ナギ、生きるんだ。越えていくんだ。」(p63より引用)

この「線」という言葉が印象に残った。

僕たちは、自分でも気づかないうちに、いろんな線を引いているのかもしれない。

自分には無理。

もう遅い。

こういう人間だから仕方ない。

今さら変えられない。

ここから先は、自分が行く場所ではない。

もちろん、本当に越えられないものだってある。

だから何でも「気持ち次第」で片づけることはできない。

それでも、自分自身で勝手に引いてしまった線もあるのだと思う。

誰かに止められたわけでもないのに、自分で「ここまで」と決めてしまう。

ナギは、その線を越えていく。

そして彼女は言う。

「私、ずっと走り続ける、って決めたの。やっと吹き始めた風を。もう止めたくないから。」(p63より引用)

この作品には、何度も「風」が出てくる。

ハーレーで走るときの風。

北海道を吹き抜ける風。

そして、自分の人生に吹き始めた風。

一度吹き始めた風を、自分で止めない。

ナギの自由さは、何も考えていない自由ではない。

過去もある。

痛みもある。

母親の心配もある。

それでも、自分の人生を走ることを選んでいる。

だからナギはかっこいいのだと思う。


予定どおりにいかなかったから、ナギに出会えた

僕がこの短編で好きなのは、そもそも涼香が女満別へ行きたかったわけではないところだ。

予定どおりなら、彼女は北海道にはいなかった。

ナギにも出会っていない。

ハーレーにも乗っていない。

あの景色も見ていない。

全部、予定が狂ったところから始まっている。

これって、旅のおもしろさそのものなのかもしれない。

旅行をするとき、僕たちは予定を立てる。

何時にここへ行く。

ここで食事をする。

この電車に乗る。

このホテルに泊まる。

もちろん、それも楽しい。

でも旅の記憶って、意外と予定外のところに残ったりする。

たまたま入った店。

道を間違えて見つけた景色。

予定していなかった場所。

偶然話した人。

思いどおりにならなかったからこそ、出会えるものがある。

人生も同じなのかもしれない。

自分が想像していた道から外れた瞬間、人は不安になる。

でも、外れた先に何があるのかは、外れてみなければわからない。

涼香は、まさにそうだった。

彼女自身も、自分の人生について考え始める。

「思ったとおりに人生を生きていける人間が、いったいこの世の中にどのくらい存在するだろうか。」(p83より引用)

思ったとおりに生きられない。

それは失敗なのだろうか。

予定していた場所へ行けなかった。

だから旅は失敗なのか。

たぶん、そんなことはない。

女満別へ行ってしまったから、ナギに出会えた。

そんな旅もいい。

むしろ僕は、そういう旅をしてみたいと思った。


「うまくいっている人生」だけが幸せなのか

涼香は、仕事では成功している。

でも、旅をしながら少しずつ、自分が信じていた「うまくいっている」という感覚を疑い始める。

「誰も何も言わなかったのは、私が何も言わせなかっただけなんじゃないか。」(p85より引用)

この気づきは、かなり痛い。

自分では順調だと思っている。

仕事もうまくいっている。

会社も成長している。

だから問題なんてない。

でも、自分が「問題なんてない」と思い込むことで、周囲の声を聞かなくなっていたのかもしれない。

涼香は旅に出たことで、初めて自分の人生から少し離れることができたのだと思う。

毎日同じ場所にいると、自分の生き方を外側から見るのは難しい。

仕事場にいれば、仕事の価値観が世界のすべてになる。

忙しければ、立ち止まって考える時間もない。

だから旅に出る。

知らない土地へ行く。

いつもとは違う人と話す。

自分とはまったく違う生き方をしている人を見る。

すると、「これしかない」と思っていたものが、本当はたくさんある選択肢のひとつだったことに気づく。

旅が人生を変えるというより、旅に出ることで、自分の人生を少し遠くから見られる。

僕は、この本を読みながらそんなことを思った。


『旅をあきらめた友と、その母への手紙』が一番心に残った

四編の中で、僕が一番好きだったのは「旅をあきらめた友と、その母への手紙」だ。

この物語には、ハグとナガラという二人の女性が登場する。

二人で旅へ出るはずだった。

しかし、ナガラの母親が急病になり、ナガラは旅をあきらめる。

ハグは一人で旅をすることになる。

ここがまずいい。

「一人旅をしよう」と最初から決めていたわけではない。

本当なら、友人と一緒にいるはずだった。

隣にいるはずだった人がいない。

その不在を感じながら、一人で旅を続ける。

だからこの旅には、単純な一人旅とは違う寂しさがある。

でも、不思議とハグは完全に一人には見えなかった。

旅先で景色を見ながら、ナガラのことを思う。

ナガラなら何と言うだろう。

一緒だったら、どんな話をしただろう。

人は、その場にいなくても一緒に旅をすることができるのかもしれない。

誰かを思いながら見る景色には、その人の存在も混ざる。

それがこの短編にはあった。


「また今度」は、本当にあるのだろうか

この物語で特に心に残ったのが、ハグがナガラのお母さんへ手紙を書くところだった。

いつか二人の母親も連れて、四人で旅行したい。

その気持ちが、とてもよかった。

そして同時に、「いつか」という言葉について考えた。

僕たちはよく言う。

また今度行こう。

時間ができたら行こう。

落ち着いたら会おう。

来年でもいい。

いつでもできる。

でも、本当にそうなのだろうか。

今回だって、ナガラは旅へ行くつもりだった。

予定もあった。

友人もいた。

それでも、母親の急病によって行けなくなった。

人生には、こういうことがある。

昨日までできると思っていたことが、今日にはできなくなる。

別に大げさな話ではない。

仕事が変わるかもしれない。

引っ越すかもしれない。

体調を崩すかもしれない。

家族の事情が変わるかもしれない。

人間関係だって変わる。

だから、「また今度」が必ずやってくるとは限らない。

これは、「今すぐ全部やれ」という話ではない。

そんなことは現実的に無理だ。

でも、本当にやりたいことまで、無意識に「いつか」の箱へ放り込んでいないか。

この物語を読んで、少し考えた。

行きたい場所があるなら、行けるときに行く。

会いたい人がいるなら、会えるときに会う。

一緒に過ごしたい人がいるなら、その時間を当たり前だと思わない。

旅だけの話ではないのだと思う。

これは、人と一緒にいられる時間の話でもある。


人生の「午後三時」を旅している

この短編で、もうひとつ好きな表現があった。

「人生の真昼でもなく黄昏でもない、けだるい午後三時あたりを、いまこうして旅をしている。」(p101より引用)

人生を一日の時間にたとえる。

これがなんともいい。

朝でもない。

真昼でもない。

黄昏でもない。

午後三時。

まだ終わりではない。

でも、朝のような始まりでもない。

なんとなく気だるくて、このままでいいのかな、と考える時間。

そんな時期って、確かにある気がする。

人生には、わかりやすい節目ばかりがあるわけではない。

大きな失敗をしたわけでもない。

ものすごく不幸なわけでもない。

でも、なんとなく立ち止まる。

このまま同じ道を歩いていていいのだろうか。

そんなときに旅へ出るのもいいのかもしれない。

人生を変えるためではなく、自分が今どこにいるのかを見るために。


成功者じゃなくても、五十メートルを全力で走ればいい

「旅をあきらめた友と、その母への手紙」には、こんな言葉も出てくる。

「人生の成功者と言われなくても、目の前の五十メートルを全力で駆け抜けるのだって、十分気持ちいいじゃないか。」(p90より引用)

これも好きだった。

人生について考えると、すぐに大きな話になってしまう。

成功。

将来。

キャリア。

夢。

何者になるのか。

どこまで行くのか。

でも人生って、本当にそんな遠くばかり見ながら生きなければならないのだろうか。

目の前の五十メートルを走る。

それで気持ちいいなら、それでいい。

もちろん、先のことを考えるのも大切だ。

でも、遠くのゴールばかり見ていると、今ここにいる自分がずっと「途中」になってしまう。

成功するまで途中。

夢を叶えるまで途中。

何者かになるまで途中。

それでは、いつになったら人生が始まるのだろう。

今日の五十メートルを走って、「気持ちよかった」と思える。

それもちゃんと人生だ。

そして、この考え方はナギにもつながっているように思えた。

ナギは、誰かに認められるために走っているわけではない。

風を止めたくないから走る。

その姿が、この本全体を明るくしている。


『冬空のクレーン』|仕事でいっぱいになった世界から離れる

三編目の「冬空のクレーン」の主人公は志保。

仕事で傷ついた志保は、冬の釧路へ向かう。

そこで出会うのが、タンチョウや天羽だ。

この物語を読んでいると、北海道の「広さ」がより強く感じられた。

「さいはての彼女」では、夏の北海道をハーレーで走る爽快さが印象に残る。

一方、「冬空のクレーン」では、雪や冷たい空気、そしてタンチョウ。

同じ北海道なのに、まったく違う表情を見せる。

夏の北海道にも行きたい。

冬の北海道にも行きたい。

この本、普通に北海道へ行きたくなる。

そして、この短編で僕が一番考えたのは、仕事についてだった。

仕事で悩んでいるとき、仕事が世界のすべてみたいになることがある。

職場で起きたことを家に帰ってからも考える。

寝る前にも考える。

休日にも考える。

すると、自分の人生の中では本来一部分でしかないはずの仕事が、どんどん大きくなる。

でも、その状態で北海道の広い景色を見たらどうだろう。

雪原の中にタンチョウがいる。

空はどこまでも続いている。

自分の会社なんて、そこにはない。

自分を評価する上司もいない。

メールも会議もない。

世界は、普通に続いている。

自分が悩んでいる間にも、タンチョウは飛んでいる。

そういう景色を見るだけでも、少しだけ自分の悩みとの距離が変わる気がする。


自分がいなくても、世界は普通に回っていく

志保の言葉で、特に印象に残ったものがある。

「大きなプロジェクトを動かしている重要な歯車。それが止まればどうにもならないんだ、と思っていた。」(p131より引用)

ところが、そこから志保は、自分が抜けても仕事は回っていくことに気づく。

これは寂しいことにも見える。

「自分がいなくても大丈夫」ということだから。

でも僕は、むしろ少し安心する話だと思った。

自分が休んだら会社が終わる。

自分が辞めたら現場が回らない。

自分がやらなければ誰もできない。

そんな状態で生きていたら、どこにも行けない。

ずっと仕事に縛られる。

でも実際には、多くの場合、自分がいなくても仕事は続く。

誰かが代わりにやる。

少し困るかもしれない。

多少遅れるかもしれない。

それでも世界は終わらない。

だったら、たまには自分の人生のために時間を使ってもいい。

旅に出てもいい。

休んでもいい。

仕事とはまったく関係のない景色を見てもいい。

自分が世界の中心ではないと知ることは、寂しいだけではなく、自由になることでもあると思う。


世界は、自分が思っているよりずっと広い

「冬空のクレーン」を読んでいて、一番感じたのはこれだった。

世界は広い。

ものすごく当たり前のことだ。

誰でも知っている。

でも、頭で知っていることと、実際に広い景色の中へ行くことは違う。

毎日同じ場所を往復していると、世界はどんどん狭くなる。

家。

駅。

職場。

スーパー。

また家。

そこだけで一日が終わる。

すると、その小さな範囲で起きた出来事が、とてつもなく大きく感じられる。

でも、知らない場所へ行く。

地平線を見る。

山を見る。

海を見る。

雪原を見る。

自分が「点」になるような景色の中に立つ。

作中には、こんな一文がある。

「風景の果てしない広がりの中を、点景になった私が少しずつ進んでゆく。」(p175より引用)

この「点景になった私」という表現がすごくいい。

自分が小さくなる。

でも、それは悪いことではない。

むしろ、自分が小さいとわかることで、抱えている問題まで少し小さく見える。

旅には、そういう力もあるのかもしれない。


『風を止めないで』|母親から見たナギ

最後の「風を止めないで」では、再びナギが登場する。

ただし、今度はナギ自身ではなく、母親の目線から彼女を見ることになる。

これがよかった。

「さいはての彼女」を読んだあとでは、ナギはとにかく自由で、明るくて、かっこいい女性に見える。

ハーレーに乗って北海道を走る。

どこまでも行けそうな人だ。

でも、母親から見れば話は変わる。

ナギの父親は、バイク事故で亡くなっている。

そんな母親からすれば、娘がハーレーに乗ることを心配するのは当然だと思う。

自由に生きる本人と、その自由を心配しながら見守る家族。

どちらが正しいという話ではない。

ナギにはナギの人生がある。

でも、母親には母親の恐怖がある。

だからこそ、表題作で見たナギの「自由」が、少し違って見えてくる。

自由に生きるということは、誰にも心配をかけないことではない。

何も背負わないことでもない。

心配される。

反対される。

自分自身にも怖さがある。

それでも、自分の人生を自分で選ぶ。

ナギの自由さは、そういう自由なのだと思う。


ハーレーは、ただのバイクではなかった

この本を読むまで、ハーレーに対してここまで何かを感じるとは思っていなかった。

もちろん、かっこいいバイクだとは思う。

でも、この物語の中では、それ以上の存在になっている。

「大きく開いた窓辺のようで、いつも気持ちのいい風が吹いている。」(p202より引用)

ハーレーが好きな人たちの空気について書かれた一節だ。

この「風」が、やっぱりいい。

『さいはての彼女』では、風が何度も人と人生をつないでいる。

走ることで感じる風。

人との出会いによって吹き始める風。

止まっていた人生が再び動き始めたときの風。

だから最後の「風を止めないで」というタイトルも、読み終わってから見ると、最初とは違って感じられる。

ただバイクで走り続けるという意味ではない。

自分の人生にようやく吹き始めた風を、自分で止めない。

ナギは走る。

たぶん、これからも走る。

その姿を想像すると、また北海道の一本道が浮かんでくる。


『さいはての彼女』を読んで、北海道に行きたくなった

この本を読み終えて、まず思った。

北海道に行きたい。

かなり単純な感想だけれど、本当にそう思った。

広い空を見たい。

どこまでも続く道を見たい。

夏の北海道もいい。

冬の北海道も見てみたい。

タンチョウも見たい。

ハーレーには乗れないけれど、あの道を進んでみたい。

小説を読んで、実在する場所へ行きたくなる。

これも読書のおもしろさだと思う。

本を開いている間、体は部屋にいる。

でも、頭の中では北海道へ行ける。

そして本を閉じたあと、本当に行きたくなる。

物語の中だけだった場所が、自分の行きたい場所に変わる。

それって、結構すごい。


旅に出れば、人生が変わるわけではない

旅を題材にした物語には、ときどき「旅に出れば人生が変わる」というものがある。

でも僕は、『さいはての彼女』をそこまで単純な物語だとは思わなかった。

旅に出たって、人生の問題は消えない。

帰れば仕事はある。

人間関係もある。

過去も残っている。

旅先で素晴らしい景色を見たからといって、翌日からすべてがうまくいくわけではない。

それでも、旅には意味がある。

なぜなら、自分が立っている場所を変えられるから。

物理的に場所を変える。

すると、いつも見ているものが見えなくなる。

代わりに、今まで見たことのないものが目に入る。

知らない景色。

知らない人。

知らない生活。

そこで初めて、自分の日常も「たくさんある暮らしのひとつ」に見えてくる。

それだけでも十分なのだと思う。

人生を変えなくてもいい。

少し見え方が変わるだけでもいい。

その小さな変化を持って、また日常へ帰ればいい。


「一緒に行こう。旅に出よう。人生を、もっと足掻こう。」

この本の中で、特に好きな言葉がある。

「一緒に行こう。旅に出よう。人生を、もっと足掻こう。」(p86より引用)

いい言葉だと思う。

「人生を楽しもう」でもない。

「前向きに生きよう」でもない。

「成功しよう」でもない。

足掻こう。

ここがいい。

人生は、そんなに綺麗には進まない。

予定が狂う。

仕事で失敗する。

大切な人と離れる。

行きたかった場所へ行けなくなる。

自分が正しいと思っていたことが、間違っていたと気づくこともある。

それでも足掻く。

立ち止まったら、また動く。

道を間違えたら、違う道を行く。

そして、ときには旅に出る。

それくらいでいいのかもしれない。

ナギだって、最初から何も怖くなかったわけではない。

涼香だって、完璧な人生を生きていたわけではない。

ハグとナガラだって、予定どおりの旅はできなかった。

志保だって、仕事で傷ついた。

みんな何かを抱えている。

そのまま旅に出る。

全部を解決してから出発する必要なんてない。

むしろ、うまくいっていないときに見る景色だからこそ、心に残ることもあるのだと思う。


旅は「どこへ行くか」だけではない

『さいはての彼女』を読んでいると、旅は目的地だけではないのだと感じる。

北海道へ行く。

温泉へ行く。

釧路へ行く。

もちろん場所は大切だ。

でも、それ以上に大切なのは、そこで何を見るか、誰と出会うか、そして何を考えるか。

同じ景色を見ても、いつ見るかによって全然違う。

人生が絶好調のときに見る北海道と、仕事で傷ついたときに見る北海道。

友人と見る景色と、一人で見る景色。

若いときに見る景色と、年齢を重ねてから見る景色。

たぶん全部違う。

だから旅は、一度行ったら終わりではないのだと思う。

自分が変われば、同じ場所も変わって見える。

そして、旅から帰ったあとには、いつもの場所まで少し違って見えることがある。

それも旅の一部なのだろう。


行けるときに、行きたい場所へ

この本を読んで一番考えたのは、結局ここだった。

行きたい場所があるなら、行けるときに行きたい。

もちろん、お金も必要だ。

時間も必要だ。

仕事もある。

簡単ではない。

だから全部を放り出して旅へ出ようとは思わない。

でも、「いつか行きたい」を何年も何十年も言い続けて、結局行かなかった。

それは少し寂しい。

「また今度」は便利な言葉だ。

何かを諦めなくていい。

今は行かないだけ。

今は会わないだけ。

今はやらないだけ。

そう思える。

でも、その「今度」が必ず来る保証はない。

だから、行けるなら行く。

会えるなら会う。

やってみたいなら、少しでもやってみる。

ナギが言うように、自分で引いた線なら越えてみる。

それで失敗したっていい。

予定が狂ったっていい。

予定が狂った先で、ナギみたいな人に出会えるかもしれない。

そう考えると、予定どおりじゃない人生も、少しおもしろく見えてくる。


『さいはての彼女』は、読んだあとに旅へ出たくなる小説だった

原田マハさんの『さいはての彼女』は、四つの旅を描いた短編集だった。

でも、僕にとっては単なる旅行小説ではなかった。

仕事について。

成功について。

家族について。

友人について。

限りある時間について。

そして、自分の人生をどこまで自分で決めるのか。

旅をしながら、いろいろなことを考えさせられた。

それでも読み終わったあとの気持ちは重くない。

むしろ、どこかへ行きたくなる。

知らない場所へ行きたい。

いつもとは違う景色を見たい。

少しくらい予定が狂ってもいい。

そんな気持ちになる。

巻末の解説には、こんな言葉がある。

「優れた物語は、読者にギフトを与えてくれる、と私は思っている。」(p231・解説より引用)

そして、そのあとには、物語を読み終えた人を実際の行動へと動かしてくれる何かが、その「ギフト」なのだという話が続く。

だとしたら、僕はこの本から、確かにギフトをもらったのだと思う。

だって、読む前よりも今の方が、北海道に行きたい。

広い空を見たい。

長い一本道を進んでみたい。

冬の釧路にも行ってみたい。

ナギが走ったような景色の中に、自分も立ってみたい。

本を一冊読んだだけなのに、行きたい場所がひとつ増えた。

それって、すごくいい。

旅に出たからといって、人生が劇的に変わるとは限らない。

帰ってきたら、またいつもの毎日が始まる。

でも、旅に出る前とまったく同じ自分ではないかもしれない。

知らなかった景色をひとつ知っている。

知らなかった人と出会っている。

今まで考えなかったことを、ひとつ考えている。

それだけで十分だ。

人生に行き詰まったら、全部を変えなくてもいい。

少しだけ場所を変えてみる。

電車に乗る。

車を走らせる。

飛行機に乗る。

知らない町を歩く。

そこで風に吹かれてみる。

そしてまた帰ってくる。

そんな旅があってもいい。

『さいはての彼女』を閉じたあと、僕の頭の中には、北海道の広い空と一本道が残っていた。

その道を、ナギがハーレーで走っていく。

風を受けながら、どこまでも。

なんだか僕も、旅に出たくなった。

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