電車に乗っている。
僕はいつものように座席に腰を下ろし、鞄から本を取り出した。
ページをめくる。文字を追う。電車が揺れる。物語の続きを読みながら、目的地へ向かう。
僕にとって、電車は読書をする場所でもある。誰かに話しかけられることもなく、ただ本の世界に入り込める。気がつけば、いくつもの駅を通り過ぎている。
ふと、顔を上げた。
……。
みんな、スマホをいじっている。
右も左も、向かいの座席も。座っている人も、立っている人も。顔を伏せて、小さな画面を見つめている。
親指だけが動いている。
誰も顔を上げない。窓の外を眺める人も見当たらない。
……。
怖い。
何だ、この空間は。
まるで、何かに取り憑かれたようではないか。
もちろん、スマホを見ること自体は普通だ。僕だって使う。連絡も調べ物もできるし、便利なのはよく知っている。
しかし、何十人もの人間が同じ姿勢で、同じような板を見つめている。
一歩引いて眺めると、異様なのだ。
僕は手元の本を見た。
紙のページ。印刷された文字。めくるたびに、かすかな音がする。
周囲の人たちは、光る画面を指でなぞっている。
なぜか、僕だけが遺物だ。
いつから、こんな世界になったのだろう。
光り輝く戦士たち
しかし、たまにいる。
光り輝く戦士たちが。
本を読んでいる人。窓の外の景色をぼんやり眺めている人。何もせず、ただ座っている人。
見つけた瞬間、僕は少し嬉しくなる。
いた。
仲間だ。
まだ、この世界には生き残りがいたのだ。
特に紙の本を読んでいる人を見かけると、何を読んでいるのか気になってしまう。表紙が見えそうで見えない。少しだけ角度を変えればわかるかもしれない。
いや、やめよう。見知らぬ人の本をのぞき込むのは失礼だ。
それでも、心の中では敬礼している。
同志よ。よくぞ生き延びてくれた。
窓の外を眺めている人にも、同じ気持ちになる。
ただ流れる街並みを見ている。何を考えているのかはわからない。もしかしたら、何も考えていないのかもしれない。
それが、何だか眩しい。
もっとも、彼らは戦っていない。ただ本を読み、景色を眺めているだけだ。
勝手に戦争を始めているのは僕なのである。
しかも、戦士だと思っていた人が次の瞬間にスマホを取り出すこともあるだろう。そうなれば裏切り者なのか。
いや、違う。僕は一体、何と戦っているのだ。
スマホを使う人が敵なわけではない。ただ、みんなが同じものを見つめている光景に、妙な怖さを感じてしまうのである。
なぜ人は電車でスマホを見るのか
そもそも、なぜこんなにも多くの人がスマホを見ているのだろう。
考えてみれば、理由はいくらでもある。
まずは暇つぶしだ。
次の駅まで十分。家に着くまで三十分。その時間に何かをしたい。動画を見る。ゲームをする。SNSを眺める。
退屈な移動時間が、楽しい時間に変わる。
情報収集をしている人もいるだろう。ニュースを読む。天気を調べる。明日の予定を確認する。仕事の連絡を返している人だっている。
電子書籍を読んでいる人もいるはずだ。
そう考えると、スマホを見ている人が全員同じことをしているわけではない。
画面の中身は、一人ひとり違う。
ある人は仕事をしている。ある人は家族と話している。ある人は小説を読んでいる。ある人は猫の動画を見ている。
同じ姿勢で、まったく違う世界にいる。
だから、スマホを見ているというだけで、時間を無駄にしているとは言えない。
僕が紙の本で物語を読んでいる隣で、誰かが電子書籍を読んでいるかもしれない。やっていることはほとんど同じだ。
違うのは、手に持っているものだけである。
それでも、僕は不思議に思う。
なぜ、これほど多くの人が、同じ瞬間にスマホを手に取るのだろう。
電車に乗る。座る。スマホを取り出す。
まるで一連の動作が決まっているかのようだ。
席に座った瞬間、反射的にポケットへ手を伸ばす人もいる。何かを確認して、画面を閉じる。そして、しばらくするとまた開く。
そんな姿を見ると、考えてしまう。
本当に見たいものがあるのだろうか。
それとも、手元にスマホがない時間に、落ち着かなさを感じるのだろうか。
もちろん、他人の画面を見ていない僕には答えはわからない。
ただ、あまりにも自然に、あまりにも一斉に取り出されるものだから、不思議なのだ。
なぜ同じ姿勢の人間が並ぶと怖いのか
一人がスマホを見ていても、何とも思わない。
二人でも、別に普通だ。
しかし、十人、二十人、三十人と増えていくと、急に印象が変わる。
全員が下を向いている。
全員が無言である。
全員が小さな画面に指を滑らせている。
……。
何かの儀式なのか。
合図があったわけでもない。誰かが指示したわけでもない。それなのに、見事なまでに動作がそろっている。
もし車内の全員が突然、同じ方向へ首を傾けたらどうだろう。
怖い。
全員が同じタイミングで笑い出したら。
もっと怖い。
それなのに、全員が同じようにスマホを見ている光景には、僕たちは慣れてしまっている。
なぜだ。
おそらく、毎日見ているからだろう。
何度も繰り返される光景は、いつの間にか当たり前になる。初めて見たら驚くことでも、慣れれば何とも思わなくなる。
だからこそ、たまに顔を上げて車内全体を眺めると、ぎょっとする。
個人としては普通の行動が、集団になると奇妙に見える。
しかも、誰もそれを奇妙だと思っていない。
このことが、僕には少し怖い。
僕自身も、もし本を持っていなければ、同じようにスマホを見ていたかもしれない。そう考えると、余計に不思議な気持ちになる。
スマホがなかった時代の電車は、どんな景色だったのだろう
スマホが普及する前、人々は電車の中で何をしていたのだろう。
新聞を広げる人。本を読む人。雑誌をめくる人。音楽を聴く人。居眠りする人。
窓の外を眺めたり、何もせずに座っていたりする人も、今より多かったのかもしれない。
もちろん、昔の電車が理想的だったと言いたいわけではない。
新聞を大きく広げて、隣の人の邪魔になっていた人もいただろう。大声で話す人もいたはずだ。昔は昔で、別の不満があったに違いない。
それに、昔の人が全員ぼんやり景色を眺めていたとも思わない。
ただ、手元にある選択肢は今ほど多くなかっただろう。
新聞を忘れた。本も持っていない。音楽を聴く道具もない。
そんなときは、ただ電車に揺られるしかない。
次の駅まで、何をしよう。
いや、何もしなくてもいい。
そういう時間が、今より自然に存在していたのではないだろうか。
スマホは、そんな空白を簡単に埋められる道具になった。
待ち時間も、移動時間も、ちょっとした休憩時間も。手のひらの中に、いくらでも娯楽がある。
それは便利だ。
しかし、空白がなくなるということは、空白の中で生まれていた何かも変わるということなのかもしれない。
ただ「ぼーっとする」のが難しくなったのか
次の駅まで、あと五分。
たった五分である。
しかし、その五分でさえ、何かをしていないと落ち着かない人がいるのかもしれない。
スマホを取り出す。SNSを開く。画面をスクロールする。
何か目的があるわけではなく、とりあえず眺める。
次の駅に着いたら、いったん閉じる。乗り換えが終わったら、また開く。
そんな行動が習慣になっているとしたら、少し考えさせられる。
僕たちは、ただぼーっとすることが難しくなってしまったのだろうか。
窓の外を見る。
流れていく建物を眺める。
今日の出来事を思い返す。
夕飯に何を食べようか考える。
あるいは、本当に何も考えない。
それだけの時間があってもいいはずだ。
しかし、今は少しでも時間が空くと、何かで埋めたくなる。
移動中にも勉強をする。ニュースを確認する。動画を見る。効率よく情報を取り込む。
もちろん、それ自体は悪いことではない。時間を大切にするのは素晴らしい。
けれど、何もしない時間まで無駄だと考える必要があるのだろうか。
何もせず、ただ座っている人を見ると、僕は少し羨ましくなることがある。
この人は、今、何を考えているのだろう。
仕事のことか。家族のことか。昔の思い出か。
もしかしたら、頭の中で壮大な物語をつくっているのかもしれない。
あるいは、ただ眠いだけかもしれない。
それでもいいではないか。
何もしていないように見える時間が、本人にとって大切な時間であることもある。
考え事をしているうちに、ふと答えが見つかることもある。何気なく眺めた景色が、いつまでも記憶に残ることもある。
退屈な時間が、思いがけない発想につながることだってあるだろう。
僕自身、何でもない光景からエッセイの題材を思いつくことがある。
もし、常に画面だけを見ていたら、そもそも今日のこの光景にも気づかなかったかもしれない。
スマホは退屈を埋めてくれる。
しかし、退屈には退屈なりの役割があるのかもしれない。
何もしないことにまで、理由が必要なのだろうか。
スマホは、周囲から身を守る道具なのか
もう一つ考えられる理由がある。
他人と目を合わせたくない、という気持ちだ。
電車は知らない人と近い距離で過ごす場所である。
向かいの席には見知らぬ人が座っている。立っている人と目が合うこともある。
ずっと窓の外を見るのも不自然な気がする。正面を見れば、誰かと目が合うかもしれない。
そんなとき、スマホは便利だ。
画面を見ていれば、視線の置き場所に困らない。
何を見ているのかは、周囲にはわからない。誰かと話す必要もない。
自分だけの小さな空間をつくることができる。
考えてみれば、これはかなり大きな役割なのかもしれない。
電車に乗っているのに、周囲と関わらずに過ごせる。知らない人の視線を気にしなくて済む。
スマホは情報を得る道具であると同時に、人との距離を保つ道具にもなっているのだろう。
僕の場合は、その役割を本が担っているのかもしれない。
本を開けば、誰かと目を合わせる必要はない。ページを追っていれば、自然と自分の世界に入れる。
……。
あれ。
それなら、僕も同じではないか。
スマホを見ている人を不思議に思っていたが、僕だって本を使って、自分だけの空間をつくっている。
手段が違うだけで、求めているものは似ているのかもしれない。
同じ車内にいるのに、誰も同じ場所にいない
車内には、たくさんの人がいる。
同じ電車に乗り、同じ方向へ向かっている。
同じ揺れを感じ、同じ駅を通り過ぎる。
しかし、それぞれが見ている世界は違う。
誰かは遠くの友人と連絡を取っている。誰かは動画の中で笑っている。誰かはゲームの世界で戦っている。
誰かは仕事の資料を読んでいる。
体はここにある。
けれど、意識は画面の向こう側にある。
同じ車内にいるのに、誰も同じ場所にいないように感じる。
少し不思議で、少し寂しい。
ただ、ここでも僕は立ち止まる。
本を読んでいる僕はどうなのだろう。
物語の舞台が遠い国なら、僕の意識はその国へ向かっている。登場人物の人生を追い、現実には存在しない景色を思い浮かべている。
体は電車にあるのに、心は別の場所へ行っている。
スマホを見る人たちと、そこまで違わないのかもしれない。
では、僕が怖いと感じたのは、意識が別の場所にあることではないのだろう。
むしろ、全員が同じ形の道具を使って、それぞれの世界へ入っているという光景なのかもしれない。
昔から人は、物語や音楽や考え事を通じて、目の前とは違う世界へ向かってきた。
今は、その入り口が一つの小さな画面に集まっている。
その便利さが、車内の景色まで変えてしまったのだ。
スマホ依存なのか、それとも便利なだけなのか
スマホを見ている人が多いと、つい「みんな依存しているのではないか」と考えてしまう。
しかし、画面を見ているだけで依存していると判断することはできない。
必要な連絡をしている人もいる。勉強している人もいる。電子書籍を読んでいる人もいる。
何をしているのかわからない以上、勝手に決めつけるのは違うだろう。
それに、便利なものを使うこと自体は自然なことだ。
昔は紙の地図を広げていた場面でも、今はスマホで道を調べられる。分厚い辞書を持ち歩かなくても、言葉の意味を確認できる。
便利な道具を使うことが、なぜ悪いのか。
そう聞かれたら、僕だって困る。
ただ、一つ気になることはある。
自分の意思でスマホを使っているのか。それとも、使うことが当たり前になりすぎて、手放しにくくなっているのか。
見たいものがあるから見る。
それならわかる。
しかし、特に用事がないのに何度も画面を開き、何となく時間が過ぎていくとしたら、少しもったいない気もする。
もっとも、それだって本人が楽しいなら、他人がとやかく言うことではない。
僕が勝手に「もったいない」と思っているだけかもしれない。
だからこそ、スマホを使う人を批判するのではなく、自分自身にも問いかけたい。
この時間を、どう過ごしたいのか。
何かを見たいから画面を開くのか。
それとも、何もしていない時間が不安だから開くのか。
その違いには、少し意味がある気がする。
便利さと引き換えに、何を失ったのか
スマホがある生活は便利だ。
連絡ができる。調べ物ができる。買い物もできる。動画も見られる。本も読める。
一台あれば、驚くほど多くのことができる。
昔なら、いくつもの道具が必要だったことを、手のひらの中で済ませられる。
その便利さを、僕も日々利用している。
だから、スマホのない時代に戻りたいとは簡単に言えない。
しかし、便利になったことと、豊かになったことは同じなのだろうか。
時間を効率よく使えるようになった。知りたいことをすぐ調べられるようになった。退屈を簡単に埋められるようになった。
その一方で、何もしない時間や、偶然何かに気づく機会は、減っているのかもしれない。
もちろん、スマホがあるからこそ出会えるものもある。知らなかった本を知ることも、遠くの人の考えに触れることもできる。
便利さが、世界を広げてくれることもあるのだ。
だから、単純に何かを失ったと決めつけることもできない。
ただ、何かを手に入れるとき、別の何かが後ろへ追いやられることはある。
目の前の景色を眺める時間。
自分の頭だけで考える時間。
退屈に身を任せる時間。
そうしたものが、以前より少なくなっているとしたら、少し惜しい。
窓の外では、季節が変わっている。
同じ通勤経路でも、空の色は毎日違う。街路樹の葉も、少しずつ色を変える。
雨の日には、窓に水滴が流れる。夕方には、建物の隙間から光が差し込む。
別に、毎日それを眺めなければならないわけではない。
しかし、たまには顔を上げてもいいのではないだろうか。
画面の中だけでなく、目の前にも世界はあるのだから。
100年前の人が、この電車を見たら
もし、100年前の人が突然、今の電車に乗ってきたらどう思うだろう。
車内には何十人もの人間がいる。
しかし、誰も話していない。
全員が小さな板を持ち、下を向いている。
その板は光っている。
人々は無言で、指を動かし続けている。
……。
怖いだろうなあ。
何かの儀式だと思うかもしれない。
人間が機械に操られていると思うかもしれない。
もしかしたら、逃げ出す人もいるだろう。
「この人たちは何をしているのですか」と聞かれても、説明するのは大変だ。
「この板で遠くの人と話したり、動画を見たり、買い物をしたりするんです」
きっと、驚くだろう。
しかし、今の僕たちにとっては普通の光景である。
誰も悲鳴を上げない。誰も逃げ出さない。
次の駅に着けば、みんな何事もなかったように降りていく。
つまり、今の当たり前も、時代が変われば奇妙なものに見えるのだろう。
そう考えると、僕が「異常だ」と感じているこの光景も、単に時代の変化を目の当たりにしているだけなのかもしれない。
もっとも、慣れたからといって、不気味さが消えるわけではない。
僕は今日も、顔を上げるたびに少し驚いてしまう。
30年後の車内は、どうなっているのだろう
電車は走り続けている。
僕はもう一度、周囲を見渡した。
相変わらず、みんなスマホを見ている。
誰かが画面をスクロールする。誰かがイヤホンを直す。誰かが小さく笑う。
その中に、一人だけ窓の外を眺めている人がいた。
光り輝く戦士だ。
僕は心の中で、そっと敬礼した。
窓の外には、いつもの街並みが流れている。
ふと、考えた。
30年後の車内は、どうなっているのだろう。
スマホなんて、もうなくなっているのかもしれない。
目の前に映像が浮かぶのかもしれない。何も持たずに、遠くの誰かと話せるようになっているのかもしれない。
今の僕には想像もできない技術が、当たり前になっているのだろう。
そして、30年後の人たちは、今日のこの光景を見て笑うのかもしれない。
昔の人は、わざわざ小さな画面を手に持っていたのか、と。
そうなれば、今スマホを見ている人たちも、いつかは時代の遺物になる。
僕だけが遺物なのではなかった。
みんな、少しずつ過去になっていくのだ。
でも、僕はきっと、本を読んでいるんだろうなあ。
そう思うと、本ってすごい。
何百年も前から、人は文字を読み、物語を楽しんできた。
時代が変わり、道具が変わり、暮らしが変わっても、文字を追って誰かの人生を想像するという楽しみは続いている。
もちろん、本の形も変わっていくのだろう。紙ではない本が、もっと当たり前になるのかもしれない。
それでも、僕はたぶん、紙のページをめくっている。
30年後の僕は、64歳だ。
今より少し目が疲れやすくなっているかもしれない。ページをめくる手も、今よりゆっくりになっているかもしれない。
それでも電車に座り、鞄から本を取り出している姿が、何となく想像できる。
窓の外には、今とは違う街が広がっているだろう。
隣の人は、僕の知らない道具を使っているかもしれない。
そのときも僕は、ふと顔を上げて、車内を見渡すのだろうか。
そして、また思うのかもしれない。
何だ、この世界は。
僕は手元の本に目を落とした。
静かに、次のページをめくった。
