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伸びた爪でスマホをカチカチ。うるさい。不快だしこの音が嫌い。

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優雅な午後を襲ったカチカチマシンガン

電車に揺られていた。

優雅で、長閑な午後のひとときだった。

窓の外には、いつもと変わらない景色が流れている。建物が過ぎ去り、電柱が過ぎ去り、遠くの空がゆっくりと視界を横切っていく。

僕は座席に腰を下ろし、ぼんやりとその景色を眺めていた。

特に何かを考えていたわけではない。急いでいるわけでも、誰かと連絡を取っているわけでもない。

ただ電車に乗り、外を眺めている。

なんと平和な時間だろう。

日常の幸福というものは、案外こういうところにあるのかもしれない。

そんなことを考えていたかどうかは覚えていないが、とにかく僕は穏やかな時間を過ごしていた。

そこへ、一人の女性が乗ってきた。

女性は僕の隣に座った。

もちろん、何の問題もない。電車の座席なのだから、空いていれば誰が座ってもいい。

僕は引き続き、窓の外を眺めていた。

そのときだった。

カチッ。

何かが聞こえた。

カチカチ。

なんだろう。

カチッ。カチカチカチ。

隣からだ。

何気なく視線を向けると、女性がスマートフォンを操作していた。

そして、その指先には長く伸びた爪があった。

なるほど。

犯人はこいつか。

いや、別に犯罪が起きたわけではない。女性はただスマホを操作しているだけである。

しかし、僕の中ではすでに事件が発生していた。

カチカチカチカチ。

うるさい。

なんなんだ、この音は。

女性は何事もなかったかのようにスマホを操作し続けている。

カチッ。カチカチ。カチカチカチカチ。

止まらない。

連打だ。

カチカチマシンガンである。

一体、何をそんなに連打する必要があるのだろう。

スマホを操作しているのか。

敵と交戦しているのか。

こちらは何もしていない。

ただ、窓の外を眺めていただけだ。

それなのに、突然始まった銃撃戦。

僕の優雅で長閑な午後は、無数のカチカチ音によって蜂の巣にされた。

しかも、相手には攻撃している自覚がない。

当然だ。

撃っている側なのだから。

撃たれているのは僕だけである。

なぜ本人はカチカチ音が気にならないのか

そもそも、スマートフォンというものは、基本的に静かな道具である。

電話をかければ声が聞こえるし、動画を再生すれば音が出る。しかし、画面を指で触るだけなら、普通はほとんど音がしない。

それなのに、爪が長い人が操作すると、突然、打楽器のようになることがある。

カチッ。

カチカチ。

カチカチカチ。

スマホにそんな機能が搭載されていたとは知らなかった。

もっとも、長い爪の人が全員そうなるわけではない。

爪の形や長さ、指の角度、操作の癖によっても違うのだろう。

一般的なスマホの画面は、爪そのものでは基本的に反応しない。指先などが触れることで操作できる仕組みになっている。

つまり、爪でスマホを操作しているというより、指で操作する際に爪先が画面に当たっているのだと考えられる。

それ自体は理解できる。

爪が長ければ、指の腹を画面に当てる角度も変わるだろう。短い爪の人と同じようには操作しにくいのかもしれない。

問題は、そこではない。

本人は、あの音が気にならないのだろうか。

これが不思議なのである。

僕には、はっきりと聞こえている。

しかも隣に座っているだけで、ここまで気になる。

ということは、スマホを操作している本人にも聞こえているはずだ。

自分の指先から、カチカチカチカチと音が鳴り続けている。

それを聞きながら、何を思っているのだろう。

「今日もいい音が鳴っているな」

そんなわけはない。

おそらく、何も思っていないのだ。

気づいていないか、気づいていても気にならない。

人間は、自分が日常的に出している音に慣れてしまうことがある。

例えば、キーボードを叩く音。

自分がパソコンを使っているときには、あまり気にならない。

ところが、静かな場所で他人が激しくキーボードを叩いていると、妙に耳につくことがある。

ペンをカチカチする音もそうだ。

本人は無意識にノックしているだけなのに、周囲の人間は気になって仕方がない。

自分で音を出すとき、脳はその行動と結果をある程度予測できる。

一方、他人が出す音は、自分ではタイミングを決められない。

いつ鳴るのか。

何回鳴るのか。

いつ終わるのか。

すべて相手次第である。

もちろん、自分が出す音なら何でも気にならなくなるわけではない。

ただ、日常的に繰り返している動作ほど、本人の注意から外れやすいというのは十分に考えられる。

つまり、女性にとっては、いつものスマホ操作だったのだろう。

しかし、その隣では一人の男が、カチカチマシンガンの集中砲火を浴びていた。

なんという温度差だろう。

片方は平和な日常。

もう片方は戦場である。

しかも、戦争を始めた側が戦争の存在を知らない。

これでは停戦交渉すらできない。

なぜ小さなカチカチ音がこんなにも不快なのか

ここで、もう一つ不思議なことがある。

電車という乗り物は、決して静かではない。

ガタンゴトンと車輪の音がする。

モーターの音もする。

駅に近づけばブレーキの音が鳴り、ドアが開けば案内放送が流れる。

それなのに、僕は電車の走行音をそれほど不快には感じない。

むしろ、心地よく感じることさえある。

一定のリズムで響く車輪の音。

窓の外を流れる景色。

ゆったりとした揺れ。

読書をするにも、考え事をするにも、悪くない環境だ。

ところが、そこへカチカチ音が加わった途端、すべてが台無しになる。

電車の走行音より、はるかに小さな音である。

それなのに、気になって仕方がない。

なぜだろう。

実は、人間が音を不快に感じるかどうかは、単純な音量だけでは決まらない。

音の高さ、繰り返し方、予測のしやすさ、その音に対する印象など、さまざまな要素が関係する。

例えば、時計の秒針。

普段は何とも思わないのに、静かな部屋で眠ろうとすると、急に気になることがある。

カチッ。

カチッ。

カチッ。

最初は小さな音だったはずなのに、意識するほど存在感が増していく。

水道の蛇口から落ちる水滴も同じだ。

ポタッ。

ポタッ。

ポタッ。

たった一滴の水が、いつの間にか部屋全体を支配しているように感じる。

音そのものが大きくなったわけではない。

こちらの注意が、その音に集中してしまったのである。

僕にとって、長い爪がスマホに当たる音も、それに近い。

特に厄介なのは、音の間隔が一定ではないことだ。

カチッ。

カチカチ。

……カチッ。

カチカチカチカチ。

一定のリズムなら、まだ慣れる余地があるのかもしれない。

しかし、スマホ操作はそうではない。

文字を入力するときもあれば、画面をスクロールするときもある。

急に止まったかと思えば、また連打が始まる。

こちらは次の攻撃を予測できない。

まるで、いつ発砲するかわからない敵兵と隣り合わせになっているようなものだ。

もちろん、実際にはスマホを触っているだけなのだが。

音に対する不快感を考えるうえで、ミソフォニアという言葉がある。

特定の音に対して、強い嫌悪感や怒り、不安などが生じる現象を指す言葉だ。

例えば、他人が食べ物を噛む音。

鼻をすする音。

ペンをカチカチする音。

こうした音が、ある人にとっては耐え難いほど不快に感じられることがある。

ただし、特定の音が嫌いだからといって、すぐにミソフォニアだと判断できるわけではない。

誰にでも苦手な音はあるし、疲労やストレス、周囲の環境によっても感じ方は変わる。

僕自身、スマホのカチカチ音が嫌いだからといって、何らかの状態に当てはまると考えているわけではない。

ただ、同じ音を聞いていても、何とも思わない人と、どうしても気になる人がいるというのは興味深い。

女性にとっては何でもない音が、僕にとっては平穏を破壊するマシンガンだった。

つまり、僕たちは同じ車両に座っていながら、まったく違う世界を生きていたのである。

彼女の世界にはスマホがある。

僕の世界には戦場がある。

一度気になると、次の音を待ってしまう心理

さて、今回の出来事で最も厄介だったのは、カチカチ音そのものだけではない。

一度気になり始めると、今度は僕の意識が勝手にその音を追いかけ始めたことだ。

カチッ。

また鳴った。

カチカチ。

まだ続いている。

カチッ。

今度は一回だけか。

カチカチカチカチ。

うわ、連打してきた。

もう窓の外どころではない。

さっきまで眺めていた景色が、どうでもよくなってしまった。

僕の関心は、隣の女性の指先に集中していた。

いや、別に見つめていたわけではない。

音が聞こえるたびに、意識がそちらへ向かってしまうのである。

ここで、妙なことが起きる。

音が止まると、少し安心する。

ようやく終わったか。

そう思う。

しかし、次の瞬間には、また鳴るのではないかと身構えている。

まだか。

もう終わったのか。

本当に終わったのか。

カチッ。

ほら来た。

何をやっているのだろう、僕は。

いつの間にか、音が鳴っていない時間まで、その音に支配されているではないか。

人間は、いったん重要だと判断した刺激に注意を向けやすくなる。

特に、不快だと感じる刺激は、無視しようとしても意識に入り込んでくることがある。

さらに、次にいつ起こるかわからない刺激は、予測しようとすることで余計に気になってしまう場合がある。

僕は、カチカチ音を聞きたくなかった。

それなのに、次のカチカチ音を待っていた。

矛盾している。

聞きたくないのに、耳を澄ませている。

止まってほしいのに、止まったかどうかを確認している。

これでは、音が鳴っていても鳴っていなくても、僕の負けではないか。

女性はスマホを操作している。僕は女性のスマホ操作に操作されている。

なんとも情けない話である。

自分のスマホすら触っていないのに、他人のスマホにここまで支配されるとは思わなかった。

もはや、僕の注意力は彼女の所有物である。

返してほしい。

僕の優雅な午後を返してほしい。

しかも、不快な音というのは、気にしないようにすると余計に気になることがある。

例えば、「絶対に白いクマのことを考えないでください」と言われたらどうだろう。

考えないようにしようとするほど、白いクマが頭に浮かんでくることがある。

心理学では、こうした現象を説明するものとして、思考抑制の逆説的効果が知られている。

音への注意と頭の中の思考は同じものではないが、今回の僕にも似たようなことが起きていた気がする。

カチカチ音を気にしないようにしよう。

そう思った瞬間、僕の頭の中には「カチカチ音」という言葉が存在している。

聞こえないようにしよう。

そう思った瞬間、耳はカチカチ音を探し始める。

気にするな。

気にするな。

気にするな。

カチッ。

気になるわ。

どうしようもない。

公共の場での自由とマナーの境界線

ここで、少し冷静になって考えたい。

そもそも、女性は悪いことをしていたのだろうか。

爪を伸ばすことは自由である。

ネイルを楽しむのも自由だ。

どんな形に整えようが、どんな色に塗ろうが、それは本人の好みである。

僕が口を出すことではない。

そして、電車の中でスマホを操作することも、基本的には何の問題もない。

音楽を大音量で流していたわけではない。

通話で大声を出していたわけでもない。

ただ、画面を触っていただけだ。

それなのに、僕は不快だった。

では、僕が不快だと感じた時点で、相手は迷惑行為をしていることになるのだろうか。

これは難しい問題だと思う。

公共の場には、さまざまな人がいる。

話し声が苦手な人。

香水の匂いが苦手な人。

足を組まれるのが嫌な人。

隣で貧乏ゆすりをされると落ち着かない人。

そして、スマホのカチカチ音が嫌いな僕のような人間もいる。

しかし、すべての人の不快感をなくそうとしたら、どうなるだろう。

誰も話せない。

誰も動けない。

誰もスマホを触れない。

電車の中で全員が直立不動になり、目的地に着くまで一言も発しない。

そんな社会も、なかなか不気味である。

だから、僕が不快に感じたという事実だけで、女性を一方的に責めることはできない。

一方で、自由だから何をしてもいいという話でもない。

自分にとっては些細な音でも、周囲の人には気になる場合がある。

それを知っていれば、少し操作の仕方を変えたり、音が出にくいように気をつけたりすることはできるかもしれない。

公共の場でのマナーとは、決められたルールを守ることだけではないのだと思う。

自分の行動が、周囲にどんな影響を与えているのか。

それを少し想像することも、マナーの一部なのではないだろうか。

もちろん、僕自身も誰かにとって不快な音を出している可能性がある。

歩くときの足音。

鞄を置く音。

ページをめくる音。

自分では気にならない動作が、誰かの神経を逆なでしているかもしれない。

そう考えると、あまり偉そうなことも言えない。

しかし、それでも一つだけ言いたい。

スマホを操作するたびに、あんなにカチカチ鳴らす必要はあるのだろうか。

いや、必要があるから鳴らしているわけではないのだろう。

わかっている。

わかっているのだが、気になるのである。

不快な音に遭遇したとき、どうすればいいのか

では、実際に不快な音に遭遇したとき、どうすればいいのだろう。

まず考えられるのは、物理的に距離を取ることだ。

電車なら、席を移動する。

立ち上がって別の場所へ行く。

車両を変える。

これができれば、問題は比較的簡単に解決する。

しかし、席を移動できるとは限らない。

混雑していることもあるし、せっかく座れたのに立ちたくない場合もある。

そもそも、なぜ僕が移動しなければならないのだろう。

そんな気持ちも湧いてくる。

ただ、ここで意地を張っても、カチカチ音が止まるわけではない。

自分の快適さを取り戻すために移動するのは、決して負けではない。

そう考えることもできる。

次に、イヤホンを使う方法がある。

音楽や環境音を流したり、ノイズキャンセリング機能を利用したりすれば、音が気になりにくくなる可能性がある。

ただし、ノイズキャンセリングはすべての音を完全に消せるわけではない。

特に、突発的な高い音は残ることもある。

カチカチマシンガンが、最新の技術を突破してくる可能性もあるわけだ。

なんという強敵だろう。

また、意識を別のことに向ける方法も考えられる。

本を読む。

景色を見る。

頭の中で別のことを考える。

ただし、「絶対に音を気にしない」と頑張りすぎると、かえって音への意識が強くなることもある。

だから、音が聞こえてしまうこと自体を必要以上に問題にせず、できる範囲で注意を別の対象へ戻していく方がよい場合もある。

そして、もう一つ。

相手に直接注意するという選択肢もある。

しかし、今回のような状況では、僕はあまり現実的だと思わない。

「すみません。爪がスマホに当たる音をやめてもらえませんか」

そんなことを突然言われたら、相手も困惑するだろう。

そもそも、本人は普通にスマホを操作しているだけなのだ。

悪意があるわけでも、明らかなルール違反をしているわけでもない。

それなのに、隣の知らない男から爪の音について指摘される。

怖い。

僕が女性の立場なら、かなり怖い。

だから、無理に相手を変えようとするより、自分で調整できることを探した方がよさそうだ。

もちろん、明らかに危険な行為や重大な迷惑行為なら話は別である。

しかし、今回の敵はカチカチ音だ。

小さい。

地味だ。

そして、非常に厄介だ。

僕の午後を返してほしい

それにしても、人間とは不思議な生き物だと思う。

電車という巨大な乗り物に乗り、何十人もの人間と同じ空間を共有している。

車輪が回り、モーターが動き、何トンもの車体が線路の上を走っている。

そんな騒がしい環境の中で、僕が最も気にしていたのは、隣の女性の爪だった。

なんということでしょう。

もっと気にすることがあるだろう。

窓の外には景色が広がっている。

これからの予定を考えてもいい。

読みたい本のことを考えてもいい。

それなのに、僕の頭の中はカチカチ音でいっぱいだった。

しかも、女性は何も知らない。

隣の男が、こんなにも壮大な考察を始めていることなど、想像すらしていないだろう。

彼女はただ、スマホを触っている。

僕はその横で、音の不快感について考え、心理学について考え、公共の場でのマナーについて考え、ついには人間の自由についてまで考え始めている。

たった一つのカチカチ音から、ずいぶん遠くまで来てしまった。

あの日、僕はただ電車に乗っていた。

優雅で、長閑な午後だった。

窓の外には、いつもと変わらない景色が流れていた。

そこへ一人の女性が座った。

そして、カチカチマシンガンが始まった。

女性は、何も悪いことをしていなかったのかもしれない。

ただ、いつものようにスマホを操作していただけだ。

それでも、僕には不快だった。

人間の感覚というものは、なかなか都合よくできていない。

理屈では理解できても、感情が納得するとは限らない。

自由とマナーの境界線について考えたところで、音が心地よくなるわけでもない。

心理学的な仕組みを知ったところで、耳が突然寛容になるわけでもない。

結局、僕にできるのは、できるだけ気にしないようにするか、その場から離れることくらいなのだろう。

そして、できれば自分自身も、知らないうちに誰かを不快にさせていないか、少しだけ気をつけたい。

そう思う。

ただ、最後に一つだけ。

僕は、女性の爪を否定したいわけではない。

長い爪も、ネイルも、好きに楽しめばいい。

スマホだって、自由に操作すればいい。

それでも、できることなら、もう少し静かに操作してもらえるとありがたい。

こちらは戦争をしたいわけではないのだ。

ただ、窓の外を眺めていたいだけなのである。

カチッ。

カチカチカチ。

……。

頼むから、僕の午後を撃たないでくれ。

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