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自分の声が嫌いな心理。録音するとキモすぎる。もう喋りたくない。

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僕は自分の声が死ぬほど嫌いだ。

本当に嫌いだ。

できることなら、もう二度と聞きたくない。

しかし、そういうわけにもいかない。

なぜなら、僕の声だからだ。

当たり前である。

僕が喋れば、僕の声が聞こえる。

誰かと会話をしても、電話をしても、独り言を呟いても、必ず僕の声が聞こえてくる。

逃げ場がない。

これが他人の声なら、まだどうにかなる。

距離を置けばいい。耳を塞げばいい。最悪、その場から立ち去ればいい。

しかし、自分の声はどうだ。

僕がどこへ逃げようと、ついてくる。

北海道へ行こうが、沖縄へ行こうが、海外へ逃亡しようが、僕が喋った瞬間に聞こえてくる。

なんということだ。

しかも、僕は録音した自分の声を聞くと、鳥肌が立つ。

気持ち悪すぎて悶絶する。

もう、どうしたらいいのかわからない。

「うわあああああ!」

と叫びたくなる。

しかし、叫んだところで聞こえてくるのは僕の声だ。

さらに気持ち悪い。

どうしようもない。

僕は一体、どうすればいいのだろう。

目次

声変わりをした頃から、自分の声が嫌いだった

いつから自分の声が嫌いになったのだろう。

思い返してみると、おそらく声変わりをした頃からだ。

小学生の頃は、そこまで気にしていなかったように思う。

しかし、思春期になり、声変わりが始まった。

声が低くなる。

声質が変わる。

それまでとは違う声が、自分の口から出てくるようになる。

そして、気がついた。

僕はこの声が嫌いだ。

なんだ、この声は。

誰がこんな声にしてくれと頼んだ。

声変わりというのは、実に勝手な仕組みである。

こちらの希望なんて、一切聞いてくれない。

「そろそろ声変わりの時期ですが、どのような声をご希望ですか?」

そんな案内はない。

「低音で渋い声」「爽やかで透き通った声」「優しく落ち着いた声」

選択肢すら用意されていない。

ある日、勝手に変わり始める。

そして、気がつけば新しい声になっている。

返品も交換もできない。

クーリングオフもない。

なんという理不尽な制度だ。

もちろん、声変わりは人間の成長に伴う自然な変化である。

そんなことはわかっている。

わかっているが、納得できるかどうかは別問題だ。

僕は自分の声が気に入らない。

それなのに、もう20年近く、この声で生きている。

普通なら、そろそろ慣れてもよさそうなものだ。

しかし、まったく慣れない。

34歳になった今でも、自分の声が嫌いなのである。

録音した自分の声は、もはや拷問である

自分の声が嫌いな人は、きっと少なくないと思う。

特に、録音した自分の声を聞いたとき。

あれは一体、何なのだろう。

普段から自分の声が嫌いな僕にとって、録音した声はさらに恐ろしい。

スマートフォンで録音する。

再生ボタンを押す。

「……」

誰だ、こいつ。

いや、僕だ。

間違いなく僕である。

しかし、認めたくない。

こんな声だったのか。

こんな喋り方をしていたのか。

こんな気持ち悪い声を、僕は世の中に垂れ流していたのか。

鳥肌が立つ。

全身がむずむずする。

再生を止めたい。

一刻も早く止めたい。

もう二度と聞きたくない。

しかし、ここで恐ろしい事実に気がつく。

この声は、僕以外の人間が普段から聞いている声なのだ。

なんということだ。

僕だけが知らなかった。

いや、正確には、自分の声が嫌いだということは知っていた。

しかし、録音によって、その嫌悪感がさらに強くなるのである。

そして、もう一つ気になる。

他人はどう思っているのだろう。

僕が喋るたびに、

「うわ、こいつの声、気持ち悪いな」

と思っているのだろうか。

もちろん、そんなことはわからない。

誰かに言われたわけでもない。

そもそも、他人が僕の声を気持ち悪いと思っているとは限らない。

しかし、自分がこれほど嫌っている声を、他人は毎日聞いている。

そう考えると、なんとも複雑な気持ちになる。

できることなら、録音した自分の声を聞く機会は一生なくしたい。

僕にとって、あれは拷問に近い。

しかも、拷問を受けている本人が、拷問の道具を製造している。

自分の声で。

意味がわからない。

なぜ録音した自分の声は気持ち悪く聞こえるのか

ところで、なぜ録音した自分の声は、あれほど違って聞こえるのだろう。

調べてみると、これには科学的な理由がある。

普段、僕たちは自分の声を二つの経路から聞いている。

一つは、空気を通して耳に届く音。

もう一つは、頭蓋骨などの振動を通して内耳に伝わる音だ。

前者を空気伝導、後者を骨伝導という。

他人の声を聞くときは、基本的に空気を通して届いた音を聞いている。

しかし、自分の声を聞くときは違う。

口から出た音が空気を通して耳に届くと同時に、身体の内部を伝わる振動も聞いている。

そのため、普段自分が聞いている声と、録音された声には違いが生まれる。

骨伝導によって低い音の成分が強調されることなどから、自分の声は実際より低く、豊かに感じられることがある。

ところが、録音した声を再生すると、主に空気を通して聞くことになる。

普段とは違う。

「あれ? 僕の声ってこんなに高かったの?」

「こんなに薄っぺらい声だったの?」

そんな違和感が生まれるわけだ。

もちろん、録音機器の性能やマイクの位置、再生するスピーカーによっても音は変わる。

だから、録音した声が他人に聞こえている声と完全に同じとは限らない。

しかし、少なくとも自分が普段聞いている声とは違う。

これが大きい。

そして、録音した自分の声に強い違和感を覚える現象は、英語で「voice confrontation」と呼ばれることもある。

直訳すると、声との対面。

なるほど。

僕は自分の声と対面しているわけだ。

しかし、できることなら対面したくない。

顔も見たくない。

いや、声なのだから顔は関係ない。

とにかく、もう会いたくないのである。

なぜ他人の声は録音しても気持ち悪くないのか

ここで、もう一つ疑問が生まれる。

なぜ他人の声は、録音してもそこまで違和感がないのだろう。

例えば、友人の声。

直接会って話しているときも、動画で聞いているときも、基本的には同じ人物の声として認識できる。

もちろん、録音環境によって多少は変わる。

しかし、自分の声ほどの衝撃はない。

なぜだ。

これも、先ほどの空気伝導と骨伝導の違いが関係している。

僕たちは他人の声を、普段から空気を通して聞いている。

録音された他人の声も、同じように空気を通して聞く。

つまり、聞こえ方の条件が比較的近い。

一方、自分の声は普段から身体の内部を伝わる振動も含めて聞いている。

そのため、録音したときの違いが大きくなりやすい。

さらに、慣れの問題もある。

人間は聞き慣れたものに親しみを感じやすい。

自分が長年聞いてきた声には、無意識のうちに「これが自分の声だ」という認識ができている。

ところが、録音すると、その認識から外れた声が聞こえてくる。

自分の声なのに、自分の声ではないように感じる。

この違和感が、不快感につながることがあるのだろう。

ただし、僕の場合は少し違う。

僕は録音した声だけが嫌いなのではない。

普段の声も嫌いなのだ。

だから、録音した声が気持ち悪い理由を科学的に説明されたところで、根本的な問題は解決しない。

「なるほど、骨伝導の影響だったのか!」

そう理解したところで、

「じゃあ、僕の声は素晴らしい!」

とはならない。

残念ながら、そんな単純な話ではないのである。

自分の声が嫌いになる心理とは

そもそも、なぜ人は自分の声を嫌いになるのだろう。

録音による違和感だけでは説明できない場合もある。

僕のように、普段から自分の声が嫌いな人間もいるからだ。

考えられる理由の一つは、理想と現実のギャップである。

人間には、それぞれ理想の自分がある。

こんな顔だったらいいのに。

こんな体型だったらいいのに。

こんな性格だったらいいのに。

そして、声も同じだ。

こんな声だったらいいのに。

そう思うことがある。

僕の場合、綺麗な声の人が羨ましい。

透き通った声。

聞いていて心地よい声。

落ち着いた声。

柔らかく、優しい声。

そんな声を聞くと、いいなあと思う。

僕もこんな声だったらよかったのに。

しかし、現実は違う。

自分が理想としている声と、実際の声が一致しない。

その差が大きければ大きいほど、自分の声に不満を抱くこともあるのだろう。

もう一つ考えられるのが、自己イメージとの不一致である。

人間は、自分自身について何らかのイメージを持っている。

自分はこういう人間だ。

自分はこういう雰囲気だ。

自分はこういう話し方をしている。

ところが、録音した声を聞くと、そのイメージが崩れることがある。

思っていたより声が高い。

思っていたより喋り方に癖がある。

思っていたより早口だ。

自分が想像していた人物と、実際の声が一致しない。

その結果、違和感や嫌悪感が生まれることも考えられる。

さらに、他人との比較もある。

綺麗な声の人を聞くたびに、自分の声が気になってしまう。

あの人はあんなにいい声なのに、なぜ僕はこんな声なのだろう。

比べたところで、どうにもならない。

それでも比べてしまう。

ただ、ここで大切なのは、自分の声が嫌いだからといって、自分自身のすべてを嫌っているとは限らないということだ。

僕は自分の声が嫌いだ。

しかし、それだけで自分の人格や人生まで否定したいわけではない。

単純に、声が嫌いなのである。

顔が気に入らない人もいるだろう。

身長が気に入らない人もいるだろう。

僕の場合、それが声なのだ。

そして、厄介なことに、声は日常生活から切り離すことができない。

自分の顔なら、鏡を見なければ直接見る機会は少ない。

しかし、声は違う。

喋るたびに聞こえてくる。

嫌いなものが、常に自分と一緒にいる。

これほど厄介なことがあるだろうか。

自分の声が好きな人はいるのだろうか

ところで、自分の声が好きな人はいるのだろうか。

おそらく、いる。

歌手や声優、ナレーターなど、声を使う仕事をしている人の中には、自分の声を気に入っている人もいるだろう。

もちろん、そうした職業の人が全員自分の声を好きなわけではない。

むしろ、自分の声に厳しい人もいるはずだ。

しかし、世の中には、自分の声を好きだと思える人がいる。

僕には、それが羨ましい。

自分の声を録音する。

再生する。

「いい声だなあ」

そう思えるのだろうか。

なんという幸せな世界だ。

僕には想像できない。

僕が録音した声を聞いたら、まず再生を止める。

そして、しばらく悶絶する。

同じ人間なのに、なぜこれほど違うのだろう。

もちろん、声の美しさには客観的な基準だけでなく、好みもある。

低い声が好きな人もいれば、高い声が好きな人もいる。

少しかすれた声に魅力を感じる人もいるだろう。

柔らかい声が好きな人もいる。

つまり、僕が気持ち悪いと思っている声を、他人も同じように感じるとは限らない。

頭ではわかっている。

しかし、問題はそこではない。

僕自身が嫌いなのだ。

たとえ誰かに「いい声ですね」と言われたとしても、自分の声を好きになれるかどうかはわからない。

嬉しいとは思うかもしれない。

しかし、録音した声を聞けば、また悶絶する気がする。

なんとも面倒な人間である。

声質は努力で変えられるのだろうか

顔や体型なら、努力によって印象を変えられる部分がある。

髪型を変える。

服装を変える。

運動をする。

もちろん、何でも自由に変えられるわけではない。

それでも、自分の理想に近づく方法はいくつかある。

では、声はどうだろう。

声も、発声練習やボイストレーニングによって変化させられる部分はある。

呼吸の使い方。

声の響かせ方。

喉の力の抜き方。

話す速度や抑揚。

こうしたものを練習すれば、声の印象が変わる可能性はある。

しかし、生まれ持った声帯の特徴や身体の構造まで、自由自在に取り替えられるわけではない。

誰もが練習すれば、好きな歌手や声優とまったく同じ声になれる。

そんなことはない。

そもそも、僕が求めているのは、単に喋り方を改善することではない。

声質そのものが気に入らないのだ。

もっと綺麗な声がよかった。

もっと聞いていて心地よい声がよかった。

そんなことを思う。

しかし、どれほど羨ましがっても、声を交換することはできない。

もし声を交換できる店があったら、僕は真剣に検討するだろう。

「いらっしゃいませ。どのような声をお探しでしょうか?」

「綺麗な声をお願いします」

「低音タイプと透明感タイプがございます」

「試聴できますか?」

そんな店があればいい。

しかし、現実には存在しない。

僕は今日も、この声で喋っている。

声が綺麗だったら、やりたいことがたくさんある

僕が自分の声を嫌っている理由は、単に気持ち悪いからというだけではない。

声が綺麗だったら、やってみたいことがたくさんあるのだ。

例えば、歌。

僕は音楽が好きだ。

好きな歌だってたくさんある。

もし自分の声が綺麗だったら、思いっきり歌ってみたい。

周囲の目なんて気にせず、好きな歌を気持ちよく歌いたい。

自分の歌声を録音して、聞いてみたい。

「なかなかいいじゃないか」

そんなことを思ってみたい。

しかし、現実は違う。

自分の喋り声すら聞きたくないのに、歌声なんて録音したらどうなるのだろう。

考えただけで恐ろしい。

さらに、もう一つやってみたいことがある。

本の解説だ。

僕は本が好きだ。

小説を読むのが好きだ。

面白い本に出会うと、その魅力を誰かに伝えたくなる。

今は文章や画像を使って、本の紹介をしている。

しかし、もし自分の声が綺麗だったら、自分の声でも本を紹介してみたい。

好きな小説について語る。

登場人物について語る。

物語の魅力について語る。

なぜ自分がその作品を好きなのか。

どんなところに心を動かされたのか。

そうしたことを、自分の声で伝えてみたい。

動画にしてもいい。

音声配信でもいい。

本の魅力を、自分の言葉と声で届けられたら、きっと楽しいだろう。

しかし、僕には大きな壁がある。

自分の声だ。

仮に動画を撮影したとしよう。

本の解説をする。

一生懸命喋る。

そして、編集のために動画を再生する。

そこで聞こえてくるのは、僕の声である。

「うわあああああ!」

おそらく、編集どころではない。

動画を削除したくなる。

せっかく頑張って解説したのに、自分の声が気持ち悪すぎて聞いていられない。

なんという悲劇だ。

もちろん、声が綺麗でなければ本の解説ができないわけではない。

そんなことはわかっている。

実際、声の美しさだけで人の話の魅力が決まるわけでもない。

内容が面白ければ、聞いてくれる人はいるかもしれない。

僕の声を気に入ってくれる人だって、いるかもしれない。

しかし、僕自身が嫌なのだ。

自分の声を録音して、何度も聞き直して、編集して、公開する。

その過程を想像しただけで、気が重くなる。

だから、なかなか踏み出せない。

これは少し悔しい。

声が嫌いだという理由だけで、やってみたいことをためらっている。

自分の声を好きになれたら、もっといろいろなことに挑戦できるのかもしれない。

そう考えると、ますます綺麗な声の人が羨ましくなる。

他人は自分の声をそこまで気にしていないのかもしれない

ここまで自分の声を散々嫌ってきたが、冷静に考えると不思議なことがある。

僕は他人の声を、そこまで気にしているだろうか。

もちろん、綺麗な声だなと思うことはある。

聞いていて心地よい声もある。

逆に、苦手な声だと感じることもあるだろう。

しかし、日常生活で出会う人の声を、一人ひとり細かく評価しているわけではない。

職場で誰かと話す。

店員と会話する。

道を尋ねる。

そんなとき、相手の声質についていちいち考えているだろうか。

おそらく、ほとんど考えていない。

それなのに、自分の声になると話が変わる。

気持ち悪い。

嫌いだ。

聞きたくない。

異常なほど気になってしまう。

これは、自分自身への意識が強く働いているからなのかもしれない。

人間は、自分の欠点だと思っている部分を、必要以上に意識してしまうことがある。

例えば、髪型が少しおかしいと思った日。

自分では一日中気になって仕方がない。

しかし、周囲の人は何とも思っていないかもしれない。

声も同じなのだろうか。

僕がこれほど気持ち悪いと思っている声も、他人にとっては単なる僕の声なのかもしれない。

好きでも嫌いでもない。

ただ、僕が喋っている。

それだけのことなのかもしれない。

考えてみれば、他人は僕の声を骨伝導込みで聞いたことがない。

僕が普段聞いている声も知らない。

だから、僕が感じるような録音とのギャップもない。

他人にとっては、最初からこの声が僕なのだ。

そう考えると、少し不思議な気持ちになる。

僕が嫌っている声を、他人は当たり前のものとして受け入れている。

もしかすると、僕だけが必要以上に気にしているのかもしれない。

しかし、そう理解したところで、自分の声への嫌悪感が消えるわけではない。

困ったものだ。

声が嫌いでも、僕は喋り続ける

自分の声が嫌いだ。

声変わりをした頃から、ずっと嫌いだ。

録音した声を聞けば、鳥肌が立つ。

気持ち悪すぎて悶絶する。

綺麗な声の人が羨ましい。

もし自分の声が綺麗だったら、思いっきり歌ってみたい。

自分の声で本の解説もしてみたい。

やりたいことがたくさんある。

しかし、僕の声は僕の声だ。

どれほど嫌っても、簡単に取り替えることはできない。

それなら、いっそのこと喋るのをやめてしまおうか。

もう何も話さない。

誰かに話しかけられても、無言で頷く。

何かを聞かれても、首を横に振る。

どうしても伝えたいことがあれば、紙に書く。

これなら、自分の声を聞かずに済む。

完璧だ。

いや、完璧ではない。

そんな生活、面倒すぎる。

コンビニで袋が必要か聞かれるたびに、筆談するのだろうか。

「袋はご利用ですか?」

僕は静かに紙を取り出す。

『お願いします』

店員はどう思うだろう。

しかも、突然驚いたときはどうする。

「うわっ!」

思わず声が出る。

そして、自分の声に驚く。

「うわあああ!」

さらに声が出る。

終わりがない。

やはり、喋らずに生活するのは難しそうだ。

結局、僕はこれからも自分の声と付き合っていかなければならない。

好きになれる日が来るのかはわからない。

もしかすると、一生嫌いなままかもしれない。

それでも、喋らなければならない。

誰かと話したいこともある。

伝えたいこともある。

好きな本について語りたいこともある。

自分の声が嫌いだからといって、言いたいことまでなくなるわけではないのだ。

それに、もしかすると、いつか自分の声で本を解説する日が来るかもしれない。

録音した声を聞いて、相変わらず悶絶しながら、それでも編集して公開する。

そんな未来も、絶対にないとは言い切れない。

ただ、今の僕には、まだ難しい。

とりあえず、今日も自分の声が嫌いだ。

できることなら、もう喋りたくない。

しかし、明日もきっと喋る。

そして、自分の声を聞く。

はあ。

誰か、僕の声を交換してくれないだろうか。

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