深夜、コンビニへ買い物に行った。
すると、店の前にヤンキーたちがいた。
一人。
二人。
三人。
四人。
……。
四人か。
何だ、この集まりは。
特に何かをしているわけではない。ただ、そこにいるのである。
僕はそのままコンビニに入り、買い物を済ませた。
そして、店を出た。
……。
増えている。
ヤンキーが増えているではないか。
さっきまで四人だったはずだ。
しかし、僕が買い物をしている間に、明らかに人数が増えている。
一体、どこからやってきたのだ。
何の集会だ、これは。
何か重要な話し合いでもしているのだろうか。
今後の活動方針でも決めているのか。
それとも、誰かの誕生日なのだろうか。
いや、そんな様子もない。
ただ集まっている。
それだけである。
しかも、店もいい迷惑ではないだろうか。
コンビニは買い物をする場所であって、集会所ではない。
もちろん、複数人で集まっていること自体が悪いわけではない。しかし、店の前に大勢の人間がたまっていれば、入りづらく感じるお客さんだっているだろう。
店員だって気になるかもしれない。
それにしても、なぜコンビニの前なのだ。
深夜の街には、ほかにも場所があるはずである。
もしかすると、光に群れる習性でもあるのだろうか。
夜の街で、ひときわ明るく輝くコンビニ。
その光に導かれるように、一人、また一人と集まってくる。
……。
何だか、虫みたいだな。
いや、失礼。
しかし、ここで一つの疑問が浮かんだ。
ヤンキーというのは、なぜこうも群れるのだろう。
ショッピングモールでも群れている
別の日のことである。
僕はショッピングモールへ買い物に出かけた。
今日は何を買おうか。
どの店から見て回ろうか。
特に急ぐ用事もない。
気になる店をのぞきながら、のんびり買い物を楽しもう。
ああ、楽しみだ。
そんなことを考えながら歩いていると、ある光景が目に入った。
……。
んんん?
何だ、あれは。
椅子のある場所に、ヤンキーたちがたまっている。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
六人。
……。
また群れているではないか。
先日はコンビニ。
今度はショッピングモール。
一体どういうことなのだ。
僕は買い物を楽しみに来たのであって、ヤンキーの生態調査に来たわけではない。
しかし、こうも立て続けに集団を目撃すると、どうしても気になってしまう。
そして、僕はあることに気がついた。
そういえば、こいつら、一人の個体を見たことがない。
少なくとも、僕がヤンキーらしい人たちを見かけるときは、なぜか複数でいることが多い。
二人。
三人。
四人。
そして今回は六人。
一体、一人のときは何をしているのだろう。
そもそも、一人で行動することはあるのだろうか。
いや、もちろんあるはずだ。
しかし、僕の目に入る彼らは、いつも群れている。
もしかすると、集団でいることに何か特別な意味があるのかもしれない。
それとも、一人では不安なのだろうか。
……。
トイレも一緒にするのだろうか。
さすがに、それはないか。
そんなくだらないことを考えていた、そのときだった。
「俺、トイレ行くわ」
「おう、俺も」
「俺も」
「俺も」
……。
やっぱりだ!!!
本当に一緒に行くではないか。
何ということだ。
僕の予想が的中してしまった。
コンビニでも群れる。
ショッピングモールでも群れる。
そして、トイレでも群れる。
一体どこまで一緒なのだ。
もちろん、たまたま同じタイミングでトイレに行きたくなっただけかもしれない。
しかし、僕にはどうしても気になってしまう。
一人で行けばいいではないか。
トイレで何か重要な会議でも開くつもりなのだろうか。
いや、そんなはずはない。
もしかすると、最後についていった人は、別にトイレに行きたくなかったのかもしれない。
しかし、みんなが行くから自分も行く。
……。
尿意ではなく、協調性でトイレに行っているのか。
そんなことを考えているうちに、僕はますます彼らの集団行動が不思議になってきた。
そこで、ヤンキーが群れる理由について、僕なりに考察してみることにした。
① 一人では不安なのか。仲間がいることで安心する心理
まず考えられるのは、仲間と一緒にいることで安心感を得られるという心理である。
人間は誰かと一緒にいることで安心することがある。
知らない場所でも、友人がいれば心強い。
一人では入りづらい店でも、仲間がいれば入れる。
一人では言いづらいことも、仲間がいれば言える。
これは決して珍しいことではない。
心理学でも、人間には他者とのつながりを求める欲求があると考えられている。
仲間がいることで、自分は一人ではないと感じられる。
何かあっても助けてもらえるかもしれない。
そうした安心感が、集団行動を好む理由の一つになっている可能性はある。
しかし、ここで僕は疑問に思う。
安心するのはいい。
だが、六人も必要なのだろうか。
一人では不安。
二人なら少し安心。
三人ならもっと安心。
四人ならかなり安心。
五人ならもう大丈夫。
六人なら……。
何だ。安心感に上限はないのか。
もちろん、人数が多ければ多いほど安心するという単純な話ではない。
ただ、仲間と一緒にいることで得られる安心感が、集団から離れたくない気持ちにつながることはあるだろう。
そして、ここにはもう一つの可能性がある。
それは、一人になることそのものへの不安である。
一人で歩いている姿を見られたくない。
仲間がいないと思われたくない。
誰かと一緒にいないと落ち着かない。
もし、そんな気持ちがあるのだとしたら、群れることは単なる楽しみではなく、自分を守るための行動なのかもしれない。
ただし、外見や集団行動だけで、その人が孤独を恐れていると判断することはできない。
単純に友達と過ごすのが好きなだけという可能性も、当然ある。
② 人数が多いほど強くなった気がするのか
次に考えられるのが、集団によって自信が大きくなる心理である。
一人でいるときはおとなしい人でも、仲間がいると急に声が大きくなったり、大胆な行動を取ったりすることがある。
これはヤンキーに限った話ではない。
学生の集団でも、会社の飲み会でも、似たようなことは起こる。
一人では言わないようなことを、仲間がいると言ってしまう。
一人ではできないようなことを、集団ならやってしまう。
仲間がいることで、自分が強くなったように感じるのかもしれない。
一人なら普通の青年。
二人になると少し強気。
三人になると声が大きくなる。
四人になると態度まで大きくなる。
六人になると……。
もはや無敵である。
何だ。
人数に比例して戦闘力が上がる仕組みなのか。
ゲームのキャラクターではないのだから、人数が増えたからといって、個人の能力が突然上がるわけではない。
しかし、仲間がいることで心理的に強気になることは十分に考えられる。
特に、相手が一人で、自分たちが大人数だった場合はどうだろう。
自分たちのほうが有利だと感じるかもしれない。
逆に、一人でいる側は、相手が何もしていなくても圧迫感を覚えることがある。
僕がコンビニで見かけた集団も、実際に何かをしていたわけではない。
それでも、人数が増えていることには気づいた。
つまり、集団は存在しているだけでも、周囲に一定の影響を与えることがあるのだ。
もちろん、本人たちが意図的に威圧しているとは限らない。
しかし、人数の多さが心理的な強さにつながる場合はあるのだろう。
③ 別のヤンキー集団に対して優位に立ちたいのか
ここで、僕はもう一つの可能性を考えた。
もしかすると、ヤンキーの世界では、集団の大きさそのものが強さを示すものになっているのではないだろうか。
例えば、街中で別のヤンキーグループと鉢合わせしたとする。
こちらは三人。
向こうは六人。
……。
負けた。
人数で負けている。
いや、そもそも勝負をしているのかどうかもわからない。
しかし、もし人数が強さを示すものだとしたら、これは重大な問題である。
「おい、あいつら六人おるぞ」
「こっちは三人や」
「どうする?」
「とりあえず、タケシ呼べ」
「まだ二人足りんぞ」
「じゃあケンジとヒロシも呼べ!」
……。
何の競技だ、これは。
そして、ようやく六対六。
これで互角である。
と思ったら、向こうにもう一人やってきた。
七対六。
また負けたではないか。
もはや終わりのない戦いである。
もちろん、これは僕の勝手な想像だ。
実際に人数を競っているとは限らない。
しかし、人間には、自分が所属する集団とほかの集団を比較する心理がある。
心理学では、こうした集団への帰属意識や集団間の比較が、人間の行動に影響することが知られている。
自分たちのほうが人数が多い。
自分たちのほうが目立っている。
自分たちのほうが強そうに見える。
そうした比較が、仲間意識や対抗意識を強めることは考えられる。
そして、ここで一つの矛盾が生まれる。
強さを示すために仲間の人数が必要なのだとしたら、それは本当に自分自身の強さなのだろうか。
一人では強く見えない。
しかし、六人集まれば強く見える。
それは個人の強さではなく、集団の力である。
もちろん、集団の力を借りること自体が悪いわけではない。
人間は誰でも、誰かと協力して生きている。
ただ、仲間の人数を利用して他人を威圧するのだとしたら、それは少し違うのではないかと思う。
④ 仲間外れになるのが怖いのか。同調圧力の心理
次に考えたいのが、仲間内での同調圧力である。
人間は集団の中にいると、周囲の行動に合わせやすくなることがある。
自分だけ違うことをすると、何となく気まずい。
仲間外れにされたくない。
空気を乱したくない。
そんな気持ちが働く場合があるのだ。
例えば、六人でショッピングモールに集まっていたとする。
そのうちの一人が言う。
「そろそろ帰ろうかな」
しかし、残りの五人はまだ帰るつもりがない。
すると、どうだろう。
本当は帰りたいのに、何となく帰りづらくなることがあるかもしれない。
「付き合い悪いな」
そんなことを言われたくない。
だから、もう少し一緒にいる。
そして、気づけば何時間も過ぎている。
……。
お前、本当に帰らなくていいのか。
僕なら帰る。
帰りたくなったら帰る。
しかし、集団の中では、そう簡単にいかないこともあるのだろう。
そして、僕がショッピングモールで見かけたトイレの光景である。
「俺、トイレ行くわ」
「俺も」
「俺も」
「俺も」
あのとき、全員が本当にトイレに行きたかったのだろうか。
もちろん、そうだった可能性もある。
しかし、もしかすると、誰かについていくことが当たり前になっているのかもしれない。
仲間が移動するから、自分も移動する。
仲間が座るから、自分もその場にいる。
仲間が帰らないから、自分も帰らない。
そうして、集団の行動が個人の行動を決めていく。
仲間と一緒にいることは楽しい。
しかし、仲間と一緒にいなければならない状態になってしまうと、それは自由とは言えないのではないだろうか。
ここは少し気になるところである。
⑤ なぜ同じような格好や振る舞いをするのか
ヤンキーというと、特徴的な髪型や服装、言葉遣いを思い浮かべる人もいるだろう。
もちろん、実際にはさまざまな人がいる。
しかし、似たような格好や振る舞いをする仲間同士が集まっていることもある。
これはなぜなのだろう。
一つには、仲間であることを示したい心理が考えられる。
人間は、自分が所属する集団から、自分自身の一部を認識することがある。
同じ服装。
同じ髪型。
同じ言葉遣い。
そうした共通点が、仲間との一体感につながる場合があるのだ。
例えば、スポーツチームが同じユニフォームを着るのも、集団としての一体感を生む一つの方法である。
それと似た心理が、仲間同士の服装や振る舞いにも働くのかもしれない。
しかし、ここで僕は少し不思議に思う。
ヤンキーというと、自由を好み、他人に縛られず、自分の道を進むようなイメージがある。
もちろん、これは僕の勝手なイメージである。
しかし、もしそうだとしたら、なぜ集団で同じような行動をするのだろう。
俺は俺だ。
誰にも縛られない。
自由に生きる。
そう言いながら、仲間と似た格好をしている。
行動まで一緒。
トイレまで一緒。
……。
自由を主張するわりに、ずいぶん団体行動が好きではないか。
ただ、仲間と似た格好をすることは、必ずしも個性を失うことではない。
本人たちにとっては、それが自分の好きなスタイルなのかもしれない。
大切なのは、自分の意思で選んでいるのかどうかだろう。
⑥ 集団になるとなぜ態度が大きくなるのか
集団になると、普段より大胆な行動を取りやすくなることがある。
心理学では、集団の中で個人としての意識が薄れ、行動が変化する現象を「脱個人化」と呼ぶことがある。
また、集団では責任が分散したように感じられる場合もある。
一人なら周囲の目が気になる。
しかし、仲間がいれば気にならない。
一人なら遠慮することでも、集団ならやってしまう。
そうした心理が、迷惑行為につながる場合もあるのだろう。
例えば、コンビニの前に一人で長時間たまっていたら、周囲の目が気になるかもしれない。
しかし、仲間が何人もいればどうだろう。
誰も移動しようとしない。
だから自分も移動しない。
そうして、気づけば大人数になっている。
本人たちは楽しく過ごしているだけなのかもしれない。
しかし、周囲の人間がどう感じるかは別問題である。
もちろん、集まっているだけで迷惑行為と決めつけることはできない。
ただ、人数が増えれば、それだけ存在感も大きくなる。
だからこそ、周囲への気遣いも必要なのだと思う。
そして、もし仲間がいることを理由に他人へ威圧的な態度を取るのであれば、それは集団の強さを自分の強さと勘違いしているのかもしれない。
一人ではできないことを、集団ならできる。
それは協力という意味では素晴らしいことだ。
しかし、他人を怖がらせるために集団の力を使うのであれば、話は別である。
仲間がいるから強いのではなく、仲間がいないと強く振る舞えないだけではないのか。
そんな疑問も浮かんでくる。
バイクに乗っても群れている
そういえば、バイクに乗ったヤンキーたちも集団で走っていることがある。
一台。
二台。
三台。
四台。
……。
お前たち、バイクに乗ってまで群れるのか。
せっかく一人一台ずつ乗っているのだから、それぞれ好きな場所へ行けばいいではないか。
しかし、彼らは一緒に走る。
徒歩でも集団。
バイクでも集団。
移動手段が変わっても、集団行動は変わらない。
もちろん、仲間と一緒にツーリングを楽しむこと自体は何も悪くない。
複数人で同じ景色を眺めたり、目的地へ向かったりすることには、一人とは違う楽しさがあるだろう。
しかし、暴走族のように大きな音を出したり、危険な走行をしたりする集団になると、話は変わってくる。
一台では目立たない。
しかし、何台も集まれば存在感が増す。
音まで大きければ、さらに注目を集められる。
もしかすると、集団の規模や存在感を誇示する心理が働くこともあるのかもしれない。
人数だけでなく、音量でも勝負しているのか。
だとしたら、ずいぶん騒がしい競技である。
ただ、こうして考えると、ヤンキーに限らず、人間というのは何かと集団をつくりたがる生き物なのかもしれない。
学校の仲良しグループ。
会社の派閥。
趣味の集まり。
人間は、何かしらの集団に所属しながら生きている。
そう考えれば、ヤンキーたちが群れていること自体は、それほど不思議なことではないのかもしれない。
⑦ 群れることは本当に弱さなのか
さて、ここまでヤンキーたちの集団行動について考えてきた。
しかし、そもそも群れることは弱さなのだろうか。
僕は基本的に一人で行動する。
コンビニにも一人で行く。
ショッピングモールにも一人で行く。
本屋にも一人で行く。
もちろん、トイレにも一人で行く。
というか、トイレくらい一人で行かせてほしい。
僕にとって、一人でいることは何も特別なことではない。
誰かに予定を合わせる必要もない。
行きたいところへ行き、帰りたくなったら帰る。
気になる店があれば立ち寄るし、興味がなければ素通りする。
買い物を終えたら、そのまま帰ればいい。
「次どこ行く?」
「何食べる?」
「もう帰る?」
そんな相談をする必要もない。
すべて自分で決められる。
僕にとっては、それがとても気楽なのである。
だからこそ、何人もの人間が集まって、特に何をするでもなく過ごしている光景が不思議に見えるのかもしれない。
しかし、逆の立場になって考えてみる。
彼らからすれば、一人で買い物をしている僕のほうが不思議なのだろうか。
「何であいつ、一人なんやろ」
「友達おらんのかな」
「寂しくないんかな」
そんなふうに思われている可能性だってある。
……。
放っておいてくれ。
僕は好きで一人なのだ。
別に仲間が欲しくてショッピングモールをうろついているわけではない。
買い物をしに来ているのである。
ただ、彼らも同じなのかもしれない。
僕が一人で過ごす時間を楽しむように、彼らは仲間と過ごす時間を楽しんでいる。
それだけの話なのかもしれない。
一人でいることと、孤独であることは違う。
同じように、集団でいることと、一人では何もできないことも違う。
そもそも、一人で行動できることが強さなのだろうか。
誰かに頼らなくても行動できる。
他人に合わせなくても、自分で決められる。
一人でいることを怖がらない。
確かに、それも一つの強さなのかもしれない。
しかし、仲間をつくり、人間関係を維持し、誰かと協力して行動することにも、別の能力が必要である。
一人で何でも決めることはできても、集団の中で他人と折り合いをつけるのが苦手な人だっているだろう。
反対に、仲間といるのが好きでも、一人で行動できる人はいる。
つまり、一人でいることが強さで、群れることが弱さだとは言い切れないのである。
では、本当に強い人間とは何なのだろう。
一人でも堂々としていられる人だろうか。
仲間を守れる人だろうか。
周囲に威圧的な態度を取らず、自分の行動に責任を持てる人だろうか。
僕には、まだよくわからない。
ただ、少なくとも、人数が多いことと人間として強いことは別なのだと思う。
六人集まっているから強いわけではない。
一人で歩いているから弱いわけでもない。
大切なのは、人数ではなく、その人自身の振る舞いなのだろう。
……。
ずいぶん真面目な結論にたどり着いてしまった。
僕はただ、ショッピングモールで群れているヤンキーたちを見かけただけなのに。
一体、何をここまで考えているのだ。
そして、ヤンキーたちが戻ってきた
そんなことを考えていると、トイレへ向かったヤンキーたちが戻ってきた。
一人。
二人。
三人。
四人。
……。
またみんな一緒だ。
行くときも一緒。
帰ってくるときも一緒。
何という団結力なのだろう。
僕は思わず、その姿を目で追ってしまった。
すると、一人のヤンキーと目が合った。
「あ? 何見てんねん」
……。
僕は慌てて目をそらした。
そして、何事もなかったかのように歩き出した。
一人で行動できることが強さなのだろうか。
仲間と群れることは弱さなのだろうか。
そんなことを散々考えていた僕だったが、結局、一人のヤンキーに睨まれただけで怖くなってしまった。
どうやら、強さというものは、僕が思っていたほど単純ではないらしい。
僕はとっても弱いのかもしれない。
