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「変わってる」と言われて傷つく必要はない。僕には、むしろ褒め言葉だ。

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僕は、変なのだろう。

よく人から「変わってる」と言われる。

一度や二度ではない。これまで何度も言われてきた。

たぶん僕は、世間一般でいうところの「普通」から、少しずれているのだと思う。

みんなが楽しいと言っているものを、あまり楽しいと思えなかったりする。

みんなが当たり前のようにやっていることに、「これ、なんでやってるんだろう」と疑問を持ったりする。

逆に、誰も気にしていないようなことが妙に気になって、一人で延々と考えていることもある。

だからなのか、ときどき言われる。

「変わってるね」

「変わってますね」

言われたことがある人なら分かると思う。

なんともいえない言葉だ。

露骨な悪口ではない。だから怒るほどでもない。

その場では「そうですかね」と笑って終わることもできる。

でも、あとから妙に残る。

「僕ってそんなに変なのかな」

「何かおかしいこと言ったかな」

「みんなは違うのかな」

そんなふうに考えてしまう人もいるだろう。

傷つく人もいると思う。

自分だけが集団から外れているような気がして、不安になる人もいるかもしれない。

僕も昔は少し気にしていた。

でも、今はもう落ち込まない。

むしろ、嬉しい。

「変わってる」と言われると、

「ああ、よかった」

とさえ思う。

僕にとっては、もはや褒め言葉に近い。

もちろん、言っている本人は褒めていないのだと思う。

そこがまた面白い。

相手は僕を「普通から外れている人」として分類したつもりなのに、僕は勝手に喜んでいる。

申し訳ない。

その言葉、もう効いていない。

むしろ少し元気になっている。

ちゃんと僕は、僕のままらしい。

そう確認できるからだ。

目次

「変わってる」と言う人は、どこに立っているのだろう

僕は昔から、この言葉が少し不思議だった。

誰かに、

「変わってるね」

と言うとき、その人は一体どこに立っているのだろう。

この言葉には、ひとつの前提があるように思う。

「私は普通です」

という前提だ。

自分は普通。

あなたはそこから外れている。

だから、あなたは変わっている。

そういう構図がなければ、「変わっている」という判定そのものができない。

もちろん、そこまで深く考えて言っている人なんて、ほとんどいないと思う。

何気なく言っているだけだろう。

会話の流れで、なんとなく口から出ただけなのかもしれない。

でも僕は、こういうどうでもいいことを考えるのが好きなのだ。

「変わってますね」

なるほど。

ということは、あなたは普通なんですね。

僕はいつからか、「変わってる」と言ってくる人を、心の中で勝手にこう呼ぶようになった。

普通さん。

もちろん本人には言わない。

「あなた、普通ですね」

なんて、わざわざ言う必要がないからだ。

普通さんを思い返してみた

以前、「変わってますね」と言ってきた普通さんのことを、あとからぼんやり思い返したことがある。

すると、少し面白いことに気づいた。

そういえば、すべてが普通だった。

服装も普通だった。

髪型も普通だった。

持っているものも普通だった。

話していることも普通だった。

好きなものも、休日の過ごし方も、人生について話していることも、どこかで何度も聞いたことがあるようなものだった。

もちろん、それが悪いわけではない。

普通の服を着ることは悪くない。

流行っているものを好きになることも悪くない。

休日にみんなと同じような場所へ出かけたっていい。

そんなものは本人の自由だ。

ただ、僕は妙に納得してしまった。

なるほど。

普通さんは、本当に普通さんだった。

そして同時に、別の疑問が生まれた。

普通であることって、そんなに誇れることなのだろうか。

「変わっている」と人に言えるくらい、自分が普通であることに安心していていいのだろうか。

僕なら、むしろ少し不安になる。

普通であることに、僕は少し危機感を持っている

これは「普通の人はダメだ」という話ではない。

普通の服が好きなら、それでいい。

普通の働き方が幸せなら、それでいい。

多くの人が選ぶ人生を自分も選びたいなら、それもいい。

普通であること自体に、罪なんてない。

ただ僕自身は、

「自分は普通だから大丈夫」

とは思えない。

むしろ逆だ。

自分に人と違うところが何もないとしたら、少し焦る。

何が好きなのか。

何を考えているのか。

何を作れるのか。

何を表現できるのか。

何に時間を使いたいのか。

何なら人から笑われても続けたいのか。

そこに自分なりの答えが何もない方が、僕には怖い。

これからは、ますます個人の違いが見える時代になると思う。

今は誰でも文章を書ける。

写真を発信できる。

動画を作れる。

音楽を作れる。

絵を公開できる。

自分の考えを、知らない人に届けることができる。

自分のちょっと変わった考えが、遠くにいる誰かに届く。

百人には理解されなくても、一人にものすごく刺さることがある。

「そんなこと考えているの、自分だけだと思っていました」

と言ってもらえることだってある。

昔なら「変わっている」で終わっていたものが、今はその人にしかない価値になることがある。

そう考えると、

「みんなと同じです」

ということは、本当に安心材料なのだろうか。

僕にはむしろ、

自分にしかないものが何なのか分からないことの方が怖い。

普通から外れることより、自分の輪郭がなくなっていくことの方が怖い。

だから僕は、「変わってる」と言われると少し安心する。

少なくとも僕には、誰かの物差しからはみ出す部分があるらしい。

それなら悪くない。

普通は、とても楽だ

なぜ人は普通でいようとするのだろう。

理由の一つは、単純に楽だからだと思う。

普通には安心感がある。

みんなと同じものを選んでいれば、説明しなくていい。

みんなと同じように生きていれば、

「なんで?」

と聞かれることも少ない。

みんなが行くから行く。

みんながやっているからやる。

みんなが買っているから買う。

みんながそうしているから、自分もそうする。

これなら何かうまくいかなかったときも、

「まあ、みんなそうだし」

と思える。

自分一人で選んだという怖さがない。

「普通」という大きな集団の中にいれば、目立たない。

笑われにくい。

否定されにくい。

説明を求められにくい。

だから普通というのは、ものすごく居心地がいい。

僕だって分かる。

人と違うことをするのは面倒だ。

普通のことをしている人には理由を聞かないのに、普通から少し外れた瞬間、

「なんで?」

と理由を要求される。

これも不思議だ。

みんなと同じことをするのに理由はいらない。

でも、みんなと違うことをすると理由がいる。

僕には、その方が変に見える。

はみ出すのには、少しだけ勇気がいる

だから、普通からはみ出すのには少し勇気がいる。

といっても、大げさな話ではない。

会社を辞めろとか。

突然海外へ行けとか。

明日から奇抜な服を着ろとか。

そんな話ではない。

もっと小さなことだ。

みんなが好きなものを、自分は好きじゃないと言う。

みんなが興味のないものを、自分は好きだと言う。

行きたくない集まりには行かない。

欲しくないものは買わない。

興味がない流行を無理に追わない。

一人でいたい日は一人でいる。

自分が面白いと思ったことをやる。

それだけでも、人は意外と簡単にはみ出す。

そして、はみ出した瞬間に誰かがやってくる。

「変わってるね」

出た。

普通さんである。

別にこちらは「変わったことをしよう」と思っているわけではない。

好きなようにしていただけなのに、いつの間にか認定される。

「変わってますね」

ありがとうございます。

今日も無事、普通から少しはみ出せているようです。

自分の「好き」を見つける努力をしているだろうか

僕は、個性というものは無理やり作るものではないと思っている。

「今日から個性的になろう」

と思って、突然奇抜な服を着ても、それが本人の好きな服でなければ意味がない。

人と違うことそのものを目的にすると、それはそれで「人と違わなければならない」という別の窮屈さが生まれる。

僕が大事だと思うのは、

自分の「好き」をちゃんと探すことだ。

これは意外と簡単ではない。

何が好きなのか。

何をしていると時間を忘れるのか。

何についてなら、頼まれてもいないのに何時間でも考えられるのか。

何を見ると腹が立つのか。

何を見ると笑うのか。

何に感動するのか。

どんな人といると楽なのか。

逆に、どんな場所では息苦しくなるのか。

どんな一日なら「今日はよかった」と思えるのか。

そういうことを一つずつ考えていく。

誰かが教えてくれるものではない。

放っておけば、周囲が用意したものを選ぶだけでも人生は進んでいく。

だからこそ、自分の好きを見つけるには少し努力がいるのだと思う。

いろいろやってみる。

読んでみる。

見てみる。

行ってみる。

作ってみる。

やめてみる。

一人になって考えてみる。

そうして、

「これは好き」

「これは違う」

を何度も繰り返す。

すると、だんだん自分の輪郭ができてくる。

好きな本も違う。

好きな音楽も違う。

好きな働き方も違う。

人とのちょうどいい距離も違う。

お金を使いたいものも違う。

幸せだと思う生活も違う。

そこまで自分のことを知っていけば、むしろ全員が同じになる方がおかしい。

だから僕は思う。

自分の「好き」を本気で探していけば、人は勝手に少し変になる。

それでいい。

むしろ、その方が自然なのだ。

「普通」は、自分で考えなくて済む便利な答えでもある

「普通ならどうするか」

を基準にすると、自分で考えなくて済む。

何歳くらいで結婚するか。

どんな仕事に就くか。

どこに住むか。

休日に何をするか。

何にお金を使うか。

どんな家に住むか。

何を持っていれば成功なのか。

周囲を見れば、だいたいの模範解答が置いてある。

その答えを選んでいけば、大きく外れることはない。

それはとても便利だ。

ただ、一度くらい、

「これは本当に僕が選んだのだろうか」

と考えてみてもいいと思う。

みんなが欲しがっているから欲しいのか。

僕が欲しいのか。

みんなが楽しそうだから楽しいのか。

僕が楽しいのか。

みんなが幸せだと言っているから幸せなのか。

僕が幸せなのか。

この違いは大きい。

考えた末に、みんなと同じ答えになってもいい。

それはもう、その人自身の選択だからだ。

僕が少し怖いのは、考える前から「普通」を答えにしてしまうことだ。

自分の人生なのに、自分の好き嫌いより先に、

「みんなはどうしているんだろう」

が来る。

何かを選ぶたびに周囲を見る。

周りが笑えば安心する。

周りが怪訝な顔をすればやめる。

それを何十年も続けた先で、

自分は何が好きなのか。

本当は何がしたかったのか。

どんな人生なら幸せなのか。

それすら分からなくなってしまったら、僕は少し寂しいと思う。

表現しなければ、その人の中身は見えない

もう一つ、僕が大切だと思うものがある。

表現することだ。

人は、意外といろいろなことを考えている。

一見普通に見える人だって、頭の中にはとんでもなく面白い世界があるのかもしれない。

誰にも理解されないくらい好きなものがあるかもしれない。

ものすごく独特な価値観を持っているかもしれない。

でも、それを何も表現しなければ、外からは分からない。

文章でもいい。

写真でもいい。

服でもいい。

音楽でもいい。

絵でもいい。

動画でもいい。

会話でもいい。

自分の好きなものについて、ただ熱く話すだけでもいい。

内側にあるものを外へ出した瞬間、その人の輪郭が見えてくる。

表現するのは怖い。

「こんなこと言ったら変に思われるかな」

「こんなの好きなの、自分だけかな」

「笑われたら嫌だな」

そう思う。

だから飲み込む。

言わない。

出さない。

書かない。

作らない。

そして周囲に合わせる。

でも、それは少しもったいない。

出してみれば、

「それ、僕も好きです」

と言ってくれる人が現れるかもしれない。

「そんな考え方したことなかった」

と言ってくれる人がいるかもしれない。

もちろん、理解されないこともある。

でも、全員に理解される必要なんてない。

全員に好かれるように自分を削っていけば、最後には誰にも強く刺さらないものになる。

人間だって、文章だって、作品だって、たぶん同じだ。

「変わってる」の中には、その人の輪郭がある

「変わっている」と言われる部分には、その人の輪郭が出ているのかもしれない。

誰も気にしないことを気にする。

みんなが楽しい場所を楽しめない。

一人でいることを好む。

みんなが欲しがるものに興味がない。

それはただ、その人の感覚が周囲と少し違うということでもある。

もちろん、「変わっている」と言われる部分が全部長所だなんて言うつもりはない。

直した方がいいことだってある。

人を傷つけたり、迷惑をかけたりする行動まで、

「これが僕の個性です」

で済ませるのは違う。

でも、人に迷惑をかけているわけでもない。

ただ好みが違う。

考え方が違う。

生き方が違う。

そんなものまで普通に合わせる必要があるのだろうか。

せっかく自分にしかない輪郭があるのに、それを一生懸命削って丸くする必要なんてないと思う。

自分の選択を、自分で認められるか

「変わってる」と言われて傷つく理由の一つには、自分の選択にまだ自信が持てていないこともあるのかもしれない。

もちろん、人によって違う。

でも、

「みんなと違っても、僕はこれが好きだからいい」

と思えていると、人の言葉は以前ほど怖くなくなる。

僕はこれが好き。

僕はこうしたい。

僕はこう生きたい。

理由は、それで十分なのだ。

誰かに許可してもらう必要はない。

多数決を取る必要もない。

人生はクラス会議ではない。

全員の賛成が出るまで、自分の好きなことを保留にしていたら、いつまでたっても何もできない。

自分の人生について、一番長く付き合うのは自分だ。

だったら、自分の票を一番重くしてもいい。

周囲に認められてから好きになる必要なんてない。

誰かから、

「それ、いいですね」

と言われるまで続けてはいけないわけでもない。

自分で選んだものを、自分で認める。

それができるようになると、「変わってる」の破壊力はずいぶん弱くなる。

「普通」なんて、場所が変われば簡単にひっくり返る

そもそも、「普通」という基準自体がかなり怪しい。

国が変われば、普通は変わる。

文化が変われば、普通は変わる。

会社が変われば、普通は変わる。

学校が変われば、普通は変わる。

世代が変われば、普通は変わる。

家族が変わっただけでも、普通は変わる。

ある家では当たり前のことが、別の家では驚かれる。

ある会社では当然の習慣が、転職したら誰もやっていない。

日本では珍しく見えることが、海外へ行けば何でもないことだってあるだろう。

逆もある。

つまり僕たちが「普通」と呼んでいるものの多くは、世界共通の絶対的な基準ではない。

たまたま自分がいる小さな場所で、多数派になっているだけだ。

それなのに人は、ときどき自分の周りにある普通を、世界の普通みたいに扱ってしまう。

「普通はこうする」

と言う。

僕はそのたびに思う。

その普通、一体どこまで持っていけるんだろう。

隣の会社でも通用するのだろうか。

違う世代でも通用するのだろうか。

違う国でも通用するのだろうか。

十年後にも同じなのだろうか。

普通なんて、思っているよりずっと頼りない。

そんな曖昧な物差しから少しはみ出したくらいで、自分を嫌いになる必要なんてない。

思うなら、勝手に思えばいい

そして僕が一番不思議なのは、ここである。

誰かを見て、

「変わってるな」

と思う。

それはいい。

勝手に思えばいい。

僕だって人を見て、「変わった人だな」と思うことはある。

人間なのだから、頭の中で何を思うかなんて自由だ。

僕はそこを責めたいわけではない。

でも、

なぜ、それをわざわざ本人に届けるのだろう。

ここが分からない。

「あなた、変わってますね」

その言葉を渡された相手が、どう感じるか。

喜ぶとは限らない。

傷つくかもしれない。

自分がおかしいのかと悩むかもしれない。

それでも、わざわざ言葉にして渡す。

何のために。

別に本人から、

「僕って変わっていますか?」

と聞かれたわけでもない。

頼まれていない。

判定してくれとも言われていない。

それなのに普通さんは、変わっている人を見つけると教えてくれる。

頼んでもいないのに。

僕には、そっちの方が少し不思議である。

思うことと、言うことは違う

僕たちは毎日、いろいろなことを思っている。

この服、似合ってないな。

この話、長いな。

この人とは合わないな。

その趣味、僕には全然理解できないな。

たぶん、誰だって何かしら思っている。

でも、そのすべてを本人には言わない。

なぜなら、言わなくていいからだ。

思うことと、言葉にすることの間には、一枚扉がある。

普通はそこで少し考える。

「これ、言う必要あるかな」

「相手はどう感じるかな」

「わざわざ伝えることかな」

そうして、多くの言葉を口に出さずに終える。

だから僕は、

「変わってますね」

をわざわざ選んで届けることに興味がある。

なぜ、その言葉だけ扉を通過したのだろう。

そこまで考えると、僕はもう「自分は変なのだろうか」と悩むより、

「この人はなぜ今これを僕に言ったんだろう」

と考えるようになった。

視線を自分から相手へ戻す。

すると、不思議なくらい楽になる。

「普通ですね」と言い返す必要もない

だからといって、

「変わってますね」

と言われたら、

「あなたは普通ですね」

と言い返せばいいとは思わない。

それでは同じことをしている。

相手が自分の物差しで僕を測ったからといって、僕も自分の物差しで相手を測って、わざわざ本人に伝える必要はない。

僕は普通さんを普通だと思う。

でも、それは僕の頭の中に置いておけばいい。

思うのは自由。

でも、何を言葉にして相手へ渡すかは選べる。

だから僕は「普通さん」と呼ぶ。

心の中で。

勝手に。

相手には聞こえないところで。

それくらいがちょうどいい。

普通でいることが幸せなら、それでいい

ここまで書くと、

「普通の何が悪いんだ」

と思う人もいるかもしれない。

悪くない。

本当に悪くない。

普通の人生が幸せな人だって、たくさんいる。

普通の仕事をして。

普通に恋愛して。

普通の人と普通に結婚して。

普通の家庭をつくって。

普通の休日を過ごして。

普通に歳を重ねていく。

それが本人の望んだ人生なら、それでいい。

幸せの形なんて人それぞれだ。

わざわざ人と違うことをする必要もない。

全員が何かを発信する必要もない。

全員が奇抜な人生を送る必要もない。

「これからは個性の時代だから、個性的でなければならない」

なんて言い始めたら、それもまた新しい普通になる。

そんなものは窮屈だ。

だから僕は、普通さんに変わってほしいわけではない。

普通さんは普通さんの好きな人生を生きればいい。

ただ、だったら僕にも、僕の変な人生を生きさせてほしい。

それだけだ。

普通さんが普通で幸せなら、それでいい。

僕が変で幸せなら、それもいい。

お互い好きにすればいい。

普通さん。今も普通なんだろうな

普通さん。

もう会うことはないだろうけど。

今も、普通なんだろうな。

普通の服を着て。

普通の毎日を過ごして。

普通の人と、普通に結婚して。

普通の家庭をつくって。

普通の幸せの中で暮らしているのかもしれない。

それがあなたの幸せなら、それでいい。

本当にそう思う。

あなたの人生だから。

好きに生きればいい。

そして僕も、好きに生きる。

僕はたぶん、これからも変なのだろう。

みんなが気にしないことを気にする。

みんなが当たり前だと思っていることに疑問を持つ。

どうでもいいことを延々と考える。

誰にも頼まれていない文章を書く。

好きなものにたくさん時間を使う。

面白そうなことを見つけたら始める。

普通さんから見たら、

「また変なことしてる」

と思われる人生なのかもしれない。

でも、それでいい。

いや。

それがいい。

僕は自分の好きなものをもっと探したい。

自分が面白いと思うものを追いかけたい。

自分の頭で考えたい。

思いついたものを形にしたい。

誰かが用意した「普通」の中から人生を選ぶのではなく、自分で選んだものを少しずつ積み重ねていきたい。

その結果、変な人になったとしても構わない。

むしろ歓迎したい。

普通さんには普通さんの人生がある。

僕には僕の人生がある。

どちらが正しいという話ではない。

ただ、僕自身について言えば、

僕はこっちの方が、最高だ。

「変わってる」と言われて傷つく人へ

だから、「変わってる」と言われて傷ついている人がいるなら、どうか落ち込まないでほしい。

その一言で、自分を嫌いにならないでほしい。

あなたがおかしいと決まったわけではない。

世界から外れたわけでもない。

あなたの生き方が間違っていると証明されたわけでもない。

たった一人の人が持っている「普通」という物差しから、少しはみ出しただけだ。

それだけだ。

そのはみ出した部分を、慌てて削らなくていい。

もしかしたら、そこにあなたの「好き」があるかもしれない。

そこに、あなたにしかない考え方があるかもしれない。

そこに、あなたにしか書けない文章があるかもしれない。

あなたにしか作れないものがあるかもしれない。

あなたにしか選べない人生があるかもしれない。

今いる場所では「変わっている」と言われても、場所が変われば誰も気にしないかもしれない。

今は理解してくれる人がいなくても、これから出会う誰かが、

「それ、分かります」

と言ってくれるかもしれない。

だから、普通に戻ろうとしなくていい。

わざと変になる必要もない。

ただ、自分を普通にするためだけに、自分を削らないでほしい。

自分が好きなものを、ちゃんと好きでいる。

自分が嫌なものを、嫌だと思う。

自分で考える。

自分で選ぶ。

自分なりに表現する。

その繰り返しでいい。

それを続けていれば、勝手にあなたらしくなる。

そして、あなたらしくなればなるほど、また誰かに言われるかもしれない。

「変わってるね」

そのときは、もう落ち込まなくていい。

傷つかなくていい。

自分を疑わなくていい。

「ああ、また言われたな」

くらいでいい。

僕なら、少し嬉しくなる。

ちゃんと僕は、僕のままらしい。

そう思えるから。

そしてもし、それでも少し腹が立ったなら。

言い返さなくていい。

相手に、

「あなたは普通ですね」

なんて言う必要もない。

僕たちは、思ったことを何でも本人に届ける必要はないのだから。

だから、心の中だけでいい。

ほんの少しだけ笑ってやればいい。

普通さん、と。

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