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『一分間だけ』原田マハ 感想|犬との別れを描いた小説だと思っていた。これは「一緒に生きた時間」の物語だった

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読み始めて数ページで、涙があふれた。

まだ物語はほとんど始まっていない。それなのに、すでに胸が苦しかった。

たぶん僕は、この物語の先にあるものを最初から想像してしまったのだと思う。

犬と人間では、生きる時間の長さが違う。

一緒に暮らし始めた瞬間から、いつかやってくる別れへ向かって時間は進んでいる。

そんなことはわかっている。

でも、普段から考えているわけではない。

今日もご飯を食べる。今日も散歩へ行く。今日も眠っている。今日も名前を呼べばこちらを見る。

そんな「いつも通り」が続いていると、明日も同じ一日がやってくるような気がする。

でも、本当は同じ一日なんて二度とない。

『一分間だけ』は、その当たり前すぎて普段は忘れていることを、何度も思い出させてくれる小説だった。

僕はこの作品を、犬との別れを描いた悲しい物語だと思って読み始めた。

確かに悲しい。

病気も描かれる。看病の苦しさも描かれる。大切な存在を失うことの痛みも描かれる。

それでも読み終えたあと、僕の中に一番強く残ったものは「失った」という感情ではなかった。

むしろ、

一緒に歩けてよかった。

そんな気持ちだった。

これは、大切な存在を失うだけの物語ではない。

大切な存在と一緒に生きた時間を抱えながら、その先も生きていく物語なのだと思う。


目次

『一分間だけ』のあらすじ

主人公の藍は、ファッション雑誌の編集者として忙しい毎日を送っている。

そんな藍が出会ったのが、ゴールデンレトリーバーのリラだった。

小さな子犬だったリラを迎えたことで、藍の生活は変わっていく。

犬と暮らすということは、自分以外の命の時間が、自分の生活の中へ入ってくるということでもある。

ご飯をあげる。

散歩へ行く。

留守番をさせる。

病院へ連れていく。

人間だけなら自分の都合で決められた時間が、少しずつリラの時間と重なっていく。

しかし、藍には仕事もある。

仕事にも本気で向き合っている。

任された仕事には応えたい。これまで積み上げてきたものもある。

だから、いつでもリラだけを優先できるわけではない。

仕事、恋愛、生活、そしてリラ。

いくつもの大切なものを抱えながら藍は生きていく。

しかし、同じ日々が永遠に続くわけではない。

生活にも変化が訪れ、やがてリラにも病気が見つかる。

仕事に追われる藍。

藍の帰りを待つリラ。

限られていく時間の中で、藍は「自分にとって本当に大切なものは何なのか」と向き合うことになる。

この作品を「犬と飼い主の感動小説」と紹介することもできると思う。

でも、それだけではない。

僕がこの物語から強く感じたのは、

限られた時間を、誰と、どのように生きるのか。

という問いだった。


一日が始まり、一日が終わる。それだけのこと

序盤から心に残った言葉がある。

「一日が始まり、一日が終わる。」

(p6より一部引用)

それだけなら、何も特別なことは言っていない。

朝になれば一日が始まり、夜になれば終わる。

毎日のことだ。

普段なら、そんなことに感謝することはほとんどない。

起きる。

食べる。

働く。

帰る。

眠る。

一日は、いつの間にか「こなすもの」になっていく。

でも、リラがいることで、その普通の一日の見え方が変わっていく。

散歩へ行く。

リラが立ち止まる。

何かの匂いを嗅ぐ。

こちらを見る。

また歩き出す。

人間一人なら、そのまま通り過ぎていた場所かもしれない。

でも犬が立ち止まるから、自分も止まる。

風が吹いていることに気づく。

道端に草が生えていることに気づく。

季節が少しずつ変わっていることに気づく。

作中では、リラが見るであろう夢について語られる場面がある。

その夢は、とてもささやかだ。

いつもの散歩道を歩く。

道端の石ころや雑草を見つける。

そして、ときどき後ろを振り返って、大好きな人がそこにいることを確かめる。

それだけ。

旅行へ行くわけでもない。

豪華なご飯を食べるわけでもない。

何か特別なことが起こるわけでもない。

でも犬にとっては、それが幸福なのかもしれない。

大好きな人がいる。

一緒に歩いている。

振り返れば、そこにいる。

それでいい。

僕たち人間は、幸せを少し難しく考えすぎているのかもしれない。

何かを手に入れたら。

もっとお金があったら。

仕事で評価されたら。

夢が叶ったら。

どこかへ旅行できたら。

もちろん、それも幸せだ。

でも幸福は、特別な出来事の中にしか存在しないわけではない。

一日が始まる。

一日が終わる。

その一日の中に、大切な存在がいる。

実はそれだけで、ものすごく大きなことなのだと思う。


人間には意味がなくても、犬には意味がある

作中には、こんな言葉がある。

「人間にとって意味のないもの、という常識は、犬にとっては意味がない。」

(p18より引用)

この一文も好きだった。

犬は散歩をしていると、突然立ち止まる。

人間からすれば何でもないような場所で、ずっと匂いを嗅いでいる。

ただの石。

ただの草。

ただの道。

「早く行こう」と思うかもしれない。

でも、「これは意味がない」と決めているのは人間の側だ。

僕たちは何にでも意味を求める。

役に立つのか。

得になるのか。

成長につながるのか。

仕事に生かせるのか。

時間を使う価値があるのか。

何もしないまま一日が終わると、「今日は無駄にした」と思ってしまうことさえある。

でも犬は、道端の草の匂いを嗅いだ時間を無駄だとは思わないだろう。

散歩によって昨日より成長したかなんて考えない。

何か成果を出そうともしていない。

ただ、その瞬間を生きている。

そして不思議なのは、犬と一緒にいると、人間もその「意味のない時間」に巻き込まれることだ。

犬が立ち止まったから、自分も立ち止まる。

犬が楽しそうだから、自分も嬉しくなる。

効率だけで考えれば、何も生み出していない時間だ。

でも人生を振り返ったとき、意外と心に残っているのは、そういう時間なのではないだろうか。

何かを達成した瞬間より、誰かとくだらない話をした時間。

観光地そのものより、そこへ向かう途中の道。

特別なイベントより、いつもの散歩。

人生には、何の役にも立たないからこそ大切な時間がある。

リラは藍に、そのことを教えていたのかもしれない。


犬は「今」を生きている

人間は、なかなか今だけを生きられない。

昨日のことを考える。

明日のことを考える。

来週の予定を考える。

昔の失敗を思い出す。

まだ起きてもいないことを心配する。

体は現在にいるのに、頭の中は過去と未来を行ったり来たりしている。

そして、よく「あとで」と言う。

あとで遊ぼう。

あとで散歩へ行こう。

あとで連絡しよう。

今日は忙しいから。

今日は疲れているから。

明日でいい。

また今度でいい。

もちろん、すべてを今すぐやることなんてできない。

人間には仕事も予定も生活もある。

でも犬は、人間ほど「あとで」を生きていないのかもしれない。

散歩をしているなら、今は散歩。

ご飯を食べているなら、今はご飯。

大好きな人が帰ってきたなら、今は「帰ってきた!」。

作中には、

「おそらく犬にとっては、十二時間でも一分間でも同じなのだ。」

(p177より一部引用)

という考え方が出てくる。

人間にとって、一分間と十二時間はまったく違う。

でも犬にとって大切なのは、離れていた時間の長さではなく、大好きな人ともう一度会えたその瞬間なのかもしれない。

だから、あれほど喜ぶ。

昨日も会った。

毎日会っている。

それでも喜ぶ。

人間だったら「昨日も会ったやん」となるところだ。

でも犬にとっては昨日ではない。

今、会えた。

だから嬉しい。

なんだか、すごい生き方だと思った。

僕たちは、大切な人と一緒にいる最中ですら別のことを考える。

スマホを見る。

仕事を考える。

明日の予定を考える。

犬は、目の前にいる大好きな人を見る。

今、大好きな人がいる。

それでいい。

『一分間だけ』を読んでいると、「今を生きる」というよく聞く言葉が、急に具体的なものになっていく。


仕事もリラも大切だから、藍は苦しい

この作品で良かったと思うところの一つが、藍が仕事を簡単に捨てられないことだった。

もし藍が仕事を嫌っている主人公だったら、話はもっと単純になる。

そんな仕事、辞めればいい。

リラのそばにいればいい。

読者も簡単にそう言える。

でも藍にとって、仕事はどうでもいいものではない。

これまで頑張ってきた。

積み上げてきたものがある。

苦労して手に入れた立場がある。

任された仕事もある。

だから簡単には手放せない。

ここがすごく現実的だった。

大切な存在が病気になった瞬間、世界中の仕事が止まってくれたらいい。

でも、そんなことはない。

明日も仕事はある。

連絡は来る。

締め切りは来る。

生活費も必要になる。

一方で、病気になった命も待ってはくれない。

今日と同じ状態が、明日も続く保証はない。

仕事も待ってくれない。

命も待ってくれない。

その間に立たされる。

僕たちはよく、

「本当に大切なものを優先すればいい」

と言う。

でも現実には、そんなに簡単ではない。

仕事も大切。

生活も大切。

自分自身も大切。

そしてリラも大切。

大切なものが一つしかなければ、人はそれほど悩まない。

複数あるから悩むのだ。

藍はリラを愛していないから仕事へ行くわけではない。

仕事もまた、藍が大切にしてきた人生の一部なのだ。

だからこそ、この物語は苦しい。


命を迎えることは、「かわいい」の先まで引き受けること

子犬はかわいい。

小さくて、温かくて、抱けば動く。

作中には、子犬を抱いたとき、その重さから「ちゃんと生きている」と感じる場面がある。

命には重さがある。

当たり前だけれど、大切なことだと思った。

犬を迎えるということは、かわいい存在を家へ連れて帰ることだけではない。

一つの命の時間を、自分の人生の中へ迎えることだ。

その命は成長する。

歳を取る。

病気になることもある。

歩けなくなるかもしれない。

ご飯を食べられなくなるかもしれない。

病院へ何度も通うことになるかもしれない。

お金もかかる。

時間もかかる。

そして、いつかその命の最後に立ち会う可能性がある。

元気なときだけ家族なのではない。

病気になっても家族だ。

歳を取っても家族だ。

世話が大変になっても家族だ。

こちらの生活が苦しくなったときも家族だ。

命を迎えるということは、その全部を引き受けることなのだと思う。

『一分間だけ』は、そこを綺麗な部分だけで描かない。

だからこそ、命を預かることの幸せと重さ、その両方が伝わってくる。


「たとえ一瞬でも、私はリラの死を願った」

この作品の中で、特に強烈だった一文がある。

「たとえ一瞬でも、私はリラの死を願ったのだ。」

(p192より引用)

大切な犬なのに。

愛しているのに。

死んでほしくないはずなのに。

それでも、死を願ってしまう。

一見すると矛盾している。

でも、この一文があるからこそ、『一分間だけ』は単なる綺麗なペット小説ではないと思った。

看病は、愛情だけではどうにもならない瞬間があるのだろう。

疲れる。

眠れない。

仕事もある。

苦しんでいる姿を見る。

何をしても良くならない。

正解もわからない。

そんな時間が続けば、心は削られていく。

そして、ふと、

もう楽になってほしい。

と思う。

でも、その「楽になってほしい」の中には、誰のための「楽」が入っているのだろう。

犬のためなのか。

自分のためなのか。

作中には、

「あなたは、自分が楽になりたいだけなんだ。」

(p209より一部引用)

という厳しい言葉もある。

人間は「この子のため」という言葉の中に、自分の願いを混ぜてしまうことがある。

苦しんでいる姿を見たくない。

これ以上看病するのがつらい。

でも同時に、本当に苦しみから解放してあげたいとも思っている。

どちらか一つではないのだろう。

両方なのかもしれない。

だから簡単に正解なんて言えない。

『一分間だけ』は、命を看取ることを美談だけにしない。

愛していても疲れる。

愛しているからこそ苦しい。

その人間の弱さまで描いているところが、僕には強く残った。


延命治療に正解なんてない

リラの病気が進行していく中で、延命治療についても描かれる。

大切な存在が病気になれば、少しでも長く生きてほしいと思う。

あと一年。

あと一か月。

あと一週間。

あと一日。

できる治療があるなら、してあげたい。

それは自然な気持ちだと思う。

でも、治療を続けることが本当にその命にとって一番幸せなのか。

逆に、治療をやめることが正しいのか。

答えは簡単には出ない。

犬に、

「どうしたい?」

と聞くことはできない。

だから飼い主が決めるしかない。

そして、どちらを選んでも迷う。

治療を続ければ、

苦しい時間を長引かせてしまったのではないか。

と思うかもしれない。

治療をやめれば、

もっと生きられたのではないか。

もっとできることがあったのではないか。

と思うかもしれない。

どちらにも後悔する可能性がある。

だからこそ、作中で「誰にもわからない」と語られることに意味があるのだと思った。

正解を教えてくれるのではない。

正解なんて簡単には存在しないことを、そのまま認める。

命を前にしたとき、人間にできることには限界がある。

それでも、その限界の中で考え続けるしかない。


「一年間でも、一分間でも、犬の時間は一緒なんです。」

そして、この作品でもっとも心に残った言葉。

「一年間でも、一分間でも、犬の時間は一緒なんです。」

(p211より引用)

この一文を読んだ瞬間、『一分間だけ』というタイトルの見え方が変わった。

人間は、時間を長さで考える。

何歳まで生きた。

何年間一緒にいた。

あと何日。

あと何時間。

大切な存在なら、少しでも長く生きてほしい。

一分より一時間。

一時間より一日。

一日より一年。

僕だって、そう願うと思う。

でも犬は、自分の平均寿命を知らない。

「あと何年生きられる」と計算しない。

今日は人生の何%地点だ、なんて考えない。

だったら犬にとって大切なのは、「どれだけ長く生きたか」ではないのかもしれない。

今、大好きな人がいる。

今、撫でてもらっている。

今、一緒に歩いている。

今、名前を呼んでもらった。

その時間が満たされている。

作中では、どれだけ濃い時間を一番好きな人と過ごせたかが大切なのだと語られる。

この考え方が、ものすごく胸に残った。

時間は、長さだけで価値が決まるものではない。

長く一緒にいられるなら、そのほうが嬉しい。

長く生きてほしい。

その気持ちを否定する必要はない。

でも、長く生きることだけが、その命の幸福を決めるわけでもない。

誰と、どんなふうに生きたのか。

そこにも大きな意味がある。


後悔のないように、なんて本当にできるのだろうか

同じ場面には、

「この子にもあなたにも、後悔のないように。」

(p211より一部引用)

という言葉もある。

「後悔のないように」

簡単に聞こえるけれど、実際にはものすごく難しい。

大切な存在との別れに、本当に後悔がなくなることなんてあるのだろうか。

どれだけ一緒にいても、

もっと遊べばよかった。

もっと撫でればよかった。

もっと散歩へ行けばよかった。

もっと優しくすればよかった。

もっと早く病気に気づけばよかった。

いくらでも「もっと」は出てくる。

一日長く生きても、その一日が終われば「もう一日」と願う。

大切だからこそ、終わってほしくない。

だから僕は、「後悔のないように」という言葉を、完璧な飼い主になれという意味では受け取らなかった。

完璧なんて無理だ。

仕事を優先してしまう日もある。

疲れて遊べない日もある。

面倒だと思う日もある。

看病に疲れる日もある。

それでも、その命のところへ戻ってくる。

名前を呼ぶ。

撫でる。

目を見る。

一緒に歩く。

そばにいる。

後悔を完全になくすことはできなくても、一緒に過ごした時間までなくなるわけではない。


最後に残るのは、「そばにいること」

病気が進めば、人間にできることは少なくなっていく。

最初は治療する。

薬を飲ませる。

病院へ行く。

食べられるものを探す。

少しでも良くなる方法を探す。

でも、どれだけ頑張っても、どうすることもできない瞬間は来る。

作中には、

「ただ、そばにいること。」

(p268より一部引用)

という言葉がある。

何もできない。

ただそばにいる。

一見すると、無力に見える。

でも、本当にそうなのだろうか。

犬にとって一番好きな人がそばにいる。

声が聞こえる。

匂いがする。

触れてくれる。

それは「何もしていない」ことなのだろうか。

人間は、何かをしてあげなければ価値がないと思ってしまう。

治す。

助ける。

問題を解決する。

でも、解決できないこともある。

そんなとき、最後に残るのが「そばにいること」なのかもしれない。

できることがなくなったから仕方なくそばにいるのではない。

そばにいること自体が、最後までできることなのだ。


昔、一緒に暮らしていた猫のことを思い出した

この本を読んでいる間、僕は昔一緒に暮らしていた猫のことを何度も思い出した。

何か特別な出来事を思い出したわけではない。

むしろ、思い浮かんだのは何でもない日常だった。

同じ家にいたこと。

寝ていたこと。

ご飯を食べていたこと。

近くにいたこと。

そんな時間。

当時は、それが特別なものだなんて思っていなかった。

毎日いる。

明日もいる。

だから、いちいち「今、一緒にいることはすごいことだ」なんて考えない。

でも、いなくなってから振り返ると、その「何でもない時間」こそが大きかったことに気づく。

そして考える。

もっと一緒にいればよかった。

もっと遊んであげればよかった。

もっと何かできたんじゃないか。

過去は変えられないのに、過去の中に「できたかもしれないこと」だけはいくらでも作れる。

だから後悔には終わりがない。

でも『一分間だけ』を読んで、少し違うことを思った。

「もっと一緒にいればよかった」だけではなく、「一緒にいられた時間があった」ことを大切にしてもいいのではないか。

僕たちが何気なく過ごしていた一日も、あの子にとっては人生の一日だった。

そして僕にとっても人生の一日だった。

完璧な一日ではなかっただろう。

もっとできたこともあったと思う。

それでも、一緒にいた。

同じ時間を生きた。

その事実は消えない。

そう考えると、思い出す気持ちが少しだけ変わる。

「もっと一緒にいればよかった」だけではなく、

「一緒にいられてよかった」

と思える。

後悔がなくなるわけではない。

でも、後悔だけで思い出を埋め尽くさなくてもいい。

それを、この小説に教えてもらった気がする。


リラがいたから見えた世界がある

物語の終盤には、リラがいなければ、この世界の美しさをこれほど感じられただろうかと藍が考える場面がある。

ここも、とても好きだった。

犬と暮らすというと、人間が犬に何かを与える側だと思いがちだ。

ご飯をあげる。

家を与える。

散歩へ連れていく。

病院へ連れていく。

世話をする。

でも実際には、人間の側もたくさんのものをもらっている。

犬が散歩へ行きたがったから外へ出た。

そのおかげで季節の変化に気づいた。

犬が立ち止まったから、自分も立ち止まった。

そのおかげで道端の小さなものに気づいた。

犬がこちらを見たから、こちらも見た。

犬が楽しそうだから、自分も笑った。

それまで何でもなかった道が、「一緒に歩いた道」になる。

何でもなかった公園が、「よく遊んだ公園」になる。

何でもなかった朝が、「一緒に迎えた朝」になる。

世界そのものは何も変わっていない。

変わったのは、その世界を見る自分のほうだ。

大切な存在とは、自分の世界に新しい意味を増やしてくれる存在なのかもしれない。

だから、いなくなったあとも、その意味は残る。

リラがいなくなったとしても、藍の世界は「リラと出会う前の世界」には戻らない。

一緒に見た景色があるからだ。

作中には、

「リラと一緒に、これからも。」

(p298より一部引用)

という思いが描かれる。

僕はここが、この作品の大きな核だと思った。

「忘れない」だけではない。

一緒に歩いていく。

もちろん、本当に隣を歩いているわけではない。

触ることもできない。

声を聞くこともできない。

それでも、その存在によって変わった自分が、これからも生きていく。

だったら、自分の生き方の中に、その存在は残っている。

忘れなくていい。

無理に過去にしなくてもいい。

一緒にいた時間を持ったまま、歩いていけばいい。


『一分間だけ』というタイトルの意味

一分間。

六十秒。

時計だけを見れば短い。

ぼーっとしていたら終わる。

スマホを見ていたら終わる。

信号を待っていても終わる。

僕たちは、一分間をほとんど意識せずに使っている。

でも、時間の価値は本当に時計だけで決まるのだろうか。

一分間、大切な人と話す。

一分間、犬を撫でる。

一分間、猫が隣で眠っている。

一分間、誰かの手を握る。

同じ六十秒でも、まったく違う。

記憶だって、時間の長さに比例しない。

何時間も過ごした一日のことをほとんど覚えていないのに、たった数秒の出来事を何年経っても覚えていることがある。

言われた一言。

目が合った瞬間。

何気ない仕草。

最後に見た表情。

その瞬間だけが、ずっと残る。

だったら、一分間を「短い」と決めているのは時計だけなのかもしれない。

心にとっての一分間は、もっと長い。

場合によっては、一生残る。

そう考えると、この小説のタイトルはとても美しくて、同時に切ない。

「一分間だけ」。

あと一分。

たった一分。

でも、その一分が永遠になることもある。


世界は何も変わらない。それなのに、すべてが変わる

物語の最後には、こんな言葉がある。

「その一分間に、世界は何一つ変わらなかった。それなのに、すべてが変わった。」

(p299より引用)

この言葉まで読んで、『一分間だけ』というタイトルの意味が自分の中でつながった。

風が吹く。

夕陽が落ちる。

鳥が空を渡る。

世界はいつも通りだ。

誰かが大切な存在を失ったからといって、地球が止まるわけではない。

電車は走る。

店は開く。

誰かは笑っている。

誰かは仕事をしている。

世界から見れば、何も変わっていない。

でも、一人の人間にとっては世界が変わる。

昨日までいた存在がいない。

さっきまで触れられた命に、もう触れられない。

たった一分前と、一分後。

時計の上ではほとんど同じだ。

でも、その二つの時間の間には、とても大きな境界がある。

最期の一分間には、それまで一緒に生きた時間まで詰まっているのかもしれない。

初めて会った日。

初めて抱いた日。

名前を呼んだ日。

一緒に歩いた道。

待っていてくれた時間。

何でもなかった朝。

何でもなかった夜。

そのすべてが、一分間につながっている。

だから、一分間は短くない。

大切な存在と過ごす一分間は、ただの六十秒ではない。


『一分間だけ』は、喪失の物語ではなかった

読み始めたとき、僕はこの作品を「犬との別れを描いた小説」だと思っていた。

そして、きっと泣くと思っていた。

実際に泣いた。病気の場面は苦しかった。看病する藍の姿も苦しかった。「死を願った」という言葉には胸を刺された。延命治療についても考えた。最後はもちろん悲しかった。

でも、読み終えたあとに残ったものは悲しみだけではなかった。

むしろ、

一緒に歩けてよかった。

という気持ちだった。

リラがいたから見えた景色がある。リラがいたから感じられた風がある。リラがいたから立ち止まった時間がある。

命を迎えるということは、かわいい部分だけを受け取ることではない。病気になれば看病がある。仕事との両立に苦しむ。疲れる。逃げたくなる。それでも、そばにいる。

そして最後が来たあとも、その命からもらったものを持って生きていく。

昔一緒に暮らしていた猫のことを思い出す。

もっと一緒にいればよかった。

その気持ちは、これからも消えないと思う。

でも、その隣に、

一緒にいられてよかった。

という気持ちも置いておきたい。

同じ家にいた。同じ時間を生きた。何でもない毎日があった。それは、もう誰にも消すことができない。

大切な存在がいなくなっても、一緒にいた時間までなくなるわけではない。その存在によって見えるようになった景色がある。その存在によって変わった自分がいる。

「忘れない」というより、「連れていく」に近いのかもしれない。

思い出を過去に置いてくるのではなく、その思い出を持った自分で、この先も生きていく。

一日が始まる。一日が終わる。

何も特別なことが起こらない日もある。

でも、大切な存在がそばにいるなら、その「何も起きなかった一日」も、いつか振り返ればかけがえのない一日になる。

いつかいなくなるから大切なのではない。

今、ここにいるから大切なのだ。

名前を呼べる。触れられる。一緒に歩ける。振り返れば、そこにいる。

その一分間がある。

僕はこの本を、犬との別れを描いた物語だと思って読み始めた。

でも読み終えた今は、そうは思わない。

これは、別れだけの物語ではない。

一緒に生きた時間を抱えながら、その先を生きていく物語だ。

だから僕にとって、『一分間だけ』は喪失の物語ではなかった。

大切な存在と、この先もずっと一緒に歩いていく物語だった。

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