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職場のプレゼント代・お祝い金の徴収がうざい。なんでみんなで?

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職場にいると、ときどき500円を失う。

自動販売機でボタンを押し間違えたわけではない。

財布に穴が空いているわけでもない。

誰かがやってくるのだ。

「○○さんが結婚するので、みんなでプレゼントを贈ろうと思ってます。一人500円お願いします」

そうか。

結婚するのか。

それはめでたい。

おめでとう。

心からそう思う。

ただ、一つだけ聞かせてほしい。

僕はいつ、そのプレゼント企画に参加したのだろう。

気づいたときには参加者になっている。

プレゼントを贈ることも決まっている。

金額も決まっている。

場合によっては、もう買うものまで決まっている。

あとは僕が財布から500円を出すだけ。

僕の意思が入り込む隙がない。

いや、500円くらい払える。

500円を払ったところで、明日のご飯がなくなるわけではない。

でも、そういう問題ではない。

なぜ僕の500円の使い道を、僕以外の人が決めているのだ。

今回は、職場でたびたび発生する「みんなでプレゼントを贈りましょう」という文化について考えてみたい。

先に結論を言ってしまう。

有志でやってくれ。

本当に、それだけなのである。

目次

結婚とか、お子さんが生まれたとか、退職とか

職場では、ときどきお祝いごとが発生する。

誰かが結婚した。

お子さんが生まれた。

長く働いていた人が退職する。

異動する人もいる。

職場によっては誕生日まで祝うかもしれない。

どれも悪いことではない。

結婚したなら、おめでとう。

お子さんが生まれたなら、おめでとう。

退職するなら、お疲れさまでした。

僕だって、それくらいは思う。

問題は、その少しあとである。

どこからともなく、職場に一人はいる「あの人」が現れる。

「せっかくなので、みんなで何かプレゼントしません?」

この人の行動力はすごい。

プレゼントを考える。

予算を考える。

誰かと相談する。

買いに行く。

ラッピングする。

場合によってはメッセージカードまで用意する。

僕にはなかなかできない。

誰かを喜ばせるためにそこまで動けるのは、素敵なことだと思う。

ただし。

僕まで動かさないでほしい。

あなたがプレゼントを贈りたい。

いいじゃないか。

ぜひ贈ってほしい。

好きなものを選んで、好きなだけ祝ってほしい。

しかし、

「私はプレゼントを贈りたい」

から、

「だから、みんなで贈ろう」

までの間に、とんでもないジャンプが発生している。

なぜ「みんな」が出てきた。

あなたの「祝いたい」が、いつの間にか僕の「祝いたい」にまで拡張されている。

僕はまだ何も言っていない。

祝いたい人は、言われなくても勝手に祝う

そもそも、本当にその人をお祝いしたい人は、職場から言われなくても何かすると思う。

プレゼントを渡したければ渡す。

ご飯をごちそうしたければ、ごちそうする。

仲のいい数人で何かしたければ、そうすればいい。

「おめでとう」と一言伝えるだけでもいい。

人によって、お祝いの仕方は違う。

そして、お祝いしたいと思わない人だっている。

それも別に悪いことではないと思う。

同じ職場で働いているからといって、全員が仲良しなわけではない。

仕事上の付き合いしかない人もいる。

ほとんど話したことのない人もいる。

名前と顔が一致する程度の人だっている。

それなのに、お祝いになると突然、

「職場のみんなは同じ気持ちです」

みたいなことになる。

そんなわけがない。

人間関係には濃淡がある。

ものすごく仲のいい人もいれば、普通の同僚もいる。

ほとんど接点のない人もいる。

少し苦手な人だっているだろう。

それが自然だ。

むしろ職場の全員が同じくらい仲良しだったら怖い。

だから、お祝いだって人によって違っていい。

5000円のプレゼントを渡したい人は渡せばいい。

500円くらいなら一緒に出したい人もいるだろう。

言葉だけ伝えたい人もいる。

何もしない人もいる。

それでいいではないか。

お前、僕とその人の関係性を知らんやろ

僕が特に不思議なのはここだ。

プレゼント代を徴収してくる人は、僕とお祝いされる人の関係性をどれくらい知っているのだろう。

たぶん、ほとんど知らない。

毎日話すほど仲がいいかもしれない。

仕事以外でも会っているかもしれない。

逆に、ほとんど喋ったことがないかもしれない。

過去に何かあって、必要最低限の会話しかしない関係かもしれない。

僕はすでに個人的なプレゼントを用意しているかもしれない。

何も知らないはずだ。

なのに、

「一人500円お願いします」

金額だけは決まっている。

親密度:不明。
交流頻度:不明。
個人的に祝う予定:不明。
すでにプレゼントを渡したか:不明。
徴収額:500円。

最後だけ異様にはっきりしている。

どういうシステムなのだ。

人間関係なんて、一人ひとり違う。

だったら、お祝いだって一人ひとり違って当然だと思う。

僕とその人の関係性は、僕とその人のものだ。

第三者が勝手に「この二人の関係なら500円」と査定しないでほしい。

しかも査定すらしていない。

全員500円だ。

人間関係のサブスクか。

お祝いしたくない人だけを巻き込んでいるわけではない

こういう話をすると、

「そんなにプレゼント代を払いたくないの?」

と思われるかもしれない。

でも実は、この仕組みはお祝いしたくない人だけを巻き込んでいるわけではない。

お祝いしたい人まで巻き込んでいる。

僕がその人とものすごく仲がよかったとする。

退職すると聞いて、個人的に3000円くらいのプレゼントを用意しようと思っていた。

そこへ、

「みんなでプレゼントを贈るので500円お願いします」

がやってくる。

いや、僕は僕で祝おうと思っていたのだ。

なぜ急に「みんな」の一部にならなければならない。

もちろん、みんなのプレゼントにも参加して、個人的にも渡せばいい。

でも、それを決めるのも僕である。

つまり「みんなでお祝い」は、

祝いたくない人には「参加してください」と迫り、

自分で祝いたい人には「こちらの祝い方にも参加してください」と迫っている。

どちらにしても、個人のお祝いの仕方に介入している。

だから僕は、

祝いたい人は勝手に祝えばいい

と思う。

少し冷たく聞こえるかもしれない。

でも僕は、むしろそのほうがお祝いとして自然だと思っている。

自分が祝いたい。

だから祝う。

誰かに言われたからではない。

周りがやっているからでもない。

それでいい。

「みんなで」という言葉が強すぎる

僕は「みんなで」という言葉が少し苦手だ。

「みんなでプレゼントを贈りましょう」

「みんなで寄せ書きをしましょう」

「みんなで送別会をしましょう」

「みんなで写真を撮りましょう」

みんな。

なんて便利な言葉なのだろう。

まだ一人ひとりに確認していないのに、言った瞬間に全員が参加者になる。

そして参加したくない人だけが、

「僕はちょっと……」

と「みんな」から抜けなければならない。

最初から入ると言っていないのに。

「有志でプレゼントを贈ります」

なら、僕は何とも思わない。

そこにはまだ「みんな」が存在していないからだ。

参加したい人が集まって、初めてグループになる。

ところが「みんなで」と言った瞬間、先にグループが完成する。

そして不参加者だけが、そこから退出することになる。

この違いは大きい。

僕は勝手にグループへ追加されたくない。

LINEグループですら一言ほしい。

ましてや500円が必要なグループなら、なおさらである。

「500円くらい」が絶妙に断りにくい

そして、この文化を厄介にしているのが金額である。

だいたい500円。

これが絶妙なのだ。

5000円なら断れる。

「いや、それはちょっと高いです」

と言いやすい。

1万円なら、さすがに徴収する側も事前に参加するか確認するだろう。

ところが500円。

払えない金額ではない。

だから断りにくい。

「○○さんのプレゼント代、500円お願いします」

「すみません。僕は払いません」

これを職場で言える人がどれだけいるだろう。

言えなくはない。

別に悪いことをしているわけでもない。

しかし、なんとなく空気が重くなる。

「えっ、500円なのに?」

とは言われなくても、こちらの頭の中で勝手に聞こえてくる。

そして、なぜか説明したくなる。

「いや、○○さんのことが嫌いなわけじゃなくて……」

「500円が惜しいわけでもなくて……」

待ってくれ。

なんで僕が弁明しているのだ。

僕はまだ参加すると言っていない。

本来なら「参加しない」がゼロ地点だったはずだ。

ところが全員参加を前提にされると、不参加の人だけが意思表示をしなければならなくなる。

これが断りにくさの正体だと思う。

任意なら「参加したい人」が手を挙げればいい

「でも強制じゃないでしょ。嫌なら断ればいいじゃん」

そう思う人もいるだろう。

確かにその通りだ。

本当に強制徴収されているわけではなく、断ろうと思えば断れる職場も多いと思う。

でも僕は、そもそもの順番が逆だと思っている。

全員に、

「500円お願いします。嫌な人は言ってください」

ではなく、

「有志でプレゼントを贈ります。参加したい人は500円お願いします」

でいい。

似ているようで、全然違う。

前者は、不参加の人が手を挙げなければならない。

後者は、参加したい人が手を挙げる。

お祝いというものが自主的な気持ちから生まれるのなら、どう考えても後者のほうが自然だ。

祝いたい。

だから参加する。

これなら何もおかしくない。

参加しない人は何もしなくていい。

わざわざ、

「僕は今回のお祝いには参加しません」

と宣言する必要もない。

誰も嫌な思いをしない。

なぜこんな簡単な仕組みにしないのだろう。

500円でも、積もれば結構な金額になる

そして「500円くらい」という言葉について、もう一つ言いたい。

一回なら500円だ。

確かに大した金額ではないかもしれない。

でも職場には人がいる。

人がいれば、人生がある。

結婚する。

お子さんが生まれる。

異動する。

退職する。

また結婚する人が出てくる。

また退職する人が出てくる。

そのたびに500円。

月に一回なら年間6000円だ。

月に二回なら1万2000円になる。

ときには、

「今回は長く勤めてくださった方なので、一人1000円で」

などという特別ステージまで始まるかもしれない。

そうなると、もう「たった500円」ではない。

年間6000円あれば、本を何冊か買える。

ちょっといいご飯も食べられる。

自分が本当にお祝いしたい人のために使うこともできる。

もちろん6000円を高いと思わない人もいるだろう。

それも自由だ。

でも重要なのは金額ではない。

自分のお金を何に使うかは、自分で決めたい。

僕が言いたいのはそれだけだ。

100円なら勝手に決めていいわけでもない。

50円ならいいわけでもない。

少額であることと、本人の意思を確認しなくていいことは、まったく別の話だ。

そもそも、もらう側はそれを望んでいるのだろうか

そして、もう一つ気になることがある。

プレゼントをもらう本人は、本当に「職場のみんなから」を望んでいるのだろうか。

もちろん、もらったらうれしい人は多いと思う。

自分のためにプレゼントを用意してくれた。

それはうれしい。

でも、もし僕がお祝いされる側なら少し気になる。

「職場のみんなからです」

と言われて、

「ありがとうございます!」

と受け取る。

そしてあとから、

「一人500円ずつ集めたらしいよ」

と知る。

僕なら少し申し訳なくなる。

えっ、あの人からも取ったの?

ほとんど喋ったことないけど。

あの人からも?

この前入ったばかりだけど。

全員から?

僕のために?

なんだか急にプレゼントが重くなる。

もちろん、これは僕の感覚でしかない。

「みんなから祝ってもらえてうれしい」と感じる人もいるだろう。

それはそれでいい。

ただ、少なくとも「もらう側は絶対にうれしい」という前提で全員からお金を集める必要はないと思う。

お祝いする側の善意が大きくなりすぎて、受け取る側まで気を遣う。

それでは少しもったいない。

僕がお祝いされる側なら、何もいらない

ここまで書いて、

「自分のときは喜んでもらうんだろ」

と思われるのも嫌なので、はっきり書いておきたい。

僕がお祝いされる側になっても、職場のみんなからお金を集めてプレゼントを買ってもらわなくていい。

結婚したとしても。

何かのお祝いがあったとしても。

退職するとしても。

いらない。

「おめでとう」

「お疲れさまでした」

それで十分だ。

仲のいい人が個人的に何かしてくれるなら、もちろんありがたく受け取る。

でも、職場の二十人から500円ずつ集めて一万円のプレゼントを用意してもらうくらいなら、その500円はそれぞれ自分のために使ってほしい。

コーヒーを飲んでもいい。

お菓子を買ってもいい。

本を買う足しにしてもいい。

帰りにちょっといいアイスでも買ってくれ。

僕の退職を理由に、知らないところで徴収イベントを開催しないでほしい。

僕が知らない間に、僕のせいで500円を失っている人がいる。

そんなの嫌だ。

だから僕は「自分は払いたくないけど、自分のときは欲しい」と言っているわけではない。

僕のときもやらなくていいから、あなたのときも自由にさせてくれ。

これで平等だ。

本当に「職場一同」にしたいなら、上司が全部払ってくれ

プレゼントには、ときどきこう書かれている。

「○○職場一同」

なるほど。

職場一同。

どうしても「職場として」お祝いしたいのなら、一つ提案がある。

上司が全部払ってくれ。

5000円のプレゼントを買う。

上司が5000円払う。

そして、

「職場一同より」

と書く。

完成である。

僕も一同に入っている。

知らない間に入っているが、財布の500円は無事だ。

これなら平和だ。

もちろん、本当に会社としてお祝いする制度があるなら、会社の予算から出せばいい。

職場として贈るなら職場のお金。

個人的に贈るなら個人のお金。

何人かで贈りたいなら有志のお金。

この区別でいいと思う。

なぜか現実では、

「有志っぽい雰囲気をまとった全員参加」

という謎の第四勢力が生まれる。

僕が苦手なのはこれである。

プレゼント代・お祝い金を断りたいときはどうする?

とはいえ、現実には徴収イベントがやってくる。

では、参加したくないときはどうすればいいのか。

僕は、長々と理由を説明する必要はないと思う。

「今回は遠慮しておきます」

基本的にはこれでいい。

本当に個人的にお祝いする予定があるなら、

「個人的にお祝いする予定なので、今回は大丈夫です」

でもいいだろう。

大切なのは、無理に理由を作らないことだと思う。

「今月ちょっとお金がなくて」

などと言ってしまうと、次回また徴収される。

お金がある月なら参加する、という話ではないからだ。

ただ、ここまで書いておいて何だが、僕自身、この手のものが断りにくいことはよく分かる。

500円を払ったほうが早い。

職場の空気も乱れない。

説明もしなくていい。

だから払ってしまう。

そして500円を渡しながら心の中で思う。

なんで払ってんねん、僕。

だからこそ、徴収する側にお願いしたい。

断り方を工夫させるのではなく、最初から断らなくてもいい仕組みにしてほしい。

「参加したくない人は言ってください」

ではない。

「参加したい人は言ってください」

これだけでいい。

善意は、自分からやるから気持ちいい

僕は、誰かをお祝いする文化そのものをなくしてほしいわけではない。

人の結婚を喜ぶ。

お子さんが生まれたことを祝う。

一緒に働いてきた人の退職を惜しむ。

どれも素敵なことだと思う。

プレゼントを企画する人だって、おそらく悪気なんてない。

むしろ優しい人なのだと思う。

誰かのために時間を使い、何を贈れば喜んでもらえるか考え、買いに行く。

僕にはなかなかできない。

だから、その気持ちを否定したいわけではない。

ただ、

あなたの善意に、僕まで自動的に参加させないでほしい。

と思う。

自分から500円を出す。

「僕も参加したいです」と言って500円を渡す。

それなら気持ちがいい。

同じ500円なのに、

「一人500円お願いします」

と言われて渡す500円とは、僕の中では全然違う。

お金の価値は同じでも、そこに自分の意思があるかどうかが違う。

善意というのは、自分からするから気持ちがいいのだと思う。

「みんなやっているから」

「同じ職場だから」

「500円くらいだから」

そんな理由で参加するお祝いは、少なくとも僕にとっては少し違う。

お祝いは有志でいい。というか、有志がいい

結局、僕が言いたいことはとても単純だ。

お祝いしたい人は、お祝いすればいい。

プレゼントを渡したい人は、渡せばいい。

何人かでお金を出し合いたいなら、それもいい。

ただし、

有志で。

それだけだ。

「○○さんにプレゼントを贈ろうと思っています。参加したい方は500円お願いします」

これなら僕は何も思わない。

参加したければ500円を出す。

個人的に祝いたければ個人的に祝う。

特に何もしないなら何もしない。

それぞれが、自分とその人との関係性に合わせて決めればいい。

そもそも、お祝いしたいという気持ちがある人は、誰かに言われなくても勝手にする。

したくない人はしない。

そして、そのどちらも間違っていない。

人間関係の濃さは、一人ひとり違うのだから。

僕は、お祝いをなくしてほしいわけではない。

むしろ、お祝いをちゃんと個人の気持ちに戻してほしい。

誰かに言われたから祝うのではなく、自分が祝いたいから祝う。

そのほうが、ずっと気持ちがいい。

だからお願いだ。

あなたが誰かをお祝いしたい。

その気持ちは素晴らしい。

ぜひ大切にしてほしい。

プレゼントも好きなものを選んでほしい。

盛大に祝ってくれて構わない。

きっと相手も喜ぶと思う。

ただし最後に、一つだけ。

僕の500円まで連れていかないでくれ。

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