職場には、休憩室がある。
休憩するための部屋だ。
名前からして、これ以上ないほど分かりやすい。
会議室は会議をするところ。更衣室は着替えるところ。そして休憩室は、休憩するところ。
何も難しいことはない。
僕も仕事の休憩時間になると、最初は普通に休憩室へ行っていた。
そこで本を読む。
僕は仕事の休憩時間に本を読むことが多い。まとまった時間があるし、仕事から頭を切り離すのにもちょうどいい。
椅子に座って、本を開く。
さあ、休憩だ。
……と思う。
ところが、なかなか休憩が始まらない。
まず、人がいる。
当たり前である。
休憩室なのだから、休憩する人がいる。
それは分かっている。
分かっているのだけれど、知らない人が普通に隣に座っている。
同じ職場ではある。
同じ建物の中で働いている。
だから厳密に言えば、完全な他人ではないのかもしれない。
でも、知らない。
名前も知らない。
何の仕事をしているのかもよく知らない。
今日初めて見たかもしれない。
そんな人が、すぐ隣にいる。
僕は本を読む。
隣には知らない人がいる。
本を読む。
知らない人がいる。
別に何もしてこない。
こちらを見ているわけでもない。
それでも、人間というものは不思議なもので、そこに誰かがいるだけで多少は意識してしまう。
足を組み替えれば視界に入る。
立ち上がれば気づく。
咳をすれば聞こえる。
袋を開ければ音がする。
誰とも喋っていない。
でも、一人ではない。
僕はこのとき初めて、
「誰とも喋っていないこと」と「一人でいること」は、全然違うのだと知った。
休憩室は、意外とうるさい
そして休憩室には、音がある。
これも当然だ。
みんな休憩しているのだから、好きなことをしている。
スマホを見ている人もいる。
動画を見ている人もいる。
それ自体は何もおかしくない。
ただ。
音が出ている。
動画の音が普通に流れている。
僕は本を読んでいる。
文章を追っている。
物語の中に入ろうとしている。
その横から、
笑い声。
音楽。
誰かの喋り声。
動画の効果音。
知らないYouTuberらしき人の声。
こちらは一文字も頼んでいないのに、次々と耳へ入ってくる。
本というのは不思議なもので、目で文字を読んでいるだけなのに、意外と耳も使っているらしい。
周囲がうるさいと、文章が頭に入ってこない。
同じ一文を二回読む。
三回読む。
「あれ、今どこ読んでたっけ」
となる。
そしてようやく物語に戻ったころ、
今度は誰かが喋りかけてくる。
「今日は忙しいですねー」
そうか!
どうでもいい。
もちろん、そんなことは口には出さない。
僕にも一応、社会性は残っている。
「そうですねー」
くらいは返す。
でも心の中では思っている。
今、僕は本を読んでいた。
忙しいかどうかについて考えてはいなかった。
というより、休憩に入ったのだから、もう仕事が忙しいかどうかなんてどうでもいい。
仕事中ならいい。
「今日忙しいですね」
「忙しいですね」
大いに結構。
なぜなら仕事中だからだ。
でも、今は休憩中である。
せっかく仕事から離れたのに、なぜ休憩時間まで仕事の話をしなければならないのだろう。
僕は今、物語の中にいたのだ。
主人公と一緒に知らない街を歩いていたかもしれない。
北海道を旅していたかもしれない。
高校生と一緒に吹奏楽をしていたかもしれない。
誰かが殺された直後だったかもしれない。
そこへ突然、
「今日は忙しいですねー」
現実。
強制送還である。
僕は職場へ戻ってくる。
そうか。
忙しいのか。
どうでもいい。
カップ焼きそばを作り出す者
休憩室を侮ってはいけない。
攻撃は耳だけではない。
しばらくすると、カップ焼きそばを作り出す人が現れる。
もちろん昼休みなのだから、カップ焼きそばくらい食べればいい。
何も悪くない。
むしろカップ焼きそばはうまい。
僕だって食べる。
しかし、本を読んでいる横でカップ焼きそばの製造工程が始まると、なかなか存在感がある。
お湯を入れる。
待つ。
湯を切る。
ソースを入れる。
混ぜる。
そして完成。
その瞬間。
休憩室全体が焼きそばになる。
強い。
カップ焼きそばは強い。
数メートル離れていても分かる。
こちらが読んでいる小説に焼きそばは一切登場していないのに、脳内には焼きそばがいる。
物語の主人公が海を眺めていても、焼きそば。
恋人と別れていても、焼きそば。
人類の存在について考えていても、焼きそば。
嗅覚というものは、文字より強い。
そしてカップ焼きそばだけではない。
ある日、
サバ缶を召喚する者まで現れた。
プシュッ。
開いた。
サバが、この世界に解き放たれた。
別にいい。
サバは悪くない。
サバ缶を食べている人も悪くない。
休憩室なのだから、好きなものを食べればいい。
誰も悪くない。
しかし、僕の鼻は休んでいない。
そこで気づいた。
知らない人が隣にいる。
視覚。
動画の音が流れている。
聴覚。
カップ焼きそば。
サバ缶。
嗅覚。
視覚、聴覚、嗅覚。すべてがやられる。
僕は椅子に座っている。
仕事はしていない。
身体は確かに止まっている。
なのに、目と耳と鼻は働き続けている。
これで休憩って、
嘘だろう?
そもそも休憩とは何なのだろう
考えてみれば、「休憩」という言葉はかなり曖昧だ。
仕事をしていなければ休憩なのだろうか。
椅子に座っていれば休憩なのだろうか。
タイムカード上で「休憩」と表示されていれば、人間は自動的に休めるのだろうか。
そんなわけはない。
身体を止めていても、頭が仕事のことを考えていれば休まらない。
椅子に座っていても、周囲の音にずっと反応していたら疲れる。
スマホを見ていれば、目からは次々と情報が入ってくる。
誰かと話していれば、相手の言葉を聞いて、自分の言葉を考える。
僕たちは仕事をしている間、ずっと何かを受け取っている。
人の声。
足音。
機械の音。
指示。
視線。
会話。
通知。
情報。
そして休憩時間になる。
そこでまた動画を見る。
誰かと喋る。
スマホを見る。
目と耳には、さらに情報が入ってくる。
ふと思った。
彼らは、本当に休憩できているのだろうか。
動画を見ている人。
誰かと楽しそうに喋っている人。
カップ焼きそばを食べている人。
サバ缶を召喚した人。
もちろん、できているのかもしれない。
いや、たぶんできている人も多いのだと思う。
人によって休み方は違う。
誰かと話すことで回復する人もいる。
好きな動画を見ることで仕事のことを忘れられる人もいる。
おいしいものを食べることが何よりの休憩になる人もいる。
カップ焼きそばを食べて、
「よし、後半も頑張ろう」
と思えるなら、それは立派な休憩だ。
サバ缶だってそうだ。
だから、僕の休み方が正しいと言いたいわけではない。
ただ、僕には合わなかった。
僕にとって休憩とは、何かを追加することではないらしい。
動画を見る。
音楽を聴く。
誰かと話す。
何かを食べる。
そうやって楽しいものを足していくよりも、
入ってくるものを減らしたい。
音を減らす。
人を減らす。
会話を減らす。
情報を減らす。
そうしてようやく、僕の頭は休憩を始める。
どっか、いいところないかなあ
そんなことを考えながら、僕は休憩室にいた。
今日も人がいる。
今日も音がする。
本を開く。
集中できない。
はあ。
嫌やなあ。
どっか、いいところないかなあ。
職場の中で、一人になれる場所。
静かな場所。
誰も来ない場所。
外へ出るのは面倒くさい。
トイレで本を読むのも何か違う。
空いている部屋を勝手に使うわけにもいかない。
どこかないかな。
考えた。
そして、ふと思った。
そうだ。非常階段とか、いいんじゃね?
非常階段。
普段、誰も使っていない。
少なくとも僕は、そこを頻繁に人が歩いているところを見たことがない。
行ってみよう。
僕は本を持って、非常階段の扉を開けた。
そして、
びっくりした。
無音だった。
本当に、何も聞こえない。
さっきまで人の声があった。
動画の音があった。
物音があった。
扉が開いたり閉まったりしていた。
それが、扉一枚隔てただけで消えた。
シーン。
という擬音すら、うるさく感じるくらいだった。
ただ静かなのではない。
無音。
僕はその場に立って、少し驚いた。
こんな場所、職場にあったんだ。
毎日のように働いている建物なのに知らなかった。
ほんの少し歩いて、扉を一枚開けただけ。
そこに、音のない空間があった。
そして、
誰もいない。
これがまたいい。
知らない人が隣にいない。
誰かが入ってくる気配もほとんどない。
動画も流れていない。
「今日は忙しいですねー」も飛んでこない。
カップ焼きそばも作られない。
サバ缶も召喚されない。
視覚。
静か。
聴覚。
無音。
嗅覚。
平和。
なんだここ。最高じゃないか。
非常階段で本を開く
僕はそこで本を開いた。
読んでみる。
読める。
ものすごく読める。
文章がそのまま頭に入ってくる。
ページをめくる音が聞こえる。
こんなにページをめくる音って聞こえるものなのかと思った。
本というのは静かなものだ。
音が鳴らない。
光らない。
通知も来ない。
勝手に次のページへ進まない。
自分で読まなければ、何も起こらない。
だから、無音の非常階段と妙に相性がいい。
休憩室では、こちらが望んでいなくても情報が入ってきた。
人が見える。
声が聞こえる。
匂いがする。
誰かに話しかけられる。
僕には選べない。
でも非常階段では違う。
何も入ってこない。
そこで本を開く。
すると、自分が選んだ物語だけが入ってくる。
これが気持ちよかった。
自分に入ってくる情報を、自分で選べる。
たぶん僕が欲しかったのは、単なる静けさだけではなかったのだと思う。
何もこちらに要求してこない時間だった。
返事をしなくていい。
反応しなくていい。
誰かを意識しなくていい。
聞きたくない音を聞かなくていい。
見たくないものを見なくていい。
ただ本を読む。
それだけ。
僕はそこで初めて、
「ああ、休憩してるな」
と思った。
快適な場所と、落ち着く場所は違う
よく考えると、非常階段なんて快適な場所ではない。
休憩するために作られていない。
ふかふかのソファがあるわけでもない。
おしゃれな照明があるわけでもない。
BGMもない。
飲み物も売っていない。
内装だって殺風景だ。
コンクリート。
階段。
壁。
扉。
以上。
休憩室のほうが設備としては圧倒的に優れている。
椅子がある。
机がある。
空調もある。
飲食もできる。
「こちらでお休みください」と言わんばかりの環境が整っている。
でも僕は、非常階段のほうが落ち着く。
そこで気づいた。
快適な場所と、落ち着く場所は同じではない。
人間は、設備が充実していれば休めるわけではないらしい。
高級な椅子があっても、人がたくさんいれば落ち着かないことがある。
何もない階段でも、誰もいなければ落ち着くことがある。
もしかすると僕にとって「落ち着く場所」を決めているのは、そこに何があるかではなく、
そこに何がないか
なのかもしれない。
人がいない。
音がない。
会話がない。
余計な情報がない。
何もない。
だから、いい。
世の中は「あること」を価値にしがちだ。
便利なものがある。
楽しいものがある。
サービスがある。
設備がある。
刺激がある。
でも、ときどき「ないこと」にも、ものすごい価値がある。
非常階段には何もない。
だからこそ、僕はそこで休める。
「一人になりたい」は、人が嫌いという意味ではない
「休憩時間くらい一人になりたい」
と言うと、人付き合いが嫌いなのかと思われるかもしれない。
でも、そういう話でもない。
仕事中は普通に人と話す。
必要なら会話する。
誰かに話しかけられること自体が嫌なわけでもない。
ただ、
ずっと人のいる空間にいる必要はないと思っている。
仕事中に人と関わる。
それなら休憩くらい、一人でいてもいい。
むしろ僕の場合、そのほうが回復する。
人と話すことで元気になる人もいる。
一人になることで元気になる人もいる。
どちらが正しいという話ではない。
同じ「休憩」という言葉を使っていても、中身は全然違うのだ。
誰かにとっては、
「同僚と喋る時間」
なのかもしれない。
誰かにとっては、
「動画を見る時間」
なのかもしれない。
誰かにとっては、
「カップ焼きそばを食べる時間」
なのかもしれない。
誰かにとっては、
「サバ缶を召喚する時間」
なのかもしれない。
そして僕にとっては、
「誰もいないところで本を読む時間」
だった。
それだけのことだ。
休憩室という同じ箱に、全員の休み方を入れようとするから、ちょっと無理が出る。
喋って休みたい人と、静かに休みたい人。
動画を見たい人と、無音でいたい人。
食事を楽しみたい人と、本を読みたい人。
全員が同じ空間に集まれば、そりゃあ誰かにとっては落ち着かない。
休憩室が悪いわけではない。
そこにいる人が悪いわけでもない。
ただ、
僕の休憩場所は、そこではなかった。
休憩は「何もしない時間」ではないのかもしれない
非常階段で本を読むようになってから、休憩について少し考えるようになった。
休憩とは、何なのだろう。
単に仕事を止めることではない気がする。
僕たちは身体だけで仕事をしているわけではない。
目を使う。
耳を使う。
頭を使う。
人に気を使う。
周囲を気にする。
何かを判断する。
何かに反応する。
仕事中、ずっと外側に向いている。
だから休憩するときくらい、その全部を少し止めてもいい。
僕にとって非常階段が落ち着くのは、
「反応しなくていい場所」だからなのかもしれない。
誰かがいれば、その人が何もしていなくても多少は意識する。
声が聞こえれば、意味を理解してしまう。
動画が流れていれば、聞こうとしていなくても耳に入る。
匂いがすれば、何の匂いか考える。
人間の感覚は勝手に働く。
「今は休憩中なので、入力を停止します」
なんて便利なスイッチはない。
だから、自分から入力の少ない場所へ行く。
非常階段の扉を閉める。
それだけで、世界から入ってくる情報が一気に減る。
僕には、それが休憩だった。
最高の休憩場所を見つけた
こうして僕は、最高の休憩場所を見つけた。
非常階段。
誰もいない。
誰も来ない。
静か。
というより、無音。
そこで本を読む。
今では休憩時間になると、普通にそちらへ向かう。
休憩室に行こうとはあまり思わなくなった。
わざわざ人のいる場所へ行って、
動画の音を聞き、
カップ焼きそばを嗅ぎ、
サバ缶の出現に怯え、
「今日は忙しいですねー」
に、
「そうですねー」
と返す必要はない。
僕には非常階段がある。
ただし、一つだけ問題がある。
ここで休憩していいのかは、知らない。
考えてみれば、非常階段は休憩するための場所ではない。
名前からして明らかだ。
「休憩階段」ではない。
「読書階段」でもない。
非常階段である。
本来は、火災や災害など、何かが起きたときに避難するための場所だ。
そこで呑気に本を読んでいる僕は、用途をかなり間違えている可能性がある。
バレたら怒られるのだろうか。
「そこで休憩しないでください」
と言われるかもしれない。
その可能性はある。
そのときは仕方がない。
僕は本を閉じて、新たな休憩場所を探すことになるだろう。
でも、それまでは。
もう少しだけ、この場所を使わせてほしい。
非常階段は、僕みたいな人の避難場所なのかもしれない
非常階段は、非常時に使う。
火事。
災害。
何か危険なことが起きたとき。
人はそこへ逃げる。
安全な場所へ移動するために。
でも最近、思う。
もしかすると非常階段は、
僕みたいな人たちの避難場所としてもあるのかもしれない。
人が嫌いなわけではない。
職場が嫌いなわけでもない。
誰とも喋りたくないわけでもない。
ただ、ときどき一人になりたい。
何も聞きたくない。
何も見たくない。
誰にも反応したくない。
ほんの少しだけ、外から入ってくるものを止めたい。
そんなときに逃げ込める場所。
休憩室には人がいる。
動画が流れている。
カップ焼きそばが作られている。
サバ缶が召喚されている。
「今日は忙しいですねー」と話しかけられる。
視覚、聴覚、嗅覚。
全部が働いている。
僕にとっては、それも立派な非常事態なのかもしれない。
だから、避難する。
重たい扉を開ける。
非常階段へ入る。
扉が閉まる。
そして、
無音。
誰もいない。
僕は階段に腰を下ろして、本を開く。
ページをめくる音だけがする。
仕事のことを忘れる。
人のことも忘れる。
しばらく物語の中へ行く。
やがて休憩時間が終われば、本を閉じる。
立ち上がる。
扉を開ける。
また音のある世界へ戻っていく。
それでいい。
ずっと一人でいたいわけではない。
ずっと静かな世界にいたいわけでもない。
ほんの少しだけでいいのだ。
一日の途中に、
誰にも何にも邪魔されない時間があればいい。
その時間があるだけで、また戻れる。
そう考えると、
非常階段って、そういう意味だったのか。
……たぶん違う。
でも僕にとっては、今日もここが、
一番静かで、
一番落ち着く、
小さな避難場所である。
