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すっぴんが恥ずかしいのはなぜ?化粧を落とせない心理と「本当の自分」の話。

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すっぴんを見られるのが恥ずかしい。

そんな話を聞くことがある。

好きな人には見せられない。

友達にも見せたくない。

近所のコンビニに行くだけでも、化粧をしなければ落ち着かない。

なるほど。

気持ちは分からなくもない。

しかし、僕はふと思った。

なぜ、自分の顔を見られることが恥ずかしいのだろう。

いや、ちょっと待ってほしい。

自分の顔である。

他人の顔を勝手に借りているわけではない。

何か悪いことをしたわけでもない。

生まれてから、ずっと付き合ってきた顔だ。

朝起きる。

顔を洗う。

鏡を見る。

そこには自分がいる。

当たり前だ。

ところが、その顔のまま外に出るのは恥ずかしいという。

化粧をする。

ファンデーションを塗る。

眉を整える。

目元に色を加える。

唇にも色をのせる。

そして、鏡を見る。

「よし、これで外に出られる」

自分の顔なのに、外出許可が下りないのか。

しかも、誰が許可を出しているのだろう。

自分なのか。

周囲の人間なのか。

それとも、社会なのか。

考えれば考えるほど、不思議な話である。

もちろん、僕は化粧を否定したいわけではない。

メイクが好きな人もいるだろう。

好きな色を使ったり、なりたい雰囲気を表現したりするのは楽しいことだと思う。

服を選ぶのと同じように、化粧を楽しむ自由がある。

それは素晴らしい。

しかし、今回気になっているのは、そこではない。

「化粧をしたい」が、いつの間にか「化粧をしないと人に会えない」に変わってしまうことだ。

好きで始めたことが、義務になる。

自分を美しく見せるために始めたことが、自分の顔を隠すためのものになる。

そして、化粧を落としたとき、恥ずかしくなる。

いったい、何が起きているのだろう。

今回は、すっぴんが恥ずかしいと感じる理由や心理について考えてみたい。

そして最後には、もう少し大きな疑問にたどり着くと思う。

そもそも、本当の自分とは何なのだろう。

目次

すっぴんが恥ずかしいのはなぜ?考えられる心理

まず、すっぴんを見られるのが恥ずかしい理由について考えてみよう。

もちろん、すべての人が同じ理由で恥ずかしがっているわけではない。

化粧をしなくても平気な人もいる。

普段からほとんど化粧をしない人もいる。

だから、ここからは考えられる心理の話である。

① 化粧した顔が「普段の自分」になっているから

僕が最も不思議だと思ったのは、これだ。

毎日化粧をする。

朝起きたら化粧をする。

仕事に行くときも化粧をする。

友達と会うときも化粧をする。

好きな人と会うときも化粧をする。

そうしているうちに、化粧をした顔が「いつもの自分」になる。

そして、すっぴんの顔が「いつもとは違う自分」になる。

本来の顔なのに、そっちが特別扱いされるのである。

これは、よくよく考えると不思議な逆転現象だ。

普通、何かを加えた状態が特別で、何も加えていない状態が普通ではないだろうか。

例えば、帽子をかぶる。

帽子を脱ぐ。

それだけだ。

ところが、化粧の場合は違うことがある。

化粧をする。

安心する。

化粧を落とす。

不安になる。

自分の顔に戻った瞬間、不安になるのだ。

なかなか恐ろしい話ではないか。

しかも、毎日繰り返していると、その感覚が当たり前になっていくのかもしれない。

鏡に映る化粧した顔。

写真に写る化粧した顔。

他人から見られる化粧した顔。

それが、自分の中での標準になる。

すると、化粧を落とした顔を見たときに、何かが足りないように感じる。

眉が薄い。

目元が違う。

肌の印象が違う。

「なんか、いつもの自分じゃない」

いや。

それが、いつもの自分だったはずではないか。

いつから立場が逆転したのだろう。

② 肌や顔のコンプレックスを見られたくないから

すっぴんが恥ずかしい理由として、容姿へのコンプレックスも考えられる。

ニキビ。

シミ。

クマ。

毛穴。

眉毛。

肌の色むら。

普段は化粧で目立たなくしている部分を、他人に見られたくない。

これは理解できる。

人には誰だって、気になる部分がある。

しかし、ここでも一つ疑問が生まれる。

なぜ、その部分を見られることが恥ずかしいのだろう。

例えば、ニキビがある。

ただ、それだけのことだ。

人間の肌なのだから、調子が悪い日もあるだろう。

寝不足でクマができることもある。

年齢とともに変化することもある。

当然のことだ。

ところが、そうした自然な変化が、いつの間にか隠さなければならない欠点になってしまう。

もちろん、本人が気になるなら化粧で隠してもいい。

問題は、隠さなければ恥ずかしいと思うことだ。

肌に何かがあることより、それを見られることの方が怖くなる。

人間の顔なのだから、完璧ではない。

そもそも、完璧な顔とは何なのだろう。

誰が決めたのだろう。

そして、なぜそこに近づかなければならないのだろう。

考え始めると、疑問は尽きない。

③ 相手にがっかりされたくないから

これも大きな理由の一つだと思う。

化粧をしている自分を、かわいいと思ってくれている人がいる。

しかし、すっぴんを見せたらどうだろう。

「思っていた顔と違う」

「化粧している方がかわいい」

そんなふうに思われるかもしれない。

だから、見せるのが怖い。

特に、好きな人や恋人の前では、その不安が大きくなることもあるだろう。

ただ、ここで僕は思う。

すっぴんを見てがっかりする人と、そもそも付き合いたいのだろうか。

もちろん、好きな人にはよく思われたい。

それは自然な感情だ。

しかし、ずっと化粧をしたままでいるわけにもいかない。

一緒に暮らすようになれば、すっぴんを見せる機会もあるだろう。

朝起きる。

顔を洗う。

お風呂に入る。

人間として当たり前の生活をする。

それなのに、相手にがっかりされるかもしれないと不安になる。

恋人の前で、自分の顔に戻ることを恐れているのである。

なんとも切ない話だ。

④ すっぴんがプライベートな姿になっているから

もう一つ考えられるのが、すっぴんを私生活の姿だと感じていることだ。

外では化粧をする。

家に帰ったら化粧を落とす。

この習慣が続くと、化粧した顔は外向きの顔になり、すっぴんは家の中だけの顔になる。

つまり、すっぴんを見せることが、部屋着や寝起きの姿を見せることに近くなる。

顔そのものに自信がないわけではない。

ただ、人に見せる準備をしていない姿だと感じる。

これは、少し違う心理だと思う。

人には、他人に見せたい部分と、見せたくない部分がある。

すべてを公開する必要はない。

すっぴんを見せたくないという気持ちも、単純に容姿の問題とは限らない。

ただ、それでも不思議なのは、顔がそこまで特別なものになっていることだ。

顔を見られるだけなのに、私生活を覗かれているように感じる。

それほどまでに、化粧と日常生活が結びついているのだろう。

いつから、すっぴんは恥ずかしいものになったのか?

ここで、少し時間を巻き戻してみたい。

子どもの頃の話だ。

小学生の頃、毎朝化粧をして学校に通っていた人は、それほど多くないだろう。

朝起きる。

顔を洗う。

学校へ行く。

それでよかった。

友達も、ほとんどすっぴんだった。

誰かに顔を見られても、特別なことではなかった。

ところが、成長するにつれて化粧を覚える。

雑誌を見る。

SNSを見る。

友達が化粧を始める。

自分もやってみる。

最初は楽しい。

いつもと違う顔になる。

少し大人になった気がする。

自信が持てる。

そして、毎日化粧をするようになる。

すると、ある日、すっぴんで外に出ることに抵抗を覚える。

いったい、いつから自分の顔が恥ずかしいものになったのだろう。

昨日まで平気だった顔が、今日から突然恥ずかしくなったわけではない。

少しずつ変わっていったのだろう。

周囲の価値観。

自分の理想。

他人からの評価。

そうしたものが積み重なり、いつの間にか化粧をしている状態が当たり前になる。

そして、すっぴんが恥ずかしくなる。

考えてみれば、すごい変化だ。

自分の顔は大きく変わっていないのに、自分の顔に対する評価だけが変わっている。

顔そのものより、顔を見る目が変わったのかもしれない。

「化粧はマナー」という社会的な刷り込み

そして、ここで避けて通れないのが、化粧とマナーの問題だ。

「社会人なんだから化粧くらいしなさい」

「すっぴんで出勤するのは失礼」

「最低限の身だしなみでしょ」

こうした考え方は、今でも一部にある。

しかし、僕は疑問に思う。

なぜ、化粧をしていない顔がマナー違反になるのだろう。

顔を洗った。

歯を磨いた。

髪を整えた。

清潔な服を着た。

それでも足りないらしい。

なぜなら、顔に化粧をしていないからだ。

僕の顔は、何か失礼なことをしたのだろうか。

しかも、男性には同じように化粧を求めない場面が多い。

男性はすっぴんで出勤する。

何も言われない。

女性はすっぴんで出勤する。

「今日、化粧してないの?」

と聞かれることがある。

同じ人間の顔である。

それなのに、片方は普通で、片方は特別な状態として扱われる。

これは不思議だ。

もちろん、職場によって考え方は違う。

化粧を求めない職場もあるだろう。

それでも、化粧を女性の身だしなみと結びつける価値観が存在することは確かだと思う。

そして、ここからが本当に興味深い。

最初は、周囲から求められて化粧をする。

「化粧をするのが普通だから」

「社会人だから」

「周りもしているから」

しかし、それを毎日繰り返しているうちに、自分自身も化粧をしないと落ち着かなくなることがある。

他人から求められたことが、いつの間にか自分自身のルールになる。

誰にも何も言われていない。

それなのに、すっぴんで外に出るのが恥ずかしい。

もしかすると、周囲の視線を自分の中に取り込んでしまったのかもしれない。

もちろん、すっぴんが恥ずかしい理由をすべて社会のせいにすることはできない。

個人の好みもある。

美意識もある。

自分の顔をどう見せたいかという自由もある。

ただ、少なくとも考える必要はあると思う。

自分が好きで化粧をしているのか。それとも、化粧をしない自分が許せなくなっているのか。

この二つは、似ているようで違う。

なぜ、すっぴんでもかわいくなければならないのか?

そして、もう一つ気になることがある。

「すっぴんでもかわいい」

という言葉だ。

褒め言葉である。

間違いなく褒めている。

言われたら嬉しい人も多いだろう。

しかし、よく考えてみてほしい。

なぜ「でも」がつくのだろう。

「すっぴんでもかわいい」

つまり、化粧をしていないにもかかわらず、かわいい。

そういう意味が含まれている。

もちろん、言った本人に悪意はないだろう。

むしろ、好意を伝えようとしている。

ただ、この言葉には、すっぴんでかわいいことが意外だという前提が潜んでいるようにも聞こえる。

すっぴんは、かわいくないもの。

化粧をすれば、かわいくなるもの。

そんな価値観だ。

そして、さらに不思議なのは、すっぴんでもかわいくなければならないというプレッシャーである。

化粧をする。

かわいくなる。

それはいい。

しかし、化粧を落とす。

それでもかわいくなければならない。

いつ休めるねん。

化粧をしているときは、きれいに見られたい。

化粧を落としたときも、かわいく見られたい。

つまり、一日中、容姿の評価から逃れられない。

朝も夜も。

外でも家でも。

化粧をしていても、していなくても。

常にかわいくなければならない。

これは、なかなか大変なことだと思う。

そもそも、なぜ人は常にかわいくなければならないのだろう。

かわいくない日があってもいいではないか。

寝不足の日もある。

疲れている日もある。

顔がむくんでいる日もある。

人間なのだから、当然だ。

それなのに、すっぴんまで美しくなければならない。

化粧を落としても、美しさの勤務時間は終わらないのである。

何時間労働なのだろう。

休憩はあるのだろうか。

休日はあるのだろうか。

せめて寝ている間くらい、評価から解放してあげてほしい。

すっぴんを見せる相手によって恥ずかしさが変わるのはなぜ?

ここで、もう一つ面白いことに気づく。

すっぴんを見せる相手によって、恥ずかしさが変わることがあるのだ。

家族には見せられる。

親しい友達にも見せられる。

しかし、好きな人には見せられない。

あるいは、知らない人なら平気なのに、知り合いには見られたくない。

顔は同じなのに、見る人が変わるだけで恥ずかしさが変わる。

これはどういうことだろう。

もし、すっぴんそのものが恥ずかしいのであれば、誰に見られても同じように恥ずかしいはずだ。

しかし、実際には相手によって変わる。

つまり、問題は顔だけではない。

相手にどう思われたいか、という気持ちが関係しているのだろう。

好きな人には、かわいいと思われたい。

職場の人には、きちんとしていると思われたい。

友達には、普段と違う姿を見せたくない。

一方で、家族にはそこまで気を遣わない。

知らない人なら、どう思われても気にならない場合もある。

なるほど。

ここで、すっぴんを見せることの意味が変わってくる。

ただ顔を見せているのではない。

自分が相手に見せたいと思っている姿と、違う姿を見せているのだ。

だから恥ずかしい。

考えてみれば、化粧は単に顔を変えるだけではないのかもしれない。

他人に見せたい自分を作る行為でもある。

そして、その姿を見せ続けることで、相手の中にも自分のイメージができあがる。

そのイメージが崩れることを恐れる。

すっぴんを見せるのが怖いという感情には、そんな心理も隠れているのではないだろうか。

男性と女性で「すっぴん」の扱いが違う不思議

僕は男性なので、普段化粧をしていない。

朝起きる。

顔を洗う。

外に出る。

それだけだ。

誰も何も言わない。

もちろん、男性でも化粧をする人はいる。

美容に気を遣う人もいる。

それは自由だ。

ただ、一般的には、男性が化粧をしていなくても特別なことにはならない。

ところが、女性の場合は違うことがある。

「今日、すっぴん?」

わざわざ聞かれる。

これが不思議なのだ。

男性の素顔は普通なのに、女性の素顔はニュースになる。

「本日、田中さんがすっぴんで出勤しました」

速報でも流すつもりなのだろうか。

しかも、すっぴんを見た人が、わざわざ感想を言うこともある。

「いつもと違うね」

「すっぴんの方が幼く見えるね」

「化粧してないんだ」

……。

なぜ、そんなに報告するのだろう。

本人はただ顔を洗って外に出ただけかもしれない。

それなのに、周囲から注目される。

これでは、すっぴんを恥ずかしいと思う人がいても不思議ではない。

素顔でいることが特別扱いされる社会では、素顔でいることに勇気が必要になる。

そう考えると、すっぴんが恥ずかしいという感情は、本人の問題だけではないのかもしれない。

化粧という仮面を外すのが怖い

さて。

ここまで考えてきて、僕の頭に浮かんだ言葉がある。

仮面だ。

化粧とは、ある意味で仮面なのかもしれない。

もちろん、化粧がすべて自分を隠すためのものだとは思わない。

自分を表現するための化粧もある。

楽しむための化粧もある。

しかし、すっぴんを見られるのが恥ずかしいという心理に限れば、仮面という表現はしっくりくる。

仮面をつける。

安心する。

仮面を外す。

不安になる。

普通、仮面を外したら本当の自分に戻るはずだ。

ところが、逆になっている。

仮面をつけているときは堂々としていられるのに、仮面を外した途端、隠れたくなる。

これは、なかなか怖い話だ。

まるで、正体を知られてはいけない人物のようではないか。

仮面を外す。

「あっ!」

周囲が驚く。

「正体はお前だったのか!」

いや。

最初から僕です。

何も隠していない。

悪事も働いていない。

ただ化粧を落としただけだ。

それなのに、正体が暴かれたような気持ちになる。

考えてみれば、人間は不思議な生き物である。

そして、ここからさらに怖いことを考えてしまった。

化粧の上に、また化粧をする未来

化粧した顔が、普段の自分になる。

すると、化粧していない顔が恥ずかしくなる。

ここまでは分かる。

しかし、もし化粧した顔にも慣れてしまったら、どうなるのだろう。

最初は、少し化粧をするだけで満足していた。

しかし、毎日同じ顔を見ているうちに、もっときれいになりたいと思う。

もっと目を大きく見せたい。

もっと肌をきれいに見せたい。

もっと理想の顔に近づきたい。

もちろん、美しさを追求すること自体が悪いわけではない。

しかし、もしそれが「今の自分では足りない」という気持ちから生まれ続けるのだとしたら、どうだろう。

化粧をする。

その顔に慣れる。

もっと変える。

また、その顔に慣れる。

さらに変える。

化粧の上に、化粧をしているようなものではないか。

そして、その化粧の上に、また化粧をする。

化粧の化粧。

化粧の化粧の化粧。

もはや、何をしているのか分からない。

仮面をつける。

その仮面が自分の顔になる。

すると、今度はその仮面にも自信がなくなる。

だから、さらに新しい仮面をつける。

仮面を隠すために、仮面をつけるのだ。

もちろん、これは極端な想像である。

実際に化粧をする人が、みんなそうなるわけではない。

ただ、もし自分の顔を好きになるためではなく、自分の顔を否定し続けるために化粧を重ねるのだとしたら、少し怖い。

いつまで続くのだろう。

どこまで変われば満足するのだろう。

そもそも、満足する日は来るのだろうか。

理想の顔になった。

嬉しい。

しかし、しばらくすると、その顔が当たり前になる。

また、もっと理想の顔を求める。

終わりがない。

理想に近づいているはずなのに、理想がどんどん遠ざかっていく。

これは、化粧だけの話ではない気がする。

お金。

仕事。

地位。

評価。

人間は、何かを手に入れると、次の何かが欲しくなることがある。

昨日まで欲しかったものが、今日には当たり前になる。

そして、また新しいものを求める。

化粧も、そんな終わりのない追求になってしまうことがあるのかもしれない。

そもそも、本当の自分とは何なのだろう

ここまで考えて、ふと思った。

自分って、何なのだろう。

化粧をしていない顔が、本当の自分なのか。

化粧をした顔は、偽物なのか。

いや、そうとも言い切れない。

化粧をしているときの自分だって、自分である。

好きな色を選ぶ。

なりたい雰囲気を考える。

自分の意思で顔を整える。

それも、自分の一部ではないだろうか。

考えてみれば、僕たちは化粧をしていなくても、毎日いろいろな仮面をつけている。

職場での自分。

友達といるときの自分。

家族といるときの自分。

一人でいるときの自分。

相手によって話し方が変わる。

態度が変わる。

表情が変わる。

職場では真面目に振る舞う。

友達の前ではふざける。

家族の前では気を抜く。

では、どれが本当の自分なのだろう。

職場での自分は偽物なのか。

友達と笑っている自分は演技なのか。

家でだらだらしている自分だけが本物なのか。

おそらく、そんなに単純な話ではない。

全部、自分なのだと思う。

人間には、いろいろな顔がある。

それは悪いことではない。

相手や場所に合わせて振る舞いを変えることも、社会で生きるうえでは自然なことだ。

化粧も、その一つなのかもしれない。

ただ、僕が怖いと思うのは、仮面をつけることそのものではない。

仮面を外した自分を、受け入れられなくなってしまうことだ。

職場で真面目に振る舞う。

それはいい。

しかし、家に帰っても真面目でいなければならないと思い込んだら、疲れるだろう。

友達の前で明るく振る舞う。

それもいい。

しかし、一人でいるときまで明るくなければならないと思ったら、苦しくなるだろう。

化粧も同じではないだろうか。

きれいになりたいから化粧をする。

楽しいから化粧をする。

それは自由だ。

しかし、化粧をしていない自分を恥ずかしいと思い、外に出られなくなってしまう。

そうなると、少し話が変わってくる。

自分を表現するための仮面が、自分を隠すための仮面になる。

そして、いつの間にか、外すことが怖くなる。

自分のために始めたことなのに、自分を縛るものになってしまう。

これは、化粧に限らず、誰にでも起こり得ることだと思う。

すっぴんを恥ずかしいと思わなくなるには?

では、すっぴんが恥ずかしいと感じる人は、どうすればいいのだろう。

まず、無理にすっぴんを見せる必要はないと思う。

誰に何を見せるかは、自分で決めていい。

化粧をしたいなら、すればいい。

化粧をしたくないなら、しなくてもいい。

大切なのは、自分で選べることだ。

例えば、休日に少しだけ化粧をしない時間を過ごしてみる。

近所への外出で、いつもより薄いメイクにしてみる。

信頼できる人に、すっぴんを見せてみる。

もちろん、無理をする必要はない。

ただ、少しずつ「化粧をしていなくても大丈夫」という経験を重ねることで、抵抗が小さくなる人もいるかもしれない。

そして、もう一つ大切なのは、すっぴんを見た自分自身が、必要以上に厳しい評価をしないことだと思う。

鏡を見る。

「今日はクマがあるな」

それでいい。

「肌の調子が悪いな」

それもいい。

だからといって、自分の価値が下がるわけではない。

化粧をしていない顔は、失敗した顔ではない。

ただの、自分の顔だ。

そもそも、毎日かわいくいる必要なんてあるのだろうか。

毎日きれいでいる必要なんてあるのだろうか。

疲れている日もある。

寝不足の日もある。

何もしたくない日もある。

それでいいではないか。

化粧をする自由があるのなら、化粧をしない自由もあっていい。

そして、そのどちらを選んでも、自分を嫌いにならなくていい。

そう思う。

まとめ|いつから、自分の顔を見せるのに勇気が必要になったのだろう

すっぴんが恥ずかしいのはなぜなのか。

最初は、そんな何気ない疑問だった。

しかし、考えていくうちに、いろいろなことが見えてきた。

化粧した顔が、普段の自分になる。

すっぴんが、特別な姿になる。

化粧はマナーだと言われる。

すっぴんでもかわいくなければならないと思う。

好きな人には、がっかりされたくない。

周囲には、いつもの自分を見せていたい。

そして、いつの間にか、化粧を落とすことが怖くなる。

仮面をつけている自分が当たり前になり、仮面を外した自分が恥ずかしくなる。

これは、考えれば考えるほど不思議な話だ。

もちろん、化粧が悪いわけではない。

自分を美しく見せたいと思うことも、悪いことではない。

化粧を楽しむことも、自分を表現することも、自由だ。

ただ、その自由が、いつの間にか義務になってしまうことがある。

化粧をしなければならない。

かわいくなければならない。

きれいでいなければならない。

すっぴんを見せてはいけない。

そんなふうに、自分で自分を縛ってしまう。

そして、仮面を外すことが怖くなる。

でも、僕は思う。

仮面をつけた自分も、仮面を外した自分も、どちらも自分でいいのではないだろうか。

きれいな自分もいる。

疲れた自分もいる。

自信のある自分もいる。

自信のない自分もいる。

そのすべてが、自分なのだと思う。

誰かに見せるための顔があってもいい。

誰にも見せたくない顔があってもいい。

ただ、せめて自分だけは、どちらの顔も否定しなくていいのではないだろうか。

朝起きる。

鏡を見る。

そこには、いつもの自分がいる。

化粧をしていない顔だ。

少し眠そうかもしれない。

肌の調子が悪いかもしれない。

昨日より疲れて見えるかもしれない。

でも、それでいい。

何も隠していない自分を、恥ずかしいと思わなくてもいい。

そして、今日も化粧をする。

好きだから。

楽しいから。

自分がそうしたいから。

それなら、素敵なことだと思う。

しかし、もし化粧をしなければ外に出られないのだとしたら。

もし、化粧を落とした自分を嫌いになってしまうのだとしたら。

少しだけ、考えてみてもいいのかもしれない。

自分は、何のために化粧をしているのだろう。

誰のために、きれいでいようとしているのだろう。

そして、何を隠そうとしているのだろう。

仮面をつける。

その仮面が、自分の顔になる。

そして、また新しい仮面をつける。

何枚も、何枚も。

いつしか、どこまでが仮面で、どこからが自分なのか分からなくなる。

鏡を見る。

そこには、いつもの自分がいる。

安心する。

今日もちゃんと、いつもの顔だ。

でも、ふと思う。

これは、何枚目の仮面だっただろう。

そして、もう一つ。

その仮面を全部外したとき、僕はそこにいる自分を、好きでいられるだろうか。

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