僕は、とにかくサプライズが苦手だ。
突然のお祝い。予告なしのプレゼント。秘密にされていた誕生日パーティー。
世の中には、こうした演出を喜ぶ人がたくさんいるらしい。
もちろん、それ自体は素敵なことだと思う。誰かを喜ばせようと、時間をかけて準備する。その気持ちはありがたいし、決して否定するつもりはない。
ただ、僕には向いていない。
特に誕生日のサプライズパーティーなんて、途中でだいたい気づいてしまう。
何となく、いつもと様子が違う。
妙に話が進まない。何かを隠しているような気配がする。
ああ、これは何かあるな。
そして思う。
うわー。
嬉しい方の「うわー」ではない。
できれば何も起こらないでほしい方の「うわー」である。
しかし、ここで気づいたことを口にするわけにもいかない。
相手は一生懸命、秘密にしているのだ。
僕が気づいていることに気づかれてはいけない。
つまり、ここから奇妙な時間が始まる。
相手は僕に知られていないと思っている。
僕は相手が隠していることを知っている。
そして、僕は知らないふりをしている。
何だ、この時間は。
お互いに何をしているのだ。
やがて、その瞬間が訪れる。
「誕生日おめでとう!」
「わー! ありがとう! びっくりした! まさか!」
出た。
僕の迫真の演技である。
驚いた表情をつくり、少し声を大きくして、感謝を伝える。
もちろん、全部知っていた。
それでも、ここまで準備してくれた相手の気持ちを考えると、驚かないわけにはいかない。
「全然気づかなかった?」
「うん! 全然!」
嘘である。
何なら、途中からずっとこの瞬間を待っていた。
サプライズパーティーというより、演技力を試されるオーディションではないか。
しかも、主役は僕である。
なぜ自分の誕生日に、こんなに気を使わなければならないのだろう。
僕はただ、普通に祝ってもらえれば十分なのだ。
サプライズは、喜ぶことまで計画されている
サプライズが苦手な理由を考えてみると、驚くこと自体が嫌いというだけではない気がする。
もっと根本的な違和感がある。
それは、こちらの感情まで演出の一部に組み込まれていることだ。
例えば、誕生日に飲食店を訪れたとする。
食事を楽しんでいると、突然、照明が変わる。
音楽が流れ、店員がプレート付きのケーキを運んでくる。
「お誕生日おめでとうございます!」
周囲のお客さんまで拍手をしてくれる。
そして、全員がこちらを見る。
さあ、喜んでください。
そんな空気が生まれる。
いや、ちょっと待ってほしい。
僕の感情まで予定に組み込まないでいただきたい。
ケーキを用意するところまではいい。
プレートに名前を書いてくれるのもありがたい。
しかし、なぜ僕がどのような反応をするのかまで、暗黙のうちに決まっているのだろう。
ここで無表情だったらどうなる。
「ありがとうございます」と静かに言うだけでは駄目なのか。
感動して涙を流すくらいの方が、演出としては成功なのだろうか。
そう考え始めた瞬間、僕は冷静になってしまう。
本来、嬉しいかどうかは自分の感情である。
ところが、サプライズの場では、嬉しさを外側に表現することまで求められているように感じる。
喜ぶだけでは足りない。
喜んでいることを、相手にわかるように示さなければならない。
しかも、できるだけ大きなリアクションで。
「えー! すごい!」
「全然知らなかった!」
「本当にありがとう!」
まるで決められた台詞があるようだ。
もちろん、自然にこうした反応が出る人もいるだろう。
それは素敵なことだと思う。
ただ、僕の場合は違う。
感情を表現する前に、どんな反応が期待されているのかを考えてしまう。
その時点で、純粋な喜びから少し離れてしまうのだ。
サプライズを喜ばないと、こちらが悪者になる
サプライズには、もう一つ厄介なところがある。
それは、断りにくいことだ。
普通のお誘いなら、断ることができる。
「誕生日にパーティーをしない?」
「いや、普通に食事だけでいいよ」
これなら何の問題もない。
しかし、サプライズは違う。
こちらが知らないところで、すでに準備が進んでいる。
人が集まっているかもしれない。
ケーキが注文されているかもしれない。
プレゼントが用意されているかもしれない。
そこまでしてもらったあとで、「こういうの苦手なんだよね」とは、なかなか言えない。
相手は善意でやってくれている。
だからこそ、難しい。
悪意で嫌がらせをされたのなら、こちらも遠慮なく嫌だと言える。
しかし、善意にはそれができない。
「喜んでもらおうと思って」
そう言われたら、もう何も言えないではないか。
いや、ありがとう。
本当にありがたい。
でも、僕は普通でよかったんだ。
そんな複雑な感情を抱えながら、笑顔をつくる。
結果として、サプライズが苦手な人ほど、周囲に気を使わなければならなくなる。
何とも不思議な話である。
祝われているのは僕なのに、僕が相手を喜ばせようとしている。
いつの間にか立場が逆転しているのだ。
そして、もし反応が薄ければ、今度はこちらが申し訳なくなる。
「せっかく準備してくれたのに」
「もっと喜んだ方がよかったかな」
「嫌な気持ちにさせていないかな」
自分の誕生日が終わったあとに、反省会が始まる。
何だこれは。
誕生日とは、こんなに難しい行事だっただろうか。
僕は、自分のペースを乱されたくないのかもしれない
サプライズが好きな人にとって、予想外の出来事は楽しさの一つなのだろう。
予定になかったことが起こる。
思いがけないプレゼントが登場する。
想像していなかった人が現れる。
その意外性が嬉しい。
一方で、僕は予定どおりに物事が進む方が好きなのかもしれない。
今日は食事に行く。
何時に集合する。
何をする。
何時ごろ帰る。
それがわかっていれば、落ち着いて楽しめる。
しかし、突然何かが始まると、頭の中で別の作業が始まる。
これは何だ。
いつまで続く。
次は何が起こる。
僕は何をすればいい。
どういう顔をしていればいい。
せっかく楽しい時間を過ごしていたのに、突然、状況を把握する仕事が増えるのだ。
しかも、その仕事は誰からも頼まれていない。
勝手に始まり、勝手に終わる。
サプライズが好きな人は、この予測できない時間を楽しめるのだと思う。
しかし、僕にとっては、事前に知っていた方が楽しめることも多い。
例えば、旅行。
行き先を秘密にされるより、前もって教えてもらいたい。
どんな場所なのか調べたい。
何を食べようか考えたい。
楽しみな気持ちを、当日まで少しずつ膨らませたい。
サプライズでは、その時間がなくなってしまう。
突然知らされて驚く楽しさもあるのだろう。
しかし、僕は一週間前から楽しみにしている方がいい。
驚きは一瞬だ。
期待する時間は、もっと長い。
もちろん、どちらが正しいという話ではない。
単に、楽しみ方が違うのだ。
周囲から注目されるのが苦手
サプライズには、なぜか人前で行われるものが多い。
誕生日に店員が歌ってくれる。
周囲が拍手をする。
大勢の前でプレゼントを渡される。
突然、みんながこちらを向く。
僕は、これが苦手だ。
そもそも、なぜ僕の誕生日を知らない人にまで知らせる必要があるのだろう。
隣の席で食事をしている人には、何の関係もないではないか。
もちろん、拍手してくれる人たちは優しい。
祝福してくれること自体はありがたい。
しかし、こちらとしては、急に知らない人たちの注目を集める理由がわからない。
さっきまで普通に食事をしていたのだ。
それが突然、店内の主役になる。
何という急展開だろう。
しかも、注目されている間は、何をしていても見られている気がする。
笑顔をつくる。
拍手に応える。
ケーキを見る。
一緒にいる人を見る。
また笑顔をつくる。
忙しい。
僕は誕生日を祝ってもらいに来たのであって、記者会見を開きに来たわけではない。
普通に「おめでとう」と言ってくれれば、それで十分嬉しい。
静かにプレゼントを渡してくれてもいい。
大げさな演出がなくても、気持ちは伝わる。
むしろ、僕にとってはその方が自然なのだ。
なぜサプライズされると冷めるのか
ここまで考えてきて、僕が最も不思議に思うのは、自分の感情である。
僕はサプライズをされると、嫌だと思うだけではない。
冷めるのだ。
それまで楽しく過ごしていても、何かが始まりそうな気配を察知した瞬間、急に冷静になってしまう。
なぜだろう。
おそらく、演出が見えてしまうからなのかもしれない。
相手が驚かせようとしている。
僕が驚くことを期待している。
そのあと喜ぶことも期待している。
そして、成功したと思ってもらうためには、僕がそれらしい反応をする必要がある。
そうした仕組みが見えた瞬間、僕はその場を外側から眺めるようになってしまう。
感動する場面なのだろう。
盛り上がる場面なのだろう。
ここで驚くと、みんなが喜ぶのだろう。
そんなことを考えてしまう。
つまり、感動する前に、感動させようとしている構造を意識してしまうのだ。
映画でも、似たようなことがある。
感動的な音楽が流れ、登場人物が涙を流し、いかにも泣いてくださいという場面が用意されている。
もちろん、それで心を動かされることもある。
しかし、あまりに露骨だと、かえって冷静になってしまうことがある。
サプライズも、僕にとってはそれに近い。
相手が一生懸命準備してくれたことは理解できる。
その気持ちには感謝している。
それなのに、演出そのものには気持ちがついていかない。
ここが難しいところだ。
感謝していることと、演出を楽しめることは、必ずしも同じではない。
僕は、そこを分けて考えたい。
フラッシュモブという恐怖
さて、ここで僕が特に苦手なサプライズについて触れておきたい。
フラッシュモブである。
ご存じだろうか。
突然、一人が踊り始める。
すると、近くにいた別の人も踊り始める。
さらに別の人も加わる。
気づけば、大勢の人間が同じ振り付けで踊っている。
そして、最後には誰かへのお祝いやプロポーズにつながる。
感動的な演出として紹介されることも多い。
しかし、僕には理解できない。
何をしているのだ。
なぜ踊っているのだ。
僕は何を見せられているのだ。
家で勝手に踊っといてくれ。
いや、踊ることが悪いと言っているわけではない。
ダンスは素晴らしい表現だと思う。
踊るのが好きな人もいるだろう。
みんなで練習して、一つの作品を完成させることにも価値がある。
ただ、なぜそれを僕に見せるのだ。
しかも、サプライズで。
想像してみてほしい。
目の前で突然、人が踊り始める。
最初は何が起きているのかわからない。
やがて人数が増えていく。
音楽に合わせて、全員が笑顔で踊っている。
僕は立ち尽くす。
そして途中で気づく。
ああ、これ、僕のためにやっているのか。
うわー。
最悪の気づきである。
しかも、踊っている人たちは一生懸命だ。
何度も練習したのだろう。
振り付けを覚えたのだろう。
時間を合わせて集まったのだろう。
その努力を想像すると、ますます逃げられない。
途中で帰るわけにもいかない。
スマートフォンを見るわけにもいかない。
無表情で眺めるわけにもいかない。
手拍子をするべきなのか。
笑顔で見守るべきなのか。
まさか、一緒に踊らなければならないのか。
頼む。
それだけは勘弁してほしい。
そして、ようやくダンスが終わる。
全員がこちらを向く。
拍手が起こる。
感動的な音楽が流れる。
さあ、どうぞ。
あなたの感動をお見せください。
いや、無理だ。
僕は今、人生で最も帰りたい。
もちろん、フラッシュモブが好きな人もいる。
大切な人のために踊ってくれることを、心から喜ぶ人もいるだろう。
それはそれで素敵なことだ。
ただ、僕には向いていない。
僕の誕生日に、突然大勢の人間が踊り始める。
考えただけで鳥肌が立つ。
感動の鳥肌ではない。
恐怖の鳥肌である。
サプライズは本当に相手のためなのか
サプライズについて考えると、どうしても一つの疑問にたどり着く。
それは、誰のために行われているのかということだ。
もちろん、相手を喜ばせたいという気持ちから始まることが多いのだろう。
それ自体は素晴らしい。
しかし、相手がサプライズを苦手だと知っている場合はどうだろう。
それでも驚かせたい。
それでも大げさに祝いたい。
それでも感動的な演出をしたい。
そう考えるのなら、それは本当に相手のためなのだろうか。
もしかすると、仕掛ける側がサプライズを成功させたいだけなのかもしれない。
相手が驚く姿を見たい。
感動する姿を見たい。
自分が準備したことで、相手が喜ぶ瞬間を味わいたい。
そうした気持ちが含まれること自体は、別に悪いことではないと思う。
誰かを喜ばせて、自分も嬉しくなる。
それは自然な感情だ。
ただ、相手の好みよりも自分の演出を優先してしまうなら、少し話が変わってくる。
サプライズが好きな人にとっては、最高の贈り物になるかもしれない。
しかし、苦手な人にとっては、負担になることもある。
大切なのは、驚かせることではなく、相手が喜ぶことのはずだ。
もし相手が静かに祝われたい人なら、静かに祝えばいい。
プレゼントを事前に知りたい人なら、教えてあげてもいい。
特別な演出が好きな人なら、思い切り盛り上げればいい。
結局、相手が何を望んでいるのかを考えることが、何より大切なのではないだろうか。
そして、ここまで偉そうに語ってきた僕には、一つ問題がある。
実は、僕はサプライズを仕掛けるのも嫌いなのだ。
僕はサプライズを仕掛けるのも嫌いだ
驚かされるのが苦手なのだから、驚かせる側に回ればいい。
そう考える人もいるかもしれない。
しかし、僕の場合は違う。
サプライズをするのも嫌いである。
だから、すべて事前に伝える。
例えば、誰かの誕生日を祝うとする。
僕は、プレゼントを買った時点で伝えてしまう。
「プレゼントは〇〇と〇〇を買いました」
それだけではない。
「プレート付きのケーキもあります」
これも伝える。
以上である。
当日まで秘密にしておく情報は、ほとんど残っていない。
サプライズどころか、事前説明会である。
相手からすれば、何という夢のない男だろう。
普通、プレゼントは渡されるまで中身がわからないから楽しいのではないか。
ケーキも、突然登場するから嬉しいのではないか。
そう考える人もいるだろう。
わかる。
僕も、その考え方は理解できる。
しかし、僕は全部伝えたいのだ。
なぜなら、その方がすべてスムーズに進むからである。
ここで誤解してほしくないのだが、僕は相手の喜びを奪いたいわけではない。
むしろ、喜んでもらいたいからプレゼントを買う。
お祝いしたいからケーキを用意する。
ただ、そこに秘密を持ち込みたくないのだ。
「喜んでくれるかな?」という時間をなくしたい
プレゼントを秘密にしていると、渡すまで結果がわからない。
喜んでくれるだろうか。
気に入ってくれるだろうか。
期待外れではないだろうか。
別に、それが大きなストレスになるわけではない。
眠れなくなるほど心配するわけでもない。
ただ、どこかで気にはなる。
そして、僕はその時間があまり好きではない。
だから、先に伝えてしまう。
「〇〇と〇〇を買いました」
すると、少なくとも相手は何が用意されているのかを知っている。
必要以上に期待が膨らむこともない。
僕も、当日まで秘密を抱えておく必要がなくなる。
何という合理的な方法だろう。
自分で言うのも何だが、あまりロマンチックではない。
しかし、僕にとっては快適なのである。
そもそも、なぜ誕生日のプレゼントを渡すまで、相手の反応を想像し続けなければならないのだろう。
もちろん、その時間が楽しい人もいる。
何を渡そうか考える。
驚く顔を想像する。
喜んでくれる瞬間を楽しみにする。
それも、プレゼントを贈る喜びの一つなのだろう。
しかし、僕は違う。
プレゼントを選んで、買って、準備する。
そこまでで十分なのだ。
あとは、予定どおり渡したい。
誕生日当日を、サプライズの答え合わせの日にしたくないのである。
プレゼントを渡す瞬間の、あの空気
もう一つ、僕が事前にすべて伝える理由がある。
プレゼントを渡す瞬間の空気だ。
何を買ったのか秘密にしていた場合、相手は包みを開ける。
僕は、その様子を見ることになる。
何が入っているのだろう。
相手が包みを開ける。
僕は見ている。
相手が中身を確認する。
僕は見ている。
さあ、どうだ。
喜んでくれるだろうか。
この構図が、どうにも気持ち悪い。
別に、相手の反応を強要しているつもりはない。
しかし、何も言わずにプレゼントを渡して、その場で開けてもらうと、どうしても反応を待っているような状況になる。
相手も、何か言わなければならない。
「えー! ありがとう!」
「これ欲しかった!」
「すごい!」
もちろん、本当にそう思ってくれているのかもしれない。
しかし、僕にはそれがわからない。
相手も気を使っているかもしれない。
僕も相手の反応を気にしてしまう。
何だ、この時間は。
これは、僕がサプライズをされたときと同じではないか。
僕が苦手としている、あのリアクションを求められる空気。
それを今度は、自分が相手につくっている。
そう考えると、余計に嫌になる。
だから、全部伝えておく。
プレゼントの中身も、ケーキの存在も。
そうすれば、当日はお互いに何が起こるかわかっている。
「はい、これ」
「ありがとう」
それでいい。
何というスムーズな受け渡しだろう。
僕は誕生日を祝いたいのであって、ドッキリ番組を制作したいわけではない。
相手の期待を先に下げておく
そして、もう一つ。
正直に言えば、僕は相手の期待を先に落ち着かせておきたいのだと思う。
「誕生日にプレゼントを用意しているよ」
それだけ伝えると、相手はいろいろ想像するかもしれない。
何をくれるのだろう。
どんなものだろう。
もしかすると、すごいものなのではないか。
期待が膨らむ。
そして、当日になってプレゼントを渡す。
「あ、これか」
そう思われる可能性だってある。
もちろん、実際にそう思われるかどうかはわからない。
僕が勝手に考えているだけかもしれない。
しかし、そうした期待と現実の差を気にすること自体が、面倒なのだ。
だから先に伝える。
「〇〇と〇〇を買いました」
これ以上のものは出てきません。
「プレート付きのケーキもあります」
ケーキもあります。
以上です。
何という明瞭な説明だろう。
もはや誕生日のお祝いではなく、業務連絡である。
しかし、これなら相手も事前に内容を把握できる。
僕も余計なことを考えなくて済む。
当日は予定どおりにお祝いをするだけだ。
ここまで考えると、僕が事前にすべて伝えるのは、必ずしも相手のためだけではないのだろう。
むしろ、自分のためという部分が大きい。
秘密を抱えていたくない。
相手の反応を気にしたくない。
期待を膨らませたくない。
当日に妙な緊張感をつくりたくない。
とにかく、すべてをスムーズに進めたい。
それが僕の本音なのだと思う。
まあ、こんなやつ嫌だろう。わかる。
ここまで書いてきて、僕自身も思う。
何という面倒くさい男だろう。
サプライズをされると冷める。
驚いたふりをするのが嫌だ。
人前で祝われるのも苦手だ。
フラッシュモブなんてもってのほか。
そして、自分がプレゼントを贈るときには、何を買ったのか全部伝えてしまう。
ケーキの存在まで事前に報告する。
何なら、当日の予定もすべて説明しておきたい。
まあ、こんなやつ嫌だろう。
わかる。
僕だって、こんな人間が誕生日のお祝いを企画してくれると聞いたら、少し考えてしまう。
「プレゼントは購入済みです」
「ケーキも手配済みです」
「当日は予定どおり進行します」
何だ、その報告は。
取引先か。
誕生日なのだから、もう少し夢があってもいいのではないか。
そう思われても仕方がない。
しかし、僕はそれでいいと思っている。
なぜなら、僕にとって大切なのは、驚かせることではなく、祝うことだからだ。
もちろん、相手がサプライズを望んでいるなら、その気持ちも尊重したい。
僕のやり方が、誰にとっても正解だとは思わない。
サプライズが大好きな人に、何もかも事前に伝えてしまったら、楽しみを奪ってしまうこともあるだろう。
だからこそ、お互いの好みを知っておくことが大切なのだと思う。
サプライズが好きな人もいれば、苦手な人もいる。
突然の出来事を楽しめる人もいれば、事前に知っていた方が安心して楽しめる人もいる。
大げさなお祝いが嬉しい人もいれば、静かな食事だけで十分な人もいる。
どちらが正しいという話ではない。
ただ、僕の場合は、秘密も演出も必要ないというだけだ。
プレゼントは普通に渡してくれればいい。
誕生日は普通に祝ってくれればいい。
感動的な音楽も、大勢の拍手も、突然のダンスも必要ない。
「おめでとう」
「ありがとう」
それで十分ではないか。
むしろ、僕はそのくらいがちょうどいい。
サプライズが嫌いな僕から、最後に一つ
とはいえ、ここまでサプライズを否定してきた僕も、少し考えを改める必要があるのかもしれない。
世の中には、サプライズが好きな人がいる。
フラッシュモブに感動する人もいる。
大勢の人に祝われることを、心から嬉しいと感じる人もいる。
僕が理解できないからといって、その楽しさまで否定するのは違うだろう。
人それぞれなのだ。
ただ、もし僕にフラッシュモブを仕掛けようとしている人がいるなら、どうか考え直していただきたい。
突然、人が踊り始める。
一人、また一人。
気づけば大勢が踊っている。
そして最後に、全員がこちらを向く。
僕は何を見せられているのだ。
家で勝手に踊っといてくれ。
しかし、待てよ。
もし本当にそんなことをされたら、僕も何かお返しをするべきなのかもしれない。
相手は何度も練習して、僕を驚かせようとしてくれたのだ。
それなら、僕もその気持ちに応えなければならない。
そうだ。
ダンスが終わった瞬間、僕は立ち上がろう。
「ありがとう! 本当にびっくりした!」
そして、こう言うのだ。
「実は、僕からもみなさんにサプライズがあります」
その場で踊り始める。
音楽はない。
振り付けもない。
練習もしていない。
ただ、僕が踊る。
一人で踊る。
ひたすら踊る。
周囲は困惑するだろう。
いつ終わるのかもわからない。
しかし、途中で帰ってはいけない。
僕は一生懸命なのだ。
笑顔で見守ってほしい。
拍手もしてほしい。
何なら、感動して泣いてほしい。
なぜなら、これは僕からのサプライズなのだから。
さあ、今度はあなたたちが感動する番だ。
