以前、だんじり祭りを見たことがある。
すごかった。
とにかく、熱気がすごい。
大勢の人たちが声を張り上げ、汗を流し、巨大なだんじりを曳いている。
太鼓の音が響き渡る。
沿道には大勢の観客が集まり、歓声が上がる。
町全体が興奮しているようだった。
僕も思わず見入ってしまった。
すごいなあ。
大人になって、これほど大勢の人間が一つのことに夢中になれるなんて。
しかも、みんな本気なのだ。
遊び半分で参加しているようには見えない。
声を枯らし、全力で走り、仲間と息を合わせる。
まるで人生のすべてを懸けているかのような熱量だった。
しかし、そんな光景を眺めているうちに、僕はあることに気がついた。
なんだか、みんなやんちゃそうだ。
ちょっと怖い。
いや、かなり怖そうな人もいる。
もちろん、見た目だけで人を判断してはいけない。
実際に話してみれば、とても優しい人たちなのかもしれない。
それはわかっている。
ただ、僕が見た限りでは、いかにも真面目な優等生という雰囲気の人が見当たらない。
学級委員長はどこにいるんだ。
生徒会長は?
図書委員は?
もちろん、いるのかもしれない。
普段は図書館で静かに本を読んでいる人が、今日は鉢巻きを巻いて絶叫している可能性だってある。
それはそれで面白い。
でも、どうしても気になる。
ヤンキーって、なんでこんなに祭りが好きなんだろう。
昔から、ヤンキーと祭りには妙に強い結びつきがあるように感じる。
祭りになると、どこからともなく威勢のいい人たちが集まってくる。
そして、誰よりも楽しそうに、誰よりも熱く盛り上がっている。
一体、何が彼らをそこまで夢中にさせるのだろう。
今回は、その理由を僕なりに考えてみたい。
最初に言っておく。馬鹿にしたいわけではない。
まず、これだけは伝えておきたい。
僕は決して、ヤンキーを馬鹿にしたいわけではない。
むしろ、あれだけ一つのことに熱中できる姿は、本当にすごいと思っている。
大人になって、仲間と一緒に声を張り上げ、汗を流し、全力で何かに取り組む。
なかなかできることではない。
素直に羨ましくもある。
そもそも、祭りに参加している人が全員ヤンキーというわけではない。
僕が勝手に、やんちゃそうだと感じただけだ。
普段は真面目に働いている会社員もいるだろう。
優しいお父さんもいるだろう。
学校では優等生だった人もいるかもしれない。
それでも、あの独特の雰囲気と熱量を見ていると、どうしても気になってしまうのだ。
なぜ、ヤンキー的な気質と祭りは、これほど相性がよさそうに見えるのだろう。
批判ではない。
純粋な好奇心である。
僕がだんじりに参加したら、どうなるのだろう。
まず、僕自身が参加した場合を想像してみた。
おそらく、かなりの足手まといになる。
そもそも、最初の段階で問題が発生する。
僕には法被が似合わない。
彼らが着ると、あんなにも勇ましく見える。
ところが、僕が着るとどうだろう。
おそらく、旅館の従業員だ。
「お客様、お食事の準備が整いました」
こちらの方が、しっくりくる。
鉢巻きを巻いても駄目だろう。
だんじりを曳くというより、お客様の荷物を運んでいそうだ。
「お部屋はこちらでございます」
同じ法被なのに、なぜこうも違うのだろう。
彼らが着ると祭りの男になる。
僕が着ると旅館の従業員になる。
法被にも、着る人間を選ぶ権利があるのかもしれない。
しかし、問題は見た目だけではない。
いざ、だんじりを曳くとなれば、さらに大変だ。
みんなが威勢よく走り出す。
僕も必死についていく。
だが、すぐに息が上がる。
「ちょっと待ってください!」
もちろん、誰も待ってくれない。
みんなが息を合わせて動いているのに、僕だけタイミングがわからない。
邪魔である。
下手をすれば危険ですらある。
そして、掛け声。
「そーりゃ!そーりゃ!」
大勢の男たちが声を張り上げる。
僕も負けじと叫ぶ。
「そーりゃ……」
聞こえない。
僕の掛け声なんて、周囲の音にかき消されるだろう。
隣の人にすら聞こえていないかもしれない。
僕が叫んでも叫ばなくても、祭りの盛り上がりには何の影響もない。
もはや、法被を着た通行人である。
見た目は旅館の従業員。
走れば足手まとい。
掛け声も聞こえない。
一体、何をしに来たのだろう。
こうなったら、もう仕方がない。
オリジナルダンスを披露するしかない。
みんなが威勢よく掛け声を出している横で、僕だけ謎のステップを踏む。
右へ二歩。
左へ三歩。
そして華麗にターン。
誰もそんな動きはしていない。
そもそも、だんじりにそんな振り付けは存在しない。
しかし、僕は踊り続ける。
おそらく、怖そうなお兄さんに言われるだろう。
「お前、何してんねん!」
「オリジナルダンスです」
「邪魔や!どけ!」
こうして僕の祭りは、開始五分で幕を閉じる。
さて。
ふざけてしまったが、話を戻そう。
僕には到底真似できないあの熱量。
彼らは、なぜそこまで祭りに夢中になれるのだろう。
① 地元愛が強いから
まず考えられるのは、地元への愛着だ。
だんじり祭りは、単に大勢で騒ぐイベントではない。
自分が生まれ育った町の祭りである。
幼い頃から見てきた景色。
昔から知っている仲間。
世話になった先輩たち。
そして、自分たちの町のだんじり。
そこには、外から来た人間にはわからない特別な思いがあるのかもしれない。
「自分たちの町が一番だ」
そんな誇りが、あの熱量につながっているのではないだろうか。
例えば、まったく知らない町の祭りに参加したとして、同じように熱くなれるだろうか。
おそらく、そうではない人も多いはずだ。
つまり、祭りそのものが好きというより、自分の地元の祭りが好きなのかもしれない。
そして、その地元愛を大勢で表現できる場所が祭りなのだ。
普段、地元が好きだからといって、道端で叫ぶ人はいない。
「俺はこの町が大好きだあああ!」
そんな人がいたら、少し心配になる。
しかし、祭りではそれが自然にできる。
地元への愛情を、全身で表現できる。
これは大きな魅力なのだろう。
② シンプルに目立ちたいから
次に考えられるのは、非常にシンプルな理由だ。
目立ちたい。
これもあるのではないだろうか。
だんじり祭りには、大勢の観客が集まる。
その視線を浴びながら、勇ましく走り、声を張り上げる。
普段の生活では、これほど注目される機会はなかなかない。
しかし、祭りでは違う。
大きな声を出せば盛り上がる。
堂々と振る舞えば、かっこよく見える。
そして、観客から歓声が上がる。
目立つことが歓迎される世界なのだ。
これは、目立つことが好きな人にとって、最高の舞台なのかもしれない。
もちろん、全員が目立ちたくて参加しているわけではない。
裏方として祭りを支えている人もたくさんいる。
それでも、注目を浴びることに喜びを感じる人がいても不思議ではない。
僕の場合はどうだろう。
大勢の観客に見られながら走るなんて、想像しただけで緊張する。
できれば、目立たないところにいたい。
しかし、彼らは違う。
むしろ、人が見ているからこそ、さらに燃える人もいるのではないだろうか。
注目されることが苦手な人間と、注目されることで力を発揮する人間。
祭りは、その違いがはっきり現れる場所なのかもしれない。
③ 周囲に自分をアピールできるから
これは、先ほどの「目立ちたい」とは少し違う。
目立ちたいというのは、注目されること自体が目的だ。
しかし、周囲へのアピールは違う。
「かっこいいだろ、俺!」
これである。
自分の勇ましさ。
力強さ。
男らしさ。
地元での存在感。
そうしたものを、周囲に示すことができる。
しかも、見ているのは知らない観光客だけではない。
地元の友人や先輩、後輩、家族。
気になる異性が見ているかもしれない。
そんな人たちの前で活躍できたら、嬉しいだろう。
「今日のお前、めっちゃかっこよかったな!」
こんなことを言われたら、来年も頑張ろうと思うかもしれない。
特に、普段の自分を知っている人たちに認められることには、特別な喜びがあるように思う。
知らない人に褒められるのも嬉しい。
でも、昔から知っている人に認められるのは、また違う。
そして、もう一つ。
自分自身が、かっこいいと思える。
これも大きいのではないだろうか。
誰かに褒められなくてもいい。
全力で走っている自分。
仲間を引っ張っている自分。
勇ましく声を張り上げている自分。
そんな自分が好きなのかもしれない。
人間には、誰しも少なからず、かっこいい自分でありたいという願望がある。
祭りは、それを堂々と表現できる場所なのだろう。
④ 普段とは違う自分になれるから
普段は会社員だったり、職人だったり、学生だったりする。
しかし、祭りの日には違う。
仕事での役職も、日常の悩みも、いったん脇に置くことができる。
いつもは静かな人が、大声を出す。
普段は感情を表に出さない人が、全力で喜ぶ。
そんな変化が起こるのかもしれない。
祭りには、日常の自分から解放される魅力がある。
大人になると、感情を思い切り表現する機会は意外と少ない。
職場で突然叫んだら、周囲が驚くだろう。
嬉しいことがあっても、飛び跳ねて喜ぶことはあまりない。
でも、祭りではそれができる。
大声を出してもいい。
思い切り興奮してもいい。
全力で感情を表現できる。
もちろん、安全や周囲への配慮は必要だ。
それでも、普段とは違う自分になれるというのは、大きな魅力なのだと思う。
僕だって、普段はできないことを思い切り楽しめる場所があれば、嬉しい。
もっとも、僕の場合はオリジナルダンスになってしまうのだが。
⑤ 仲間と一緒に熱狂できるから
これも非常に大きいと思う。
大人になると、大勢の仲間と一つのことに夢中になる機会は減っていく。
学生時代なら、文化祭や体育祭、部活動がある。
みんなで練習し、準備し、本番を迎える。
成功すれば喜び、失敗すれば悔しがる。
しかし、社会人になるとどうだろう。
仕事で協力することはあっても、あそこまで感情を爆発させる機会は少ない。
だんじり祭りには、それがある。
同じ衣装を着て、同じ掛け声を出し、同じ目標に向かって動く。
一人では味わえない興奮が生まれる。
社会学には、集団で儀式や行事に参加することで強い高揚感や一体感が生まれる「集合的沸騰」という考え方がある。
祭りの熱狂も、これに近いのかもしれない。
自分一人が楽しいのではない。みんなで楽しいのだ。
しかも、周囲が熱くなればなるほど、自分も熱くなる。
自分が熱くなれば、周囲もさらに盛り上がる。
そうして興奮が大きくなっていく。
もしかすると、彼らが夢中になっているのは、祭りそのものだけではない。
仲間と一緒に熱狂する感覚そのものが好きなのかもしれない。
⑥ 子どもの頃からの憧れが続いているから
子どもの頃に見た大人の姿は、意外と心に残る。
大きな声を出して、勇ましく走る。
町中から注目されている。
周囲の大人たちも、みんな楽しそうだ。
そんな姿を見て育ったら、どうだろう。
「自分もいつか、あそこに立ちたい!」
そう思う子どもがいても不思議ではない。
そして、実際に参加するようになる。
最初は小さな役割から始まり、少しずつ経験を積んでいく。
やがて、自分が憧れていた大人たちと同じ場所に立つ。
これは嬉しいだろう。
さらに面白いのは、今度は自分が子どもたちの憧れになることだ。
昔、自分が見上げていた大人たち。
その立場に、今度は自分がなる。
こうして祭りへの熱量が、世代を超えて受け継がれていく。
祭りは、単に毎年開催されるイベントではない。
子どもの頃の憧れを、大人になっても追い続けられる場所なのかもしれない。
⑦ 地元の縦社会と相性がいいから
これも気になる。
だんじり祭りには、先輩と後輩、年長者と若者といった上下関係がある。
そして、いわゆるヤンキー文化にも、先輩後輩の関係を重んじるイメージがある。
もちろん、すべての地域や人間関係がそうだというわけではない。
しかし、両者には共通する部分があるように感じる。
例えば、学校を卒業したら、普通は先輩後輩の関係も少しずつ薄れていく。
それぞれ別の会社に就職し、違う生活を送るからだ。
しかし、地元の祭りがあればどうだろう。
毎年、同じ先輩や後輩と顔を合わせる。
昔からの関係が続いていく。
そして、自分が年齢を重ねれば、今度は後輩を指導する立場になる。
地元の縦社会が、祭りを通じて維持されていく。
これが心地よい人もいるのかもしれない。
また、先輩から誘われたことが参加のきっかけになる場合もあるだろう。
最初はそれほど興味がなかった。
でも、先輩に連れられて参加してみたら楽しかった。
気づけば毎年参加するようになっていた。
そんな人もいるのではないだろうか。
つまり、祭りが好きだから仲間ができるだけではない。
地元の人間関係があるから、祭りに参加するようになる。
この順番もありそうだ。
⑧ 競争心が刺激されるから
だんじりには、町ごとの誇りがある。
自分たちの町のだんじりを、かっこよく見せたい。
ほかの町には負けたくない。
そんな対抗意識も、熱量につながるのではないだろうか。
もちろん、だんじり祭りは単純に勝敗を決める競技ではない。
しかし、競争心は必ずしも点数や順位がなくても生まれる。
「あっちの町、すごいな」
「いや、俺たちも負けてられへん!」
そう思うだけでも、気持ちは高まる。
自分一人のためではなく、町の看板を背負っている。
そう考えれば、自然と力も入るだろう。
地元愛に競争心が加わると、熱量はさらに大きくなる。
そして、仲間と一緒に頑張る理由にもなる。
一人で目立ちたいだけではない。
自分たちの町を誇りたい。
この感情も、祭りを盛り上げる大きな力なのかもしれない。
⑨ 苦労するからこそ達成感が大きいから
だんじり祭りは、楽しいことばかりではないだろう。
準備には時間がかかる。
練習や打ち合わせも必要だろう。
当日は体力を使うし、危険も伴う。
決して楽な行事ではない。
しかし、人間は不思議なもので、苦労した経験ほど強く記憶に残ることがある。
みんなで準備した。
何度も練習した。
本番では必死になった。
そして、無事に祭りを終えた。
そのときの達成感は、相当なものなのではないだろうか。
しんどかったからこそ、楽しかった。
そんな感覚があるのかもしれない。
これは部活動にも似ている。
練習中はつらかった。
でも、引退すると不思議と楽しかった思い出が残っている。
そして、またあの時間を味わいたくなる。
祭りも同じなのかもしれない。
ただ楽しむだけなら、もっと楽な方法はいくらでもある。
それでも、あえて大変なことに挑む。
その苦労を仲間と分かち合うことに、大きな価値があるのだろう。
⑩ あの興奮が癖になるから
太鼓の音。
大勢の掛け声。
観客の歓声。
町中に広がる熱気。
あの空間には、人を興奮させる力があるように感じる。
実際、見ているだけの僕ですら圧倒された。
それなら、参加している人たちはどれほど興奮しているのだろう。
しかも、自分自身が祭りを動かしている。
ただ見ているだけではない。
自分の声、自分の動き、自分の力が、その場の熱狂の一部になっている。
これは相当気持ちいいのかもしれない。
そして、一度その感覚を味わうと、また味わいたくなる。
あの興奮を、もう一度。
そんな思いが、翌年の参加につながるのではないだろうか。
祭りが終わったあと、静かになった町を見て寂しくなる人もいるだろう。
昨日まであんなに騒がしかったのに、今日はいつもの日常に戻っている。
その落差も、祭りを特別なものにしているのかもしれない。
⑪ 祭りが人間関係を維持する場所だから
大人になると、昔の友人と会う機会は減っていく。
仕事がある。
家庭がある。
それぞれの生活がある。
昔は毎日のように会っていた仲間とも、いつの間にか疎遠になる。
しかし、祭りがあればどうだろう。
毎年、集まる理由ができる。
久しぶりに顔を合わせる。
昔話をする。
一緒に準備をする。
そして、また同じ時間を過ごす。
祭りが、地元の人間関係をつなぎ止めている。
そんな役割もあるのではないだろうか。
もしかすると、祭りそのもの以上に、そこで会える人たちが好きな人もいるかもしれない。
「あいつ、今年も来るんかな」
「久しぶりに会えるな」
そんな楽しみがあれば、自然と参加したくなる。
大人になっても、昔の仲間と一緒に何かに夢中になれる。
これは、なかなか貴重なことだと思う。
そもそも、ヤンキーが多いのだろうか。
ここまで考えて、僕はもう一つ疑問を持った。
そもそも、本当にヤンキーが多いのだろうか。
僕は最初、だんじり祭りを見て、みんなやんちゃそうだと思った。
しかし、それは単なる見た目の印象である。
普段はおとなしい人でも、法被を着て鉢巻きを巻き、大声を出していたら、やんちゃそうに見えるかもしれない。
普段は真面目な会社員。
仕事では敬語を使い、静かにパソコンを操作している。
しかし、祭りの日には別人のように叫ぶ。
そんな人もいるだろう。
つまり、ヤンキーが祭りに集まっているのではなく、祭りが人をヤンキーっぽく見せている可能性もある。
これは考えておかなければならない。
僕が見たのは、あくまで祭りの日の姿だけだ。
その人たちが普段どんな生活をしているのかは知らない。
ただ、威勢のよさや仲間意識、上下関係、地元への誇りといった特徴が、いわゆるヤンキー文化と重なって見える部分はある。
だからこそ、僕は不思議に感じたのだろう。
同じ地元でも、祭りに興味がない人はいる。
もう一つ、考えてみたいことがある。
同じ町で育っても、祭りに熱中する人と、まったく興味がない人がいる。
これはなぜなのだろう。
地元愛があるから?
でも、地元が好きでも祭りに参加しない人はいる。
仲間がいるから?
でも、仲間と過ごす方法は祭り以外にもある。
目立ちたいから?
でも、目立つことが苦手でも祭りを楽しむ人はいるだろう。
つまり、一つの理由だけでは説明できないのだ。
子どもの頃の経験。
家族の影響。
友人とのつながり。
本人の性格。
祭りで得られる喜び。
そうしたものが重なり合って、熱中する人とそうでない人に分かれていくのかもしれない。
そして、これは祭りに限った話ではない。
同じ音楽を聴いても、人生が変わるほど夢中になる人もいれば、何も感じない人もいる。
同じスポーツを見ても、熱狂する人と興味がない人がいる。
人間は、自分にとって特別な意味を持つものに熱中する。
彼らにとって、それが祭りなのだろう。
本人たちは、なぜ好きなのか考えたことがあるのだろうか。
ここまで、僕はあれこれ理由を考えてきた。
地元愛。
目立ちたい気持ち。
仲間との一体感。
承認欲求。
子どもの頃の憧れ。
縦社会。
達成感。
いろいろある。
しかし、ふと思った。
そもそも本人たちは、なぜ祭りが好きなのか考えたことがあるのだろうか。
僕はこれだけ真剣に考えている。
でも、実際に参加している人に聞いたら、どうだろう。
「なんでそんなに祭りが好きなんですか?」
「楽しいからや!」
これで終わるかもしれない。
「いや、もう少し詳しく教えてください」
「好きなもんは好きやねん!」
なるほど。
確かに、その通りである。
僕だって、好きなことをすべて理屈で説明できるわけではない。
なぜ本を読むのが好きなのか。
なぜ音楽を聴くのが好きなのか。
理由をいくつも挙げることはできる。
でも、最終的には「好きだから」という答えに行き着くこともある。
人間が何かに熱中する理由なんて、本人にもわからないのかもしれない。
むしろ、理由を考える必要すらないほど夢中になれる。
それは、とても幸せなことなのではないだろうか。
あれだけ熱中できるものがあるのは、羨ましい。
今回、いろいろと考えてみた。
結局、彼らがあれほど祭りに熱中する理由は、一つではないのだと思う。
地元が好きだから。
仲間が好きだから。
目立ちたいから。
かっこいい自分を見せたいから。
昔からの憧れがあるから。
あの興奮が忘れられないから。
そして、ただ純粋に楽しいから。
それぞれの理由が重なり合って、あの熱量が生まれているのだろう。
ただ、僕が一番すごいと思うのは、大人になっても、あれだけ全力で何かに夢中になれることだ。
大人になると、どうしても冷静になってしまう。
恥ずかしい。
疲れる。
面倒くさい。
周囲の目が気になる。
そんな理由で、全力になることを避けてしまうこともある。
しかし、彼らは違う。
声を枯らし、汗を流し、仲間と一緒に全力で祭りを楽しんでいる。
その姿には、素直に敬意を感じる。
もちろん、祭りには安全面や騒音、周辺住民への配慮など、考えなければならない問題もある。
熱中しているからといって、何をしても許されるわけではない。
それでも、ルールを守りながら一つの文化を受け継ぎ、町を盛り上げようとする姿は素晴らしいと思う。
僕には、あそこまで祭りに熱中することはできないかもしれない。
そもそも、法被すら似合わない。
掛け声もかき消される。
走れば足手まとい。
だからこそ、あれほど自然に祭りの中心に立てる人たちが、不思議で仕方なかった。
そして、羨ましくもあった。
来年も、彼らは全力で祭りを盛り上げるのだろう。
僕は、沿道からその姿を眺めていようと思う。
オリジナルダンスの披露は、またの機会にしておこう。
