同僚が怒られている。
どうやら、仕事で失敗したらしい。
上司の声が聞こえてくる。
僕は少し離れたところから、その様子を眺めていた。
大変だな。
かわいそうに。
そう思った。
自分だったら、あんなふうに怒られたくない。
できることなら、同僚にも嫌な思いをしてほしくない。
しかし、そのときだった。
僕の心の中に、別の感情が生まれていた。
安心しているのだ。
よかった。
怒られているのは、僕じゃない。
……。
最低だ。
でも、安心する。
何なんだ、この気持ちは。
同僚は仕事で失敗し、上司に怒られている。
決して喜ばしい状況ではない。
それなのに、僕はどこかホッとしている。
もちろん、同僚が怒られることを願っていたわけではない。
わざと失敗させたわけでもない。
ただ、目の前で起きている出来事を眺めていただけだ。
しかし、安心してしまった。
そして、さらに恐ろしいことに気づいた。
僕の頭の中では、なぜか計算が始まっていたのである。
同僚は、仕事で一回ミスをした。
つまり、マイナス1点。
一方、僕はまだミスをしていない。
0点である。
ということは……。
僕も一回ミスできるではないか。
なんということだ。
突然、心に余裕が生まれた。
これで僕も一回くらい失敗できる。
……。
いや、できない。
そんな制度はない。
そもそも、誰が採点しているのだ。
僕である。
勝手に同僚を減点し、勝手に自分の失敗許容量を増やしている。
会社にそんなルールは存在しない。
同僚が失敗したからといって、僕の失敗が許されるわけではない。
それなのに、なぜか安心している。
なんとも都合のいい頭をしている。
しかし、考えてみれば、こうした感情は仕事中だけに生まれるものではない。
友人の失敗や不幸を聞いたときにも、似たような気持ちになることがある。
今回は、そんな人間の少し嫌な部分について考えてみたい。
なぜ僕たちは、他人の失敗や不幸を知ると安心してしまうのだろうか。
それは性格が悪いからなのだろうか。
そして、そんな感情と、どう向き合えばいいのだろう。
友人が恋人と別れた。かわいそうなのに、なぜか安心する
例えば、こんな場面を想像してほしい。
友人から連絡が来た。
どうやら、恋人と別れたらしい。
長く付き合っていた相手だったという。
「えっ、そうなん? 大丈夫?」
当然、心配になる。
何があったのだろう。
喧嘩でもしたのだろうか。
それとも、何か別の事情があったのだろうか。
友人は落ち込んでいる。
僕は話を聞く。
「それはつらいな」
そう言って、励ます。
実際、気の毒だと思っている。
しかし、その一方で、心のどこかに妙な安心感が生まれていた。
ああ、こいつも一人になったのか。
……。
おい。
何を安心しているんだ。
友人が恋人と別れたのである。
本来なら、心配する場面ではないか。
それなのに、自分と同じ独身になったことに、なぜかホッとしている。
もちろん、友人が別れたからといって、僕に恋人ができるわけではない。
給料が上がるわけでもない。
休日が増えるわけでもない。
僕の生活には、何一つ変化がない。
それどころか、大切な友人が悲しんでいるのだから、むしろ残念な出来事である。
しかし、安心してしまう。
なぜだろう。
そして、もう一つ不思議なことがある。
もし友人から、
「恋人と結婚することになった!」
と報告されたら、どうだろうか。
もちろん、祝福する人もいるだろう。
しかし、その一方で、自分だけが取り残されたように感じる人もいるかもしれない。
友人が幸せになると焦る。
友人が不幸になると安心する。
……。
なんとも厄介な生き物ではないか。
人間というのは。
ここで気になるのは、友人の不幸そのものが嬉しいのか、それとも自分の不安が和らいだことに安心しているのか、という違いである。
この二つは、似ているようで少し違う。
そして、この違いを考えることが、今回のテーマを理解するうえで重要なのだと思う。
なぜ他人の失敗や不幸に安心するのか。5つの心理
他人の失敗を見て安心してしまう。
友人の不幸を聞いて、少しホッとしてしまう。
こうした感情には、いくつかの心理が関係していると考えられる。
もちろん、人間の感情を一つの理由だけで説明することはできない。
同じ出来事でも、安心する理由は人によって違うだろう。
ただ、心理学の考え方を参考にすると、自分の気持ちを理解する手がかりが見えてくる。
① 下方比較。自分より悪い状況の人を見て安心する
まず考えられるのが、下方比較という心理である。
人間は、自分の状況を判断するとき、他人と比較することがある。
これを社会的比較という。
例えば、自分の給料が高いのか低いのか。
仕事ができるのか、できないのか。
人生が順調なのか、そうではないのか。
こうしたことを考えるとき、周囲の人を基準にしてしまうことがある。
そして、自分より悪い状況にある人と比較することを、下方比較という。
例えば、同僚が仕事で失敗した。
自分はまだ失敗していない。
すると、相対的に自分の方がうまくやっているように感じる。
友人が恋人と別れた。
自分はもともと独身である。
しかし、友人も独身になったことで、なぜか安心する。
ここで重要なのは、自分の状況は何一つ変わっていないということだ。
同僚が失敗しても、僕の仕事の能力が上がるわけではない。
友人が失恋しても、僕の恋愛事情が改善するわけではない。
それなのに、安心する。
なぜなら、自分の状況そのものではなく、他人との位置関係を見ているからだ。
相手が下がったことで、自分が上がったような気になってしまう。
しかし、実際には一歩も進んでいない。
なんとも不思議な話である。
考えてみれば、僕たちは日常生活のさまざまな場面で、こうした比較をしているのかもしれない。
他人の成功を見て落ち込む。
他人の失敗を見て安心する。
自分の人生なのに、評価の基準が他人になっている。
これは少し、もったいないことではないだろうか。
② 自分だけじゃないという安心感
次に考えられるのは、自分だけではないと感じることによる安心感だ。
これは下方比較と似ているが、必ずしも相手より優位に立ちたいわけではない。
例えば、自分が仕事で失敗して落ち込んでいたとする。
どうして自分はこんなに仕事ができないのだろう。
周囲の人たちは、みんな上手に働いているように見える。
自分だけが失敗している。
自分だけがダメな人間なのではないか。
そんなふうに考えてしまう。
しかし、ある日、同僚も仕事で失敗した。
すると、ふと思う。
ああ、失敗するのは僕だけじゃないんだ。
この安心感は、相手を見下しているというより、自分だけが不完全な人間ではないと知ったことによるものだろう。
友人の失恋でも、同じようなことが考えられる。
周囲の友人たちは、みんな恋人がいる。
結婚している人もいる。
自分だけが独身で、取り残されているような気がする。
そんなとき、友人が恋人と別れた。
すると、自分だけではないと感じる。
もちろん、友人の失恋は喜ばしいことではない。
それでも、自分と似た境遇の人がいることで、孤独感や焦りが和らぐことはあるだろう。
人間は、必ずしも他人に勝ちたいから比較しているわけではない。
自分だけが違うわけではないと確認したいから、他人を見ていることもある。
ここは、単なる意地悪な気持ちとは分けて考えたい。
③ 自己防衛。自分が怒られずに済んだという安堵
三つ目は、自分が嫌な目に遭わずに済んだという安心感である。
冒頭の同僚の話を思い出してほしい。
同僚が仕事で失敗し、上司に怒られている。
それを見て、僕は安心していた。
よかった。
怒られているのは僕じゃない。
この場合、同僚が失敗したことそのものよりも、自分が怒られていないことに安心している可能性がある。
例えば、目の前で誰かが転んだとする。
大丈夫だろうか。
怪我をしていないだろうか。
そう心配する。
しかし、同時に、自分が転ばなくてよかったと思うこともあるだろう。
誰かが嫌な目に遭っている。
自分は、その状況を免れている。
そこに安堵が生まれる。
人間には、自分の身を守ろうとする働きがある。
だから、他人が怒られている場面で安心したからといって、必ずしもその人の不幸を望んでいるとは限らない。
ただし、ここで一つ問題がある。
同僚が怒られているからといって、僕が安全だとは限らないのだ。
上司の怒りが、次の瞬間には僕に向かうかもしれない。
それなのに、僕は安心している。
なんとも根拠のない安心感である。
④ 嫉妬や劣等感が一時的に和らぐ
四つ目は、嫉妬や劣等感との関係だ。
例えば、昔から何でもうまくいく友人がいたとする。
仕事も順調。
恋愛も順調。
休日には旅行へ行き、毎日楽しそうに暮らしている。
一方、自分はどうだろう。
仕事で失敗する。
恋人もいない。
休日は家で過ごしている。
そんな状況で、友人の幸せそうな話を聞き続けていたら、焦りを感じる人もいるだろう。
別に、友人が悪いわけではない。
しかし、どうしても自分と比較してしまう。
そして、ある日、その友人が恋人と別れたと聞く。
すると、心のどこかで安心する。
ああ、あいつも順調なことばかりじゃないんだ。
これは、相手が不幸になったことによって、自分の劣等感が一時的に和らいだ状態とも考えられる。
しかし、ここでも自分の状況は変わっていない。
他人の幸せが減ったからといって、自分の幸せが増えるわけではない。
それなのに、相手との差が縮まったような気がする。
まるで、人生が競争であるかのように。
しかし、そもそも誰と競争しているのだろう。
友人だろうか。
同僚だろうか。
それとも、自分の頭の中にいる理想の人間だろうか。
他人と比較すること自体が、必ずしも悪いわけではない。
比較によって刺激を受けたり、目標を見つけたりすることもある。
ただ、他人の不幸によってしか安心できなくなってしまったら、少し苦しい生き方になるのではないだろうか。
⑤ シャーデンフロイデ。他人の不幸を嬉しく感じる心理
最後は、シャーデンフロイデという心理である。
少し聞き慣れない言葉かもしれない。
これは、他人の不幸や失敗に喜びを感じることを指す言葉だ。
例えば、普段から偉そうにしている人がいたとする。
何かにつけて他人を見下している。
自分は仕事ができると自慢している。
そんな人が、ある日、大きな失敗をした。
上司に怒られている。
それを見て、思わず感じてしまう。
ざまあみろ。
……。
これは、安心というより、喜びに近い。
相手に対する反感や嫉妬、あるいは当然の報いを受けたという感覚などが関係することがある。
ただし、シャーデンフロイデと安心感は、完全に別々のものとは限らない。
同じ出来事に対して、両方の感情が生まれることもあるだろう。
例えば、いつも自慢ばかりしている同僚が失敗した。
自分が怒られていないことに安心する。
同時に、少しだけ嬉しくなる。
そんな複雑な感情が生まれることもあるかもしれない。
しかし、ここで区別しておきたい。
他人の不幸を聞いて安心することと、他人の不幸を積極的に望むことは違う。
安心してしまったからといって、必ずしも相手を嫌っているわけではない。
ましてや、相手を傷つけたいと思っているとは限らない。
人間の感情は、それほど単純ではないのだと思う。
他人の失敗で「僕も一回ミスできる」と思ってしまう謎の心理
さて、ここで冒頭の話に戻りたい。
同僚が仕事で失敗した。
マイナス1点。
僕はまだ失敗していない。
0点。
よし。
これで僕も一回ミスできる。
……。
いや、だから、できない。
しかし、なぜか心に余裕が生まれるのである。
これは、自分でもなかなか不思議な感覚だ。
例えば、同僚と僕が同じ仕事をしていたとする。
同僚が一回失敗した。
すると、僕の頭の中では勝手に順位表が作られる。
同僚、マイナス1点。
僕、0点。
つまり、僕の方が1点上である。
ここで僕が一回失敗したとしても、二人ともマイナス1点。
同点だ。
なるほど。
これなら大丈夫だ。
……。
何が大丈夫なのだろう。
そもそも、会社は僕たちを二人だけで比較しているわけではない。
同僚がミスをしたからといって、僕のミスが許される保証はどこにもない。
それなのに、勝手に安心してしまう。
これは、他人との相対的な比較によって、自分の失敗への不安が和らいでいるのかもしれない。
自分が完璧である必要はない。
少なくとも、あいつより悪くなければいい。
そんな考え方が、無意識に生まれている可能性がある。
しかし、よく考えてみると、これは危険な安心感でもある。
自分の仕事ができているかどうかではなく、他人がどれだけ失敗したかを基準にしているからだ。
同僚がマイナス1点なら安心する。
しかし、同僚がプラス10点になったらどうだろう。
途端に焦り始めるかもしれない。
自分は何も変わっていないのに。
他人の失敗で安心し、他人の成功で焦る。
自分の気持ちが、他人の成績によって左右されてしまう。
なんとも忙しい人生ではないか。
しかも、採点しているのは自分自身である。
自分で勝手に点数表を作り、自分で勝手に安心したり焦ったりしている。
だったら、最初から採点しなければいいのではないだろうか。
……。
それができれば苦労しないのだが。
他人の不幸に安心してしまう人は、性格が悪いのだろうか
ここまで考えてきて、一つの疑問が残る。
他人の失敗や不幸に安心してしまう人間は、性格が悪いのだろうか。
確かに、あまり褒められた感情ではないかもしれない。
友人が失恋して落ち込んでいる。
それを聞いて安心する。
同僚が上司に怒られている。
それを見て、心の中で点数をつける。
自分で考えていても、なかなか情けない話である。
しかし、だからといって、その人が必ずしも悪い人間だとは言えないと思う。
なぜなら、人間は一度に複数の感情を抱くことがあるからだ。
友人が失恋した。
かわいそうだと思う。
同時に、安心する。
同僚が怒られている。
気の毒だと思う。
同時に、自分でなくてよかったと思う。
どちらか一方が嘘というわけではない。
両方とも、そのときに生まれた感情なのだろう。
そして、感情は必ずしも自分の意思で選べるものではない。
悲しいと思おうとして、悲しくなるわけではない。
嬉しいと思おうとして、嬉しくなるわけでもない。
気づいたときには、もう感じている。
だからこそ、僕は、安心してしまったという事実だけで自分を責めすぎる必要はないと思う。
ただし、感情と行動は分けて考えたい。
友人の失恋に安心してしまった。
それでも、話を聞いて励ますことはできる。
同僚の失敗を見てホッとしてしまった。
それでも、困っているなら手伝うことはできる。
反対に、相手の失敗を笑いものにしたり、わざと傷つけたりするのは別の話だ。
何を感じたかだけではなく、その感情をどう扱うかが大切なのだと思う。
では、他人の不幸に安心してしまう自分と、どのように向き合えばいいのだろうか。
他人の失敗や不幸に安心してしまうときの対処法
ここからは、僕なりに考えた対処法を紹介したい。
他人の不幸に安心する気持ちを、完全になくすことが目的ではない。
そもそも、感情を思いどおりに消すことは難しい。
それよりも、自分がなぜ安心したのかを理解し、他人との比較に振り回されすぎないことが大切なのではないだろうか。
① 安心してしまった自分を責めすぎない
まずは、これである。
他人の不幸に安心してしまった。
最低だ。
自分はなんて性格が悪いのだろう。
そう思うこともあるかもしれない。
しかし、そこで自分を責め続けても、何かが解決するわけではない。
むしろ、安心したことに加えて、そんな自分を嫌いになるという苦しさまで増えてしまう。
だから、まずは自分の感情を認めてみる。
ああ、僕は今、安心したんだな。
それだけでいい。
無理に正当化する必要もない。
反対に、必要以上に否定する必要もない。
感情が生まれたことと、その感情に従って行動することは別である。
安心してしまったとしても、相手を思いやる行動は選べる。
それで十分ではないだろうか。
② なぜ安心したのか、自分に問いかける
次におすすめしたいのは、安心した理由を考えてみることだ。
例えば、同僚が怒られているのを見て安心した。
なぜだろう。
自分も失敗して怒られることを恐れているのかもしれない。
あるいは、自分だけが仕事のできない人間だと思われることに不安を感じているのかもしれない。
友人の失恋を聞いて安心した。
なぜだろう。
自分が独身であることに、どこか焦りを感じているのかもしれない。
周囲の人たちと比較して、自分だけが遅れているように思っているのかもしれない。
もちろん、必ずそうだというわけではない。
ただ、他人の不幸に安心したとき、自分の中にある不安や劣等感が見えてくることもある。
つまり、その感情は、自分自身を理解する手がかりにもなるのだ。
他人の失敗を見て安心した。
そこで終わらせるのではなく、少しだけ考えてみる。
僕は、何を恐れていたのだろう。
何と比較していたのだろう。
本当は、何が不安だったのだろう。
そう考えることで、自分が向き合うべき問題が見えてくるかもしれない。
③ 人生を勝手に点数制にしない
三つ目は、人生を勝手に点数制にしないことである。
同僚が失敗した。
マイナス1点。
僕は0点。
よし、僕も一回ミスできる。
……。
だから、できない。
そんな制度は存在しない。
友人が恋人と別れたからといって、自分の恋愛がうまくいくわけではない。
同僚が失敗したからといって、自分の仕事の評価が上がるわけでもない。
他人の人生と、自分の人生は別のものなのだ。
もちろん、他人と比較してしまうことはある。
人間なのだから、仕方のない部分もあるだろう。
しかし、比較することと、他人の状況によって自分の価値を決めることは違う。
あいつが失敗したから、自分は大丈夫。
あいつが成功したから、自分はダメ。
そんなふうに考えていたら、いつまでたっても安心できない。
だから、ときには頭の中の点数表を破り捨ててみたい。
そもそも、誰も採点を頼んでいないのだ。
④ 他人の失敗より、自分の小さな前進に目を向ける
最後は、自分自身の生活に目を向けることだ。
他人が失敗しても、自分の人生は前進しない。
同僚がマイナス1点になっても、僕がプラス1点になるわけではない。
友人が失恋しても、僕の生活が豊かになるわけではない。
だったら、他人が失敗するのを待つより、自分が何か一つできるようになる方がいい。
仕事で不安があるなら、苦手な作業を少し覚えてみる。
将来に焦りがあるなら、自分が本当にやりたいことを考えてみる。
趣味を楽しむのもいい。
新しいことを勉強するのもいい。
昨日の自分より、少しだけ前に進む。
それだけで十分ではないだろうか。
他人がマイナス1点になることで安心するのではなく、自分がプラス1点になることで安心できたらいい。
……。
もっとも、僕はそもそも点数制をやめるべきなのだが。
どうしても点数をつけたがるらしい。
困ったものである。
他人の不幸を聞いて安心する。それだけで自分を嫌いになる必要はない
他人の不幸を聞いて安心する人間は、性格が悪いのだろうか。
そうなのかもしれない。
少なくとも、あまり立派な感情とは言えないだろう。
しかし、僕はあまり自分を責めなくてもいいと思う。
人間の感情なんて、そんなに単純なものではない。
誰かを心配しながら、安心することもある。
かわいそうだと思いながら、少し嬉しくなることだってあるかもしれない。
そして、そんな自分に気づいて、嫌な気持ちになることもある。
しかし、それも含めて、人間なのではないだろうか。
僕たちは、いつも正しい感情だけを抱いて生きているわけではない。
嫉妬することもある。
羨ましくなることもある。
他人と比較して落ち込むこともある。
そして、他人の失敗に安心してしまうこともある。
大切なのは、その感情をどう扱うかだと思う。
他人の不幸を願う必要はない。
誰かの失敗を笑う必要もない。
ただ、心の中に生まれた感情まで、無理に否定する必要もない。
安心してしまったのなら、なぜ安心したのかを考えてみればいい。
自分が何を不安に思っているのか、少しだけ見つめてみればいい。
そして、困っている人がいたら、できる範囲で力になればいい。
それで十分ではないだろうか。
同僚が怒られている。
かわいそうだ。
しかし、僕は安心している。
友人が恋人と別れた。
気の毒だ。
しかし、心のどこかでホッとしている。
そんな感情が生まれたとしても、それだけで自分を嫌いになる必要はない。
僕たちは、そんなに立派な人間じゃなくてもいいのだから。
