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僕が日本のハロウィンを嫌いな理由。仮装して馬鹿騒ぎ、何が楽しいのか。

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僕はハロウィンが嫌いだ。

いや、正確には、日本のハロウィンが嫌いなのだ。

誤解しないでほしい。

ハロウィンという行事そのものは、むしろ好きである。

秋の夜。

少し冷たくなった風が吹き、街にはオレンジ色のカボチャが並ぶ。

玄関先には、怪しく光るジャック・オー・ランタン。

魔女や幽霊に仮装した子どもたちが、近所の家を訪ねてお菓子をもらう。

古い洋館。枯れ葉の舞う道。薄暗い街灯。

どこか不気味で、それでいて幻想的な世界。

いいではないか。

実にいい。

僕は、あの少しホラーめいた雰囲気が好きなのだ。

怖いのに、ワクワクする。

何か不思議な出来事が起こりそうな、あの独特の空気。

子どもたちが、お化けの格好をして夜の街を歩く。

大人たちは家を飾り付け、お菓子を用意して待っている。

そんな光景を想像するだけで、楽しい気持ちになる。

もちろん、これは僕が魅力を感じるハロウィンの一面であって、海外のすべてがそうだという話ではない。

海外にも、大人が仮装してパーティーを楽しむ文化はある。

それも分かっている。

別に、コスプレが嫌いなわけでもない。

好きなキャラクターになりきる。

衣装を作る。

友人たちと写真を撮る。

大いに結構ではないか。

それぞれが好きなことを楽しめばいい。

ただし、僕には一つだけ理解できないことがある。

なぜ、仮装して繁華街に集まり、馬鹿騒ぎする必要があるのだろう。

毎年、ハロウィンが近づくと、僕は少し憂鬱になる。

理由は簡単だ。

大阪の道頓堀周辺を通って帰宅しなければならないからである。

もちろん、中心部は避けられる。

あの人混みの中へ、自分から突っ込むつもりはない。

僕だって、そこまで無謀ではない。

しかし、問題は中心部だけではないのだ。

周辺にもいる。

あちらにもいる。

こちらにもいる。

魔女がいる。

ゾンビがいる。

何の仮装なのか分からない人もいる。

楽しそうに歩いている人たちが、あちらこちらにいる。

僕は思う。

なぜ、ただ家に帰るだけなのに、こんなにもお化けと遭遇しなければならないのだ。

しかも、本物のお化けなら、まだハロウィンらしい。

僕が好きなのは、少し不気味で幻想的な世界なのだ。

ところが、現実に広がっているのは、賑やかな繁華街である。

怪しく光るカボチャよりも、眩しい看板。

静かな秋の夜よりも、大勢の人の話し声。

僕が求めていたハロウィンは、いったいどこへ行ってしまったのだろう。

目次

そもそも、ハロウィンとは何をする行事なのか

まず、ハロウィンの由来について考えてみたい。

ハロウィンは、毎年10月31日に行われる行事だ。

その起源をたどると、古代ケルト人の祭り「サウィン」との関係が語られる。

季節の変わり目、収穫の終わり、冬の訪れ。

そうした時期に、死者や霊的な存在と人間の世界が近づくと考えられていたという。

その後、キリスト教の諸聖人の日の前夜という意味合いなども重なり、長い時間をかけて現在のハロウィンへと変化していった。

だから、現在のハロウィンを古代の祭りとまったく同じものとして考えることはできない。

時代や地域によって、その意味も楽しみ方も異なる。

それでも、ハロウィンには昔から、死者や霊、季節の移り変わりといった独特の世界観がある。

僕が魅力を感じるのは、まさにそこなのだ。

魔女。

幽霊。

骸骨。

黒猫。

カボチャ。

こうしたものが一つの世界を作り上げている。

少し不気味なのに、どこか愛らしい。

怖いものを、楽しいものへと変えてしまう。

この感覚が好きなのである。

そして、現代では子どもたちがお菓子をもらいに近所を回ったり、家族で飾り付けを楽しんだりする。

実に楽しそうだ。

もちろん、海外にも大規模な仮装イベントや騒がしいパーティーはある。

だから、海外のハロウィンはすべて素晴らしく、日本だけがおかしいと言いたいわけではない。

ただ、僕が日本の繁華街で目にするハロウィンは、そうした魅力とはずいぶん違って見えるのだ。

日本のハロウィンは、いつから仮装して騒ぐイベントになったのか

日本でも、ハロウィンは長い時間をかけて広まってきた。

お菓子や雑貨の販売。

テーマパークでのイベント。

仮装パレード。

商業施設での催し。

こうした取り組みを通じて、ハロウィンは多くの人に知られるようになった。

そして、仮装を楽しむ文化も広がっていった。

ここまでは、僕も理解できる。

日本には、海外の文化を取り入れ、独自の形に変えて楽しむ土壌がある。

クリスマスもそうだ。

バレンタインデーもそうだ。

もともとの宗教的、文化的な意味とは違う形で定着している行事は少なくない。

それ自体を悪いことだとは思わない。

文化とは、そもそも変化していくものだろう。

しかし、僕が不思議なのは、その先である。

なぜ、ハロウィンが繁華街に集まって騒ぐイベントになったのだろう。

誰かが主催する仮装イベントなら分かる。

会場が用意されている。

参加したい人が集まる。

その場で楽しむ。

実に自然なことだ。

しかし、繁華街は違う。

そこには、普段から生活している人がいる。

仕事をしている人がいる。

買い物をしている人がいる。

そして、僕のように、ただ帰宅したい人間もいる。

誰もがハロウィンを楽しみに来ているわけではないのだ。

それなのに、街全体がお祭りの会場のようになってしまう。

ここに、僕は違和感を覚える。

なぜ仮装すると、普段より大胆になれるのか

そもそも、人はなぜ仮装するのだろう。

僕は、仮装そのものを否定するつもりはない。

好きなキャラクターになりきるのもいい。

衣装を自作するのもいい。

友人たちと写真を撮るのもいい。

そこには、普段とは違う自分を楽しむ面白さがあるのだろう。

例えば、普段は人前に出るのが苦手な人でも、仮装していると積極的になれることがあるかもしれない。

いつもの自分ではない。

今日は魔女だ。

今日は吸血鬼だ。

今日はゾンビだ。

そう考えることで、普段なら恥ずかしいこともできるようになる。

ある意味、仮装は自分を解放するための道具なのだろう。

ここまでは理解できる。

しかし、問題はその先だ。

なぜ、自分を解放すると、周囲への配慮まで解放してしまう人がいるのだろう。

仮装したからといって、何をしても許されるわけではない。

ゾンビの格好をしたからといって、通行人に迷惑をかけていいわけではない。

魔女の格好をしたからといって、突然、交通ルールが変わるわけでもない。

ましてや、仮装した瞬間に、その街が自分たちのものになるわけではない。

僕は思う。

仮装を楽しみたいなら、楽しめばいい。

ただし、周囲に迷惑をかけない範囲でお願いしたい。

それだけの話なのだ。

なぜ大勢で集まると馬鹿騒ぎしたくなるのか

もう一つ気になるのが、集団心理である。

一人ではしないことでも、大勢でいるとやってしまう。

これは、ハロウィンに限った話ではない。

周囲が盛り上がっていると、自分も楽しい気分になる。

誰かが大声を出せば、ほかの人も声を上げる。

一人がふざければ、周囲もつられてふざける。

そして、気づけば大騒ぎになっている。

こうした現象には、集団の中で自分自身への意識や責任感が弱まりやすくなる「脱個人化」という心理学的な考え方も関係する場合がある。

もちろん、大勢で集まれば必ずそうなるわけではない。

しかし、周囲の雰囲気に影響され、普段より大胆な行動を取ることは考えられる。

僕は音楽フェスが好きだ。

大勢の人たちと音楽を楽しむ。

好きなアーティストが登場すれば、歓声が上がる。

みんなで盛り上がる。

その楽しさは、よく分かる。

だから、大勢で騒ぐこと自体を否定したいわけではない。

ただし、音楽フェスには会場がある。

参加者は、そこで音楽を楽しむために集まっている。

一方、繁華街には、さまざまな目的を持った人がいる。

買い物をする人。

食事をする人。

仕事を終えて帰る人。

そう。

僕である。

僕は、ハロウィンに参加するために街を歩いているのではない。帰宅するために歩いているのだ。

向こうは非日常を楽しんでいる。

僕は日常に戻りたい。

向こうは、まだまだ夜を楽しみたい。

僕は、さっさと家に帰りたい。

この温度差がすごい。

まるで、違う世界に生きているようだ。

しかも、僕の世界の方が、向こうの世界に侵食されている。

何だ、これは。

異世界転生か。

いや、違う。

僕はただ大阪を歩いているだけである。

ハロウィンはSNSのためのイベントになっていないか

そして、現代のハロウィンを考えるうえで、SNSの存在も無視できない。

仮装した姿を撮影する。

友人たちと写真を撮る。

動画を投稿する。

たくさんの人に見てもらう。

もちろん、それ自体は自由だ。

僕だってSNSを利用している。

自分の好きなものを発信する楽しさも分かる。

ただ、ここで一つ疑問が浮かぶ。

ハロウィンを楽しんでいるのか。それとも、ハロウィンを楽しんでいる自分を見せたいのか。

いや、どちらでもいいのかもしれない。

仮装して写真を撮ること自体が、その人にとって楽しい時間なのだろう。

しかし、SNSで目立つことが目的になると、より派手な格好や、より目立つ行動を求める人も出てくるのではないだろうか。

普通に楽しむだけでは物足りない。

もっと注目されたい。

もっと盛り上がっているところを見せたい。

その結果、周囲への配慮が後回しになってしまうことも考えられる。

僕は思う。

別に、そこまでしなくてもいいではないか。

仮装して写真を撮りたいなら、撮ればいい。

友人と楽しみたいなら、楽しめばいい。

しかし、街中で大騒ぎする必要はあるのだろうか。

そもそも、僕には一つ不思議なことがある。

ハロウィンが終わった翌日、彼らは何を思うのだろう。

「ああ、楽しかった!」

そう思うのだろうか。

それなら、結構なことだ。

しかし、その隣で僕は思っている。

「ああ、ようやく終わった!」

同じイベントなのに、これほど感想が違う。

実に不思議なものである。

日本人の彼らは、いったい何を祝っているのだろう?

そもそも、僕には根本的な疑問がある。

日本人の彼らは、いったい何を祝っているのだろう。

秋の収穫だろうか。

冬の訪れだろうか。

それとも、悪霊を追い払っているのだろうか。

もちろん、行事の歴史を知らなければ楽しんではいけない、などと言うつもりはない。

僕だって、あらゆる行事の由来を理解しているわけではない。

クリスマスにはケーキを食べる。

初詣には神社へ行く。

節分には豆をまく。

何となく参加している行事など、いくらでもある。

だから、ハロウィンの由来を知らないこと自体を批判したいわけではない。

ただ、繁華街で大騒ぎする光景を見ると、どうしても考えてしまうのだ。

彼らが楽しんでいるのは、ハロウィンなのだろうか。

それとも、ハロウィンという名前のついた、別の何かなのだろうか。

別に、10月31日でなくてもいいのではないか。

仮装して集まるだけなら、ほかの日でもできる。

友人と飲みに行くことだってできる。

写真を撮ることもできる。

それなのに、なぜハロウィンなのだろう。

僕には分からない。

もしかすると、馬鹿なことを祝福しているのかもしれない。

いや、そう考えると、少し納得できる。

年に一度、堂々と馬鹿なことをして盛り上がる日。

それが楽しいという人もいるのだろう。

人間には、普段の生活から解放されたいという気持ちがある。

仕事や学校では、周囲の目を気にしながら生活している。

そんな日常から離れ、思い切り楽しみたい。

その気持ちまで否定するつもりはない。

ただし、解放されるのは自分の気持ちだけにしてほしい。

周囲への配慮まで解放しないでいただきたい。

道頓堀のハロウィンを避けて帰宅する僕

さて、ここで僕の話に戻ろう。

毎年、ハロウィンが近づくと、道頓堀周辺は普段とは違った雰囲気になる。

仮装した人たちが集まり、街を歩いている。

もちろん、中心部を通る必要はない。

僕はできるだけ避けて帰る。

それでも、周辺には仮装した人たちがいる。

普通に歩いているだけなのに、次々と異なるキャラクターに遭遇する。

前からゾンビが歩いてくる。

横には魔女がいる。

後ろには、何の仮装なのか分からない集団がいる。

僕は思う。

なぜ、こんなにも敵の種類が豊富なのだ。

まるでホラーゲームである。

しかも、僕は武器を持っていない。

防具もない。

回復アイテムもない。

持っているのは、帰宅したいという強い意志だけだ。

そもそも、僕はゲームに参加した覚えがない。

勝手にゲームの世界へ放り込まれているのである。

ただ、ここで誤解しないでほしい。

仮装した人が歩いているだけなら、何も悪いことはしていない。

僕が勝手に、ホラーゲームのように感じているだけだ。

問題は、その人数が増え、騒がしさや混雑によって、普段の街の使い方が難しくなることなのである。

普段なら、何も考えずに歩ける道。

それが、ハロウィンになると、避ける道を考えなければならない。

なぜだ。

なぜ、僕が作戦を立てなければならないのだ。

僕は、ただ帰宅したいだけなのに。

ハロウィンを楽しんでいる人たちには、きっと分からないだろう。

僕が、どれほど真剣に帰宅したいと思っているのか。

そして、僕もまた、彼らがなぜそこまで真剣に仮装して騒ぎたいのか、理解できないのである。

楽しむ自由と、迷惑をかけられない自由

ここで、一つ大切なことを考えたい。

ハロウィンを楽しむ自由は、もちろんある。

仮装する自由もある。

友人と集まる自由もある。

しかし、だからといって、他人に迷惑をかけていいわけではない。

大声で騒ぐ。

通行の妨げになる。

ゴミを放置する。

こうした行為は、ハロウィンであろうとなかろうと、問題だろう。

むしろ、イベントだからこそ、普段以上に周囲への配慮が必要なのではないだろうか。

なぜなら、そこにはイベントに参加していない人たちもいるからだ。

僕は、仮装している人たちを全員批判したいわけではない。

静かに楽しんでいる人もいる。

周囲に配慮している人もいる。

そうした人たちまで、ひとまとめにするつもりはない。

ただ、ハロウィンを理由に、周囲への迷惑を正当化することには反対だ。

自分たちが楽しいからといって、周囲の人たちも楽しいとは限らない。

これは、ハロウィンに限った話ではない。

お祭りでも、スポーツの優勝祝いでも、年末のカウントダウンでも同じことが起こり得る。

参加している人にとっては、特別な時間。

参加していない人にとっては、いつもと変わらない日常。

だからこそ、楽しむ側には、周囲への配慮が必要なのだろう。

自分たちが楽しいことと、周囲の人たちも楽しいことは、まったく別なのだから。

僕が本当に嫌いなのは、日本のハロウィンなのか

ここまで書いてきて、少し考えが変わった。

僕は最初、日本のハロウィンが嫌いだと言った。

しかし、厳密には、それも少し違うのかもしれない。

日本にも、素敵なハロウィンの楽しみ方はある。

家族で飾り付けをする。

子どもたちがお菓子をもらう。

テーマパークで仮装を楽しむ。

好きなキャラクターになりきる。

そうした楽しみ方には、何の不満もない。

むしろ、楽しそうだと思う。

つまり、僕が嫌いなのは、日本のハロウィン全体ではない。

日本のハロウィンの中でも、繁華街で繰り広げられる迷惑な馬鹿騒ぎが嫌いなのだ。

これなら、納得できる。

考えてみれば、僕は別に、誰かが楽しんでいる姿そのものが嫌いなわけではない。

楽しそうな人を見るのは、悪い気分ではない。

ただ、その楽しさが、周囲への迷惑と引き換えになっているとしたら、話は別だ。

楽しむことと、迷惑をかけることは違う。

そこを混同してはいけないと思う。

そして、もう一つ。

僕は、ハロウィンの世界観が好きなのだ。

秋の夜。

怪しく光るカボチャ。

魔女や幽霊。

少し不気味で、幻想的な雰囲気。

あの世界には、今でも憧れがある。

だからこそ、現実の繁華街で見かけるハロウィンとの違いに、余計に違和感を覚えるのかもしれない。

僕が見たいのは、ホラー映画のようなハロウィンだ。

しかし、実際に目にするのは、仮装した大勢の人たちが集まる繁華街である。

僕が求めているのは、幽霊が出そうな夜であって、酔っ払いが騒いでいる夜ではない。

この違いは、なかなか大きい。

おわりに|僕が好きなハロウィンは、どこへ行ったのだろう

秋は、僕の好きな季節だ。

夏の暑さが和らぎ、空気が少しずつ冷たくなる。

日が暮れるのも早くなり、夜が長くなっていく。

そんな季節に訪れるハロウィン。

怪しく光るカボチャ。

魔女や幽霊。

枯れ葉の舞う街並み。

少し不気味で、どこか幻想的な世界。

僕は、そんなハロウィンが好きなのだ。

子どもたちがお菓子をもらいに歩く。

家族が家を飾り付ける。

誰もが、ほんの少しだけ不思議な夜を楽しむ。

そんな光景には、今でも憧れがある。

しかし、現実は違う。

今年も10月31日が近づいてきた。

また、道頓堀周辺には仮装した人たちが集まるのだろう。

僕は、できるだけ中心部を避けて帰宅するつもりだ。

別に、魔女に会いたくないわけではない。

ゾンビが嫌いなわけでもない。

ただ、静かに家に帰りたいだけなのだ。

考えてみれば、不思議な話である。

本来、僕が好きなハロウィンは、少し怖くてワクワクする夜だった。

しかし、日本の繁華街で迎えるハロウィンは、別の意味で怖い夜になってしまった。

僕が恐れているのは、幽霊でも悪霊でもない。

大勢の人間である。

今年も、無事に帰宅できることを祈ろう。

そして、もし本物のお化けに出会ったなら、こうお願いしたい。

「すみません。あの人たちを、そろそろ連れて帰ってもらえませんか?」

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