鼻くそをほじりながら、こんなことを考えた。
大人が人前で鼻をほじっていると、不快に思う人は多い。
汚い。
みっともない。
人前ですることではない。
おそらく、そんな理由だろう。
電車の中で隣のおじさんが人差し指を鼻の穴に突っ込んで、ホジホジしている。
「うわ……」
そう思う人もいるはずだ。
でも僕は、あまり何とも思わない。
「ああ、鼻ほじってるな」
くらいである。
別に僕の鼻ではない。
僕の指でもない。
僕の鼻くそでもない。
好きにすればいい。
もちろん、そのおじさんが鼻から人差し指を抜いて、僕の肩にペタッとつけてきたら話は変わる。
それはやめてほしい。
そこには明確な一線がある。
ほじるのは自由だ。こっちにつけるな。
僕の鼻くそに対する倫理観は、どうやらこのあたりにあるらしい。
しかし、世の中には鼻をほじっている姿を見るだけで不快になる人もいる。
そこで僕は思った。
なぜだろう。
そもそも鼻くそは、本当にそこまで汚いのだろうか。
そしてもう一つ。
みんな、本当に不快なのだろうか。
僕は鼻をほじりながら、もう少し考えてみることにした。
鼻くそは、本当にそんなに汚いのか
そもそも鼻くそとは何なのだろう。
改めて調べてみると、鼻くそは主に鼻の粘液が乾いたものだ。そこに、鼻が空気中から捕まえたほこりや花粉、微粒子などが混ざっている。
もちろん、清潔なものとは言いにくい。
「こちら、新鮮な鼻くそになります」
と皿に載せて出されたら困る。
だが、触れた瞬間に命の危険が迫るような猛毒でもない。
Cleveland Clinicによると、鼻くそは主に乾燥した粘液で、ほこりや花粉、汚れ、微生物なども含まれる。一方で、鼻くそを誤って食べたからといって、それだけで病気になる可能性が高いわけではないという。そもそも鼻や喉で作られた粘液の多くを、僕たちは普段から無意識に飲み込んでいる。
そう考えると不思議だ。
鼻くそを見る。
「汚い!」
となる。
しかし僕たちは毎日、いろんなものを触っている。
スマートフォン。
電車のつり革。
エレベーターのボタン。
ドアノブ。
お金。
誰が触ったか分からないものを普通に触る。
そのあとスマートフォンを触り、そのスマートフォンをベッドまで持っていったりする。
それには案外平気なのに、知らないおじさんが鼻をホジホジしているだけで、
「汚い!」
となる。
僕たちは別に、目の前の物体に付着している細菌の数を測定してから「汚い」と判断しているわけではない。
そんな能力があったらすごい。
「このつり革、菌が多いな」
ピピピ。
「こっちは少ない」
ピピピ。
人間にそんな機能は搭載されていない。
それでも僕たちは、一瞬で「汚い」「汚くない」を判断する。
ということは、僕たちが言う「汚い」には、衛生的な意味だけではなく、かなり心理的な意味も含まれているのだと思う。
鼻の中にあるときは誰も怒らない
考えてみれば、鼻くそは鼻の中にある間は誰も気にしない。
僕の鼻の奥に、かなり立派な鼻くそが完成していたとする。
誰も怒らない。
電車に乗ってもいい。
本屋に行ってもいい。
会社に行ってもいい。
鼻の穴の奥に巨大な鼻くそを抱えたまま、
「おはようございます」
と挨拶してもいい。
しかし、その鼻くそを人差し指で取り出した瞬間、
汚物が誕生する。
さっきまで僕の一部だったのに。
不思議だ。
唾液も似ている。
口の中に唾液がある。
何とも思わない。
むしろ唾液がまったくなかったら困る。
ところが、その唾液をコップに吐き出した瞬間、急に飲みたくなくなる。
同じ唾液なのに。
身体の中にあるときは「自分」。
身体から離れた瞬間に「汚いもの」。
人間には、そんな境界線があるのかもしれない。
鼻くそも同じだ。
鼻の中にいる。
セーフ。
出てくる。
アウト。
鼻の穴は、清潔と不潔を分ける国境なのだろうか。
ずいぶん小さな国境である。
見ているだけなのに、なぜ不快なのか
ただ、ここでも疑問が残る。
たとえば、向かいのホームにいるおじさんが鼻をほじっているとする。
かなり遠い。
こちらに鼻くそが飛んでくることはない。
臭いもしない。
触られることもない。
その指で僕のスマートフォンを触られることもない。
僕には何の実害もない。
それでも、
「うわ、汚い」
と感じる人はいるだろう。
ということは、「感染するかもしれないから不快」という説明だけでは足りない。
ただ見ているだけで嫌なのだ。
では、何が嫌なのだろう。
鼻の穴に指を入れていること?
鼻くそが取れるところを想像してしまうこと?
人前でやっていること?
大人がやっていること?
ここで僕は、さらに面倒くさいことを考え始めた。
本当に不快だから不快なのだろうか。
逆ではないだろうか。
「これは不快な行為である」と思っているから、不快に感じている部分もあるのではないか。
僕たちは「鼻をほじる大人は汚い」と教わってきた
子どもが鼻をほじっている。
それほど珍しい光景ではない。
親から、
「鼻ほじらないの!」
と注意される。
先生からも言われる。
そのうち僕たちは学習する。
人前では鼻をほじらない。
鼻くそはティッシュに包む。
取った鼻くそをそこら辺につけない。
ましてや食べない。
そうやって「鼻くそに関する社会のルール」を覚えていく。
だから、大人が堂々と鼻をほじっていると、
「この人、ルールを守ってない」
という違和感も発生するのかもしれない。
実際、鼻ほじりそのものは、大人になったら消滅する行為ではない。
1995年に米国ウィスコンシン州の成人を対象に行われた調査では、回答した254人のうち91%が「現在も鼻をほじる」と回答している。ただし回答率などの限界がある古い調査なので、「現代の大人の91%が鼻をほじる」とそのまま一般化することはできない。それでも、成人の鼻ほじりが決して珍しい行為ではないことは分かる。
ほじってるやん。
みんな、ほじってるやん。
少なくとも「大人になれば誰も鼻をほじらなくなる」という世界ではなさそうだ。
では何が変わったのか。
鼻をほじらなくなったのではなく、
人前でほじらなくなった。
これが大きいのかもしれない。
つまり鼻ほじりは、大人になると消える行為ではなく、舞台裏に移動する行為なのだ。
大人には「舞台裏」がある
考えてみれば、鼻ほじり以外にも似たものはたくさんある。
爪を切る。
耳垢を取る。
歯に挟まったものを取る。
足の裏を掻く。
どれも家でやっていれば大したことではない。
しかし会議中に突然、爪切りを取り出して、
パチン。
パチン。
と始めたら、ちょっと気になる。
電車で隣のおじさんが耳かきを始めても、
「今?」
と思う。
行為そのものが悪いわけではない。
場所が違う。
僕たちは大人になるにつれて、「人に見せる自分」と「人に見せない自分」を分けるようになる。
鼻をほじるのは後者なのだろう。
だから人前で堂々とホジホジしている大人を見ると、
「舞台裏を見せられた」
という感覚になる。
でも僕は、そこでまた思う。
別にええやん。
鼻が気になったんだろう。
溜まっていたんだろう。
取ればいい。
僕は結構そう思ってしまう。
僕は彼女の前でも鼻をほじっていた
昔、付き合っていた彼女がいた。
僕はその彼女の前でも普通に鼻をほじっていた。
なぜなら、
溜まっているからだ。
これ以上でも、これ以下でもない。
鼻くそは、彼女が隣にいるからといって空気を読んでくれない。
「おっ、今日は彼女いるやん。ほな今日は生成するのやめとこか」
とはならない。
できるものはできる。
そして気になる。
だから取る。
ホジホジ。
僕は、恋人の前でずっと格好つけている方が不思議だった。
付き合ったばかりなら分かる。
少しでも格好よく見せたい。
寝癖も直す。
服も選ぶ。
変なところは見せたくない。
鼻なんて絶対にほじらない。
でも、ずっと一緒にいるのに、いつまでも完璧な自分を演じ続けるのは疲れないのだろうか。
だらしない格好をする。
変な寝方をする。
しょうもないことを言う。
鼻をほじる。
そういうところまで見せられるようになったとき、人はようやく相手に心を許したと言えるのではないか。
僕はそう考えていた。
彼女は、僕が鼻をほじっていても何も言わない。
これが信頼関係だ。
ありのままの僕を受け入れてくれている。
そういうところに、彼女も惚れたんだろう。
そんなことを考えながらホジホジしていると、彼女が言った。
「鼻ほじらんといて!」
ぐはっ。
痛恨の一撃だった。
二人で築き上げてきた信頼関係が、一瞬にして崩れ落ちた。
僕は彼女の前で鼻をほじれる。
彼女はそんな僕を何も言わず受け入れてくれる。
僕はずっと、そう思っていた。
違った。
受け入れていたのではない。
耐えていたのだ。
僕が愛だと思っていたものは、彼女の我慢だった。
こんなにも悲しいすれ違いがあるだろうか。
鼻からゆっくりと人差し指を抜いた。
行き場を失った人差し指だけが、宙に浮いている。
さっきまで僕と彼女をつないでいると思っていた人差し指が、今は二人の間に深い溝を作っている。
鼻をほじる前の僕には、もう戻れない。
ちなみに、その彼女とはもう別れている。
鼻くそが原因ではない。
たぶん。
「家ではほじるやろ?」
しかし僕は、ただでは倒れなかった。
気になった。
僕だけが鼻をほじっているのだろうか。
聞いてみた。
「家ではほじるやろ?」
「ほじらん」
……。
そんな人がいるのだろうか。
僕は思った。
鼻くそは誰にでもできる。
僕だけの特殊能力ではない。
朝起きたら鼻の中に、
「本日の鼻くそです」
と僕だけに配給されているわけではない。
彼女の鼻にもできるはずだ。
では、それをどうしているのだ。
鼻をかんだときに出ていくのだろうか。
風呂で処理しているのだろうか。
自然にどこかへ消えていくのだろうか。
まさか鼻の奥に永久保存しているわけではないだろう。
「鼻をほじらない」という人は、本当に一度も指を入れないのだろうか。
家で一人。
誰も見ていない。
鼻の入口に、あと少しで取れそうなカピカピがいる。
気になる。
ものすごく気になる。
そんなときでも、
「いかん。私は大人だ」
とティッシュを探しに行くのだろうか。
本当に?
そこまで律儀なのだろうか。
目の前に鼻がある。
手がある。
人差し指がある。
あと数センチだ。
僕ならもう取っている。
鼻をほじらない人は、本当にほじらないのか
ここで気になるのは、「鼻をほじる」の定義である。
鼻をかむだけなら、ほじっていない。
これは分かる。
ティッシュで鼻の入口を拭く。
これも、まあ分かる。
では、ティッシュ越しに指で鼻の中のものを取ったらどうなるのだろう。
素手ではない。
しかし指は鼻に入っている。
これは「鼻をほじる」に含まれるのだろうか。
僕には分からない。
ただ、一つ思う。
人間はときどき、道具を使った瞬間に自分の行為を上品なものへ昇格させる。
手で食べる。
行儀が悪い。
箸で食べる。
上品。
指で鼻を触る。
鼻ほじり。
ティッシュを持つ。
鼻のお手入れ。
やっていることは「鼻の中にあるものを外へ出す」である。
でも、そこに白い紙が一枚登場するだけで、急に文明が始まる。
ティッシュはすごい。
人類と鼻くその間に立ち、社会秩序を守っている。
もしかすると、鼻くそより人差し指が嫌われている
そう考えると、鼻くそそのものよりも、
「素手の人差し指を鼻の穴に突っ込む」
という行為が嫌われているのかもしれない。
鼻をかむ。
普通。
ティッシュで拭く。
普通。
指を入れる。
「うわ、鼻ほじってる」
同じ鼻くそを取り除いているのに、指が登場した瞬間に評価が変わる。
人類は、鼻くそより人差し指に厳しい。
さらに、その指を抜いたあとも重要だ。
取れた鼻くそをティッシュへ。
正解。
ゴミ箱へ。
満点。
机の裏へ。
小学生。
口へ。
……。
ここで、とんでもないルートが登場する。
なんなら、鼻くそを食べる大人もいるらしい
鼻くそについて調べていると、さらに気になる情報を見つけた。
大人になっても鼻くそを食べる人がいるらしい。
そうなのか。
僕は一度、パソコンの画面から目を離した。
鼻をほじる大人がいることには驚かない。
僕もほじる。
むしろ成人を対象にした古い調査では、回答者の大多数が鼻をほじると答えている。
でも、食べる。
そこまで行くのか。
鼻から出てきたものを、
見る。
そして、
パクッ。
……食べたな。
僕は他人が鼻をほじっていても、ほとんど不快に思わない。
では、目の前の人が取れた鼻くそを食べたらどうだろう。
想像してみる。
ホジホジ。
取れる。
指を見る。
パクッ。
「……おお」
たぶん僕は見る。
不快というより、
「食べたな」
と思う。
ちょっと気になる。
もしかすると、僕の「鼻くそに対する不快ライン」は、鼻ほじりより先にあるのかもしれない。
人間には、それぞれ境界線がある。
ほじる。
セーフ。
見る。
セーフ。
丸める。
まあセーフ。
食べる。
ちょっと待て。
僕につける。
完全にアウト。
どうやら僕の場合、自分の口に入れるより、僕につけられる方が嫌らしい。
好きに食べてくれ。
ただし、こっちには来るな。
なぜ大人になっても食べるのだろう
でも、なぜ食べるのだろう。
子どもなら、なんとなく想像できる。
取れた。
何だこれ。
口に入れてみよう。
子どもは世界を触る。
見る。
舐める。
いろんな方法で確かめる。
では、大人はなぜ食べるのか。
調べてみると、これについては意外なほど研究が多くない。
Cleveland Clinicは、鼻くそを食べる理由として、子どもの好奇心のほか、塩気のある味、自己鎮静、そして単純な習慣などを挙げている。つまり「身体に必要だから食べている」というより、長年の癖として一連の動作になっていたり、本人にとって落ち着く行為になっていたりする可能性がある。
なるほど。
これなら少し分かる。
鼻をほじる。
取れる。
見る。
食べる。
本人の中では、ここまでが一つの動作なのかもしれない。
僕たちにも似たような癖はある。
爪を噛む。
唇の皮を噛む。
ささくれを触る。
髪をいじる。
貧乏ゆすりをする。
特に理由はない。
気づいたらやっている。
鼻くそを食べることも、その人にとっては「なぜ?」と聞かれて初めて、
「……なんでやろ」
となる行為なのかもしれない。
僕だって、
「なんで鼻ほじるの?」
と聞かれたら、
「溜まってるから」
としか答えられない。
そこに壮大な思想はない。
鼻くそがある。
指がある。
取る。
ただそれだけだ。
食べる人にとっても、
鼻くそがある。
指がある。
取る。
食べる。
そこまでがセットなのかもしれない。
「おいしいから」食べる人もいるのか
さらにCleveland Clinicの記事では、鼻の粘液に塩分が含まれるため、その塩気を好む可能性にも触れられている。もちろん、だからといって鼻くそを食べることを勧めているわけではない。栄養目的で食べる理由もないとしている。
塩味。
なるほど。
僕は少しだけ考えた。
いや。
考えるのをやめた。
ここから先は戻れなくなる気がする。
「産地によって味が違うのだろうか」
とか考え始めたら終わりだ。
今日は鼻くそについて考えているだけであって、鼻くそソムリエになるつもりはない。
ただ、「大人なのになぜ食べるのか」という疑問に対して、
大人だからすべての癖を合理的な理由でやっているわけではない
という答えは、かなり納得できる。
大人だって爪を噛む。
大人だって貧乏ゆすりをする。
大人だって家で一人なら変な歌を歌う。
大人だって鼻をほじる。
そして一部には、そのまま食べる人もいる。
年齢を重ねたからといって、人間が突然すべて合理的になるわけではない。
僕たちはスーツを着て、仕事をして、税金を払っているだけで、中身には子どもの頃から残っている癖がたくさんあるのだろう。
鼻をほじること自体は、それほど珍しくない
ここで改めて、鼻ほじりそのものについて考えてみる。
先ほど触れた1995年の成人調査では、回答した254人の91%が現在も鼻をほじると回答していた。ほとんどの場合は日常生活に大きな問題を起こすものではなかった一方、ごく一部には長時間ほじったり、鼻を傷つけたりするほど強い行動も見られた。
つまり、
普通の鼻ほじりと、生活や身体に支障が出るほどの鼻ほじりは分けて考えた方がいい。
鼻を一回ホジホジしただけで、
「病気です」
という話ではない。
むしろ研究を見る限り、鼻をほじることそのものはかなりありふれた行動らしい。
なのに、みんな人前ではやらない。
ここが面白い。
かなり多くの人がやっているのに、みんなやっていない顔をして暮らしている。
鼻ほじりとは、秘密結社なのかもしれない。
朝、駅ですれ違う会社員。
ほじっているかもしれない。
コンビニの店員。
ほじっているかもしれない。
部長。
ほじっているかもしれない。
社長。
おそらく鼻はある。
ならば可能性はある。
みんな昼間は澄ました顔をしている。
しかし家に帰り、一人になった瞬間。
ホジホジ。
誰にも見せないだけである。
そう考えると、人間という生き物が少しだけ愛おしく見えてくる。
不快なのではなく、「不快だと思うべきもの」になっている?
もちろん、本当に生理的に嫌な人はいるだろう。
鼻に指を入れている姿を見ただけで、
「うっ」
となる。
その感覚を否定する必要はない。
感情は、本人が感じている時点で本物だ。
でも僕は、それだけではない気もしている。
僕たちは成長する過程で、
「これは汚い」
「これはみっともない」
「これは人前ですることではない」
というルールを大量に覚える。
そのルールと感情が、いつの間にかくっついていることもあるのではないか。
鼻をほじる大人を見る。
「大人なのに」
と思う。
この「大人なのに」が結構重要なのかもしれない。
子どもなら、
「こら、鼻ほじらない」
で終わる。
でも大人なら、
「うわ……」
になる。
同じ鼻。
同じ指。
同じ鼻くそ。
違うのは年齢だ。
つまり僕たちは、鼻ほじりそのものだけでなく、
「大人なら人前で鼻をほじらないはずだ」という期待を破られたこと
にも反応しているのかもしれない。
でも、そんなに大人でいないとダメだろうか
僕はここで、少しだけ鼻をほじる大人の味方をしたくなる。
別にいいじゃないか。
鼻が気になる日くらいある。
鼻の入口にカピカピしたやつがいる。
気になる。
仕事に集中できない。
取る。
スッキリする。
それだけだ。
もちろん、取ったものを共有の机になすりつけたり、誰かにつけたりするのは違う。
それは相手の領域に入っている。
でも、自分の鼻を自分の指でほじっているだけなら、僕はそこまで気にならない。
「みっともない」と言われれば、そうなのかもしれない。
でも、人間なんてそもそも、そんなに美しいことばかりして生きていない。
家では寝転がって屁をする。
寝ているときには口を開ける。
起きたら髪は爆発している。
トイレにも行く。
耳垢もたまる。
鼻くそもできる。
それを全部隠して、
私はいつでも清潔で美しい大人です。
みたいな顔をして街を歩いている。
そっちの方が、考えてみれば不思議である。
「汚い」は物質ではなく、関係なのかもしれない
ここまで考えて、僕は一つ思った。
「汚い」という感覚は、物そのものだけで決まるわけではないのかもしれない。
誰のものか。
どこにあるか。
どう扱われているか。
これで大きく変わる。
自分の鼻の中にある鼻くそ。
何とも思わない。
自分で取った鼻くそ。
まあ、自分のものだ。
知らない人の鼻くそ。
ちょっと嫌だ。
知らない人の鼻くそが自分の服についている。
かなり嫌だ。
つまり同じ鼻くそでも、距離が変われば感情も変わる。
僕が他人の鼻ほじりを見ても平気なのは、
「それはあなたの鼻くそだから、あなたの世界で好きにしてください」
と思っているからなのかもしれない。
でも僕の世界に入ってきた瞬間、
「おい」
となる。
そう考えると、鼻くその問題というより、他人との境界線の問題である。
なんだか急に壮大になってきた。
最初は鼻をほじっていただけなのに。
鼻くそから、人間の常識を考える
結局、「大人が鼻をほじるとなぜ不快なのか」という問いに、一つだけの答えはないと思う。
身体から出たものへの嫌悪。
衛生面への不安。
その指で何かを触られるかもしれないという心配。
人前ではやらないというマナー。
大人ならそのマナーを知っているはずだという期待。
そして、子どもの頃から教えられてきた「鼻ほじり=汚い」というイメージ。
いろんなものが混ざっている。
だから人によって反応も違う。
見るだけで無理な人もいる。
家なら気にしない人もいる。
恋人なら許せる人もいる。
僕みたいに、
「別に好きにほじったらええやん」
と思う人もいる。
そして、なんなら食べる人もいる。
人間は広い。
鼻の穴は狭いのに。
結局、僕は今日もほじる
鼻くそについて調べていたら、ずいぶん遠くまで来てしまった。
最初はただ、
「なんで大人が鼻ほじってたら不快なんやろう」
と思っただけだった。
そこから、
汚いとは何なのか。
不快とは何なのか。
社会のルールとは何なのか。
恋人の前でどこまで素を見せるのか。
大人になっても残る癖とは何なのか。
そして、人間はなぜ鼻くそを食べるのか。
ずいぶん壮大な話になった。
でも、考えてみれば、僕たちが「当たり前」だと思っていることなんて、こういうものなのかもしれない。
みんなが「汚い」と言う。
だから汚いと思う。
みんなが「人前でするな」と言う。
だから人前ではしない。
もちろん、それで社会はうまく回っている。
わざわざ全部の常識に逆らう必要もない。
ただ、ときどき、
「なんで?」
と考えてみるのは面白い。
鼻くそ一つでも、ちゃんと考えてみると、人間の嫌悪や常識や距離感まで見えてくる。
そして僕は、この記事を書きながら一つ分かったことがある。
僕はやっぱり、他人が鼻をほじっていても、それほど気にならない。
食べていたら、ちょっと見る。
たぶん二度見する。
でも、その人が自分の鼻くそを自分で食べているだけなら、その人の自由だ。
僕には関係ない。
ただし。
僕につけるな。
そこだけは譲れない。
そんなことを考えているうちに、鼻の奥がまた少し気になってきた。
何かいる。
カピカピしたやつがいる。
僕は人差し指を鼻の穴に入れた。
ホジホジ。
取れた。
なるほど。
やっぱり、溜まっていた。
