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読書はコスパ最強で、タイパ最悪。だから結局、タイパ最強。

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最近、やたらと「タイパ」という言葉を聞く。

タイムパフォーマンス。

かけた時間に対して、どれだけのものを得られたか。

動画は倍速で見る。

長い動画より、短い動画。

映画やドラマだって倍速で見る人がいる。

YouTubeを開けば、「10分でわかる〇〇」がある。

もっと急いでいる人には、「5分でわかる〇〇」がある。

さらに急いでいる人には、「1分でわかる〇〇」まである。

もう、みんな急ぎすぎである。

1分で何もかもわかろうとしている。

そのうち、

「3秒でわかるロシア文学」

とか出てくるんじゃないだろうか。

「暗い! 長い! 人多い!」

終わり。

たしかに便利ではある。

僕だってYouTubeを見るし、短い解説動画を見ることもある。

わざわざ30分かけなくても、5分で知れるならありがたい。

時間は有限だ。

人生は短い。

できるだけ効率よく生きたい。

その気持ちはよくわかる。

ただ、僕にはその流れと完全に逆行している趣味がある。

読書である。

しかも僕は読むのが遅い。

かなり遅い。

読む。

止まる。

戻る。

また読む。

気になる文章を見つける。

メモする。

「これ、どういう意味だろう」と考える。

もう一度読む。

さっきのページに戻る。

気づけば全然進んでいない。

タイパなんて、あったもんじゃない。

今日はそんな、時代に逆らい続ける読書について考えてみたい。

読書はコスパ最強で、タイパ最悪。

でも最近、思う。

いや。

よく考えたら、読書って結局タイパまで最強なんじゃないか、と。

目次

読書という趣味、安すぎないか

まず、コスパの話をしたい。

読書という趣味は、冷静に考えるとかなり安い。

もちろん本の値段は昔より上がっている。

新刊の単行本なら2000円前後することも珍しくない。

本屋で何冊かまとめてレジへ持っていき、

「おお……」

となることもある。

僕もなる。

本は軽そうな顔をしているくせに、五冊くらい集まると財布にまあまあの一撃を与えてくる。

しかし、それでも一冊2000円くらいだ。

一冊買えば、何時間も楽しめる。

僕のように読むのが遅ければ、もっと楽しめる。

「読むのが遅い」という弱点が、ここにきてまさかのコスト削減に貢献してくる。

一冊を一週間かけて読むなら、2000円で一週間遊べる。

一日あたり約300円。

悪くない。

いや、かなりいい。

しかも、これは新品の話だ。

古本屋へ行くと世界がさらにおかしくなる。

300円。

200円。

ものによっては130円くらいで本が売られている。

何十年も読み継がれてきた名作が、130円。

作者が長い時間をかけて書いた。

編集者が読んだ。

校正された。

印刷された。

書店に並んだ。

何万人もの人が読んだ。

時代を越えて残った。

そして今、

130円。

ペットボトルの飲み物と戦っている。

本当にそれでいいのだろうか。

こちらとしてはありがたいけれど、少し申し訳なくなってくる。

「あなた、名作ですよね?」

と確認したくなる。

300円の古本を一冊買って、それを一週間かけて読む。

一日40円ちょっとである。

40円で何ができるだろう。

今の時代、40円を握りしめて街へ出ても、かなり心細い。

しかし本なら、その40円ほどで一日遊べてしまう。

図書館まで行けば、ついに無料になる。

強すぎる。

読書という趣味は、価格設定をどこかで間違えている気がする。

月5000円でも、かなり遊べる

たとえば、趣味に使うお金を月5000円と決める。

5000円。

決してゼロではない。

でも、大人の趣味として考えれば、そこまで大きな金額でもないと思う。

その5000円で新刊を一冊買う。

残りで古本を何冊か買う。

古本なら300円や500円で見つかることもあるから、組み合わせ次第ではかなり買える。

それだけで、一か月ずっと読むものがある。

むしろ僕の場合、読み切れない可能性すらある。

コスパが良すぎて、供給が需要を追い越してくる。

財布より先に、僕の読書速度が敗北する。

本棚には、

「買いましたよね?」

という顔をした本たちが並び始める。

すまない。

順番に行く。

新刊を買ってもいい。

古本を探してもいい。

図書館を利用してもいい。

月5000円という予算でも、読書ならかなり長く遊べる。

そして、本のすごさは「何時間遊べるか」だけではない。

300円で、他人の人生を生きられる

考えてみれば、おかしな話だ。

僕は300円くらいで買った小説を開くだけで、他人の人生に入ることができる。

高校生にもなれる。

老人にもなれる。

自分とは違う仕事をしている人にもなれる。

自分とはまったく違う性格の人間の頭の中にも入れる。

恋愛する。

失恋する。

結婚する。

離婚する。

誰かを憎む。

誰かを許す。

事件に巻き込まれる。

犯人を追いかける。

ときには自分が犯人だったりする。

現実でやったら大変なことばかりである。

でも、本なら大丈夫だ。

殺人事件に巻き込まれても、本を閉じれば僕は部屋にいる。

ありがたい。

安全性が高すぎる。

しかも、飛べるのは他人の人生だけではない。

時代まで飛べる。

100年前へ行ける。

1000年前へ行ける。

まだ生まれていない未来へも行ける。

日本を出ることもできる。

宇宙へ行くこともできる。

この世に存在しない国にだって行ける。

旅行なら、知らない場所へ行ける。

小説なら、知らない人間の頭の中まで行ける。

これがすごい。

僕とはまったく違う価値観を持った人間が、何を見て、何を考えているのか。

「いや、僕なら絶対そんなことしない」

と思うこともある。

「こいつ嫌いやな」

と思うこともある。

でも読み進めていると、

「……いや、ちょっとわかるかもしれない」

となったりする。

現実なら絶対に仲良くならないような人間の人生を、僕は数百円で何時間も追いかける。

こんなことあっていいのか。

300円で一週間楽しめて、他人の人生まで味わえて、時代まで飛び越えられる。

コスパだけで考えれば、読書はほとんど反則だと思う。

ただし、致命的な問題がある

そんな読書にも、一つだけ大きな問題がある。

時間がかかる。

めちゃくちゃかかる。

映画なら二時間くらいで終わる。

YouTubeなら10分で解説してくれる。

本の内容を知りたいだけなら、ネットであらすじを検索すれば数分で済む。

それなのに僕は、300ページを最初から読む。

一文字ずつ読む。

しかも、先ほど書いたように、僕は読むのが遅い。

ただ文字を追うだけでも遅いのに、途中で止まる。

いい文章を見つけたら止まる。

メモする。

考える。

「これ、さっきの場面とつながってるんじゃないか」

と思ったら戻る。

ページをめくるどころか、逆方向へ進んでいる。

読書界の逆走車である。

一時間読んで、

「今日はかなり読んだな」

と思ってページ数を見る。

全然進んでいない。

絶望する。

でもまた読む。

タイパという観点だけで見れば、かなりひどい。

一冊読むのに何日もかかる。

長い本なら一週間以上かかる。

その間、ずっと同じ本を持ち歩いている。

世間がショート動画を何百本と見ている間に、僕はまだ同じ人物の人生を追いかけている。

遅い。

圧倒的に遅い。

しかも僕は、ただ読むだけではない。

気になった文章をメモする。

読み終わったあとに考える。

感想を書くこともある。

「あの場面はどういう意味だったんだろう」

と、読み終わってからまで考える。

本はもう閉じているのに、読書だけが終わっていない。

タイパなんて、あったもんじゃない。

しかも僕は、最強の遅読だ。

僕の遅読については、こちらの記事も見てほしい。

速読とは真逆の世界で生きている。

タイパを重視する人から見れば、

「何をしているんだ」

と思われるかもしれない。

僕もちょっと思う。

1分でわかるなら、1分でいいじゃないか

では、もっと効率よくすればいい。

本を一冊読む代わりに、要約を見ればいい。

YouTubeには、本の内容を短時間で説明してくれる動画がたくさんある。

10分。

5分。

1分。

すごい。

一冊読むのに五時間かかるところを、1分で済ませられる。

300倍速である。

五時間あれば、1分動画を300本見られる。

理論上は、一日でとんでもない知識人になれそうだ。

朝は哲学。

昼は経済。

夕方は心理学。

夜には世界史を理解している。

寝るころには森羅万象を理解しているかもしれない。

これはすごい。

僕もそういう動画を見る。

「へえ」

と思う。

「なるほど」

と思う。

「勉強になったな」

と思う。

そして次の動画を見る。

また「へえ」と思う。

次。

「なるほど」

次。

「知らなかった」

次。

次。

次。

そして翌日。

何を見たのか、ほとんど覚えていない。

昨日、僕は確実に何かを学んだはずである。

たくさん「へえ」と言った。

たくさん「なるほど」と思った。

しかし、何に「へえ」と言ったのかがわからない。

「なるほど」だけが残って、中身が消えている。

空っぽのなるほどである。

もちろん、すべての動画がそうだと言いたいわけではない。

映像だからこそ理解しやすいものもあるし、短い解説が役に立つこともたくさんある。

僕自身、利用している。

ただ、僕の場合は短時間で次々に情報を入れたときほど、驚くほど何も残っていないことが多い。

情報を得たというより、

情報が僕の頭の中を通過していっただけなのかもしれない。

でも、よく考えるとどうだろう

ここで一度、考えてみたい。

読書は、本当にタイパが悪いのだろうか。

たしかに時間はかかる。

一冊読むのに何時間も使う。

僕ならもっと使う。

メモまで取る。

立ち止まる。

考える。

数ページ戻る。

とんでもなく非効率だ。

でも、よく考えるとどうだろう。

そもそも「短い時間でたくさんの情報を得ること」だけが、タイパなのだろうか。

1分で一冊の内容を知って、翌日には全部忘れている。

一方で、一週間かけて読んだ小説の一文を、五年後にも覚えている。

どちらの方が、本当に時間を有効に使えているのだろう。

たとえば、一時間で100個の情報を得たとする。

ものすごい効率だ。

でも翌日、そのうち99個を忘れていたらどうだろう。

逆に、一冊の本に五時間使った。

効率は悪い。

でも、その本から得た一つの考え方が、その後の自分にずっと残った。

十年後にも思い出す。

何かを決めるとき、その言葉が頭に浮かぶ。

そう考えると、

「時間をかけた=タイパが悪い」

とは単純には言えない気がする。

読書には「考える時間」が勝手についてくる

読書が遅い理由の一つは、自分で考えなければならないからだと思う。

小説には映像がない。

声もない。

登場人物の顔も、街の景色も、部屋の広さも、自分の頭の中でつくらなければならない。

文章を読んで、

「こんな場所かな」

と想像する。

登場人物が何かを言えば、

「なんでこんなことを言ったんだろう」

と考える。

ときには作者が答えを書いてくれない。

「これはどういう意味だったんだ」

と思ったまま本を閉じることもある。

不親切である。

2000円払ったのだから答えを教えてほしい。

しかし、教えてくれない。

仕方がないので考える。

翌日も考える。

仕事中にふと思い出す。

電車の中で、

「あれ、もしかしてこういうことだったのか」

と気づく。

その瞬間、本はもう手元にない。

それでも読書は続いている。

これが僕は好きだ。

動画は、基本的に向こうから進んでくる。

ぼーっとしていても次の情報が流れてくる。

読書は違う。

僕が読まなければ、一文字も進まない。

そして、ときどき僕自身が勝手に止まる。

文章の前で立ち止まる。

考える。

戻る。

また読む。

効率は悪い。

でも、その非効率な時間に、自分の頭を使っている。

「わかった」と「残った」は違う

1分の要約を見れば、「わかった」と思える。

これは便利だ。

でも、「わかった」と「残った」は同じではない。

もっと言えば、

「内容を知っている」と「その本を読んだ」も、たぶん違う。

あらすじだけなら数分で知ることができる。

主人公が誰なのか。

何が起きるのか。

最後にどうなるのか。

全部知ることはできる。

でも、小説を読んでいるときに僕が使っている時間の多くは、そこではない。

何も起きていない会話。

ちょっとした描写。

登場人物のどうでもよさそうな仕草。

妙に気になる一文。

物語の本筋とは関係なさそうな寄り道。

そういうものに時間を使っている。

要約すれば真っ先に削られそうなところで、僕は立ち止まっている。

でも、なぜかそういうところが一番残ったりする。

何年も前に読んだ小説。

細かいストーリーは忘れている。

登場人物の名前も怪しい。

結末すら、

「あれ、どうなったっけ」

となる。

なのに、一つの場面だけ覚えている。

一つの言葉だけ残っている。

不思議だ。

本の内容を全部覚えているわけではない。

むしろかなり忘れている。

それでも、その本を読んだ時間そのものが、自分のどこかに沈んでいる。

遅く読むことは、本当に損なのか

僕は読むのが遅い。

昔は、もう少し速く読めたらいいのにと思うこともあった。

世の中には一日に何冊も読む人がいる。

年間100冊。

200冊。

300冊。

すごい。

僕には無理だ。

一冊の途中で立ち止まっている。

でも今は、それでいいと思っている。

僕は一冊からできるだけ受け取りたい。

作者が書いた言葉と、余計な会話をしたい。

「これはどういう意味ですか」

と勝手に問いかけたい。

登場人物に、

「いや、それは違うやろ」

と言いたい。

数ページ戻って確認したい。

気になる言葉をメモしたい。

読み終わったあとにも考えたい。

それを全部やっていたら、当然遅くなる。

でも、それが僕の読書なのだと思う。

速く読むことが目的になってしまったら、僕が本を読む理由とは少し違ってくる。

たくさん読むために読んでいるわけではない。

早く読み終えるために読んでいるわけでもない。

読み終えた本の冊数を増やすためでもない。

その一冊の中で、何かに引っかかりたい。

一つでもいい。

自分の中に持って帰りたい。

人生単位で考えたら、むしろ速すぎる

そして、もう一つ思う。

読書は一冊読むのに何時間もかかる。

だからタイパが悪い。

本当にそうだろうか。

僕たちは、自分の人生しか生きられない。

当たり前だ。

僕が80歳まで生きたとしても、80年分しか生きられない。

しかも、その80年で経験できることには限界がある。

行ける場所も限られている。

出会える人も限られている。

できる仕事も限られている。

生きられる時代なんて一つだけだ。

平安時代に行ってみたいと思っても無理である。

未来の地球も見られない。

別の人間として生まれ直すこともできない。

でも、本なら数時間でできる。

数時間で、知らない人間の人生に入れる。

数時間で、100年前へ行ける。

数時間で、外国へ行ける。

数時間で、自分とは正反対の価値観を持つ人間の頭の中を覗ける。

これ。

人生という単位で考えたら、むちゃくちゃタイパがいいんじゃないだろうか。

本来なら一生かかっても経験できないことを、数時間で疑似体験している。

一冊五時間。

たしかにYouTubeの1分動画と比べれば遅い。

でも、一人の人生を五時間で味わえると考えたら、速すぎる。

五時間で人生一本。

かなりの高速道路である。

300円で他人の人生を一週間味わえる。

2000円で知らない時代へ行ける。

本を閉じれば自宅へ帰ってこられる。

交通費もいらない。

パスポートもいらない。

タイムマシンもいらない。

冷静に考えると、とんでもないサービスである。

タイパ最悪。だから結局、タイパ最強

読書は遅い。

時間がかかる。

一冊読む間に、短い動画なら何百本も見られる。

僕なんて途中で止まる。

戻る。

メモする。

考える。

最強の遅読である。

タイパなんて、あったもんじゃない。

でも、その時間があるから残るものがある。

すぐに答えが出ないから考える。

わからないから戻る。

登場人物と何日も一緒にいるから、その人のことを考える。

一週間かけて読んだからこそ、その一週間、自分の生活のどこかにその物語がいる。

そうやって時間をかけて読んだ一冊が、何年後かに突然戻ってくることがある。

昔読んだ一文を思い出す。

あの登場人物のことを思い出す。

そのときにはわからなかった言葉が、何年か経って急にわかる。

そんなことがある。

だったら、タイパって何だろう。

一分あたりに何個の情報を入れられたか。

それだけで測るものなのだろうか。

僕はそうは思わない。

使った時間から、どれだけ長く何かを持って帰れるか。

それもまた、時間のパフォーマンスだと思う。

1分で知って、次の日に忘れる。

一週間かけて読んで、十年後にも一文を覚えている。

どちらが効率的なのか。

少なくとも僕には、後者の方がずっと贅沢で、ずっと効率的に思える。

だから僕は、これからも遅く読む。

立ち止まる。

戻る。

メモする。

考える。

一冊を読むのに何日もかける。

たぶんこれからも、世の中はもっと速くなっていく。

動画はもっと短くなるかもしれない。

情報はもっと早く手に入るようになる。

それはそれで便利だ。

僕も使う。

でも、その横で僕は今日も本を開く。

300ページを、何時間もかけて読む。

効率が悪い。

最高だ。

読書はコスパ最強で、タイパ最悪。

そして、そんなタイパ最悪の時間が何年も自分の中に残るのなら。

だから結局、読書はタイパ最強なのだ。

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