MENU

健康診断が苦手すぎる。少しだけ憂鬱を和らげるために僕がしていること

当ページのリンクには広告が含まれています。

健康診断がたまらなく苦手だ。

「健康診断」という四文字を見ただけで、少し気持ちが沈む。

会社から健康診断の日程を知らされる。

まだ一か月も先だったりする。

なのに嫌だ。

一週間前になる。

もっと嫌だ。

前日になる。

かなり嫌だ。

そして当日、病院へ向かう。

嫌だ。帰りたい。

ところが、である。

一通りの検査を終えて病院を出ると、毎年ほとんど同じことを思う。

「あれ、こんなもんだったっけ」

そうなのだ。

終わってしまえば、だいたいこんなもんなのである。

もちろん楽しくはない。

テーマパークから出てきたときのように「また来たいな」とはならない。

来年までできれば近づきたくない。

でも、あれほど何日も前から嫌がるほどのことだったかと言われると、毎回ちょっと首をかしげる。

そして僕は思う。

来年はもう少し気楽に行けるかもしれない。

一度経験したんだから大丈夫だ。

来年の僕は、今年の僕より少し成長しているはずだ。

そして一年後。

「健康診断のお知らせ」がやってくる。

嫌だ。

何も成長していない。

去年の「あれ、こんなもんか」はどこへ行ったのだろう。

僕の健康診断に対する経験値だけ、毎年きれいにリセットされている。

だから今年は、少し考えてみることにした。

そもそも僕は、健康診断の何がそんなに嫌なのだろう。

そして、この毎年やってくる憂鬱を、ほんの少しでも軽くする方法はないのだろうか。

目次

健康診断の何がそんなに嫌なのだろう

最初に思いつくのは、やっぱり採血だ。

僕は採血が苦手である。

ただ、針が怖いというのとは少し違う。

もちろん刺されて嬉しくはない。

「もっと刺してください」と思ったこともない。

できれば一生、僕の皮膚には何も刺さらないでほしい。

でも、針の痛みだけなら一瞬だ。

僕が本当に苦手なのは、

「いま、自分の身体から血が抜かれている」

という事実なのだと思う。

これが気持ち悪い。

考えてみれば、血なんて毎日僕の身体の中を流れている。

今この文章を書いている間も、せっせと働いてくれている。

ありがたい。

これからも頑張ってほしい。

ただし、僕はできれば彼らの姿を見たくない。

血液とはそういう関係でいたい。

こちらは生活する。

そちらは体内を流れる。

お互い自分の仕事を黙々とこなしていこう。

それでいい。

なのに採血の日だけ突然、

「こちらが普段あなたの身体を流れている血液になります」

と紹介される。

いや、見せなくていい。

知っている。

存在は知っているから。

わざわざ対面させなくていい。

僕と血液は、体内だけの付き合いでいたいのである。

そもそも、なんで僕の血を抜くんだ

採血が始まると、毎回ちょっと思う。

なんで僕の血を抜くんだ。

いや、理由は知っている。

検査するためである。

健康状態を調べるために必要なのだ。

もちろん分かっている。

理屈では100%理解している。

でも、感情は別である。

僕の血だぞ。

生まれてからずっと大切に体内で保管してきた血である。

それを、

「少しチクッとしますね」

という軽快な一言とともに持っていかれる。

こちらとしては、なかなか重大な取引である。

そして透明な管を通って、自分の血が容器へ入っていく。

僕はあれを見ることができない。

というより、見ない。

絶対に見ない。

見たところで得することが一つもないからだ。

「ああ、僕の血ってこんな色なんだ」

という新しい発見もいらない。

知っている。

赤だ。

それで十分である。

僕は病院という空間そのものも苦手だ

採血だけではない。

そもそも僕は、病院という空間があまり好きではない。

これは説明するのが難しい。

病院で働いている人が嫌いなわけではもちろんない。

むしろ体調が悪いときに助けてもらえる、とてもありがたい場所だ。

それでも、好きか嫌いかと聞かれたら、迷うことなく苦手だと答える。

独特の空気。

待合室。

検査室。

医療器具。

次々と名前や番号を呼ばれていく人たち。

普段なら意識しない「身体」というものを、急に強く意識させられる。

健康なとき、僕は自分の内臓についてほとんど考えない。

胃がどんな仕事をしているのかも、肝臓が今日どれくらい頑張っているのかも知らない。

知らないけれど、それで困らない。

身体の中のことは、身体に任せている。

ところが病院に入ると、それまで見えなかった身体の内部が急にこちら側へ近づいてくる。

血圧。

血液。

心電図。

数値。

正常。

異常。

要観察。

再検査。

自分の身体が、次々と測定可能なものに変換されていく。

僕はただ普通に生きていただけなのに、突然いろんな数字を突きつけられる。

あまり見たくない通知表を受け取る感覚に、少し似ているのかもしれない。

結果を知るのも、やっぱり少し怖い

健康診断を受けるということは、自分の身体について「知らなかったことを知る」可能性があるということでもある。

昨日まで普通に生活していた。

ご飯を食べて、本を読んで、仕事をして、寝ていた。

でも健康診断の結果に何か書かれていたら、昨日までと同じ身体なのに、その瞬間から身体の見え方が変わるかもしれない。

身体そのものが突然変わったわけではない。

知っていることが変わっただけだ。

それでも怖い。

だからといって、知らなければいいという話ではもちろんない。

早く知ったほうがいいことだってある。

健康診断が大切なのも分かっている。

分かっている。

分かっているのだ。

でも、

「必要なこと」と「嫌なこと」は普通に両立する。

歯医者だって必要だ。

税金だって払わなければならない。

部屋の掃除だってしたほうがいい。

必要だからといって、人間が自動的にそれを好きになるわけではない。

健康診断も同じである。

たぶん僕は「強制イベント」が苦手なのだ

そして考えているうちに、もう一つ大きな理由に気づいた。

僕は健康診断が嫌いというより、

「強制イベント」

が苦手なのだ。

自分で「健康診断を受けよう」と思って予約したのなら、まだいい。

それは自分で決めたことだからだ。

でも会社の健康診断は違う。

「健康診断があります」

と突然、未来の予定が決まる。

僕がその日に何をしたいかは関係ない。

「行きますか?」

ではない。

行くことはすでに決まっている。

自分で「行く」と決めていないのに、行くことだけが決まっている。

僕はこの感覚が苦手なのだと思う。

しかも予定というのは不思議なもので、その時間だけを奪っていくわけではない。

未来に嫌な予定が一つ置かれると、その周囲まで少し暗くなる。

一週間前に思い出す。

「ああ、来週健康診断か」

三日前。

「もうすぐか」

前日。

「明日か……」

まだ何もされていない。

針も刺されていない。

病院にすら行っていない。

なのに僕はもう健康診断に苦しめられている。

健康診断自体は数時間なのに、僕は律儀に何日も前から参加しているのである。

しかも僕の会社では休日に行かなければならない

これも、僕の健康診断への好感度をかなり下げている。

僕の会社では、健康診断に休日を使わなければならない。

これがどうにも納得できない。

仕事中に行けるなら、僕の気持ちはかなり違うと思う。

「健康診断なので行ってきます」

と言って仕事から離れ、検査を受けて戻ってくる。

それなら仕事の一部という感じがする。

でも休日となると話が変わる。

僕の休日に、健康診断がいる。

なんでお前がここにいる。

僕が自分から、

「最近ちょっと身体が気になるな。病院へ行こう」

と予約したなら分かる。

僕の予定だから、僕の休日を使おう。

でも会社から「受けてください」と言われた健康診断に、自分の休日を差し出す。

どうにも腑に落ちない。

会社が本当に僕の健康を心配しているのかどうかなんて、僕には分からない。

ただ、休日に行ってくださいと言われると、

「あなたの健康を心配しています」

というより、

「会社としてやらなければならないので、受けてきてください」

と言われているような気持ちになってしまう。

もちろん健康診断そのものは僕のためにもなる。

それは分かっている。

でも健康のために休日を使って、そのせいで僕の心がちょっと不健康になっている。

なんだか妙な話である。

大人だって、苦手なものは苦手だ!

そして健康診断が近づくと、もう一人の自分が出てくる。

「いい大人なんだから」

という自分である。

採血くらい普通に受けろ。

毎年やっているだろう。

子どもだって受けている。

大したことじゃない。

確かにそうだ。

でも僕は最近、こう思うようになった。

大人だって、苦手なものは苦手だ!

大人になったら、すべての恐怖や苦手が消滅するわけではない。

一人で病院へ行ける。

受付もできる。

問診票も書ける。

保険証も出せる。

健康診断が必要な理由も理解できる。

それでも嫌なものは嫌なのだ。

むしろ大人になると、

「これが苦手です」

と言いづらくなることがある。

子どもが注射の前に「怖い」と言えば、それほど不思議ではない。

でも大人が言うと、

「いい大人なのに」

という謎の視線を勝手に想像してしまう。

でも考えてみれば、健康診断は格好よく受けた人が優勝する大会ではない。

採血中、涼しい顔で針を見つめ続けた人に金メダルが渡されるわけでもない。

横になった僕も、椅子に座った人も、最後まで受ければ同じである。

だったら、格好つける意味なんてない。

こんなときに、恥もプライドもいらない

僕は採血の前に、苦手であることを伝える。

「採血で気分が悪くなりやすいです」

と言う。

そして可能なら、横にならせてもらう。

以前の僕なら、少し恥ずかしいと思っていたかもしれない。

周りは普通に椅子に座っている。

大の大人が「横になりたいです」と言う。

でも、もういい。

こんなときに恥もプライドもいらない。

気分が悪くなる可能性があるのなら、それを伝えたほうがいい。

横になったほうが楽なら、横になればいい。

「大丈夫なふり」をしてしんどくなるほうが、よっぽど意味が分からない。

そして実際に採血などで気分が悪くなった経験があるなら、なおさら最初に伝えておいたほうがいい。

僕は健康診断を格好よくクリアしたいわけではない。

ただ終わらせたいのである。

それなら、自分が一番楽に終えられる方法を選べばいい。

採血中、僕は病院からいなくなる

そして採血が始まる。

僕は目をつぶる。

絶対に見ない。

針も見ない。

腕も見ない。

血が入っていく容器なんて、もちろん見ない。

存在しないものとして扱う。

さらに僕は、意識を別のところへ飛ばす。

楽しいことを考える。

読みたい本でもいい。

食べたいものでもいい。

家に帰ったら何をしようでもいい。

とにかく採血とは一切関係のないことを、無理やり考える。

ここで「採血のことを考えないようにしよう」と思ってはいけない。

「採血について考えない」

「採血について考えない」

「絶対に採血について考えない」

これはもう、めちゃくちゃ採血について考えている。

だから「考えない」のではなく、別のもので頭を埋める。

身体だけ採血室に置いて、意識だけ逃げる。

僕は一時退席する。

身体のことは看護師さんに任せる。

そしてしばらくすると、

「終わりましたよ」

と言われる。

そこで僕は病院へ帰ってくる。

今年も血を抜かれた。

生還である。

「気分が悪くなったらどうしよう」には、こう考える

健康診断の前に僕が考えてしまうことの一つが、

「気分が悪くなったらどうしよう」

である。

でも、あるとき気づいた。

ここ、病院やん。

気分が悪くなる場所として考えれば、かなり条件がいい。

街を一人で歩いているときでもない。

電車の中でもない。

山奥でもない。

周囲には医療従事者がいる。

そして僕が「採血で気分が悪くなりやすいです」と先に伝えておけばいい。

もちろん、だから絶対に何も起きないという意味ではない。

でも、

「絶対に気分が悪くならないようにしなければ」

と思うより、

「もし気分が悪くなったら、そのとき言えばいい」

と考えるほうが、僕は少し楽になる。

僕は「大丈夫」と思い込もうとすると、かえって不安になることがある。

本当に大丈夫か?

大丈夫じゃなかったら?

そんな問いが始まってしまうからだ。

だったら、

大丈夫じゃなくなったら、そのとき助けてもらえばいい。

そのくらいでいい。

子どもだってやっている。僕だけのデスゲームではない

もう一つ、僕が考えることがある。

子どもだって検査を受けている。

これは、

「子どもでもできるんだから怖がるな」

と自分を叱るためではない。

難易度を現実に戻すためである。

健康診断が近づくと、僕の頭の中で健康診断はどんどん巨大化していく。

採血。

検査。

病院。

結果。

いろいろ考えているうちに、まるでこれから特殊な試練へ向かうような気分になってくる。

でも違う。

毎日どこかで誰かが受けている。

大人も受けている。

子どもも受けている。

僕だけに課されたデスゲームではない。

今日もたくさんの人が病院へ行き、検査を受け、普通に家へ帰っている。

僕もその一人になるだけだ。

そう考えると、頭の中で勝手に最高難易度まで引き上げていた健康診断が、少しだけ元の大きさに戻る。

前日の僕まで健康診断を受けなくていい

一番難しいのは、もしかすると当日ではない。

前日かもしれない。

僕は前日になると憂鬱になる。

明日か。

嫌だな。

採血か。

病院か。

そんなことを考える。

でも、健康診断は明日なのだ。

今日ではない。

それなのに前日の夜からずっと健康診断のことを考えていたら、健康診断を二日間開催しているようなものである。

もったいない。

ただでさえ嫌なのに、開催期間まで自分で延長してどうする。

もちろん、食事や水分など、事前に指示されていることは守らなければならない。

必要な準備はする。

でも、それ以上はしない。

健康診断について考え始めたら、

「それは明日の僕の仕事だ」

と思うことにする。

明日の僕は病院へ行く。

今日の僕は、まだ行かない。

前日の僕まで採血室へ連れていく必要はない。

今日できる準備だけ済ませたら、あとはいつも通り過ごす。

本を読んでもいい。

動画を見てもいい。

寝てもいい。

健康診断の前日だからといって、僕の一日全部を健康診断に差し出す必要はない。

健康診断だけで、その日はもう100点にする

そして当日。

健康診断が終わったら、僕は自分にこう言う。

今日はもういい。

健康診断へ行った。

苦手な病院へ行った。

検査を受けた。

血まで抜かれた。

十分である。

めちゃくちゃ頑張っている。

だから僕は、その日のハードルを思い切り下げる。

「せっかく早く終わったから、あれもやろう」

なんて考えない。

健康診断のあとに予定を詰め込まない。

苦手なことを一つ終わらせた日に、さらに充実した一日まで要求する必要はない。

帰りに何かご褒美を買う。

そのとき食べたいものでもいい。

欲しいものでもいい。

そして家に帰る。

何もしない。

健康診断へ行った。

本日の営業は終了しました。

それでいい。

僕は「健康診断なんて数時間じゃないか」と時間だけで考えないようにしている。

人によって疲れるものは違う。

三時間遊んでも全然疲れないこともあれば、三十分の嫌な予定でぐったりすることもある。

大切なのは何時間使ったかではなく、自分がどれだけ消耗したかだと思う。

健康診断が苦手な僕にとって、その日は健康診断へ行っただけで十分頑張っている。

だったら、そのくらい自分を甘やかしてもいい。

健康診断を克服しなくてもいい

ここまでいろいろ書いてきたけれど、僕は健康診断を克服したわけではない。

次の健康診断が楽しみになったわけでもない。

採血を見られるようになったわけでもない。

病院も相変わらず苦手だ。

たぶん来年も、

「健康診断か……」

と憂鬱になる。

この文章を書いたことすら忘れているかもしれない。

そして数日前から嫌がって、前日にさらに嫌がって、当日の朝には帰りたいと思っているだろう。

それでもいいのかもしれない。

僕はずっと、

「苦手を克服する」

というのは、そのことが平気になることだと思っていた。

でも、本当にそうなのだろうか。

苦手なものは苦手なままでもいい。

その代わり、自分なりの通過方法を知っている。

僕の場合なら、

最初に「採血が苦手です」と言う。

横にならせてもらう。

目をつぶる。

絶対に見ない。

意識を楽しいことへ飛ばす。

もし気分が悪くなったら、ここは病院なのだから助けてもらえばいいと思う。

そして全部終わったら、自分を褒める。

ご褒美を買って帰る。

何もしない。

それで毎年、ちゃんと終わっている。

もしかすると、それも一つの克服なのかもしれない。

大人だって、苦手なものは苦手なままでいい

大人になると、苦手なものを苦手と言うのが少し難しくなる。

これくらいできて当然。

これくらい我慢できて当然。

これくらい怖くなくて当然。

そんな「当然」が少しずつ増えていく。

でも僕は思う。

大人になったって、苦手なものは苦手だ。

病院が苦手でもいい。

採血が苦手でもいい。

血を見たくなくてもいい。

横にならせてもらってもいい。

目をぎゅっと閉じてもいい。

恥ずかしがる必要なんてない。

プライドなんて、もっといらない。

健康診断は、格好よく受けるためにあるわけではない。

受けて、終わって、帰ってくればいい。

毎年あれだけ嫌がっている僕も、結局はそうしている。

そして病院を出たところで、毎回同じことを思う。

「あれ、こんなもんか」

きっと来年も忘れる。

また嫌になる。

また憂鬱になる。

それでも来年の僕に一つだけ言っておきたい。

去年のお前も、めちゃくちゃ嫌がっていたぞ。

でも大丈夫だった。

横になって、目をつぶって、意識だけどこかへ逃がして。

最後にはちゃんと、自分の足で病院から出てきた。

だから今年も、格好つけなくていい。

怖くないふりもしなくていい。

苦手なら、苦手なままで行けばいい。

そして終わったら、ご褒美を買って家に帰ろう。

その日はもう、何もしなくていい。

健康診断に行った。

それだけで今日は、十分頑張ったのだから。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次