MENU

小学生はなぜ鼻くそを机の裏につけるのか。大人になった今、本気で考えてみた。

当ページのリンクには広告が含まれています。

小学生の頃、机の裏に鼻くそをつけていた。

いきなり何を告白しているんだと思われるかもしれない。

でも、つけていた。

一度や二度ではない。

授業中、なんとなく鼻をほじる。

取れる。

指先を見る。

いる。

さて、こいつをどうするか。

ティッシュはない。

わざわざゴミ箱まで行くほどのものでもない。

先生は黒板に文字を書いている。

僕は静かに右手を机の下へ移動させる。

そして、

ペタ。

何事もなかったかのように授業へ戻る。

完璧だった。

当時の僕にとっては、これ以上ないほど合理的な処理方法だったのだと思う。

もちろん、今考えればめちゃくちゃ汚い。

なぜ机の裏なのか。

ティッシュに包んで捨てればいい。

そもそも授業中に鼻をほじるなという話でもある。

でも、小学生だった僕は確かに机の裏につけていた。

そして調べてみると、どうやら僕だけではないらしい。

「小学生の頃、机の裏に鼻くそをつけていた」

そんな話は意外と出てくる。

学校あるあるとして語られることさえある。

ということは、あれには何か理由があるのではないか。

なぜ、小学生は鼻くそを机の裏につけるのか。

33歳になった今、本気で考えてみたい。

ちなみに今は、課長の席につけている。

成長とは何なのだろう。

話を戻そう。

目次

なぜ「机の裏」だったのか

まず不思議なのが、場所である。

なぜ机の裏なのだろう。

机の上ではダメなのか。

もちろんダメだ。

目の前に鼻くそがある状態で算数の授業を受けたくない。

ノートの横に昨日の鼻くそが置いてある。

集中できるわけがない。

では床はどうだろう。

床なら落としてしまえばいい。

しかし、それもしなかった。

わざわざ机の裏に指を持っていき、こすりつけていた。

考えてみれば、机の裏という場所は絶妙である。

座ったまま手が届く。

先生から見えない。

隣の子からも見えにくい。

そして、自分からも見えない。

ここが重要だったのではないかと思う。

見えなくなれば、なくなったことになる。

もちろん、本当になくなったわけではない。

机の裏にいる。

さっきまで僕の指にいたものが、数センチ移動しただけだ。

しかし、視界からは消えた。

問題は解決した。

小学生の僕にとっては、それで十分だったのかもしれない。

見えているものが世界のすべてだった

子どもの頃を思い返すと、「見えない場所に押し込む」という解決方法をよく使っていた気がする。

机の中がプリントでぐちゃぐちゃになる。

とりあえず奥に押し込む。

閉める。

きれいになった。

ランドセルの中が散らかる。

全部突っ込む。

蓋を閉める。

片づいた。

部屋を片づけろと言われる。

押し入れに入れる。

扉を閉める。

終了。

何も解決していない。

ただ、見えなくなっただけである。

鼻くそも同じだったのかもしれない。

指についている間は問題である。

目に見えている。

気になる。

邪魔だ。

しかし机の裏につけた瞬間、視界から消える。

僕の世界から鼻くそが消滅する。

実際には机の裏に存在している。

でも、そのあと誰かが触るかもしれないとか、掃除する人がいるとか、来年この机を使う子がいるとか、そんなところまでは考えていない。

今の自分からすると、

「いや、そこまで考えろよ」

と思う。

でも小学生である。

鼻くそ一粒を処理するたびに、翌年度の利用者まで想像している小学三年生がいたら、それはそれで怖い。

「これをここにつけることで、来年度この机を使用する児童に不利益が生じる可能性がある」

そんなことを考えながら鼻をほじっている小学生は嫌だ。

当時はもっと単純だった。

取れた。

邪魔だ。

机の裏につけた。

消えた。

終わり。

世界は今よりずっと狭かったのかもしれない。

そもそもティッシュがない

もっと単純な理由もある。

ティッシュがない。

これがかなり大きかったのではないか。

大人なら鼻をほじって何かが取れた場合、ティッシュに包んでゴミ箱へ捨てる。

いや、大人は人前で鼻をほじらないという前提はいったん置いておこう。

でも小学生の場合、授業中に突然それはやってくる。

鼻が気になる。

ほじる。

取れる。

ここで初めて気づく。

出口戦略がない。

ポケットにティッシュが入っていればいい。

しかし、ない。

ランドセルには入っているかもしれない。

でも後ろのロッカーまで取りに行かなければならない。

授業中に突然立ち上がったら、

「どうしたの?」

と先生に聞かれる。

「鼻くそが取れたのでティッシュを取りに行きます」

とは言いにくい。

手を挙げるのも違う。

「先生!」

「はい、どうしました?」

「鼻くそが取れました!」

報告する必要はない。

そこで目の前にあるのが机の裏だ。

手を数センチ動かすだけ。

誰にも気づかれない。

ゴミ箱まで0歩。

処理時間1秒。

圧倒的な利便性である。

衛生面という重大な欠点を除けば、非常に優秀なシステムだった。

だから最初の一回は、単なる緊急避難だったのかもしれない。

ティッシュがない。

どうしよう。

とりあえずここにつけておこう。

ペタ。

それで終わる。

ところが翌日、また取れる。

「あ、昨日ここにつけたな」

ペタ。

三日目。

ペタ。

一週間後。

ペタ。

気づけば机の裏が正式な鼻くそ処理場として認可されている。

誰が認可したんだ。

僕である。

ハンカチはある。でも、そこにはつけたくない

そういえば、小学生はハンカチとティッシュを持ってくるように言われていた。

「ハンカチ、ティッシュを忘れないようにしましょう」

先生によく言われた。

今になって、その意味が分かる。

先生は知っていたのかもしれない。

ティッシュを忘れた子どもが、どこへ向かうのかを。

ただ、ティッシュを忘れていてもハンカチは持っていることがある。

だったらハンカチにつければいい。

とはならない。

これは不思議だ。

机の裏にはつけるのに、ハンカチにはつけたくない。

なぜか。

たぶん、

汚いからだ。

おかしい。

鼻くそを机につけている人間が、何を清潔ぶっているのだろう。

でも当時の感覚としては、かなり自然だった気がする。

ハンカチはこのあとも使う。

手を洗ったら、そのハンカチで拭く。

ポケットに戻す。

家にも持って帰る。

そこに鼻くそがついているのは嫌だ。

一方、机の裏はどうか。

普段は見ない。

触らない。

自分の服にも触れない。

つまり、

自分が今後使うものは汚したくない。でも、机の裏ならいい。

ものすごく自分勝手である。

でも、これこそ子どもの「汚い」という感覚を考えるうえで面白いところなのかもしれない。

子どもは「汚い」という感覚が弱いのか

子どもは大人より汚いものに平気な印象がある。

泥だらけになって遊ぶ。

地面に座る。

落としたものを拾う。

鼻をほじる。

その手で普通に鉛筆を持つ。

でも、「汚い」という概念そのものがないわけではない。

友達が口をつけたものを嫌がったりする。

誰かの唾が飛んだら、

「うわ、きったな!」

と大騒ぎする。

そしておそらく、知らない誰かの鼻くそを見つけたら全力で嫌がる。

自分の鼻くそは平気。

他人の鼻くそは無理。

なんなんだ。

でも、なんとなく分かる。

自分の鼻くそは、数秒前まで自分の鼻の中にあった。

自分で取った。

だから「異物」という感じが薄い。

ところが他人の鼻くそになると、一気に汚くなる。

つまり子どもは「汚い」という概念が弱いというより、

汚さの境界線が大人とは違うのかもしれない。

そして、その境界線がかなり自分中心なのだ。

自分のハンカチは汚したくない。

自分の服も汚したくない。

でも机の裏ならいい。

なぜなら普段見ないから。

自分が困らないから。

誰かがあとで困る可能性は知らない。

恐ろしく合理的である。

自分にだけ。

途中からコレクションになっていなかったか

ここからは、少し怪しい考察になる。

最初は処理だったと思う。

ティッシュがない。

仕方なく机の裏につける。

でも、毎日やっていると増えていく。

一個。

二個。

三個。

五個。

十個。

ある日、ふと机の裏を見る。

増えている。

ここで感情が変わらなかっただろうか。

最初はゴミ捨て場だった。

でも増えてくると、ちょっとしたコレクションになる。

子どもって、よく分からないものを集める。

きれいな石。

どんぐり。

木の枝。

消しゴムのカス。

練り消し。

牛乳瓶の蓋。

何に使うのか分からないものでも、とにかく集める。

増えていくこと自体が楽しい。

だとしたら鼻くそも、

いや、さすがに一緒にするなと言われそうだが、

「増えていく」という点ではコレクション性がある。

昨日の一粒。

今日の一粒。

明日の一粒。

机の裏には、小学生だった僕の日々が積み重なっていく。

アルバムみたいに言うな。

でも、途中から少しだけ、

「お、増えてきたな」

と思っていた可能性はある。

もちろん、当時の僕に聞いてみないと分からない。

できることなら一度戻って聞きたい。

「お前、それ捨ててるの?」

それとも、

「集めてるの?」

たぶん鼻をほじりながら、

「知らん」

と言われると思う。

カピカピになる変化を楽しんでいた説

さらに考えてみる。

鼻くそは時間によって変化する。

つけた直後は、まだ少し柔らかい。

翌日になる。

乾いている。

カピカピになっている。

さらに時間が経つ。

机と一体化している。

取ろうとしても、なかなか取れない。

これ、子どもからすると少し面白かったのではないか。

昨日つけたものが、今日どうなっているのか。

わざわざ毎朝観察していたわけではない。

でも机の裏に手をやったとき、

「あ、固なってる」

くらいは思っていたかもしれない。

子どもは変化するものが好きだ。

泥団子を作って固くする。

練り消しを大きくする。

消しゴムのカスを丸め続ける。

意味なんてない。

でも、自分が触ったものが少しずつ変化していくのが面白い。

鼻くそもそうだったのかもしれない。

昨日は柔らかかった。

今日は硬い。

成長している。

成長していたのは僕ではない。

鼻くそだった。

最悪の自由研究である。

夏休みの宿題として提出したら、先生はどんな顔をするだろう。

「鼻くその乾燥過程について」

観察一日目。

柔らかい。

観察二日目。

少し硬くなった。

観察三日目。

カピカピ。

先生からのコメント。

「ティッシュを使いましょう。」

正しい。

非常おやつだった可能性

もう一つ考えられる。

これは完全におもしろ考察である。

もしかすると僕たちは、鼻くそを捨てていたのではない。

保存していたのかもしれない。

非常おやつとして。

授業中、突然お腹が空くことがある。

給食まであと一時間。

何もない。

そんなとき、机の裏に手を伸ばす。

昨日の僕が残してくれた非常食がある。

備えあれば憂いなし。

いや、

憂いしかない。

災害が起きても、僕だけ三日長く生き延びられる。

いや、たぶん三日早く体調を崩す。

さすがにこれはないと思いたい。

でも小学生という生き物を侮ってはいけない。

鼻くそを食べている子は実際にいた。

ということは、机の裏が単なるゴミ捨て場ではなく、食料備蓄庫だった子が全国に一人くらいいても不思議ではない。

いてほしくはない。

そういえば、あの机はどうなったのだろう

ここまで考えていて、急に恐ろしいことに気づいた。

あの机、そのあとどうなったんだろう。

小学校の机は、一年間使ったら捨てるものではない。

次の年も使う。

別の教室へ移動することもあるだろう。

つまり僕が三月にその机と別れたあと、四月には別の子が座った可能性が高い。

春。

新学期。

新しい教室。

新しい先生。

新しい友達。

そして新しい席。

「今日からここが僕の席だ」

希望に満ちた顔で座る。

ピカピカの教科書を机の中に入れる。

新しい鉛筆を筆箱から出す。

そして、何気なく机の裏に手をやる。

カピカピ。

最悪だ。

本当に申し訳ない。

二十数年越しになるが、この場を借りて謝りたい。

あれは僕です。

いや、全部僕だったかどうかは分からない。

もしかすると僕がその机を使い始めた時点で、すでに何個かついていた可能性もある。

そう考えると話が変わってくる。

僕は加害者だと思っていた。

しかし、

被害者でもあった可能性がある。

机の裏についていた鼻くそに名前は書いていない。

誰のものなのか証明できない。

昨日の僕なのか。

一年前の先輩なのか。

三年前の知らない誰かなのか。

机の裏には、歴代の利用者たちが残したものが地層のように積み重なっていた可能性すらある。

急に考古学になってきた。

先生もびっくりしただろう

年度末に机をきれいにしていたなら、誰かが発見しているはずだ。

先生かもしれない。

三月。

子どもたちが帰った教室。

一年間使った机を整理する。

天板を拭く。

横を拭く。

机の中を確認する。

そして何気なく裏を見る。

「ん??」

もう一度見る。

「何これ」

茶色い何かが点々とついている。

触ってみる。

カピカピしている。

先生は考える。

チョコレート?

違う。

泥?

違う。

そして、すべてを理解する。

「あいつ……」

申し訳ない。

先生、本当に申し訳ない。

でも、ここで一つ疑問がある。

小学校の先生は毎年たくさんの机を見ている。

ということは、僕らが思っている以上にこの光景に慣れている可能性がある。

一年目の先生。

「えっ!? 何これ!?」

五年目。

「ああ、鼻くそね」

十年目。

「今年は少ないな」

二十年目。

「今年は豊作だな」

慣れというのは恐ろしい。

もしかすると先生たちは、年度末に密かにランキングをつけていたのかもしれない。

もちろん完全な妄想である。

一台ずつ確認していく。

「田中、3個」

「佐藤、0個。優秀」

「山本、8個。なかなか」

そして僕の机。

先生の手が止まる。

数える。

十。

二十。

三十。

まだある。

先生が職員室へ戻る。

「今年どうでした?」

隣の先生が聞く。

先生は静かに答える。

「〇〇です」

「やっぱり?」

何がやっぱりなんだ。

もしかすると職員室の奥には歴代記録が保管されている。

「平成○年度 机裏鼻くそ付着数ランキング」

僕の名前がまだ残っているかもしれない。

学校に電話して確認したい。

やめておこう。

今ならクラス全員の机の裏を見たい

今、一日だけ小学生に戻れるとしたら何がしたいだろう。

昔の友達と遊びたい。

懐かしい給食を食べたい。

校庭を走り回りたい。

好きだった子に会いたい。

いろいろある。

でも今の僕が一番やってみたいことは、

クラス全員の机の裏を確認することだ。

僕だけだったのだろうか。

それとも、みんなやっていたのだろうか。

男子だけなのか。

女子もやっていたのか。

一個だけの人もいるのか。

大量につけている人もいるのか。

30人分、全部見たい。

一粒だけ。

これはおそらく緊急避難型。

数粒がバラバラについている。

常習型。

一か所に集中している。

コレクター型。

何層にも重なっている。

地層型。

調査したい。

めちゃくちゃ調査したい。

当時の僕は、そんなことにまったく興味がなかった。

自分の机の裏しか知らなかった。

でも今になって気になる。

自分だけだと思っていた行動が、実はクラス全体で密かに行われていた可能性がある。

表では算数の授業を受けている。

先生の話を聞いている。

みんな真面目な顔をしている。

しかし、その机の裏では、

僕の知らない鼻くそ文化が栄えていたのかもしれない。

歴史の教科書には載らない。

先生も教えてくれない。

学校案内にも書いていない。

でも確かに、そこにあった。

かもしれない。

大人になれば、やらなくなる

子どもの頃は、意味の分からないことをたくさんしていた。

鼻くそを机の裏につける。

消しゴムのカスを丸める。

鉛筆を意味もなく短くする。

ランドセルを地面に置く。

プリントを机の奥で発酵させる。

でも大人になるにつれて、そういうことはしなくなる。

ティッシュを使う。

ゴミはゴミ箱に捨てる。

自分が汚いと思わなくても、他人がどう感じるかを考える。

机は次の人も使う。

掃除する人がいる。

そういう、自分の視界の外側まで想像できるようになる。

これが成長なのかもしれない。

小学生だった僕は、見えない場所につけた。

誰にも見つからないように。

先生にも。

友達にも。

恥ずかしかったのだろう。

しかし、大人になった今は違う。

課長の席の見えるところにつけている。

真逆だ。

成長を感じた。

いや、感じてはいけない。

むしろ何か大切なものを失っている。

もしかすると、今でもいるのかもしれない

ここまで「小学生の頃の話」として書いてきた。

でも、本当にそうなのだろうか。

大人になれば、全員が机の裏に鼻くそをつけなくなる。

僕たちはなんとなくそう思っている。

しかし確認したことはない。

会社の机。

職員室の机。

事務所の机。

会議室の机。

僕たちは普段、机の上しか見ない。

裏を見ることなんてほとんどない。

ということは、

今でもいるのかもしれない。

スーツを着て。

パソコンを開いて。

難しい顔で会議をして。

「今期の目標についてですが」

なんて話しながら、その机の裏にはカピカピがある。

そんな人が日本のどこかにいる可能性を、僕たちは否定できない。

明日、職場の机の裏を見てみたい。

もちろん他人の机を勝手にひっくり返すわけにはいかない。

でも少し気になる。

大人になった僕たちは、本当に卒業できたのだろうか。

鼻くそから。

そしてもし何かを見つけてしまったら、僕はどうするのだろう。

「うわ、汚っ」

と言うだろう。

きっと言う。

自分もやっていたくせに。

人間とは勝手なものだ。

ちなみに課長の机は確認しなくていい。

見えるところにある。

あの頃の僕は、何を考えていたのだろう

結局、本当の理由は分からない。

ティッシュがなかったからかもしれない。

見えなくなれば、それで処理できたと思っていたのかもしれない。

自分の鼻くそをそれほど汚いと思っていなかったのかもしれない。

増えていくのが少し楽しかったのかもしれない。

カピカピになっていく変化を、無意識に楽しんでいたのかもしれない。

もしかすると非常おやつだったのかもしれない。

それは嫌だ。

ただ、一つだけ思う。

子どもの頃の僕たちは、大人が思っているほど深く考えていなかった。

でも、まったく何も感じていなかったわけでもない。

ハンカチにはつけたくない。

机の上にもつけたくない。

人には見られたくない。

でも机の裏ならいい。

そこには小学生なりの、独特な境界線があった。

汚いもの。

汚くないもの。

自分のもの。

みんなのもの。

見える場所。

見えない場所。

今考えればおかしい。

でも当時の僕の中では、ちゃんと辻褄が合っていたのだろう。

だから今日も、どこかの小学校で一人の子どもが鼻をほじっているかもしれない。

取れた。

ティッシュがない。

先生は黒板を向いている。

子どもは少し考える。

そして静かに手を机の下へ持っていく。

ペタ。

何事もなかったように、また黒板を見る。

僕はその子に言いたい。

やめておけ。

来年、その机を使う子がいる。

先生が掃除するかもしれない。

二十年以上経ってから突然思い出し、

「なんで俺、あんなことしてたんだろう」

とブログに8,000字も書くことになるかもしれない。

だからティッシュを使おう。

もし持っていないなら、先生にもらえばいい。

そして先生にもお願いしたい。

「ハンカチとティッシュを持ってきましょう」

あれは大切な教育だった。

手を洗ったときのためだけではない。

机の裏の平和を守るためでもあったのだ。

僕は33歳になって、ようやくその意味を理解した。

遅すぎる。

あの頃、僕の机を掃除してくれた先生。

次にあの机を使った名前も知らない誰か。

本当に申し訳なかった。

今さら謝っても遅い。

でも、もしまだあの机がどこかに残っているなら。

さすがにもう、きれいになっていてほしい。

二十年以上経っている。

さすがにないだろう。

ないよな。

……ないよね?

少し不安になってきた。

いつか母校へ行く機会があったら、確認してみたい。

いや、やっぱりやめておこう。

思い出は、美しいままの方がいい。

机の裏以外は。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次