僕は大阪人だ。
大阪といえば、たこ焼き。
もちろん、大阪にはほかにもおいしい食べ物がたくさんある。
お好み焼き、串カツ、うどん。
どれも素晴らしい。
しかし、僕は言いたい。
たこ焼きが好きすぎる。
もう、どうしようもないくらい好きなのだ。
店の前を通る。
ソースの香りが漂ってくる。
足が止まる。
別にお腹が空いているわけではない。
さっきご飯を食べたばかりかもしれない。
それでも、たこ焼きが食べたくなる。
何なのだろう。
あの小さな丸い食べ物には、人間を引き寄せる不思議な力がある。
僕はこれまで、数え切れないほどたこ焼きを食べてきた。
店で買ったこともある。
家で作ったこともある。
友達と食べたこともある。
彼女と作ったこともある。
それなのに、飽きない。
むしろ、もっと食べたい。
もっとおいしいたこ焼きを発見したい。
そう思ってしまう。
なぜ、僕はここまでたこ焼きが好きなのだろう。
今回は、その理由を真面目に考えてみたい。
そして、僕がこれからの人生で成し遂げたい、ある壮大な目標についても語ろうと思う。
① まず、単純にうますぎる
最初に言っておきたい。
たこ焼きは、うまい。
当たり前だ。
そんなことは知っている。
しかし、あえて言わせてほしい。
うますぎるのだ。
あの丸い形。
こんがり焼けた表面。
中に閉じ込められた熱々の生地。
そして、タコ。
一口食べる。
うまい。
もう一口食べる。
うまい。
さらに食べる。
まだうまい。
何なのだ、この食べ物は。
特に僕が好きなのは、外側が香ばしく、中がトロッとしているたこ焼きだ。
表面に少し歯応えがある。
しかし、噛んだ瞬間、中から熱々の生地が現れる。
この食感の違いがたまらない。
しかも、そこにタコが入っている。
柔らかい生地の中で、タコだけが独特の弾力を持っている。
一個の小さな球体の中に、いくつもの食感が存在しているのだ。
小さいくせに、やっていることが多すぎる。
そして、ソース。
甘辛いソースが生地に絡む。
青のりの香り。
かつお節の風味。
好みによってはマヨネーズ。
完璧ではないか。
もちろん、ソースをかけなくてもおいしいたこ焼きはある。
だしの味がしっかりしていれば、そのままでも十分に楽しめる。
つまり、たこ焼きは生地そのものにも魅力があるのだ。
見た目は単純だ。
丸い。
ただ、それだけ。
しかし、その中にはおいしさが詰まっている。
たこ焼きとは、小さな球体に閉じ込められた幸福なのかもしれない。
② 何個でも食べられる不思議
たこ焼きの恐ろしいところは、次々と食べられることだ。
6個入りを買う。
食べる。
あっという間になくなる。
8個入りを買う。
食べる。
これも、すぐになくなる。
おかしい。
確かに食べたはずなのだ。
しかし、まだ食べたい。
一個一個が小さいからだろうか。
それとも、あの食感が次の一個を呼び寄せるのだろうか。
僕にはわからない。
ただ、一つ言えることがある。
たこ焼きは、食べ終わった瞬間に次のたこ焼きを要求してくる。
もちろん、実際に声が聞こえるわけではない。
しかし、気持ちはそうなのだ。
「もう一個くらい食べたいな」
そう思う。
そして、また買いたくなる。
不思議な食べ物である。
ただし、たこ焼きには一つ大きな問題がある。
熱い。
とんでもなく熱い。
外側は食べられそうな温度なのに、中が異常に熱いことがある。
油断して一口で食べる。
その瞬間。
あっっっつ!
口の中が大惨事だ。
舌が熱い。
上あごが熱い。
しかし、口に入れた以上、簡単には出せない。
どうする。
飲み込むか。
いや、熱すぎる。
水を飲むか。
待て、まだ口の中にたこ焼きがある。
人間は、たった一個のたこ焼きによって、これほど追い詰められるのだ。
それなのに、また食べる。
次も熱いとわかっているのに。
何度も口の中を攻撃されているのに、僕はたこ焼きを愛している。
もはや、愛とはそういうものなのかもしれない。
③ 家で作れる。これが素晴らしい
そして、たこ焼きの大きな魅力がこれだ。
家で作れるのだ。
そう。
たこ焼き器がある。
何という素晴らしい発明だろう。
あの丸いくぼみが並んだ鉄板。
そこに生地を流し込む。
具材を入れる。
焼けてきたら、くるくる回す。
そして、たこ焼きが完成する。
店で買うたこ焼きも大好きだ。
職人さんが焼いたたこ焼きには、やはり技術がある。
しかし、家で作るたこ焼きには、店とは違った魅力がある。
食べる前から楽しいのだ。
普通の料理なら、完成するのを待つ。
しかし、たこ焼きは違う。
作ること自体がイベントになる。
友達と集まって、たこ焼きを作る。
彼女と二人で、たこ焼きを作る。
何という楽しい時間だろう。
「もう焼けた?」
「まだやろ」
「そろそろ回せるんちゃう?」
「いや、まだ早いって!」
こんな会話が生まれる。
たこ焼きを囲んで、みんなでワイワイする。
ただ料理をしているだけなのに、なぜか盛り上がる。
不思議だ。
例えば、友達4人で集まって、全員で一つの目玉焼きを作ったらどうだろう。
一人が卵を割る。
一人がフライパンを見る。
一人が塩を振る。
一人が見守る。
……。
何をしているのだろう。
しかし、たこ焼きなら自然に成立する。
それぞれが焼き具合を確認し、ひっくり返し、完成を待つ。
全員が参加できるのだ。
たこ焼きは料理であり、遊びでもある。
しかも、最後には食べられる。
遊んだうえに、お腹まで満たされる。
こんなに効率のいい娯楽があるだろうか。
④ 何度も作っていると、なぜか職人になる
家でたこ焼きを作る楽しさは、まだある。
上達するのだ。
最初は、なかなかうまく焼けない。
生地がくっつく。
形が崩れる。
ひっくり返そうとすると、隣のたこ焼きまで巻き込む。
何だ、これは。
丸くならない。
ただの小麦粉の塊ではないか。
しかし、何度も作っているうちにコツがわかってくる。
生地を流す量。
ひっくり返すタイミング。
串の動かし方。
少しずつ上達する。
そして、ある日。
くるっ。
綺麗に回った。
おおっ!
丸い。
見事に丸い。
僕は感動する。
ただ、たこ焼きをひっくり返しただけなのに。
しかも、慣れてくると手際までよくなる。
くるっ。
くるっ。
くるっ。
次々と丸くなっていく。
気持ちがいい。
もはや、たこ焼きを食べることより、ひっくり返すことに夢中になっている瞬間さえある。
何なのだろう。
僕はたこ焼きを食べたかったはずだ。
それなのに、いつの間にか技術を磨いている。
気づけば、たこ焼き職人を目指しているのだ。
もちろん、本物の職人さんとは比べものにならない。
しかし、家で作るたこ焼きにも、確かな上達の喜びがある。
そして、自分で綺麗に焼けたたこ焼きは、妙にうまい。
少しくらい形が悪くてもいい。
多少焦げていてもいい。
自分で焼いたのだ。
愛着がある。
一個一個が、かわいく見えてくる。
……。
いや、食べるのだが。
⑤ 中に何を入れるか考えるのが楽しい
ここからが、さらに面白い。
たこ焼きは、中身を変えられる。
普通はタコだ。
だから、たこ焼きという名前なのだろう。
しかし、別にタコしか入れてはいけないという法律はない。
チーズを入れてもいい。
ウインナーを入れてもいい。
もちを入れてもいい。
キムチを入れてもいい。
明太子だっていい。
何でも試せる。
この自由さが、僕は大好きなのだ。
たこ焼きパーティーをするとき、具材を考える時間が楽しい。
「今回、何入れる?」
「チーズは?」
「もちもいいな」
「これ入れたらどうなるやろ?」
そんな話をする。
まだ作ってもいないのに、すでに楽しい。
しかも、実際に入れてみるまで結果がわからない。
おいしそうだと思った組み合わせが、意外と普通だったりする。
逆に、期待していなかった組み合わせが大当たりすることもある。
これは、ちょっとした実験ではないだろうか。
仮説を立てる。
具材を入れる。
焼く。
食べる。
結果を確認する。
そして、次の組み合わせを考える。
たこ焼き器は、小さな研究施設なのだ。
しかも、研究成果はその場で食べられる。
何という素晴らしい研究だろう。
僕は、これからもいろいろな具材を試してみたい。
まだ知らないおいしさが、きっと存在しているはずなのだ。
⑥ つけるものまで自由。可能性が広すぎる
中身だけではない。
たこ焼きは、味付けも変えられる。
ソース。
しょうゆ。
塩。
ポン酢。
だし。
いろいろある。
これも素晴らしい。
同じ生地でも、何をつけるかによって印象が変わる。
濃厚なソースで食べるのもいい。
あっさりした味付けで楽しむのもいい。
だしにつけて食べるのもいい。
一つの食べ物なのに、何種類もの楽しみ方が存在している。
しかも、中身と味付けを組み合わせることができる。
例えば、チーズを入れたたこ焼き。
それに何をつけるのが一番おいしいのだろう。
ソースか。
塩か。
別のものか。
考え始めると、きりがない。
一個ずつ違う味にしてもいい。
最初はソース。
次はしょうゆ。
その次は塩。
いろいろ試してみる。
そして、気に入った組み合わせを見つける。
たこ焼きは、完成しているようで、まだ完成していない料理なのかもしれない。
もちろん、昔から愛されている定番の味は素晴らしい。
僕も大好きだ。
しかし、もっとおいしい組み合わせがあるかもしれない。
そう思うと、試さずにはいられない。
僕は、たこ焼きの可能性をまだまだ信じている。
⑦ 主食にも、おやつにも、酒のアテにもなる
たこ焼きのすごさは、食べる場面を選ばないことにもある。
昼ご飯に食べてもいい。
夜ご飯に食べてもいい。
小腹が空いたときに食べてもいい。
お酒のアテにもなる。
万能すぎないか。
例えば、昼にたこ焼きを食べる。
立派な食事だ。
夕方、小腹が空いた。
たこ焼きを食べる。
ちょうどいい。
夜、お酒を飲む。
たこ焼きをつまむ。
最高だ。
何なのだろう。
朝昼晩、どこにでも登場できる。
食事にも間食にもなれる。
これほど柔軟な食べ物は、なかなかないのではないだろうか。
しかも、個数で調整できる。
少し食べたいなら数個。
しっかり食べたいなら、もっと食べればいい。
実に合理的だ。
もちろん、食べすぎればお腹はいっぱいになる。
そこは普通の食べ物と同じである。
しかし、たこ焼きには不思議な身軽さがある。
がっつり食べてもいいし、ちょっとつまむだけでもいい。
たこ焼きは、こちらの都合に合わせてくれるのだ。
何と優しい食べ物だろう。
⑧ 手軽に食べられるのも素晴らしい
たこ焼きは、外でも食べやすい。
店で買う。
容器を受け取る。
爪楊枝やピックで一個刺す。
口に運ぶ。
うまい。
わざわざ食卓を用意する必要もない。
皿や箸がなくても楽しめる。
歩きながら食べられる手軽さも魅力だ。
もちろん、人混みや危ない場所では立ち止まった方がいい。
しかし、外で気軽につまめるというのは大きい。
しかも、たこ焼きは丸い。
一個ずつ食べられる。
これがいい。
食べたい分だけ食べられる。
ただし、ここでも問題が発生する。
熱さだ。
歩きながら一個食べる。
あっつ!
突然、口の中が地獄になる。
しかも、外にいる。
どうすればいいのだ。
たこ焼きは持ち運びやすいが、口の中では取り扱い注意なのだ。
それでも、僕は好きだ。
店の前で焼きたてを食べるのもいい。
持ち帰って、家でゆっくり食べるのもいい。
その日の気分で楽しめる。
本当に、自由な食べ物である。
⑨ 子どもの頃から、たこ焼きが好きだった
ここまで考えていて、ふと思い出した。
僕は子どもの頃から、たこ焼きが好きだった。
そして、あるアニメも好きだった。
『たこやきマントマン』だ。
懐かしい。
たこ焼きをモチーフにしたヒーローたちが活躍するアニメである。
僕は、あれも好きだった。
冷静に考えると、なかなかすごい発想ではないだろうか。
たこ焼きがヒーローになるのだ。
普通、ヒーローといえば人間だったり、ロボットだったりする。
しかし、たこ焼きである。
丸い食べ物が、正義の味方として活躍する。
何という世界観だろう。
しかし、子どもの頃の僕は何の疑問も持たずに楽しんでいた。
たこ焼きはおいしい。
そして、テレビでも活躍している。
食べてもよし。ヒーローになってもよし。
何という万能性だ。
今思えば、僕のたこ焼き愛は、この頃から始まっていたのかもしれない。
もちろん、アニメが好きだったからたこ焼きを好きになったのか、たこ焼きが好きだったからアニメも好きだったのかはわからない。
ただ、どちらも好きだった。
それだけは確かだ。
子どもの頃から親しんできた食べ物。
大人になっても変わらず好きな食べ物。
そう考えると、たこ焼きは単なる料理ではない。
僕の人生の中に、ずっと存在しているものなのだ。
⑩ 大阪人だから好きなのか?
ここで、一つ疑問が浮かんだ。
僕がたこ焼きを好きなのは、大阪人だからなのだろうか。
大阪といえば、たこ焼き。
全国的にも有名な組み合わせだ。
しかし、大阪人が全員たこ焼きを大好きというわけではないだろう。
好きではない人もいるはずだ。
逆に、大阪以外にもたこ焼きが大好きな人はたくさんいる。
つまり、大阪人だから好きになるという単純な話ではない。
僕は、たこ焼きそのものが好きなのだ。
味が好き。
食感が好き。
作るのが好き。
中身を考えるのが好き。
いろいろな味付けを試すのが好き。
友達や彼女と一緒に楽しめるところも好き。
店で買って食べるのも好き。
家で作るのも好き。
大阪人だからたこ焼きが好きなのではない。たこ焼きが好きな大阪人なのだ。
……。
まあ、どちらでもいいか。
大切なのは、僕がたこ焼きを愛しているという事実である。
⑪ しかし、僕はまだ満足していない
ここまで、たこ焼きの魅力を語ってきた。
うまい。
楽しい。
手軽だ。
種類も豊富。
家でも作れる。
しかも、作れば作るほど上達する。
素晴らしい食べ物ではないか。
しかし、ここで一つ告白したい。
僕は、まだ満足していない。
これだけたこ焼きを愛しているのに。
これだけ食べてきたのに。
まだ、探しているものがある。
究極のたこ焼きだ。
もっとおいしい中身はないだろうか。
もっと相性のいい味付けはないだろうか。
今まで思いつかなかった組み合わせが、どこかに存在しているのではないだろうか。
例えば、意外な食材を入れてみる。
誰も試したことのないような味付けを考えてみる。
もちろん、失敗することもあるだろう。
「これは違うな」
そう思うこともあるはずだ。
しかし、それでいい。
失敗したら、また考えればいい。
別の具材を入れる。
別の味付けを試す。
焼き方を変えてみる。
そして、また食べる。
僕のたこ焼き研究は、まだ始まったばかりなのだ。
いや、始まったばかりというのはおかしいか。
すでに何年も食べている。
しかし、研究に終わりはない。
もしかすると、究極の組み合わせは、まだ僕の知らないところに眠っているのかもしれない。
僕は、それを見つけたい。
何年かかってもいい。
何十年かかってもいい。
僕は、これからもたこ焼きを食べ続ける。
そして、追い求める。
最高の中身と、最高の味付けを。
⑫ そして、僕は後世に伝えようと思う
ここで、僕は一つ決めた。
もし、究極のたこ焼きを発見したら。
その組み合わせを、後世に伝えようと思う。
自分だけの秘密にしておくのは、もったいない。
世界には、たこ焼きを愛する人がたくさんいる。
僕が発見した究極の組み合わせによって、誰かの人生が少しだけ幸せになるかもしれない。
そう考えると、胸が熱くなる。
もちろん、今はまだ答えがわからない。
だから、研究を続ける。
10年。
20年。
30年。
ひたすら、たこ焼きを食べる。
中身を変える。
味付けを変える。
そして、ついに発見するのだ。
これだ。
これこそが、究極のたこ焼きだ。
そのとき、僕は何を思うだろう。
感動するだろうか。
泣くだろうか。
あるいは、普通に「うまっ!」と言うだけかもしれない。
しかし、その発見は僕にとって大きな意味を持つはずだ。
何十年にもわたる研究の成果なのだから。
そして、僕は決めている。
この成果を伝えるのは、人生の最後だ。
なぜなら、それまでは研究を続けたいからだ。
もっとおいしい組み合わせが見つかるかもしれない。
昨日の最高が、明日には更新されるかもしれない。
だから、最後の最後まで探し続ける。
そして、死ぬ間際に伝えるのだ。
僕が人生をかけて見つけた答えを。
最後に。たこ焼きの海が見えた
それから、何十年もの月日が流れた。
僕は年老いていた。
かつて元気にたこ焼きをひっくり返していた手も、今ではすっかり弱々しくなっている。
しかし、僕は研究を続けていた。
数え切れないほどのたこ焼きを食べた。
いろいろな具材を試した。
さまざまな味付けを研究した。
失敗もした。
成功もした。
そして、ついにたどり着いたのだ。
究極の組み合わせに。
あとは、この答えを後世に残すだけだった。
ある日。
僕は病室のベッドに横たわっていた。
どうやら、人生の終わりが近づいているらしい。
家族が集まっている。
みんな、心配そうに僕の顔を見つめていた。
僕は、かすかに目を開けた。
そして、最後の力を振り絞って口を開いた。
「みんな……聞いてくれ……」
家族が顔を近づける。
「どうしたの?」
「最後に……伝えたいことがある……」
「うん。何でも言って」
僕は震える手を伸ばした。
「これだけは……みんなに伝えてくれ……」
「うん、わかった」
「家族だけじゃない……」
「え?」
僕は大きく息を吸った。
そして、言った。
「全国民にだ……」
病室に緊張が走る。
家族は息をのんだ。
人生の最後に、全国民へ伝えたいこと。
一体、何なのだろう。
人生で学んだ大切な教訓だろうか。
誰にも明かしてこなかった秘密だろうか。
それとも、人類の未来に関わる重大な発見なのだろうか。
僕は、静かに口を開いた。
「たこ焼きの……」
「うん……!」
「中身は……」
「うん!」
僕は、長年の研究でたどり着いた答えを伝えた。
そして、続けた。
「つけるものは……」
家族が、さらに顔を近づける。
僕は、残された力をすべて使って、その答えを告げた。
「絶対に……忘れるな……」
「わかった! 必ず伝えるから!」
よかった。
これでいい。
何十年にもわたる僕の研究は、後世に受け継がれる。
全国民に、究極のたこ焼きが伝わるのだ。
僕は満足した。
長い人生だった。
いろいろなことがあった。
楽しいことも、つらいこともあった。
しかし、最後までたこ焼きを愛し続けた。
悔いはない。
そこで、僕は静かに目を閉じた。
たこ焼きの海が見えた。
