「普通に生きる」ということは、そんなに簡単なことなのだろうか。
朝起きて、仕事に行って、ご飯を食べて、夜になったら眠る。
多くの人が当たり前のように繰り返している日常が、どうしてもできない人もいる。
本人だって、好きでそうしているわけではない。むしろ、周囲の人と同じように生活できない自分自身に、誰よりも腹を立てているのかもしれない。
本谷有希子さんの『生きてるだけで、愛。』は、そんな生きづらさを抱えた女性と、その恋人の関係を描いた小説だ。
主人公の寧子は、鬱や過眠に苦しみながら、恋人の津奈木と同棲している。
感情の起伏が激しく、自分の気持ちをうまく制御できない。津奈木に怒りをぶつけ、周囲の人を振り回し、そんな自分自身にも疲れ果てている。
読んでいて、寧子の言動に共感するところもあれば、正直、身勝手だと感じるところもあった。
けれど、この作品の魅力は、まさにそこにあるのだと思う。
苦しんでいる人が、必ずしも優しい人とは限らない。
誰かに理解されず苦しんでいる人が、別の誰かを傷つけてしまうことだってある。
人間はそんなに単純ではないし、恋愛もそんなに都合よくできていない。
今回は、心に残った言葉を振り返りながら、この作品について考えてみたい。
※ここからは物語の展開や結末にも触れています。
『生きてるだけで、愛。』のあらすじ
25歳の寧子は、恋人の津奈木と三年間同棲している。
しかし、鬱や過眠の影響で生活は不規則になり、仕事にも就かず、家に引きこもりがちな毎日を送っている。
一方の津奈木は、寧子の激しい感情に正面からぶつかることを避け、どこか淡々と接している。
そんな二人の生活に割り込んでくるのが、津奈木の元恋人である安堂だ。
安堂は寧子に自立を迫り、アルバイトをするよう働きかける。
やがて寧子は、元ヤンキーの夫婦が営む飲食店で働き始めることになる。
そこで出会う人々は、決して冷たい人間ではない。むしろ、寧子を温かく迎え入れてくれる。
それでも、寧子は周囲とうまく関係を築くことができない。
自分の感情を持て余し、他人との距離を測れず、何度も衝突を繰り返してしまう。
そして物語は、寧子と津奈木が互いをどこまで理解できるのかという問題へと向かっていく。
「普通に生きる」ことができない苦しさ
この作品を読んで、まず強く印象に残ったのは、寧子が自分自身に向ける怒りだった。
彼女は、ただ眠ることが好きなわけではない。
眠り続けてしまう自分に、誰よりも苛立っている。
朝起きられない。
昼間に活動できない。
何かを始めようとしても、思うように身体が動かない。
その結果、また自分自身を嫌いになってしまう。
作中には、ほかの人が当たり前のように朝起きて夜眠っているのに、どうして自分にはそれができないのかと、寧子が苦しむ場面がある。
「あたしには何が欠落してる?」(p43より引用)
この一文が、強く心に残った。
単に生活習慣を改善すればいいという話ではない。
寧子自身も、普通に生活したいと思っている。それなのに、できない。
周囲の人にとっては簡単なことが、自分にとってはどうしようもなく難しい。
そんな状況が続けば、自分はほかの人とは違う生き物なのではないかと感じてしまうのかもしれない。
僕自身も、精神的に調子が悪くなると、眠る時間が長くなることがある。
特別な理由があるわけでもないのに、妙に眠くなる。十分に寝たはずなのに、まだ眠りたいと思う。
もちろん、それだけで寧子の苦しみを理解できるわけではない。
僕の経験と、彼女が抱えている問題を同じものとして扱うつもりもない。
それでも、眠ってばかりいることが、必ずしも怠けていることではないというのは、なんとなく分かる気がする。
そもそも、眠ることは本来、身体を休めるための行為だ。
それなのに、眠ったことで自分を責めなければならない。
眠りたいわけではないのに眠ってしまい、起きたときには時間を無駄にしたと感じる。
休んでいるはずなのに、心は休まらない。
これは、なかなか苦しいことだと思う。
そして、寧子の苦しさをさらに大きくしているのが、周囲との比較なのだろう。
ほかの人にはできる。
自分にはできない。
その違いが、単なる生活上の問題ではなく、自分という人間そのものの欠陥のように感じられてしまう。
けれど、人間にはそれぞれ違いがある。
体力も違えば、精神的な状態も違う。何を負担に感じるかも、人によって異なる。
誰かにとって簡単なことが、別の誰かにとっても簡単だとは限らない。
この作品を読んでいると、そんな当たり前のことを、改めて考えさせられる。
苦しんでいる人が、必ずしも優しい人とは限らない
ただし、寧子を単純に「かわいそうな人」として捉えることはできなかった。
ここが、この小説の面白いところでもある。
寧子は確かに苦しんでいる。
しかし、その苦しみを理由に、周囲の人へ何をしても許されるわけではない。
彼女の言動には、正直、身勝手だと感じる部分も多い。
津奈木に激しい怒りをぶつけたり、自分を受け入れてくれた人々との関係を壊してしまったりする。
その姿を見ていると、寧子の気持ちは分かると思う一方で、津奈木や周囲の人たちも大変だろうなと感じる。
そして、それでいいのだと思う。
寧子を理解することと、寧子の行動をすべて肯定することは別だからだ。
人間は、苦しんでいるからといって、必ずしも優しくなれるわけではない。
自分のことで精いっぱいになれば、相手の気持ちを考える余裕がなくなることもある。
誰かに傷つけられた経験がある人でも、別の誰かを傷つけることはあるだろう。
反対に、他人を傷つけてしまう人にも、その人なりの苦しみがあるのかもしれない。
だからといって、傷つけた事実が消えるわけではない。
苦しみが本物であることと、その人の行動が正しいことは、必ずしも一致しない。
この作品は、そうした人間の矛盾を、きれいごとにせず描いている。
寧子を一方的に擁護することもなければ、単純な悪者として突き放すこともしない。
読んでいて腹が立つこともある。
けれど、どこか放っておけない。
そんな複雑な感情を抱かせるところに、寧子という人物の魅力があるのだと思う。
元ヤンキー夫婦とのすれ違い。優しさだけでは分かり合えない
特に印象に残ったのが、寧子がアルバイト先で出会う元ヤンキー夫婦とのやり取りだ。
二人は、寧子を温かく迎え入れてくれる。
一緒に食事をする場面では、寧子自身も、人と食卓を囲むことの心地よさを感じている。
それまで津奈木と暮らしていながら、どこか孤独だった寧子。
そんな彼女にとって、ほかの人たちと一緒に食事をする時間は、新鮮なものだったのかもしれない。
自分は一人で寂しかったのだろうか。
そう考えたとき、今度は津奈木との生活が何だったのか分からなくなってしまう。
ここが興味深い。
寧子は、ずっと津奈木と一緒に暮らしている。
物理的には一人ではない。
それでも、寂しさを感じている。
つまり、誰かと一緒にいることと、孤独ではないことは、必ずしも同じではないのだろう。
そして、アルバイト先の夫婦との関係も、次第にうまくいかなくなる。
印象的なのは、ウォシュレットをめぐる感覚の違いだ。
外から見れば、些細なことなのかもしれない。
しかし、寧子にとっては、その小さな違いが、自分と相手の間にある大きな隔たりを感じさせるものになる。
作中で寧子は、彼らと自分が、まるで遠く離れた場所で生きている別の生き物であるかのように感じている。
「結局何ともつながっていないのだ。」(p96より引用)
この言葉が切ない。
相手が悪意を持っているわけではない。
むしろ、優しくしてくれている。
それなのに、分かり合えない。
ここには、悪人が登場する物語とは違う苦しさがある。
相手が冷たい人間なら、嫌いになることもできる。
自分を傷つけようとしているなら、距離を置く理由も見つけやすい。
けれど、相手が善意で接してくれている場合はどうだろう。
その優しさを受け取れない自分がおかしいのではないか。
どうしてほかの人たちのように、自然に輪の中へ入れないのだろう。
そんなふうに、自分自身を責めてしまうこともあるのかもしれない。
ただ、僕はここでも、寧子だけが被害者だとは思わなかった。
夫婦にも夫婦の考え方があり、寧子にも寧子の感覚がある。
どちらか一方が、相手にすべて合わせなければならないわけではない。
人間関係というのは、そう簡単にはいかないものだ。
優しい人同士でも、うまくいかないことがある。
悪意がなくても、誰かを傷つけてしまうことがある。
この場面には、そんな人間関係の難しさが詰まっているように感じた。
津奈木の優しさは、本当に優しさなのだろうか
寧子の恋人である津奈木も、興味深い人物だった。
彼は、寧子の激しい感情に対して、あまり正面からぶつかろうとしない。
寧子が怒っても、感情的に言い返すことは少ない。
一見すると、穏やかで優しい恋人に見える。
けれど、読み進めていくうちに、その態度が本当に優しさなのか分からなくなってくる。
相手の感情を受け止めることと、受け流すことは違う。
衝突しないことと、向き合っていることも違う。
津奈木は、寧子を傷つけないようにしているのか。
それとも、面倒な衝突を避けるために、感情を遠ざけているだけなのか。
その境界線が曖昧なのだ。
特に印象的だったのが、寧子が津奈木にメールを送る場面。
精神的に追い詰められた寧子は、津奈木に「死にたいかも」と送信する。
すると、津奈木から返ってきたのは、こんな言葉だった。
「大丈夫たよ」(p43より引用)
僕は、この言葉が妙に好きだった。
「大丈夫だよ」と打とうとして、たった一文字間違えたのだろう。
普通に考えれば、単なる打ち間違いだ。
意味が分からないわけでもない。
しかし、寧子はこの言葉に激しい怒りを覚える。
自分はこんなにも苦しんでいる。
それなのに、相手は短い返信さえ確認していない。
そんなふうに感じたのだろう。
ここは、読んでいて少し笑ってしまうような文章でもある。
けれど、よく考えると、なかなか切実な場面だ。
寧子が怒っているのは、単に誤字があったからではないのだと思う。
自分の苦しみが、津奈木に十分伝わっていないと感じたからではないだろうか。
もちろん、津奈木に悪意があったとは限らない。
彼なりに寧子を励まそうとしたのかもしれない。
ただ、寧子が求めていたのは、そうした短い励ましではなかったのだろう。
もっと真剣に受け止めてほしい。
もっと自分のことを考えてほしい。
自分と同じくらい、苦しんでほしい。
そんな気持ちが、あの打ち間違いをきっかけに爆発したようにも感じられる。
実際、寧子は津奈木に対して、自分と同じだけ自分に疲れてほしいという思いを口にしている。
この感覚は、なかなか複雑だ。
相手に苦しんでほしいというのは、優しい願いではない。
けれど、その奥には、自分の苦しみを分かってほしいという切実な気持ちがある。
相手に理解してもらいたい。
しかし、理解してもらうために、相手にも同じ苦しみを味わわせようとする。
そうなれば、関係はますます難しくなる。
そして、津奈木のように衝突を避ける人間と、寧子のように感情をぶつける人間が一緒にいれば、そのすれ違いはさらに大きくなるのかもしれない。
どちらか一方だけが悪いとは言い切れない。
けれど、どちらにも問題がある。
この二人の関係が、なんとも人間らしく感じられた。
安堂は悪者なのか。正論と身勝手さの間で
津奈木の元恋人である安堂も、物語に欠かせない存在だ。
彼女は寧子と津奈木の生活に入り込み、寧子に自立を迫る。
その言動には強引なところがあり、津奈木との関係をめぐる個人的な思惑もある。
だから、安堂を見ていて不快に感じる読者もいるだろう。
僕自身も、彼女のやり方を素直に肯定することはできなかった。
ただ、だからといって、安堂の言っていることがすべて間違っているわけでもない。
寧子と津奈木の生活には、確かに問題がある。
津奈木が働き、寧子は家に引きこもりがちになっている。
二人の関係が、お互いにとって健全なものなのかどうかは、簡単には判断できない。
安堂は、そうした問題を外側から突きつける人物でもある。
ここで考えさせられるのが、正しいことを言う人が、必ずしも正しい人間とは限らないということだ。
言っている内容には一理ある。
しかし、その動機には身勝手さがある。
相手のためを思っているように見えて、実は自分の都合も含まれている。
現実の人間関係でも、こういうことは珍しくないと思う。
誰かの問題を指摘するとき、その人のためだけを考えているとは限らない。
反対に、個人的な思惑があるからといって、その指摘がすべて間違っているとも限らない。
安堂という人物が登場することで、寧子と津奈木の関係は、二人だけの問題ではなくなっていく。
外から見た二人の姿と、当人たちが感じている関係には、違いがある。
その違いもまた、この作品の面白さなのだと思う。
寧子は、自分自身と一生別れられない
この作品で、最も心に残ったテーマの一つが、自分自身から逃げられないということだった。
人間関係であれば、距離を置くことができる。
恋人と別れることもできるし、職場を辞めることもできる。
もちろん、それらが簡単なことだとは思わない。
それでも、相手や環境との関係を変えるという選択肢はある。
しかし、自分自身の場合はどうだろう。
どれだけ嫌いになっても、自分から離れることはできない。
寧子は、そんな自分自身に疲れ果てている。
怒りたくないのに怒ってしまう。
眠りたくないのに眠ってしまう。
頑張ろうと思っても、思うようにいかない。
自分の感情に振り回され、またそんな自分に嫌気が差す。
作中で寧子は、自分のことをこんなふうに問いかける。
「あたしってなんでこんな生きてるだけで疲れるのかなあ?」(p106より引用)
この言葉が、作品のタイトルと強く結びついているように感じた。
生きているだけで疲れる。
何か特別なことをしているわけではない。
大きな事件が起きているわけでもない。
ただ生活しているだけなのに、疲れてしまう。
それは、他人から見れば理解しにくい苦しみなのかもしれない。
しかし、本人にとっては毎日の問題なのだ。
さらに苦しいのは、寧子自身も、どうすればよくなるのか分かっていないことだろう。
何かを変えようとする。
少し調子がよくなる。
これで大丈夫かもしれないと思う。
けれど、また気分が沈んでしまう。
そうした経験を繰り返していれば、いつか自分に期待することさえ怖くなってしまうのかもしれない。
実際、寧子は、以前ほど自分自身に期待を持たないようになったことを語っている。
これも、なんとも切ない。
人間は、希望を持つことが大切だと言われる。
前向きに考えよう。
明日はきっとよくなる。
そんな言葉を耳にすることも多い。
けれど、何度も期待して、そのたびに失望してきた人にとって、希望を持つこと自体が負担になる場合もあるのだろう。
もちろん、寧子の考え方が唯一の正解だとは思わない。
ただ、彼女が簡単に前向きになれない理由は、少し分かる気がした。
津奈木は、寧子の何を好きになったのだろう
ここまで読むと、そもそも津奈木は、なぜ寧子と一緒にいるのだろうと疑問に思う。
寧子は感情の起伏が激しく、何度も津奈木に怒りをぶつける。
一緒に生活することは、決して簡単ではないはずだ。
それでも、津奈木は彼女と暮らし続けている。
終盤では、津奈木が寧子の姿をどのように見ていたのかが語られる。
そこで印象的なのが、彼女の激しい行動を、津奈木が単なる異常さとしてではなく、どこか美しいものとして記憶していることだ。
寧子が土手を走る姿。
意味の分からないことを叫びながら、必死に走っている姿。
その光景を、津奈木は忘れていない。
僕は、この場面がとても好きだった。
津奈木は、寧子のことを完全に理解しているわけではない。
彼女の感情についていけないこともある。
それでも、寧子という人間に、ほかの誰にもない魅力を感じている。
ここが重要なのだと思う。
誰かを好きになる理由は、必ずしも理屈で説明できるものではない。
優しいから。
一緒にいて楽しいから。
価値観が合うから。
もちろん、そうした理由もあるだろう。
けれど、相手の欠点も含めて、なぜか目が離せなくなることもあるのかもしれない。
理解できない。
でも、惹かれてしまう。
津奈木にとっての寧子は、そういう存在だったのだろうか。
ただし、だからといって、二人の関係に問題がないことにはならない。
相手の激しさを美しいと感じることと、その人と生活を続けられることは別だ。
恋愛には、そうした矛盾もあるのだと思う。
五千分の一秒だけでも、分かり合えたなら
終盤の場面は、特に印象深かった。
寧子は、津奈木に自分の見ている光景を覚えていてほしいと願う。
ここで登場するのが、北斎と富士山をめぐる、寧子らしい独特の考え方だ。
北斎が富士山を描いた瞬間、描く側と描かれる側の間に、何かが通じ合ったのではないか。
そんな発想が語られる。
理屈として正しいかどうかは分からない。
けれど、僕はこの場面が好きだった。
寧子は、誰かに自分のすべてを理解してほしいと願ってきた。
しかし、人間が他人のことを完全に理解するのは、おそらく難しい。
どれだけ長く一緒にいても、相手が何を考えているのか分からないことはある。
同じものを見ていても、感じ方は違う。
同じ言葉を聞いても、受け取り方は違う。
だからこそ、ほんの一瞬だけでも、同じものを感じられたなら。
それは、とても大きなことなのかもしれない。
「この光景の五千分の一秒を覚えてもらいたい。」(p110より引用)
この言葉には、寧子の切実な願いが込められているように感じた。
一生分かり合えなくてもいい。
すべてを理解してもらえなくてもいい。
ただ、ほんの一瞬だけ、自分の見ている世界を覚えていてほしい。
それは、相手に完全な理解を求めることとは少し違う。
理解できない部分があることを認めたうえで、それでも何かを共有したいという願いだ。
そして、その願いは、恋愛に限った話ではないと思う。
家族でも、友人でも、職場の人間でも、相手のことをすべて理解するのは難しい。
それでも、ふとした瞬間に、同じ景色を見て笑うことがある。
同じ言葉に心を動かされることがある。
相手の気持ちが、ほんの少しだけ分かったように感じることがある。
その一瞬があるからこそ、人は誰かと関わり続けるのかもしれない。
ラストシーンは、救いだったのだろうか
この作品の結末を、単純なハッピーエンドとして受け取ることはできなかった。
寧子と津奈木の問題が、すべて解決したわけではない。
寧子の抱える苦しみが消えたわけでもない。
二人が今後、何の問題もなく暮らしていけるという保証もない。
それでも、ほんの一瞬だけ、互いの気持ちが通じ合ったようにも感じられる。
僕は、この曖昧さが好きだった。
恋愛小説では、最後に二人が結ばれたり、互いの気持ちを理解したりすることで、物語が完結することがある。
もちろん、そういう結末も好きだ。
けれど、現実の人間関係は、そんなにきれいには終わらない。
昨日まで分かり合えなかった二人が、今日突然、何もかも理解できるようになるわけではない。
一度仲直りしたからといって、同じ問題が二度と起こらないとも限らない。
寧子と津奈木も、きっとそうなのだろう。
また衝突するかもしれない。
また寧子が怒り、津奈木が黙り込むかもしれない。
それでも、今回の出来事を通して、何かが少しだけ変わった可能性もある。
この結末を救いと呼んでいいのかは分からない。
ただ、すべてが解決するような終わり方ではないところが、僕は好きだった。
前日譚「あの明け方の」を読んで
本書には、本編の前日譚にあたる「あの明け方の」も収録されている。
こちらを読むことで、寧子と津奈木が以前から衝突を繰り返してきたことが分かる。
特に印象に残ったのは、寧子が家を飛び出したあと、自分たちの行動にどれほどの意味があったのかを考える場面だ。
あれだけ怒って、意地を張って、歩き続けた。
けれど、翌日になれば、何もなかったことと変わらないのではないか。
そんな思いが語られる。
ここには、寧子自身の諦めのようなものを感じた。
感情が爆発しているときは、その瞬間の出来事が世界のすべてのように感じられる。
もう我慢できない。
絶対に許せない。
こんな関係は終わりにしたい。
けれど、時間が経てば、また同じ日常に戻っていく。
昨日の怒りが消えたわけではない。
問題が解決したわけでもない。
それでも、生活は続いてしまう。
これは、恋人同士に限ったことではないと思う。
誰かと衝突して、もう二度と関わりたくないと思ったのに、翌日には普通に会話していることもある。
あれほど腹が立っていたのに、数日後には何に怒っていたのかさえ曖昧になっていることもある。
だからといって、そのときの感情が嘘だったわけではない。
怒りも、悲しみも、苦しみも、その瞬間には確かに存在していた。
ただ、人間はそうした感情を抱えたまま、また日常へ戻っていくのだろう。
前日譚を読むと、本編のラストも違った印象を持つ。
二人はこれまでも衝突し、仲直りを繰り返してきた。
今回の出来事も、その繰り返しの一つなのかもしれない。
けれど、だからといって、何の意味もなかったとは思わない。
ほんの少しでも相手のことを知ることができたなら。
一瞬でも気持ちが通じ合ったなら。
それは、決して無意味なことではないのだと思う。
本谷有希子の文章が持つ、独特の迫力
もう一つ触れておきたいのが、本谷有希子さんの文章そのものの魅力だ。
この作品には、感情をきれいに整理して説明するのではなく、むき出しのままぶつけてくるような文章が多い。
寧子の怒りは、決して上品ではない。
相手に対してひどいことを考えるし、理不尽な言葉も出てくる。
けれど、その言葉には勢いがある。
特に印象的だったのは、雪道を歩く場面だ。
雪を踏みしめる音を、凶暴な生き物が骨をかみ砕くような音として表現する。
一般的には、雪景色といえば静かで美しいものとして描かれることが多い。
しかし、寧子の目を通すと、その景色さえ暴力的なものになる。
同じ雪を見ていても、人によって感じ方は違う。
寧子の内側にある怒りや苦しみが、周囲の風景にまで染み出しているようだった。
こうした表現が、僕はとても好きだった。
そして、感情の激しさだけでなく、思わず笑ってしまうような文章が混ざっているところも面白い。
先ほどの「大丈夫たよ」もそうだ。
本人にとっては切実な怒りなのに、読者からすると、どこか滑稽にも見える。
笑っていいのか迷う。
けれど、少し笑ってしまう。
そんな感覚が、この作品には何度もあった。
人間の感情は、必ずしも美しいものではない。
ときには理不尽で、醜くて、滑稽でもある。
本谷有希子さんの文章は、そうした部分を隠さずに描いている。
だからこそ、寧子という人物が、強烈な存在感を持っているのだと思う。
愛することと、理解することは同じなのだろうか
読み終えて、最後に残ったのは、この問いだった。
誰かを愛することと、その人を理解することは、同じなのだろうか。
寧子は津奈木に、自分のことを分かってほしいと願っている。
津奈木は寧子のすべてを理解しているわけではない。
それでも、彼女に惹かれている。
二人の関係は、決して理想的なものではない。
傷つけ合うこともあれば、分かり合えないこともある。
それでも、一緒にいる。
もちろん、愛しているからといって、どんな関係でも続けるべきだとは思わない。
相手を傷つけ続けることが、愛情の証明になるわけでもない。
苦しい関係から離れることも、一つの選択だろう。
ただ、この作品を読んでいると、愛情というものが、必ずしも理解の上に成り立っているわけではないのだと感じる。
相手のことを完全には理解できない。
どうしてそんなことを言うのか分からない。
どうしてそんな行動をするのか分からない。
それでも、なぜか惹かれてしまう。
一緒にいたいと思ってしまう。
そういう関係も、世の中にはあるのだろう。
そして、理解できないことと、理解しようとしないことも違う。
相手のすべてを分かることはできなくても、分かろうとすることはできる。
相手が何を感じているのか、耳を傾けることはできる。
ほんの一瞬だけでも、同じ景色を見ようとすることはできる。
寧子が求めていたのも、もしかすると、そういうことだったのかもしれない。
まとめ|『生きてるだけで、愛。』を読んで
『生きてるだけで、愛。』
最初にタイトルを見たときは、どこか優しい言葉のように感じた。
生きているだけでいい。
存在しているだけで、誰かに愛される価値がある。
そんな意味にも受け取れる。
けれど、実際に読んでみると、このタイトルにはもっと切実な響きがあるように思えた。
生きているだけで疲れる人がいる。
自分自身を好きになれない人がいる。
誰かに理解してほしいのに、うまく伝えられない人がいる。
そして、誰かを愛しているのに、その人を傷つけてしまうこともある。
寧子は、決して理想的な主人公ではない。
身勝手で、感情的で、周囲を振り回してしまう。
読んでいて腹が立つこともあった。
それでも、彼女の苦しみを否定することはできなかった。
そして、津奈木もまた、完璧な恋人ではない。
穏やかに見える態度の裏側に、無関心や逃避があるのかもしれない。
安堂にも身勝手な思惑があり、アルバイト先の夫婦との間にも埋められない感覚の違いがある。
誰もが正しいわけではない。
誰もが間違っているわけでもない。
そんな人間たちが、理解できない部分を抱えたまま関わり合っている。
僕は、この作品のそういうところが好きだった。
そして、寧子の過眠や、自分自身に疲れ果てている姿を読んで、普通に生きることの難しさについても考えさせられた。
人間は、そんなに簡単には変われない。
恋愛をしたからといって、すべての問題が解決するわけでもない。
けれど、誰かと一緒にいることで、ほんの一瞬だけ、自分の見ている世界を共有できることがあるのかもしれない。
たとえ、それが五千分の一秒だったとしても。
誰かを愛することと、その人を理解することは、きっと別なのだと思う。
不器用で、身勝手で、どうしようもない。
それでも懸命に生きている人間の姿が、強烈に心に残る一冊だった。
