2020年、世界中の日常が大きく変わった。
マスクの着用、外出自粛、学校の休校、オンライン授業。テレビでは連日感染者数が報じられ、友人と会うことも、旅行へ出かけることも、気軽にはできなくなった。昨日まで普通にできていたことが、ある日突然、難しくなる。あの頃は、何が正しくて何が間違っているのか、誰もが手探りだったように思う。
あれから数年が経った。街には人が戻り、旅行やイベントも再び身近なものになった。あれほど生活を支配していた出来事が、今では遠い昔のようにも感じられる。けれど、当時の記憶を「もう終わったこと」と片付けてしまっていいのだろうか。
木村恭一郎さんの『コロナ時代を生きた僕たちへ』を読みながら、そんなことを考えた。
本作は、2020年に京都大学へ入学した著者が、感染症の拡大によって一変した学生生活を振り返り、その経験から見つめ直した人生や人間関係について綴ったエッセイである。受験を終え、ようやく始まるはずだった大学生活。しかし、待っていたのは思い描いた新生活とは異なる日々だった。
当時、僕はすでに社会人だった。同じ時代を生きていたにもかかわらず、大学生たちがどんな景色を見て、どんな感情を抱いていたのかを知る機会はほとんどなかった。だからこそ、この本には、僕の知らなかったコロナ禍を見せてもらったような感覚がある。
単に失われた青春を嘆くのではない。失った時間とどう向き合うのか。自分の人生をどう選ぶのか。そして、大切な人に何を伝えるのか。著者の記憶をたどるうちに、僕自身の過去まで静かに呼び起こされていった。
2020年、僕は社会人としてあの時代を過ごしていた
新型コロナウイルスの感染が広がった頃、僕は観光業に従事していた。人の移動が制限され、旅行を控える人が増え、職場も休業することになった。出勤するのが当たり前だった生活が、突然途切れた。
先の見えない状況に戸惑いながらも、正直なところ、仕事が休みになったことを心のどこかで喜んでいた自分もいたのかもしれない。感染症の拡大を喜んでいたわけではない。ただ、仕事に追われる日常から離れられることに、少しだけ安堵していたのだと思う。
今になって考えると、そんな感情もまた、僕があの時代を生きた証なのだろう。誰もが一様に悲しみ、同じ不安を抱いていたわけではない。仕事を失った人もいれば、仕事が増えた人もいる。家族と過ごす時間が増えた人もいれば、大切な人に会えなくなった人もいる。同じ出来事の中に、いくつもの異なる日常が存在していた。
一方で、大学へ入学したばかりの学生にとって、あの時間はどのようなものだったのだろう。僕にとっての休業は、少なくとも一時的には仕事から離れる時間だった。しかし、彼らにとっての休校やオンライン授業は、新しく始まるはずの生活そのものが遠ざかる経験だったのかもしれない。
当時のニュースで学生たちの状況を知っていたつもりではあった。それでも、知っていたのは制度や出来事の輪郭だけだったのだと思う。初めての大学生活に胸を膨らませていた人が、部屋の中で何を考えていたのか。友人ができるはずだった春を、どんな気持ちで過ごしたのか。そうした内側の声を、僕はほとんど聞いていなかった。
この本を読んで初めて、同じ2020年という時間が、人によってこれほど違う意味を持っていたのだと実感した。
その年齢でしか味わえない、人生の季節
本作で特に印象に残ったのが、経験と年齢についての考え方だった。
物事には経験するのに最も適した人生の季節がある。
(p22より引用)
この言葉を読んで、時間というものの残酷さを考えた。
旅行に行けなかったなら、いつか行けばいい。友人と会えなかったなら、落ち着いてから会えばいい。そう言うことは簡単だ。実際に、後から実現できることもあるだろう。しかし、すべてを同じ形で取り戻せるわけではない。
高校生の頃、友人たちと出かける旅行。大学一年生の春、新しい友人と初めて交わす会話。部活動で何かに夢中になり、くだらないことで笑い合う時間。大人になってから同じ場所へ行き、同じ人に会ったとしても、それはもう同じ経験ではない。そこにいる自分自身が、変わっているからだ。
僕にも、学生時代の何でもない風景が記憶に残っている。何を話したかさえ思い出せない会話や、特別な出来事など起きなかった帰り道。当時は、それがいつまでも続くような気がしていた。けれど卒業すれば、毎日のように顔を合わせていた人たちとも、簡単には会えなくなる。
学生生活が誰にとっても楽しいとは限らない。学校という場所に苦しさを感じる人もいるだろう。それでも、ある年齢の自分が、ある人たちと、同じ時間を過ごすことには、その瞬間だけの意味がある。
本作では、大学で野球を続けることさえ、さまざまな制限の中で難しくなっていく。好きだったものとの関わり方が変わってしまうのは、単に活動する機会を失うこととは違う。そこにあったはずの未来の記憶まで、失うような感覚があったのではないだろうか。
後になって取り戻せる経験はある。しかし、取り戻せない季節もある。そのことを思うと、失われた学生生活を「数年の我慢」という言葉だけで説明することはできないと思った。
誰が一番苦しかったのか、比べる必要はない
コロナ禍について語るとき、誰が最も大きな影響を受けたのかという話になることがある。学生、医療従事者、飲食業や観光業で働く人、高齢者、子どもたち。それぞれが異なる困難に直面していた。
社会的な影響を検証し、必要な支援を考えることは大切だと思う。けれど、一人ひとりの悲しみや苦しみに順位をつける必要はないのではないだろうか。誰かの苦しみが大きかったからといって、別の誰かの痛みが消えるわけではない。
著者は、報われなかった人々について思いを巡らせ、こう記している。
この世界には無数の人間が生きていて、それぞれの人生がある。
(p126より引用)
当たり前に見える言葉だけれど、僕たちは案外、その当たり前を忘れてしまう。自分の経験を基準にして、他人の出来事を判断してしまうことがあるからだ。
僕は、大学生としてコロナ禍を過ごしたことがない。だから著者の感情を完全に理解することはできないだろう。反対に、著者も僕が観光業で働きながら感じたことを、すべて知っているわけではない。けれど、それでいいのだと思う。
知らないからこそ、耳を傾ける。経験していないからこそ、想像してみる。誰かの言葉に触れることは、自分の知らなかった世界が確かに存在していると認めることでもある。
本を読むことの魅力は、まさにそこにある。自分とは異なる人生を生きてきた人の考えに触れ、それまで当然だと思っていた物事を別の角度から眺めることができる。今回、僕がこの作品から受け取ったのも、そういう経験だった。
「何もしないこと」が正しいとされた日々
今振り返ると、コロナ禍は不思議な時代だったと思う。人と会わないこと、外出を控えること、集まらないこと。それまで大切にしてきた人との交流が、感染拡大を防ぐために制限されるようになった。
私たちは手を取り合い、「何もしないこと」によって日常を守ろうと必死に生きていた。
(p39より引用)
この一文には、当時の空気がよく表れているように感じた。何かをするのではなく、しないことによって誰かを守ろうとする。努力や行動が尊ばれる社会の中で、行動を控えることが求められた。
今なら、当時の対策や社会の雰囲気について、いろいろな意見を言えるだろう。過剰だったと感じるものもあれば、もっと早く対応すべきだったと思うこともあるかもしれない。そうした検証をすることは必要だ。
しかし、結果を知っている今の立場から、当時の人々を簡単に笑うことには違和感がある。僕たちはあの頃、未来を知らなかった。いつ感染が落ち着くのか、いつ元の生活に戻れるのか、誰にもわからなかった。その中で、手探りの判断を重ねていたのだと思う。
もちろん、当時の判断がすべて正しかったということではない。誤りは振り返るべきだし、繰り返さないために学ぶことも必要だ。ただ、過去の人々を嘲笑することと、過去から学ぶことは違う。
あの時代に生きていた人たちの不安や迷いまで、なかったことにしてはいけない。そう感じた。
記録に残らなければ、消えてしまう感情がある
時間が経つにつれて、記憶は薄れていく。あれほど毎日気にしていた感染者数も、外出するときの緊張感も、今では細かなことを思い出せなくなっている。あの頃の出来事が遠ざかっていくのは、日常を取り戻した証でもあるのだろう。
けれど、忘れてしまうことで失われるものもある。
感染者数や休校の期間は、後から資料を調べればわかる。しかし、大学に入学したばかりの学生が、誰とも会えない部屋でどんな気持ちを抱いていたのか。楽しみにしていた春が始まらなかったとき、何を考えていたのか。その感情は、数字だけでは伝わらない。
著者は、あの時代をめぐる対立を煽るのではなく、当事者が見た世界を残す必要性を語っている。
大人たちには決して見ることができなかった風景や世界を語り継いでいくこと
(p82より引用)
この言葉に、僕は強く共感した。僕が本作を読んで知ったのは、大学生全員に共通する唯一の真実ではない。あくまでも、一人の学生が見ていた景色だ。大学や地域、家庭環境が違えば、別の経験をした人もいるはずだ。
それでも、一人の具体的な記録があることで、あの時代の輪郭は少し鮮明になる。ニュースには映らなかった感情が、文章の中に残される。何年も後に読む人が、その声に耳を傾けられる。
歴史は大きな事件や数字だけでできているわけではない。そこには、無数の小さな生活がある。朝起きて、食事をして、誰かに会いたいと思い、会えないまま一日が終わる。そんな個人の時間もまた、確かに歴史の一部なのだ。
あの日々を、ただの過去として片付けたくない。この本を読みながら、そんな気持ちが強くなった。
失われた青春の先にある、人生の選択
読み始める前、僕は本作を、コロナ禍によって青春を奪われた学生の苦悩を綴った作品だと思っていた。もちろん、その側面は大きい。しかし読み進めると、著者の関心は失われた時間だけにとどまっていないことがわかる。
著者は、選んだ道と選ばなかった道について考えている。進学、部活動、友人関係、仕事。僕たちは日々、何かを選びながら生きている。そして何かを選ぶとき、別の何かを選ばないことにもなる。
あのとき違う道へ進んでいたら、今の自分はどうなっていただろう。そんな想像をしたことは、誰にでもあるのではないだろうか。けれど、選ばなかった人生がどうなったのかを知ることはできない。比較できない未来を相手に、いつまでも答えを探してしまうことがある。
本作にある、選んだことと選ばなかったことの両方が現在の自分を形作っているという考え方は、そんな後悔との付き合い方を考えるきっかけになった。
過去を無理に肯定する必要はない。失ったものを、失ってよかったと思わなくてもいい。コロナ禍で奪われた時間が、後から意味のあるものに変わるとは限らない。それでも、その経験を抱えた自分が、今ここに生きている。
過ぎ去った時間は戻らない。だからこそ、著者は今という瞬間に目を向ける。
過ぎ去った時間を巻き戻すことはできない。
(p78より引用)
短いけれど、重たい言葉だと思った。どれほど悔やんでも、昨日には戻れない。ならば、これから出会う人や、今一緒に過ごしている人との時間をどう扱うのか。その問いが、作品の後半に向かって少しずつ大きくなっていく。
家族への思いと、社会へ出ることへの戸惑い
本作には、両親への感謝や将来の進路について考える場面もある。大学生活の記録であると同時に、親元を離れ、社会へ向かっていく一人の若者の記録でもあるのだ。
家族との関係は、近いからこそ難しいことがある。何かをしてもらっても、いつものことだからと受け流してしまう。感謝していないわけではないのに、わざわざ言葉にする機会を逃してしまう。
けれど、親にも親自身の人生がある。自分のために費やしてくれた時間は、無限にあるものではない。著者が両親から受け取ってきたものを少しずつ返したいと考える場面を読みながら、僕もそんなことを思った。
また、進路を考える場面では、周囲が求める答えと自分の本音との間で揺れる姿が描かれる。就職活動では、相手に納得してもらえる理由を考え、自分の考えを言葉にしなければならない。しかし、それを繰り返すうちに、何を望んでいたのかわからなくなることもある。
本音を押し殺した発言を繰り返しているうちに、自分が将来に何を望んでいるのか分からなくなるのだった。
(p149より引用)
この感覚には共感した。社会で生きる以上、いつでも本音だけを口にできるわけではない。相手への配慮や、役割に応じた振る舞いも必要だろう。けれど、そればかりを続けていると、自分の人生を誰のために選んでいるのかわからなくなる。
学生時代の人間関係と、職場の人間関係の違いについての考察も興味深かった。学校では、同じ教室にいるだけで自然に顔を合わせ、関係が生まれることがある。一方、職場では役割や責任を果たすことが関係の中心になりやすい。もちろん、どちらが良いという話ではない。ただ、学生時代に存在していた共同体が、卒業後も同じ形で続くわけではない。
大学生活を終えるということは、単に学校を卒業することではないのだろう。これまで当たり前だった時間や人間関係のあり方が変わり、自分の足で人生を選ぶことでもある。コロナ禍によってその始まりを揺さぶられた著者が、やがて自分自身の進む道を考える姿には、単なる喪失の記録を超えたものを感じた。
今を生きる学生たちに読んでほしい理由
本作を読み終えて、今まさに学生生活を送っている人たちにも読んでほしいと思った。
友人と会えること。学校へ通えること。好きなことに夢中になれること。放課後に何でもない話をしながら帰れること。そうした日常は、当事者にとっては特別ではないかもしれない。
しかし、その時間はいつまでも続くわけではない。卒業すれば環境は変わり、毎日のように顔を合わせていた人たちとも、会うために予定を合わせる必要が出てくる。今なら簡単にできることが、数年後には難しくなることもある。
だからといって、毎日を充実させなければならないとか、青春らしいことをしなければならないと言いたいわけではない。何もしない日があってもいいし、学校生活を好きになれない人がいてもいい。それぞれに事情があり、それぞれの時間がある。
ただ、今過ごしている時間を、後からまったく同じ形で取り戻すことはできない。そのことを少し意識するだけでも、何でもない一日の見え方が変わるかもしれない。
著者は、若い人が今過ごしている時間について、次のように語っている。
君が今過ごしている瞬間は、私たち大人がすべてを犠牲に捧げたところでもう二度と手にすることが叶わない人生の季節だから。
(p155より引用)
これは、若者に向けた言葉であると同時に、すでにその季節を通り過ぎた大人にも響く言葉だと思った。あの頃に戻りたいと願っても、実際に戻れるわけではない。だからこそ、今を生きる人には、他人の期待に合わせて無理に青春を演じるのではなく、自分自身の時間を大切にしてほしい。
大人になった僕が学生時代を振り返るとき、記憶に残っているのは、必ずしも大きな成功や特別なイベントだけではない。むしろ、何でもない日々の方が懐かしく感じられることもある。
未来に向かって何かを成し遂げることも大切だろう。しかし、いつか振り返ったときに、戻りたいと思えるような過去を積み重ねていくことも、同じくらい大切なのかもしれない。
伝えたい言葉を、伝えられるうちに
そして、本作を通して僕が最も強く受け取ったのは、言葉を伝えることの大切さだった。
コロナ禍では、会いたい人に会えなかった。話したいことがあっても、直接顔を合わせて話すことができなかった。昨日まで当たり前だった距離が、突然遠くなった。
僕たちは普段、言葉を伝える機会がいつまでもあるように思ってしまう。感謝していることがあっても、今さら照れくさいからと口にしない。謝りたいことがあっても、次に会ったときでいいと思う。大切に思っている人がいても、その気持ちを先延ばしにしてしまう。
また今度会えるだろう。いつか伝えればいいだろう。
しかし、その「いつか」が必ず訪れるとは限らない。人間関係も、生活する場所も、仕事も変わっていく。昨日まで当たり前に会えていた人と、ある日を境に会えなくなることだってある。
著者があの日々から学んだことは、本作の終盤で、次の言葉に結びつく。
伝えたいと思う言葉を、伝えることができるうちに伝えること
(p171より引用)
この言葉は、コロナ禍を経験した人だけのものではないと思う。誰かと関わりながら生きている、すべての人に通じるものではないだろうか。
もちろん、思っていることを何でも伝えればいいわけではない。言葉にしない方がいいこともあるし、伝えるための時間が必要な感情もある。それでも、伝えたいと思っている大切な言葉を、いつまでも後回しにしたくはない。
感謝も、謝罪も、誰かを大切に思う気持ちも。伝えられる機会があるのなら、その機会を大切にしたい。
本を読む前の僕は、コロナ禍を過去の出来事として振り返ろうとしていた。けれど読み終えた今は、あの時代の経験が、これからの生き方にもつながっているのだと感じている。
『コロナ時代を生きた僕たちへ』を読んだ感想まとめ
2020年、僕たちは確かに同じ時代を生きていた。しかし、同じ景色を見ていたわけではない。
社会人として職場の休業を経験した僕と、大学生活の始まりを迎えた著者。それぞれに異なる記憶があり、異なる感情がある。そして、世界中の一人ひとりに、それぞれのコロナ禍があったのだと思う。
本作は、失われた青春を描いたエッセイであると同時に、その経験を経て、自分の人生をどう生きるのかを考える作品でもあった。取り戻せない時間、選ばなかった道、家族との関係、社会へ出ることへの迷い。そして、誰かに思いを伝えることの尊さ。著者の言葉を通して、僕自身の人生についても考えることができた。
今では遠い昔のように感じられるあの時代。しかし、当時の人々が何を感じ、何を失い、どのような思いで生きていたのか。その記憶まで忘れてしまいたくはない。
今まさに青春を送っている人たちにも、すでに学生時代を終えた人たちにも、ぜひ手に取ってほしい一冊だ。
同じコロナ時代を生きた一人として、僕の知らなかった景色を見せてくれたこと。そして、あの頃の思いを言葉にして残してくれたことに、心からありがとうと伝えたい。
あなたにとって、あの時代はどんな日々でしたか?
