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『沖晴くんの涙を殺して』感想・考察|「喜び」だけで、人は幸せになれるのだろうか

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悲しいことなんて、できればない方がいい。

腹が立つことも、不安になることも、怖くなることもない方がいい。

できるだけ物事をポジティブに考えて、嫌なことがあっても引きずらない。ネガティブな感情なんて、さっさと自分の中から追い出してしまえばいい。

僕はずっと、そんなふうに考えていた。

だって、悲しんでいるより笑っている方がいい。

怒っているより穏やかな方がいい。

何かに怯えながら生きるより、「まあ、なんとかなる」と笑っていた方が楽だ。

だったら、ネガティブな感情なんて少なければ少ないほど、人は幸せになれるんじゃないか。

そんな僕の考えを、少しだけ立ち止まらせた小説がある。

額賀澪さんの『沖晴くんの涙を殺して』だ。

この小説の主人公、志津川沖晴には、「喜び」以外の感情がない。

悲しみもない。

怒りもない。

嫌悪もない。

恐れもない。

残っているのは、喜びだけ。

文字だけで見ると、少し羨ましくも思える。

嫌なことがあっても腹が立たない。

過去を思い出して落ち込むこともない。

未来を考えて不安になることもない。

毎日をそれなりに楽しく生きていける。

もしかすると、それは僕が理想としていた状態にかなり近いのかもしれない。

でも、この小説を読み進めていくうちに思った。

「喜び」だけで、人は本当に幸せなのだろうか。

そして読み終えた今、僕は以前とは少し違うことを考えている。

ネガティブな感情は、全部なくしてしまわなくてもいいのかもしれない。

表に出し続ける必要もない。

ずっと悲しんでいる必要もない。

怒りに支配される必要もない。

ただ、心の裏側に、ちゃんと持っておく。

もしかすると、それも「生きる」ということなのかもしれない。


目次

『沖晴くんの涙を殺して』あらすじ|「喜び」以外の感情を失った少年

沖晴は、幼い頃に津波で家族を失った。

自分だけが生き残った。

そのとき、死神との取引によって、五つある感情のうち「悲しみ」「怒り」「嫌悪」「恐れ」を失った。

沖晴に残されたのは「喜び」だけだった。

だから、家族を失った過去を思い出すことはできる。

何が起きたのかも覚えている。

でも、そこに本来あるはずの感情がない。

沖晴はこう語る。

「本当なら悲しみや怒りや嫌悪や恐れを感じるはずの場所を、何かが素通りしていくんです。」(p81より引用)

この表現が、とても印象に残った。

記憶がなくなったわけではない。

過去が消えたわけでもない。

家族がいたという事実も、家族を失ったという事実も残っている。

なのに、その記憶と感情だけがつながっていない。

心の中に、本来何かがあるはずの場所だけが空洞になっている。

そこを風が通り抜けていく。

僕は最初、「悲しめない」ということを単純に楽な状態だと思っていた。

実際、沖晴自身も「結構楽しく生きてる」と話している。

確かにそうだと思う。

悲しくなければ、苦しまなくていい。

怒らなければ、誰かを憎まなくていい。

怖くなければ、未来に怯えなくていい。

でも読み進めるほど、その「楽」は、僕たちが普段使っている「幸せ」と同じなのだろうかと思えてくる。

苦しくない。

でも、何かがない。

沖晴の心には、その「何かがない」ということだけは分かっている。

だからこそ、隙間風が吹く。

痛みがないことと、満たされていることは、同じではないのかもしれない。


感情は、その人だけのもの

この作品を読んでいて、僕自身のことも考えた。

僕は、泣くべきだと思われている場面で泣けないことがある。

逆に、みんなが楽しそうにしている場所で、それほど楽しくないこともある。

別に何かを我慢しているわけでもない。

強がっているわけでもない。

ただ、そのときに、その感情が出てこない。

人間の感情なんて、そんなものだと思う。

ところが、周りから見ると分かりやすい反応を求められることがある。

大切な人を失ったら泣く。

嬉しいことがあったら喜ぶ。

ひどいことをされたら怒る。

怖いことがあったら怯える。

もちろん、多くの場合はそうなるのだろう。

でも、ならない人もいる。

この作品には、こんな言葉がある。

「そこに生まれる感情は、その人だけのものだよ。」(p208より引用)

僕は、この言葉がすごく好きだった。

泣いていないから悲しくないわけではない。

笑っているから平気なわけでもない。

その瞬間には何も感じなかったのに、何年も経って突然悲しくなることだってある。

人間の感情には、その人にしか分からない時間がある。

それなのに外から見て、

「もっと悲しむべきだ」

「そろそろ立ち直るべきだ」

「元気を出せ」

と決めてしまう。

感情は本人ですら自由に操作できないのに、他人が正解を決められるはずがない。

人はいつも、自分が感じるべき感情を、正しいタイミングで感じられるわけではない。


津波で沖晴が失ったのは、家族だけではなかった

沖晴は津波によって家族を失った。

作品の中に、

「あれは、海じゃなかった。海じゃないものが、海の顔をしてすべてを飲み込んだ。」(p83より引用)

という言葉がある。

海という、普段なら美しかったり穏やかだったりするものが、突然まったく別のものになる。

そして沖晴から、家族を奪っていく。

ただ、沖晴があの日失ったものは、家族だけではなかったのだと思う。

家族を失って悲しむこと。

なぜこんなことになったんだと怒ること。

あの日を恐れること。

起きてしまったことを嫌悪すること。

沖晴は「喪失」と同時に、「喪失を感じるための感情」まで失っている。

ここが、この物語の残酷なところでもあり、面白いところでもある。

普通なら、大切な人を失えば悲しい。

もちろん、その悲しみ方は人によって違う。

でも沖晴には、その悲しみそのものがない。

忘れたわけではない。

乗り越えたわけでもない。

ただ、悲しむことができない。

もしかするとそれは、「立ち直った」とはまったく違う状態なのかもしれない。


【考察】沖晴の前に現れた「死神」とは何だったのか

ここからは、僕なりの考察になる。

この物語を読み終えてから、ずっと気になっていることがある。

沖晴の前に現れた死神とは、いったい何だったのだろう。

もちろん、作品の中では死神として描かれている。

でも僕は、少し違う読み方もできるんじゃないかと思った。

もしかすると、死神は沖晴から感情を「奪った」のではない。

沖晴が再びそれらを抱えられるようになるまで、誰かが預かっていたのではないか。

そして、その「誰か」は、津波で亡くなった両親だったのではないか。

そんなことを考えた。

幼い沖晴の目の前で、世界が壊れる。

家族が死ぬ。

自分だけが生き残る。

悲しい。

怖い。

腹が立つ。

受け入れたくない。

あまりにも大きすぎる感情を、まだ幼い沖晴が全部抱えたまま生きていくことはできなかった。

だから両親が死ぬ間際に、

「今はまだ持たなくていい。私たちが預かっておくから」

と、悲しみも怒りも嫌悪も恐れも、一緒に持っていった。

そう考えると、僕には死神の存在が少し違って見えてくる。

怖い存在ではなくなる。

沖晴から何かを奪った存在でもなくなる。

むしろ、沖晴を生かすために、一時的に重い荷物を持ってくれた存在になる。

沖晴自身も、後になってこう振り返っている。

「感情を奪ってもらえてよかった」(p170より引用)

もしあの瞬間、すべての感情を抱えていたら、生きられなかったかもしれない。

だから、いったん預ける。

そして喜びだけを残す。

ここも僕には大切に思えた。

なぜ全部奪わなかったのだろう。

なぜ無感情にしなかったのだろう。

なぜ「喜び」だけは残したのだろう。

もし死神が両親の意思を宿した存在なのだとしたら、

「それでも、この子には笑って生きていてほしい」

という願いだったのではないか。

もちろん、これは僕の勝手な読み方だ。

作品の中に「死神の正体は両親だった」と書かれているわけではない。

でも僕は、そう考えると、この物語の後半がすごく綺麗につながるように感じた。

両親は、沖晴をずっと見ていたのかもしれない

沖晴の感情は、一気には戻らない。

嫌悪。

怒り。

悲しみ。

恐れ。

少しずつ、一つずつ戻ってくる。

もし死神との契約が単純に解除されるだけなら、ある瞬間に全部戻ってもいい。

でも、そうではない。

沖晴が京香と出会い、人と関わり、誰かを大切にするようになるにつれて、一つずつ戻ってくる。

物語の終盤、沖晴自身が言う。

「俺はさあ、踊場さんが大事になるたびに、取り戻してたんだよ、きっと。」(p280より引用)

この言葉を読んだとき、僕は思った。

もし死神が両親なのだとしたら。

両親は、ずっと沖晴を見ていたんじゃないだろうか。

京香と出会った沖晴を見る。

人を気にするようになった沖晴を見る。

腹を立てられるようになった沖晴を見る。

悲しめるようになった沖晴を見る。

失うことを怖がれるようになった沖晴を見る。

そして、そのたびに、

「もう、この感情は返しても大丈夫だ」

と、死ぬ間際に預かっていた感情を一つずつ返していった。

そう考えると、「感情を取り戻す」という出来事が、単なる不思議な現象ではなくなる。

沖晴の成長に合わせて、両親から少しずつ人生を返してもらっているように見えてくる。

それは、沖晴を苦しめるためではない。

「もう、お前ならこれを持ったまま生きていける」

ということなのかもしれない。

そしてすべての感情を返し終えたとき、両親はようやく沖晴を送り出すことができる。

僕には死神が、

死んだ両親が、沖晴が一人で生きていけるようになるまで感情を預かっていた存在

のように思えた。

死神が感情を奪ったのではなく、両親が死ぬ間際に預かった。

そして京香との日々を見ながら、一つずつ返していった。

そんなふうに考えると、この物語が少しだけ優しく見える。


【考察】踊場京香は、沖晴に何を残したのか

この物語でもう一人、とても大切なのが踊場京香だ。

京香には、残された時間が少ない。

沖晴は、これから先も生きていく。

京香は、死へ向かっていく。

二人は正反対の方向へ進んでいる。

沖晴は津波で一度、死のすぐ近くまで行った。

そして生き残った。

でも感情を失い、どこか生と死の間に取り残されているようにも見える。

そんな沖晴を、生きている側へ連れ戻していくのが、これから死んでいく京香だ。

死へ向かっている人が、生き残った人を「生」の側へ戻していく。

この構図が、僕はすごく好きだった。

ただ、京香を「沖晴を救った人」とだけ考えるのも違う気がする。

京香自身にも、死への恐怖がある。

寂しさもある。

名残惜しさもある。

京香は、死を悟ってすべてを超越した人物ではない。

ちゃんと人間として、残していくものを惜しみながら死んでいく。

「寂しさを感じながら、私は死んでいこう。」(p279より引用)

死ぬことを受け入れるというのは、何も感じなくなることではない。

怖くなくなることでも、寂しくなくなることでもない。

寂しいまま死ぬ。

名残惜しいまま死ぬ。

それでも、自分の死を引き受けていく。

沖晴が感情を取り戻しながら「生きる」ことを覚えていく一方で、京香は感情を抱えたまま「死ぬ」ことを受け入れていく。

沖晴は、感情を取り戻して生きていく。
京香は、感情をすべて持ったまま死んでいく。

二人はここでも対になっている。

だから京香は、単に沖晴の成長を促すために配置された人物ではないと思う。

沖晴を通して京香もまた、自分の残された時間を生きている。

二人とも、お互いによって「生きている時間」を濃くしていったのではないか。


誰かを大切にすることは、失う怖さを引き受けること

沖晴が感情を取り戻していく理由について考えると、結局ここに戻ってくる。

京香が大切になったから。

誰かを大切に思えば、失うのが怖くなる。

いなくなれば悲しい。

その人を傷つけるものには腹が立つ。

嫌なものを嫌だと思う。

つまりネガティブな感情は、必ずしも悪いものではない。

むしろ、誰かを大切にすることと表裏一体なのかもしれない。

もし誰のことも大切に思わなければ、失うのは怖くない。

期待しなければ、裏切られて怒ることもない。

愛さなければ、別れを悲しむ必要もない。

確かに楽だ。

でも、その「楽」を本当に幸せと呼べるのだろうか。

沖晴は京香を大切にするほど、苦しくなる。

以前より生きづらくなる。

感情を取り戻すたびに、扱い方が分からなくなる。

「いざ取り戻したら、どう扱っていいかわからない。」(p150より引用)

でも、その苦しさこそが、沖晴が誰かを大切にできるようになった証拠でもある。

失うのが怖いということは、失いたくないものができたということだ。


『沖晴くんの涙を殺して』が描く「喪失」

僕は「乗り越える」という言葉に、少し違和感がある。

大切な人を失った人に、

「いつか乗り越えられるよ」

「前を向いて」

「元気を出して」

と言う。

もちろん、悪意があるわけではない。

何か声をかけたい。

少しでも楽になってほしい。

その気持ちから出る言葉なのだと思う。

でも、大切なものを失った人にとって、それは本当に必要な言葉なのだろうか。

この作品には、

「慰められたって何も戻ってこない。悲しみの量はかわらない。」(p185より引用)

という言葉がある。

その通りなのだと思う。

どれだけ優しい言葉をかけても、死んだ人は戻ってこない。

悲しみを半分引き取ってあげることもできない。

だったら、僕たちにできることは案外少ない。

ただ横にいる。

話したければ聞く。

黙っていたければ黙っている。

悲しいと言えば、その悲しみを否定しない。

それくらいなのかもしれない。

でも、それくらいが、とても大きい。

誰かを救うというと、何か特別なことをしなければいけないように思う。

でも本当は、

「その感情のままで、ここにいていい」

と示すことなのかもしれない。

京香は、沖晴から喪失を取り除くことはできない。

家族を戻すこともできない。

そして沖晴もまた、京香を死から救うことはできない。

二人とも、お互いを「救えない」。

それでも、一緒にいることはできる。

どうにもできないことの横に一緒にいる。

それだけで、人は救われることがある。

「俺の人生に貴方の死が溶けていく」

この作品の中でも、特に心に残った言葉がある。

「俺の人生に貴方の死が溶けていくんです。」(p278より引用)

すごい言葉だと思った。

「乗り越える」ではない。

「忘れる」でもない。

「克服する」でもない。

溶けていく。

最初は異物のように存在していた誰かの死が、少しずつ自分の日常の中に入っていく。

朝起きる。

ご飯を食べる。

学校や仕事へ行く。

笑う。

眠る。

そうやって日々を過ごしていくうちに、死んだ人がいない世界が日常になっていく。

それは、忘れたということではない。

大切ではなくなったということでもない。

悲しくなくなったとも限らない。

ただ、その人がいない世界で生きることに、身体の方が少しずつ慣れていく。

作品には、人間は大切な人が死んでもお腹が空き、眠くなり、やがて日常を取り戻していくという話も出てくる。

僕は、それを冷たいとは思わない。

むしろ、それが人間の強さなのだと思う。

どれだけ悲しくても、お腹は空く。

眠くなる。

くだらないことで笑ってしまう。

そして、その瞬間に、

「こんなときに笑っていいのか」

と思うこともある。

でも、いいのだと思う。

悲しみがなくなったから笑ったわけではない。

悲しみを持ったまま、笑えたのだ。


悲しいと嬉しいは、隣り合って歩いていける

僕は以前、感情をもっと単純なものとして考えていたのかもしれない。

ポジティブか、ネガティブか。

嬉しいか、悲しいか。

楽しいか、苦しいか。

どちらか。

でも、人間の感情ってそんなに綺麗に分けられない。

この作品には、

「悲しいと嬉しいは、隣り合って歩いて行ける。」(p323より引用)

という言葉がある。

まさにそうなのだと思う。

悲しいのに笑える。

寂しいのに幸せを感じる。

怖いのに進める。

腹が立っているのに、その人を大切に思える。

僕たちは、感情を一つずつ別々の箱に入れて生きているわけではない。

いろんなものが混ざっている。

だから物語の終盤で沖晴が見せる、どの感情とも言い切れない複雑な表情が、とても人間らしく感じられた。

最初の沖晴には、喜びしかない。

だから笑顔も純粋だった。

でも最後の沖晴は違う。

悲しい。

怖い。

寂しい。

嬉しい。

大切。

離れたくない。

それでも笑う。

同じ「笑顔」でも、最初と最後ではまったく違う。

最初の笑顔は、喜びしかないから笑っている。

最後の笑顔は、いろんな感情を抱えた上で、それでも笑っている。


【考察】感情を取り戻すことは、過去と未来を取り戻すこと

この作品には、感情と時間について、とても興味深い話が出てくる。

嫌悪、怒り、悲しみ、恐れ。

それらは過去の経験と決別したり、現在の困難を乗り越えたり、未来の苦しみを回避したりするためにある。

そして、それらがあるから人間は、

過去と現在と未来を生きることができる。

僕はここを読んで、沖晴が感情を取り戻していくことの意味が少し分かった気がした。

悲しみは、過去とつながっている。

「大切だった」

「失ってしまった」

そう感じられるから、過去が自分の中に残る。

恐れは、未来とつながっている。

「失いたくない」

「こうなってほしくない」

そう思えるから、これから先を想像する。

そして喜びについて、京香はこう言う。

「喜びは、今この瞬間を沖晴君が愛している証拠だよ。」(p341より引用)

これが面白い。

喜びは「今」。

悲しみや嫌悪は過去とつながる。

恐れは未来とつながる。

そう考えると、喜びしかなかった沖晴は、ある意味で**「今」に閉じ込められていた**のかもしれない。

今は楽しい。

今は笑える。

でも過去を悲しむことができない。

未来を恐れることもできない。

「今を生きる」という言葉は、普通は良い意味で使われる。

でも、本当に「今」しかなかったらどうだろう。

過去を大切にできない。

未来を心配できない。

それは「今を大切に生きている」のとは、少し違う気がする。

沖晴が感情を取り戻すことは、単に人間らしい感情を取り戻すだけではない。

過去と未来を取り戻していくことでもある。

家族との過去を悲しめる。

京香を失う未来を怖がれる。

そして、その両方を抱えながら、今を喜べる。

過去。

現在。

未来。

その全部がつながったとき、沖晴はようやく自分の人生を生き始めたのかもしれない。


【考察】なぜ最後の章は「歌う」なのか

この作品の章立ても面白い。

沖晴は、嫌悪、怒り、悲しみ、恐れと、一つずつ感情を取り戻していく。

でも最後に置かれているのは、感情の名前ではない。

「歌う」。

ここが気になった。

「喜ぶ」でもない。

「愛する」でもない。

「生きる」でもない。

歌う。

なぜだろう。

僕は、感情を取り戻すだけでは、この物語は終われなかったからではないかと思う。

感情は心の中にある。

でも歌うという行為は、それを外へ出すことだ。

声にする。

誰かに届ける。

自分の中だけにあったものを、世界へ放つ。

沖晴はそれまで、感情を失ったまま自分の中に閉じていた。

でも京香と出会い、感情を取り戻していく。

そして最後には、それを抱えて外の世界へ向かう。

だから「歌う」。

感じられるようになることの、その先にある行為。

感情を抱えて、人と関わる。

表現する。

世界に参加する。

「歌う」は、その象徴なのかもしれない。


【考察】「死」の物語に、なぜ「誕生」が描かれたのか

『沖晴くんの涙を殺して』は、死について何度も考えさせられる物語だった。

津波で亡くなった家族。

死が近づいている京香。

残される人。

死んでいく人。

でも物語の最後には、「生まれること」も置かれている。

「人は、特に理由もなく死ぬ。」(p181より引用)

この作品は、死に無理やり意味を与えようとしない。

良い人だから長生きするわけではない。

誰かの役に立つ人だから助かるわけでもない。

悪いことをしたから死ぬわけでもない。

沖晴の家族が死んで、沖晴が生き残ったことにも、人間が納得できるような理由があるとは限らない。

そして同じように、人は生まれてくる。

物語の終盤、新しく生まれてきた命を前にした沖晴が涙を流す。

ここで「涙」の意味が大きく変わったように感じた。

涙は、死んだときだけに流すものではない。

生まれたときにも流れる。

悲しいときだけではない。

嬉しいときにも流れる。

いろんな感情が混ざりすぎて、自分でも何の涙なのか分からないことだってある。

沖晴が取り戻したのは、「悲しいから泣ける能力」だけではない。

世界に心を動かされる力そのものだったのではないか。

誰かが死ぬ。

誰かが生まれる。

そのどちらにも、心が動く。

だから涙が出る。


生き残った人は、どう生きればいいのだろう

沖晴は生き残った。

でも、生き残ることは単純な「幸運」ではない。

自分だけが残された。

なぜ自分だったのか。

なぜ家族ではなかったのか。

そこに答えはない。

この作品には、

「私達って、きっと、運よく、死んでないだけなんだよ。」(p181より引用)

という言葉がある。

僕たちは普段、生きていることを当然だと思っている。

明日も起きる。

来週もある。

来年もある。

なんとなく、そう思っている。

でも本当は分からない。

誰かが死んで、誰かが残る。

そこに必ず意味があるわけではない。

だからこそ、「生き残ったのだから立派なことをしなければならない」と考える必要もないのだと思う。

作品の中にも、

「立派なことなんてしなくていいから、毎日を大切に生きてよ。」(p252より引用)

という言葉がある。

生きている意味。

人生の目的。

社会に何を残すか。

そんな大きなことばかり考えなくてもいい。

ご飯を食べる。

眠る。

誰かと話す。

本を読む。

好きな音楽を聴く。

悲しい日は悲しむ。

腹が立ったら腹を立てる。

そしてまた朝が来る。

それだけでも、生きている。


京香の死は、沖晴の人生から消えない

京香は死ぬ。

沖晴はそれを知っている。

だから怖い。

以前の沖晴なら、その恐怖はなかった。

でも感情を取り戻した沖晴は、京香がいなくなることに怯える。

そして、逃げない。

「貴方が死ぬのを見ています。」(p277より引用)

怖い。

逃げたい。

見たくない。

でも見る。

沖晴はもう、ネガティブな感情から守られている少年ではない。

悲しむこともできる。

怖がることもできる。

だからこそ、京香の死を自分の人生に迎え入れることができる。

そして京香が死んだあと、その死はなくならない。

沖晴の人生の中に溶けていく。

家族の死もそうなのだと思う。

大切な人を失った過去は、消えない。

でも、消えないまま生きることはできる。

悲しみを抱えたまま、幸せになることもできる。

「寂しさの中にも、悲しみの中にも、幸せがある。」(p256より引用)

この小説が描いている「幸せ」は、最初の沖晴が持っていた「喜びだけの幸せ」とは違う。

悲しみのない幸せではない。

悲しみがあっても存在できる幸せだ。


ネガティブな感情は、なくした方が幸せなのか

僕はこの本を読む前まで、ネガティブな感情なんて、できるだけ排除した方がいいと思っていた。

嫌なことをいつまでも考えても仕方がない。

怒っても仕方がない。

過去を悔やんでも仕方がない。

未来を心配しても仕方がない。

だったら、ポジティブに考えた方がいい。

今でも、この考えが完全に間違っているとは思わない。

ネガティブな感情に支配されて、ずっと苦しみ続ける必要はないと思う。

でも、

ネガティブな感情に支配されないことと、ネガティブな感情そのものをなくすことは、全然違う。

『沖晴くんの涙を殺して』を読んで、その違いを考えるようになった。

悲しみがある。

でも笑える。

怖い。

でも進める。

腹が立つ。

でも相手を大切にできる。

寂しい。

でも幸せを感じられる。

それでいいのかもしれない。


ネガティブな感情は、心の裏側に持っておけばいい

今の僕は、こんなふうに思っている。

ネガティブな感情は、なくさなくていい。
心の裏側に、ちゃんと持っておけばいい。

いつも表に出しておく必要はない。

悲しいからといって、一日中泣いていなくてもいい。

怒っているからといって、ずっと怒っている必要もない。

怖いからといって、何もできなくなる必要もない。

心の表側では笑っていていい。

楽しいことをしていい。

でも、その裏側には悲しみがある。

怒りがある。

怖さがある。

それでいい。

悲しみを持ったまま笑うことと、悲しみがないから笑うことは、たぶん全然違う。

沖晴の最初と最後の笑顔は、その違いを表しているように思う。

最初は、喜びしかないから笑う。

最後は、悲しみも怒りも恐れも知った上で笑う。

同じ笑顔なのに、重さが違う。

最後の沖晴の笑顔には、その人が生きてきた時間が全部入っている。


『沖晴くんの涙を殺して』感想・考察まとめ|いろんな感情を抱えながら生きていく

読み終えても、

「喜び」だけで、人は幸せになれるのだろうか。

という問いに簡単な答えは出なかった。

もしかすると、喜びだけの沖晴も幸せだったのかもしれない。

本人は楽しく生きていた。

だから、「ネガティブな感情がある方が絶対に幸せだ」と言いたいわけではない。

ただ僕は、この物語を読んで、

幸せとは、嫌な感情が存在しない状態ではないのかもしれない

と思うようになった。

沖晴が取り戻していたのは、感情だけではなかったように思う。

家族と過ごした過去。

京香といる現在。

京香を失ったあとも続いていく未来。

それらを全部つなげて、

自分の人生を取り戻していた。

悲しめるから、過去を大切にできる。

怖がれるから、未来を大切にできる。

喜べるから、今を愛せる。

そして、喪失から立ち直るというのも、失ったものを忘れることではないのだと思う。

完全に乗り越えなくてもいい。

後悔したっていい。

もっとこうしておけばよかったと思ってもいい。

その悲しみが少しずつ、自分の人生に溶けていく。

失った人がいない日常の中で、ご飯を食べて、眠って、笑って、また誰かを大切にする。

悲しくても生きられること。
怖くても生きられること。
大切なものを失っても、また誰かを大切にできること。

そして、もし僕の考えたように、あの死神が亡くなった両親だったのだとしたら。

津波で命を落とすその瞬間、幼い沖晴には重すぎる感情を預かり、その後もずっと見守っていたのだとしたら。

京香と出会って、誰かを大切にして、嫌悪を知って、怒って、泣いて、失うことを怖がる沖晴を見ながら、

「もう大丈夫だね」

と、一つずつ感情を返していったのかもしれない。

そして最後には、もう両親に預かってもらわなくていい。

悲しみも。

怒りも。

嫌悪も。

恐れも。

全部、自分で持っていける。

喜びだけじゃない。

いろんな感情を抱えながら、これからを生きていける。

僕はずっと、ネガティブな感情なんてなくしてしまえばいいと思っていた。

でも今は少し違う。

悲しみも、怒りも、恐れも、嫌悪も。

なくさなくていい。

心の裏側に、ちゃんと持っておけばいい。

その全部を抱えたまま笑えること。

その全部を抱えたまま、誰かを大切にできること。

そして、その全部を抱えたまま、明日へ行けること。

もしかすると、それが、

「生きている」ということなのかもしれない。

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