「いやー、忙しい!」
世の中には、忙しい人がいる。
仕事が忙しい人。家事や育児に追われている人。勉強に励んでいる人。
誰にだって、忙しい時期はある。
しかし、世の中には少し不思議な人たちが存在する。
「忙しい」という言葉が、口癖になっている人たちだ。
「最近、ほんま忙しくてさ」
「もう全然時間なくて」
「昨日も忙しかったし、今日も忙しい」
「来週も予定が詰まってるんだよね」
なるほど。
忙しいのか。
それは大変だ。
僕は適当に相槌を打つ。
「そうなんですね」
すると、相手はさらに続ける。
「いや、本当に忙しくてさ!」
……。
わかった。
もう十分に伝わっている。
あなたが忙しいという情報は、僕の脳内にしっかり保存された。
これ以上、上書きする必要はない。
そもそも、僕は聞いていない。
「最近、お忙しいですか?」
そんな質問は一度もしていない。
それなのに、突然始まる忙しさの報告会。
昨日の仕事量。
今日の予定。
明日の予定。
来週の予定。
気づけば、相手のスケジュールを一通り把握している。
僕はあなたの秘書ではない。
なぜ、こんなにも忙しさを説明したがるのだろう。
そして、なぜ僕は「忙しい、忙しい」と連呼する人に、これほどイライラしてしまうのだろう。
今回は、忙しさをアピールする人の心理について考えてみたい。
ただ、その前に一つ。
僕には、以前から疑問に思っていることがある。
そもそも、忙しいとは何なのだろう。
本当に忙しい人は「忙しい」と言わないのではないか
僕には、一つの持論がある。
本当に忙しい人ほど、忙しいと言わないのではないか。
もちろん、全員がそうだとは思わない。
本当に仕事が多すぎて困っている人もいるだろう。誰かに助けを求めるために、忙しいと伝える必要もある。
しかし、僕が言っているのは、そういう人ではない。
聞いてもいないのに、何度も忙しさをアピールしてくる人のことだ。
考えてみてほしい。
本当に時間がないなら、目の前の仕事を片づけたほうがいい。
次の仕事に取りかかったほうがいい。
少しでも休んだほうがいい。
ところが、忙しいアピールをする人は違う。
「いやー、今日も忙しいわ!」
そう言って、話しかけてくる。
「昨日なんてさ、あれもこれもやらないといけなくて」
なるほど。
「しかも今日も仕事が山ほどあって」
そうなのか。
「明日も朝から予定が詰まってるんだよ」
……。
お前、忙しいと言う時間はあるんだな。
僕は不思議で仕方がない。
しかも、忙しさの説明が妙に丁寧なのだ。
何時から何をして、誰と会って、どんな仕事をして、どれほど大変だったのか。
細かく教えてくれる。
まるで業務報告である。
いや、業務報告より詳しいかもしれない。
僕は何も依頼していない。
報告書も提出してもらわなくていい。
ただ静かに過ごしたいだけなのだ。
本当に忙しい人は、忙しさを語るより先に、やるべきことを進めている。
僕には、そんな印象がある。
そして、忙しいという言葉を何度も口にする人ほど、忙しさそのものを周囲に知ってもらいたいのではないかと思うことがある。
では、なぜ知ってもらいたいのだろう。
① 頑張っている自分を認めてほしいから
まず考えられるのは、承認欲求だ。
「忙しい」という言葉の裏側には、別の言葉が隠れているのかもしれない。
「僕は頑張っている」
「私は大変な仕事をしている」
「こんなに努力しているんだ」
そうした気持ちを、誰かに認めてほしい。
しかし、自分から「僕は頑張っています」と言うのは、少し気恥ずかしい。
だから代わりに、忙しいと言う。
「いやー、最近忙しくてさ」
「大変ですね」
「そうなんだよ!」
この「大変ですね」が欲しかったのだろうか。
あるいは、もう一歩踏み込んでほしいのかもしれない。
「いつも頑張っていますね」
「本当にすごいですね」
そこまで言えば、満足してもらえるのだろうか。
ただ、僕には一つ疑問がある。
忙しいことと、頑張っていることは同じなのだろうか。
忙しくても、仕事が進んでいない人はいる。
反対に、余裕がありそうに見えて、きちんと成果を出している人もいる。
忙しさは、努力の証明にはならない。
もちろん、努力を認めてほしいという気持ちは自然なものだ。
しかし、それを毎日のように聞かされる側はどうだろう。
「忙しい」
「大変ですね」
「本当に忙しい」
「そうなんですね」
このやり取りを何度も繰り返す。
やがて、僕の相槌から感情が消えていく。
最後には、ただの自動応答装置になる。
相手が「忙しい」と言えば、「大変ですね」と返す。
もう僕である必要がない。
録音した音声でも流しておけばいい。
② 忙しい人ほど偉いと思っているから
忙しさを、一種のステータスだと考えている人もいるのではないだろうか。
仕事が多い。
予定が詰まっている。
休日も休めない。
そうした状態を、誇らしげに語る人がいる。
「俺、今月ほとんど休んでないんだよ」
「毎日、残業ばっかりでさ」
「休みの日も仕事のこと考えてる」
まるで勲章である。
しかし、冷静に考えると不思議な話だ。
休めないことが、なぜ自慢になるのだろう。
自分の時間がないことが、なぜ誇らしいのだろう。
忙しいという事実だけで、その人の能力や価値が決まるわけではない。
例えば、同じ仕事を任された二人がいるとする。
一人は、段取りよく仕事を進め、定時に帰る。
もう一人は、作業に時間がかかり、毎日残業している。
さて、どちらが仕事のできる人なのだろう。
もちろん、担当業務や条件によって答えは変わる。
しかし、少なくとも、残業時間が長いという理由だけで後者を評価するのはおかしい。
それなのに、職場によっては、忙しそうにしている人ほど頑張っているように見えることがある。
眉間にしわを寄せる。
大きなため息をつく。
「忙しい」と呟く。
足早に歩き回る。
一方で、落ち着いて仕事をしている人は、暇そうに見える。
仕事ができる人より、仕事に追われている人のほうが頑張っているように見える。
何とも不思議な現象だ。
本来、仕事とは成果を出すためにするものだ。
忙しそうに見せるためにするものではない。
③ 忙しさを競い合っているから
忙しいアピールをする人たちが集まると、奇妙なことが起こる。
忙しさの競争が始まるのだ。
「昨日、3時間しか寝てないんだよ」
「俺なんて2時間だよ」
「今週、休みがなくてさ」
「こっちは先週から休んでないよ」
……。
お前ら、何の勝負をしているんだ。
睡眠時間が短いほうが勝ちなのか。
休みが少ないほうが偉いのか。
それなら、いっそのこと全員寝なければいい。
優勝者は、倒れるまで働いた人だ。
もちろん、冗談である。
そんな大会は開催しないでほしい。
そもそも、睡眠不足や過労は、自慢するようなものではない。
それなのに、なぜか忙しさを競い合う人がいる。
相手が「大変だった」と言えば、自分はもっと大変だったと伝えたくなる。
相手が「疲れた」と言えば、自分はもっと疲れていると言いたくなる。
これでは、会話ではなく対決だ。
しかも、誰も得をしない。
本来なら、お互いに労わればいい。
「大変だったね」
「そっちも大変だったんだね」
それで済む話なのだ。
しかし、忙しさを競い始めると、相手の苦労を上回ることが目的になってしまう。
暇な時間があることは、そんなに恥ずかしいことなのだろうか。
むしろ、自由な時間があるのは素晴らしいことではないか。
好きな本を読む。
散歩をする。
音楽を聴く。
何もしないで過ごす。
そんな時間を持てることは、誇ってもいいくらいだと思う。
④ 「忙しい」を便利な言い訳にしているから
忙しいという言葉は、とても便利だ。
「忙しくて連絡できなかった」
「忙しくて忘れていた」
「忙しくて行けなかった」
「忙しくて手をつけられなかった」
もちろん、本当に余裕がなかったのかもしれない。
しかし、何度も同じことが続くと、少し疑問に思う。
忙しいと言えば、何でも許されるのだろうか。
例えば、約束していたことを忘れたとする。
「ごめん、忘れてた」
これなら、まだわかる。
ところが、そこに忙しさが登場する。
「いやー、最近忙しくてさ」
なるほど。
忙しかったのか。
でも、忘れたことには変わりない。
忙しさは事情の説明にはなる。
しかし、必ずしも責任をなくしてくれるわけではない。
それに、誰だって自分の生活がある。
相手が忙しいからといって、こちらの時間が無限にあるわけではない。
僕にも予定がある。
読みたい本がある。
書きたい文章がある。
何もしないで過ごしたい時間だってある。
それなのに、忙しいという言葉を盾にされると、まるでこちらの時間のほうが軽いように感じてしまう。
あなたが忙しいことと、僕の時間が大切ではないことは、まったく別の話だ。
これは、職場でもプライベートでも同じだと思う。
⑤ 忙しいことで、自分の存在価値を確認しているから
少し違う角度からも考えてみたい。
忙しいことに、安心感を覚える人もいるのではないだろうか。
予定が埋まっている。
誰かから連絡が来る。
仕事を任されている。
人に必要とされている。
そんな状態に、自分の存在価値を感じる。
反対に、予定が何もない日があると、不安になる。
誰からも連絡が来ない。
誰にも必要とされていない。
何もしていない自分には、価値がないように思えてしまう。
だから、予定を埋める。
仕事を引き受ける。
忙しい状態を作り出す。
そして、その忙しさを周囲に伝える。
「最近、全然時間がなくてさ」
もしかすると、それは単なる自慢ではなく、自分は必要とされている人間なのだと確認する行為なのかもしれない。
そう考えると、少し見え方が変わってくる。
忙しさをアピールする人の中には、暇になることが怖い人もいるのではないだろうか。
しかし、本当にそうなのだろうか。
予定がない人には、価値がないのだろうか。
仕事をしていない時間は、無駄なのだろうか。
僕は、そうは思わない。
何もしない時間があってもいい。
誰にも会わない休日があってもいい。
一日中、本を読んでいてもいい。
忙しさは、その人の存在価値を測る物差しではないはずだ。
⑥ 単純に、忙しいが口癖になっているから
ここまで、さまざまな心理を考えてきた。
しかし、もっと単純な理由もあると思う。
それは、忙しいという言葉が、ただの口癖になっている場合だ。
「忙しい」
「疲れた」
「しんどい」
こうした言葉を、無意識に繰り返している人もいる。
本人に、深い意味はないのかもしれない。
「おはよう」と同じくらいの感覚で、「忙しい」と言っている。
朝、出勤する。
「忙しいわー」
昼休みになる。
「今日も忙しいなー」
仕事が終わる。
「いやー、忙しかった!」
もはや、一日の始まりから終わりまで、忙しいという言葉で構成されている。
もちろん、実際に仕事量が多い可能性もある。
ただ、口癖になっていると、自分でも気づかないうちに、同じ言葉を繰り返してしまう。
そして、聞かされる側は少しずつ疲れていく。
言葉には、周囲の空気を変える力がある。
「忙しい」
「しんどい」
「疲れた」
こうした言葉を繰り返し聞いていると、こちらまで気が重くなることがある。
忙しいという言葉を使うこと自体が悪いとは思わない。
ただ、自分の口癖を、毎日誰かに聞かせ続けていることには、少し自覚があってもいいと思う。
なぜ、忙しいアピールをされるとイライラするのか
なぜ僕は、「忙しい、忙しい」と連呼する人が苦手なのだろう。
相手が忙しいこと自体に、腹を立てているわけではない。
仕事が大変なら、頑張ってほしい。
困っているなら、助けを求めればいい。
問題は、忙しさを何度もアピールされることだ。
こちらは何も聞いていない。
助けを求められているわけでもない。
具体的な相談をされているわけでもない。
ただ、忙しいという事実だけを繰り返し聞かされる。
すると、僕は考えてしまう。
この会話の目的は何なのだろう。
共感してほしいのか。
褒めてほしいのか。
心配してほしいのか。
それとも、ただ話したいだけなのか。
もちろん、雑談に明確な目的が必要だとは思わない。
人間なのだから、愚痴をこぼすこともある。
しかし、毎回同じ話を聞かされると、こちらの反応にも限界がある。
「大変ですね」
「そうなんですよ」
「無理しないでくださいね」
「いや、もう本当に忙しくて」
……。
会話が終わらない。
こちらが労わるほど、相手の忙しさの説明が長くなる。
どうやら僕は、間違った選択肢を押してしまったらしい。
「大変ですね」を選ぶと、追加エピソードが解放される仕組みなのだ。
結局、僕は「大変ですね」と言う。
そして、再び始まる。
「いや、本当に忙しくてさ」
もうどうしようもない。
ただ、ここで一つ気づく。
僕が嫌なのは、忙しいという言葉そのものではない。
相手の忙しさに、こちらまで付き合わされているように感じることなのかもしれない。
そもそも「忙しい」とは何なのだろう
さて、ここからが今回、僕が最も考えたかったことだ。
そもそも、忙しいとは何なのだろう。
やることが多い状態だろうか。
時間が足りない状態だろうか。
それとも、やりたくないことに追われている状態だろうか。
例えば、仕事が山ほどある。
朝から晩まで働き、帰宅したら寝るだけ。
自分の好きなことをする時間がない。
これは、忙しいと感じるだろう。
では、別の例を考えてみる。
読みたい本が山ほどある。
書きたい文章もある。
観たい映画もある。
行きたい場所もある。
一日24時間では、とても足りない。
これも、客観的には忙しい状態と言えるかもしれない。
しかし、僕は少し違うように感じる。
好きなことに夢中になっているとき、時間が足りないことは必ずしも苦痛ではない。
むしろ、楽しい。
もっと読みたい。
もっと書きたい。
もっと知りたい。
そう思えること自体が、幸せなのではないだろうか。
もちろん、好きなことでも締め切りに追われれば、忙しく感じる。
ただ、僕は思う。
忙しさとは、単にやることの量だけで決まるものではないのではないか。
そこには、自分の意思が関係しているような気がする。
やりたいことをしているのか。
やらなければならないことをしているのか。
自分で時間を使っているのか。
誰かに時間を使わされているのか。
同じ一時間でも、その感じ方は大きく違う。
好きな小説を読んでいる一時間は、あっという間に過ぎる。
しかし、気の進まない仕事をしている一時間は、なかなか終わらない。
時計を見る。
まだ10分しか経っていない。
もう一度見る。
まだ15分だ。
時間というものは、本当に不思議だ。
同じ60分のはずなのに、まるで長さが違う。
そして、僕は考える。
人は、やることが多いから忙しいのではなく、やりたくないことに時間を奪われているときに、強く忙しさを感じるのではないだろうか。
もちろん、これは一つの仮説にすぎない。
しかし、僕自身の感覚には、しっくりくるものがある。
「忙しい」と「充実している」は違う
忙しいという言葉と、充実しているという言葉。
この二つは、似ているようで違う。
どちらも、予定が詰まっている状態を表すことがある。
しかし、受ける印象は大きく異なる。
「最近、忙しくてさ」
そう言われると、大変そうに聞こえる。
一方で、
「最近、毎日が充実していてさ」
そう言われると、楽しそうに聞こえる。
やっていることは、同じかもしれない。
それなのに、言葉が変わるだけで、印象が変わる。
もちろん、言い方を変えればすべて解決するわけではない。
過酷な労働環境にいる人に、充実していると思えと言うつもりもない。
ただ、自分で選んだ活動については、少し考えてみてもいいのではないだろうか。
例えば、休日に予定を詰め込む。
朝から出かける。
昼には友人と会う。
夕方には買い物をする。
夜には映画を観る。
そして、帰宅して言う。
「いやー、忙しかった!」
本当にそうなのだろうか。
楽しかったのではないだろうか。
充実していたのではないだろうか。
もちろん、楽しい一日でも疲れることはある。
ただ、忙しいという言葉だけで片づけてしまうのは、少しもったいない気がする。
自分が望んで過ごした時間まで、何かに追われていたかのように語る必要があるのだろうか。
自分で予定を詰め込んで、忙しいと嘆く人
もう一つ、不思議に思うことがある。
自分で予定を詰め込んでいるのに、忙しいと嘆く人だ。
「今週、全然休みがないんだよ」
話を聞くと、休日には友人との約束がある。
その翌日には買い物。
さらに別の日には飲み会。
もちろん、どれも本人が望んで入れた予定だ。
それなのに、忙しいと嘆いている。
僕は思う。
お前、自分で予定を入れたんじゃないのか。
もちろん、付き合いで断りにくい予定もあるだろう。
家庭や仕事の事情で、自由に決められないこともある。
しかし、自分で選べる予定なら、減らすことだってできる。
休みたければ、何も予定を入れなければいい。
ところが、人によっては、予定がないことに落ち着かなさを感じるのかもしれない。
何かをしていないと、時間を無駄にしているように思える。
だから、予定を入れる。
そして、予定が増えると忙しいと嘆く。
不思議な循環だ。
ただ、ここには一つ、考えるべきことがある。
僕たちは、時間を有効に使うことばかり考えすぎているのかもしれない。
何かをする。
成果を出す。
経験を増やす。
予定を埋める。
それらは、もちろん悪いことではない。
しかし、何もしない時間まで、無駄だと考える必要はないはずだ。
何も予定のない休日。
目覚まし時計をかけずに眠る朝。
気が向いたら散歩に出かける午後。
そうした時間にも、価値がある。
僕にも、時間が足りない
ここまで、忙しいアピールをする人について、あれこれ考えてきた。
しかし、僕自身はどうなのだろう。
僕にも、やりたいことは山ほどある。
読みたい小説がある。
書きたい文章がある。
まだ読んだことのない作家がいる。
知らない物語がある。
行ってみたい場所もある。
観たい映画もある。
一日が24時間では、とても足りない。
仕事をしている時間が、もったいないと感じることだってある。
もっと本を読みたい。
もっと文章を書きたい。
もっと自分の好きなことに時間を使いたい。
そんなことを、何度も考える。
では、僕は忙しいのだろうか。
客観的に見れば、そうなのかもしれない。
やることは多い。
時間は足りない。
しかし、僕は自分の生活を「忙しい」という言葉だけで表したくない。
なぜなら、やりたいことが多いからだ。
誰かに命令されたわけではない。
誰かに強制されたわけでもない。
自分で読みたいと思った。
自分で書きたいと思った。
自分で始めたことだ。
もちろん、思うように進まない日もある。
疲れて何もできない日もある。
それでも、翌日になれば、また本を開きたくなる。
また文章を書きたくなる。
自分の中から、次々とやりたいことが生まれてくる。
僕にとって、それは苦痛ではない。
むしろ、ありがたいことだと思っている。
やりたいことが何もない。
何をしても楽しくない。
時間だけが過ぎていく。
そんな状態より、ずっといい。
時間が足りないことと、人生が満たされていないことは、同じではない。
むしろ、時間が足りないと感じるほど、夢中になれるものがある。
それは、幸せなことなのかもしれない。
忙しいことより、大切なことがある
僕たちは、いつから忙しいことを誇るようになったのだろう。
仕事をたくさん抱えている。
予定が埋まっている。
休む暇がない。
そうした状態が、いつの間にか、頑張っている証拠のようになっている。
しかし、僕は思う。
忙しいこと自体に、価値があるわけではない。
大切なのは、何に時間を使っているのかということではないだろうか。
一日中働いていても、満たされない人はいる。
一日中本を読んでいて、幸せを感じる人もいる。
誰かと過ごすことで充実する人もいれば、一人で過ごす時間を大切にする人もいる。
何が正しいという話ではない。
人によって、幸せの形は違う。
だからこそ、忙しさを競う必要なんてない。
誰が一番働いているのか。
誰が一番休んでいないのか。
誰が一番大変なのか。
そんなことを比べたところで、何が残るのだろう。
忙しいと口にすることが悪いわけではない。
本当に困っているなら、誰かに伝えればいい。
助けが必要なら、助けを求めればいい。
ただ、忙しさを自分の価値のように語る必要はないと思う。
僕たちに与えられた時間には、限りがある。
その限られた時間を、何に使うのか。
誰と過ごすのか。
何を大切にするのか。
本当に考えるべきなのは、そちらではないだろうか。
おわりに|僕は、忙しくなりたいわけではない
「忙しい」
その言葉を聞くたびに、僕は少し考えるようになった。
この人は、本当に時間が足りないのだろうか。
それとも、やりたくないことに追われているのだろうか。
誰かに頑張りを認めてほしいのだろうか。
あるいは、忙しくしていないと不安なのだろうか。
もちろん、本当のところは本人にしかわからない。
そして、僕自身も、いつか同じように忙しさを口にするかもしれない。
だからこそ、ときどき自分に問いかけたい。
今、自分は何に時間を使っているのだろう。
それは、本当にやりたいことなのだろうか。
誰かに認められるために、予定を埋めていないだろうか。
忙しくしていることに、安心していないだろうか。
僕には、まだまだ読みたい本がある。
書きたい文章がある。
知らない世界がある。
きっと、これからも時間は足りない。
一冊読み終えれば、次の一冊を読みたくなる。
一つ文章を書き終えれば、また別のことを書きたくなる。
やりたいことが、なくなる気配はない。
それでも、僕はそんな毎日を、忙しいと嘆きたくない。
自分で選んだことだから。
自分が好きでやっていることだから。
何より、その時間が楽しいから。
いつか、今よりもっと自由な時間が手に入ったとしても、きっと僕は、時間が足りないと言っているのだろう。
読みたい本は、まだある。
書きたいことも、きっと増えていく。
そう考えると、少し不思議な気持ちになる。
僕が本当に欲しいのは、暇な人生なのだろうか。
それとも、好きなことに夢中になれる人生なのだろうか。
たぶん、答えはもう出ている。
僕は、忙しくなりたいのではない。
自分の時間を、自分の人生に使いたいのだ。
