標野凪さんの『ネコシェフと海辺のお店』を読んだ。
もし、何もかも嫌になった日に、こんなお店にたどり着けたらいい。
波の音が聞こえる海辺。
そこにぽつんと建つ、小さな料理屋。
店主は人間ではない。
二本足で立ち、料理を作り、ときどき俳句について語り、お客さんの悩みにまで口を出すサバトラ柄のネコシェフだ。
もう、この設定だけでちょっと好きだった。
そして出てくる料理もいい。
ホッキ貝のチャウダー。
土鍋で炊いた鯛めし。
タルタルソースを添えたアジフライ。
薬味たっぷりのカツオのたたき。
海辺の店で、波の音を聞きながら、ネコシェフが作った料理を食べる。
そんな店が本当にあるなら、一度くらい迷い込んでみたい。
ただ、この小説を読み終わって心に残ったのは、「猫がかわいい」とか「料理がおいしそう」ということだけではなかった。
思っていた以上に、人がどう生きるのかについて考えさせられる小説だった。
仕事、恋愛、結婚、家族、子育て、自立、依存。
この店を訪れる人たちは、それぞれ違ったものを抱えている。
そしてネコシェフは、そんな人たちに人生の正解を教えてくれるわけではない。
むしろ読んでいて感じたのは、
答えって、案外ずっと自分の中にあるのかもしれない。
ということだった。
悩みを抱えた人が迷い込む、海辺の小さなお店
ネコシェフのお店には、さまざまな人がやってくる。
仕事のこと。
恋愛のこと。
家族のこと。
子育てのこと。
抱えているものは違う。
でも、みんなどこかで立ち止まっている。
そんな人たちの前に現れるのが、海辺のお店とネコシェフだ。
ここで面白いのが、ネコシェフがものすごくありがたい人生訓を説いて、すべてを解決してくれるわけではないこと。
料理を作る。
話をする。
ときどき、妙に核心を突く。
それくらいだ。
でも、おいしいものを食べながら話しているうちに、お客さん自身の中にあったものが少しずつ見えてくる。
本当はどうしたいのか。
何が嫌だったのか。
何を我慢していたのか。
どちらを選びたいのか。
たぶん、何も知らなかったわけではない。
自分ではもう、なんとなくわかっていた。
ただ、それを認められなかったり、忙しい毎日の中で聞こえなくなっていたりしただけなのかもしれない。
ネコシェフのお店は、答えをもらう場所というより、自分の声をもう一度聞くための場所なのだと思った。
答えって、案外ずっと自分の中にある
人に悩みを相談するとき、僕たちは「どうしたらいい?」と聞く。
でも、本当に答えがまったくわからなくて聞いていることって、案外少ないのかもしれない。
仕事を辞めたい。
でも、辞めていいのかわからない。
付き合っている人との関係が苦しい。
でも、離れていいのかわからない。
何かを始めたい。
でも、失敗するのが怖い。
もちろん、本当に迷っていることもある。
だけど「どうしたいかわからない」と言いながら、心の奥ではかなり答えが出ていることもある。
問題は、その答えを選んだあとに何が起こるかわからないことだ。
だから迷う。
自分の答えそのものがわからないのではなく、その答えを選ぶ勇気がない。
そんなこともあるのだと思う。
『ネコシェフと海辺のお店』を読んでいて、何度もそんなことを考えた。
ネコシェフは、お客さんの人生を代わりに生きてくれない。
どれだけいい言葉をもらっても、最後に決めるのは自分だ。
だからこそ、ネコシェフの言葉は「こうしなさい」という命令ではなく、自分の中にあるものを見るきっかけとして残る。
誰かに答えをもらうのではなく、自分の答えに気づく。
それは一見すると頼りない。
でも、たぶんその方が強い。
他人から渡された答えは、その人がいなくなれば揺らぐ。
自分で見つけた答えなら、たとえ間違ったとしても、その続きを自分で考えられる。
自分の人生の答えを、ずっと外側に探さなくてもいい。
そんなふうに思えた。
「今日」を使って「明日」の心配ばかりしている
この作品で何より好きだったのが、ネコシェフの生き方だ。
自分の気分の赴くままに生きる。そうじゃなきゃ、たった一度しかない今日なんだぜ、もったいないじゃなか。
(p.51より引用)
この言葉が好きだった。
ものすごく猫っぽい。
そして、ものすごく人間には難しい。
人間は我慢する。
仕事だから。
大人だから。
周りもやっているから。
嫌われたくないから。
迷惑をかけたくないから。
将来困るかもしれないから。
そして人間は、まだ起きていないことまで心配する。
明日のこと。
来週のこと。
来年のこと。
他人からどう見られているのかまで考える。
気づけば、
「今日」を使って「明日」の心配ばかりしている。
明日のために今日を使うこと自体は悪くない。
むしろ必要なこともある。
でも、明日を心配することに今日のほとんどを使ってしまったら、何のための今日なのかわからなくなる。
ネコシェフの言う「たった一度しかない今日」という言葉は、当たり前すぎる。
今日という日は一回しかない。
そんなことは誰でも知っている。
でも、知っていることと、そうやって生きられることは別だ。
猫はたぶん、「ここで寝たら周囲から怠け者だと思われるかな」なんて考えない。
眠たかったら寝る。
食べたかったら食べる。
嫌だったら離れる。
お気に入りの場所へ行く。
なんだか人間より、ずっと上手に生きている気がする。
「嫌ならやめる」は、そんなに悪いことなのか
さらにネコシェフは、こんなことまで言う。
じゃあ逃げちゃえばいいじゃないか。嫌ならやめちまえばいいのさ、簡単なことさ。俺らネコは我慢なんかしないぞ。
(p.99より引用)
すごい。
人間が何時間も悩む問題を、猫が数秒で片づけてしまった。
「嫌ならやめればいい」
それができたら苦労しない。
たぶん多くの人がそう思う。
仕事だって、嫌だから明日辞めますとは簡単にはいかない。
人間関係だって全部切ればいいわけではない。
家族なら、もっと複雑だ。
だから、この言葉を文字どおり受け取って「嫌なことは全部やめればいい」という話ではないと思う。
それでも、僕はこの乱暴さが好きだった。
なぜなら、人間は逆に我慢することを正当化しすぎることがあるからだ。
ここまで頑張ったから。
みんなも耐えているから。
途中でやめるのは格好悪いから。
逃げたと思われたくないから。
そんな理由で、自分が苦しい場所に居続けることがある。
「続けること」は美徳になりやすい。
反対に「やめること」は負けのように扱われやすい。
でも、本当にそうだろうか。
続ける強さがあるなら、やめる強さだってある。
自分に合わない場所から離れる。
付き合わなくてもいい人から離れる。
もう必要のない価値観を手放す。
それは逃げるというより、自分が歩く道を変えることなのかもしれない。
猫くらい、自分の「嫌だ」を信用してもいい。
そんなふうに思った。
自立とは、ひとり寂しく立つことではない
この作品で特に考えさせられたテーマの一つが、自立と依存だった。
「ごめんな」と大切にされる相手は自分ではない。誕生日に花を贈られることもない。それでいい。それがいい。その一方で頭をよぎる。これだって、結局は何かに依存している生き方ではないか。自立、ってひとり寂しく立つことじゃないはずだ。強いってそういうことじゃないはずだ、と。
(p.89より引用)
特に、
「自立、ってひとり寂しく立つことじゃないはずだ。」
という部分が心に残った。
「自立している人」と聞くと、誰にも頼らず、自分一人で何でもできる人を想像しがちだ。
人に迷惑をかけない。
弱音を吐かない。
助けを求めない。
一人でも平気。
でも、それは本当に自立なのだろうか。
誰にも依存しないことを目指しすぎると、「誰とも深く関わらない」という別の極端さに向かうこともある。
人に頼らないことと、人を必要としないことは違う。
一人で立てることと、誰とも手をつながないことも違う。
むしろ自立とは、誰かと関わりながらも、自分の足で立っていられることなのかもしれない。
恋愛をしてもいい。
結婚してもいい。
一人でもいい。
家族を頼ってもいい。
友人に助けてもらってもいい。
大切なのは、その関係の中で自分自身まで失ってしまわないこと。
誰かと一緒にいることと、誰かに自分の人生を丸ごと預けることは違う。
強さとは、一人で何でもできることではない。
必要なときに人を頼れることも、強さなのだと思う。
人生には「自分だけのご馳走」があっていい
自立や恋愛について描かれる中で、こんな文章も登場する。
自分だけのご馳走。それは結婚や恋愛の相手ではなく、仕事や夢だって自らを幸せに導く「伴侶」になりうるんだ、とネコシェフがいってくれているのだ。
(p.101より引用)
「自分だけのご馳走」。
いい言葉だと思う。
人生を満たしてくれるものは、一つじゃなくていい。
恋愛だけでもない。
結婚だけでもない。
家族だけでもない。
仕事だけでもない。
趣味でもいい。
本でもいい。
料理でもいい。
一人で過ごす時間でもいい。
自分にとって「これがあるから結構楽しい」と思えるもの。
それをいくつ持っているかは、案外大事なのかもしれない。
何か一つだけに「自分を幸せにしてくれ」と頼ってしまうと、それがなくなったときに全部が崩れてしまう。
でも、自分だけのご馳走がいくつもあれば、一つがうまくいかなくても、別の場所で息ができる。
今日は仕事が最悪だった。
でも帰ったら本がある。
人間関係で疲れた。
でも一人で好きなものを食べる時間がある。
そんな小さなものでもいい。
人生の幸せを一か所に集中させなくてもいいのだと思う。
誰かのために生きようとしなくても、誰かのためになっている
この言葉も好きだった。
誰かのため、なんてわざわざ思わなくても、ちゃーんと誰かのためになっている。生きるって、生きていくってそういうことさ。
(p.148より引用)
「誰かのために」
とてもきれいな言葉だ。
でも、この言葉を意識しすぎると、人生が急に重たくなることもある。
人の役に立たなければ。
意味のあることをしなければ。
誰かを喜ばせなければ。
もちろん、誰かのために何かをすることは素敵だ。
ただ、毎回それを目的にしなくてもいい。
自分が好きだからやる。
面白いから続ける。
読みたいから読む。
書きたいから書く。
作りたいから作る。
それでいい。
その結果として、誰かが喜ぶことがある。
自分が楽しく続けていたものが、知らないところで誰かの役に立つこともある。
むしろ「誰かのため」を前面に出しすぎると、反応がなかったときに苦しくなる。
こんなにやったのに。
こんなに考えたのに。
誰も喜んでくれない。
だったら最初から、自分のためでもいい。
自分のために生きることと、誰かのためになっていることは両立する。
僕はこの言葉を、そんなふうに受け取った。
「もっともっと」は、本当に相手のためなのか
『ネコシェフと海辺のお店』には、子育てについて考えさせられる話もある。
私はつい、手をかけすぎてしまう。子育てもだ。もっともっと、と必要以上に与え、それによって与えられたほうがくたびれてしまう。大切だからこそ、ほんの僅かに手を添えるだけでいいはずなのに。
(p.196より引用)
「大切だからこそ、ほんの僅かに手を添えるだけでいい」。
これは子育てだけではなく、いろいろな人間関係に当てはまりそうだと思った。
大切な人には何かをしてあげたくなる。
困らないように。
失敗しないように。
傷つかないように。
できるだけ多くのものを与えたい。
その気持ちは、たしかに優しさから生まれている。
でも、優しさは量が多ければ多いほどいいわけではない。
手をかけすぎれば、相手が自分で考える余白までなくしてしまう。
これは友人でも、恋人でも、職場でも同じかもしれない。
相手のためを思って先回りする。
相手のためを思って教える。
相手のためを思って口を出す。
でも、「相手のため」という言葉は便利だ。
本当は自分が安心したいだけなのに、相手のためだと思っていることもある。
自分が心配だから手を出す。
自分が失敗を見たくないから止める。
それが結果として、相手から失敗する自由まで奪ってしまう。
さらに、こんな言葉もある。
親としてしてあげられることは限られている。でも、ずっと味方でいること、彼女の第一の理解者でいること。それは近くにいなくても、手をかけなくでもできる。
(p.200より引用)
ずっと味方でいることと、ずっと手を出し続けることは違う。
何もしないことが、無関心とは限らない。
見守ることも一つの関わり方だ。
必要なときに、ほんの少し手を添える。
その距離感が、実はいちばん難しいのかもしれない。
感じたことを、もう少し信用してもいい
ネコシェフは料理だけでなく、俳句についても話す。
その中で印象に残った言葉がある。
きっとこの句を聞けば、誰もが瞬時にそう感じる。知識云々じゃないんだ。理詰めで塗り固めて論じるよりも、感じるままのほうが、時にはいいこともあるもんだよ。
(p.186より引用)
これを読んだとき、僕は読書について考えた。
なぜこの小説が好きなのか。
なぜこの文章が心に残ったのか。
なぜこの人物が好きなのか。
全部を説明できなくてもいい。
「なんか好き」
それだけのこともある。
もちろん、作品について深く考えるのは面白い。
作者は何を意図したのか。
この場面にはどんな意味があるのか。
なぜこの言葉が使われているのか。
考えれば考えるほど見えてくるものもある。
僕自身、本を読んだあとにいろいろ考えるのは好きだ。
でも、すべてを言葉にして説明できなければ作品を理解していない、ということではない。
読書はテストではない。
正解を書く必要もない。
好きなら好きでいい。
怖かったなら怖かったでいい。
よくわからなかったけれど妙に残った。
それだって立派な読書体験だと思う。
理屈より先に心が動く。
あとから理由を考えてもいいし、最後まで理由がわからなくてもいい。
感じたことそのものを、もう少し信用してもいい。
そんなことを思わせてくれた言葉だった。
人間社会には「昔からそうだから」が多すぎる
この本には、仕事にまつわる妙に現実的な文章も出てくる。
いまどき退職の理由に親の病気を使う、という古臭い文化が残っていたことに驚かされる。前時代的な仕事の仕方は嫌がるくせに、こういったところは前例を踏襲する。
(p.212より引用)
これ、妙にわかる。
人間社会には、
「昔からそうだから」
という理由だけで残っているものが結構ある。
誰が決めたのかわからない。
今も必要なのかわからない。
でも、みんなやっている。
だから自分もやる。
変えようとすると、
「普通はこうだから」
と言われる。
こういうものって、外から見たらかなり不思議なのだと思う。
だからこそ、この作品で猫という存在を置いたのが面白い。
ネコシェフからすれば、人間が大真面目に守っているルールの一部は、
「なんでそんなことしてるんだ?」
で終わるのかもしれない。
僕たちは人間社会の中にいるから、社会のルールを全部無視して生きることはできない。
でも、ときどき猫くらいの距離から眺めてみるのはいい。
それ、本当に必要なのか。
自分も守りたいと思っているのか。
ただ昔からあるだけじゃないのか。
一度そう考えてみるだけで、当たり前だと思っていたものが急に変に見えることがある。
ネコシェフは人生相談をしているようで、ときどき人間という生き物そのものにツッコミを入れている。
そこも、この作品の面白さだった。
他人を嫌いになる前に、自分を見る
こんな文章も心に残った。
他人のことを嫌いにならないのは、自分の至らなさをわかっているせいだ。おおっぴらに「嫌い」といえるほどに、立派ではない。いつだってびくびくして、安全な道ばかりを歩いているだけのことだ。
(p.225より引用)
これは少し複雑な言葉だと思う。
人を嫌いになること自体は、別に悪いことではない。
合わない人はいる。
どうしても苦手な人もいる。
無理に全員を好きになる必要なんてない。
ただ、人を批判するとき、自分だけを完全に正しい側へ置いてしまうと危うい。
「あの人はおかしい」
「自分ならそんなことはしない」
そう思っていたのに、別の場面では自分も似たようなことをしている。
そんなことはいくらでもある。
自分だって間違える。
自分だって面倒くさい。
自分だって誰かにとっては理解しづらい人間かもしれない。
そう考えると、他人に対する見方が少し変わる。
許さなければいけないわけではない。
嫌いになってはいけないわけでもない。
ただ、自分も完璧ではないと知っていることが、他人との間に少しだけ余白を作ってくれる。
それくらいでいいのだと思う。
おいしい料理は人生を解決しない。でも、心は少しほぐれる
ここまで生き方についていろいろ書いてきたけれど、この作品でもう一つ絶対に外せないものがある。
料理だ。
とにかく、お腹が空く。
ホッキ貝のチャウダー。
土鍋で炊いた鯛めし。
タルタルソースを添えたアジフライ。
薬味たっぷりのカツオのたたき。
ねこまんま。
海辺という舞台も相まって、魚介料理がとにかく似合う。
夜に読むと危険だ。
悩みを抱えた人たちが、おいしいものを食べる。
ただそれだけなのに、少しずつ空気が変わっていく。
料理は問題そのものを解決してくれない。
アジフライを食べたところで、明日会社に行けば仕事は残っている。
鯛めしを食べても、人間関係が突然うまくいくわけではない。
チャウダーを飲んでも、人生の正解がわかるわけではない。
でも、おいしいものを食べると少しだけ気持ちが変わる。
温かいものを口にすると、張り詰めていたものが少し緩む。
「まあ、今日はこれでいいか」
と思える瞬間がある。
人生を劇的に変えるものだけが、人を助けるわけではない。
温かいご飯。
好きな本。
猫。
海。
一人でぼーっとする時間。
そういう小さなものに助けられる日もある。
むしろ人生の大半は、そういうものでなんとかできているのかもしれない。
人生は、劇的にひっくり返らなくてもいい
『ネコシェフと海辺のお店』には、ものすごい奇跡が起こるわけではない。
店を出た瞬間、すべての悩みが消えているわけでもない。
そこがよかった。
現実もそうだ。
一冊の本を読んだからといって、明日から別人になるわけではない。
いい言葉を読んだからといって、人生が全部うまくいくわけでもない。
でも、ほんの少し見方が変わることはある。
今まで絶対だと思っていたものを、
「別にそうじゃなくてもいいのか」
と思える。
我慢していたことを、
「これ、本当に我慢する必要ある?」
と考えられる。
自分には何もないと思っていたのに、
「いや、これが好きだったな」
と思い出す。
そのくらいで十分なのだと思う。
人生なんて、毎日ちゃんと前向きじゃなくてもいい。
ずっと成長していなくてもいい。
立ち止まったら、とりあえず温かいものでも食べる。
それで少し元気になったら、また歩けばいい。
そんな小さな回復を肯定してくれるところが、この物語の好きなところだった。
自分だけの「散歩道」を持って生きる
最後に、特に好きだった言葉がある。
俺たちネコはお気に入りの自分だけの場所や散歩道を持っているのさ。その道を信じて進むんだ。
(p.238より引用)
これが、この物語全体を表しているように感じた。
みんなが歩いている道を歩かなくてもいい。
誰かが幸せになった方法で、自分も幸せになれるとは限らない。
結婚する人もいる。
しない人もいる。
会社員として働く人もいる。
違う働き方を選ぶ人もいる。
大勢で過ごすのが好きな人もいれば、一人の時間が好きな人もいる。
夢を追いかける人もいれば、穏やかな毎日を大切にする人もいる。
どれが正しいという話ではない。
大切なのは、自分にとって歩きやすい道を知っていることなのかもしれない。
猫には猫のお気に入りの場所がある。
いつもの塀。
昼寝をする窓辺。
決まった散歩道。
他の猫がどこを歩いているかなんて、たぶんそれほど気にしていない。
人間は、他人の道がよく見える。
SNSを開けば、誰かの仕事、恋愛、旅行、結婚、成功、暮らしが流れてくる。
それを見ているうちに、自分の散歩道が急につまらなく見えることもある。
でも、自分が気持ちよく歩けるなら、それでいい。
遠くまで続いていなくてもいい。
立派な名前がついていなくてもいい。
途中で道を変えてもいい。
お気に入りの場所で、ちょっと休んでもいい。
自分の散歩道を、自分が気に入っていること。
それは案外、大切なことなのかもしれない。
『ネコシェフと海辺のお店』を読んで
最初は、もっと単純な癒しの物語だと思っていた。
海辺。
猫。
おいしい料理。
疲れた人がやってきて、少し元気になって帰っていく。
確かに、そういう小説でもある。
でも読み終わってみると、それだけではなかった。
我慢すること。
逃げること。
自立すること。
誰かと生きること。
親子の距離。
仕事。
人間社会の妙なしがらみ。
そして、自分の道を歩くこと。
ネコシェフは人間ではないからこそ、人間が「当たり前」だと思っているものを、少し離れたところから眺めている。
だから言葉が軽い。
「そんなに難しく考えなくてもいいんじゃないか」
とでも言うように。
その軽さが、この物語には合っていた。
人生を変えるような大げさな名言というより、凝り固まった気持ちを少しだけ緩めてくれる言葉。
僕にはそんなふうに残った。
そしてやっぱり最後に思う。
答えって、案外ずっと自分の中にあるのかもしれない。
誰かに教えてもらうまで存在しないのではなくて、忙しさや不安や他人の目に隠れて、聞こえなくなっているだけ。
そんなときに、おいしいものを食べて、海を眺めて、猫と話せたら。
少しくらい、自分の声が聞こえてくるのかもしれない。
もし本当にネコシェフのお店があるなら、僕も一度くらい迷い込んでみたい。
ただ、僕はそれほど悩みを抱えていないので、ちゃんと店にたどり着けるのかは怪しい。
まあ、悩み相談は別にいい。
アジフライだけ食べさせてほしい。
