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『夏の庭 The Friends』感想|おじいさんの死が教えてくれた、生きることと別れること

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湯本香樹実さんの『夏の庭 The Friends』を読んだ。

読み終えてまず思ったのは、

こんなにも、夏が似合う物語があるんだ。

ということだった。

強い日差し。
むっとする暑さ。
突然降り出す雨。
濡れた土の匂い。
スイカ。
伸び放題になった草。
そして、夏の終わりに咲くコスモス。

この作品には、夏という季節の手触りがいたるところにある。

けれど、ただ爽やかな夏休みを描いた物語ではない。

物語の始まりにあるのは、三人の小学六年生の少年たちが抱いた、

「人が死ぬところを見てみたい」

という好奇心だ。

かなり不穏な始まりである。

けれど読み終えて振り返ってみると、この言葉と物語の最後にある言葉との距離こそが、『夏の庭』そのものだったのではないかと思う。

死ぬところを見てみたい。

そう言っていた少年たちは、ひとりの老人と出会う。

一緒に時間を過ごす。

その人を知る。

そして、その人を失う。

最後に少年たちの口から出てくるのは、

「だってオレたち、あの世に知り合いがいるんだ。それってすごい心強くないか!」(p208より引用)

という言葉だ。

最初と最後で、同じ「死」を見ているはずなのに、まったく違って見える。

このひと夏に、いったい何があったのだろう。

今回は『夏の庭 The Friends』について、少年たちとおじいさんの関係、庭と季節の変化、生きることと死ぬこと、そして最後の「あの世に知り合いがいるんだ」という言葉まで、じっくり考えてみたい。

※ここからは物語の結末を含むネタバレがあります。


目次

『夏の庭 The Friends』のあらすじ

小学六年生の木山、山下、河辺。

あるとき三人は、「人が死ぬ瞬間を見てみたい」という好奇心を抱く。

そこで目をつけたのが、近所の古びた家にひとりで暮らしているおじいさんだった。

もうかなり年を取っている。

いつ死んでもおかしくないのではないか。

そんな勝手な想像から、三人はおじいさんの家を見張るようになる。

もちろん、おじいさんからすれば迷惑な話である。

自分がいつ死ぬのかを期待するように、小学生三人が家の外からこちらを見ているのだから。

しかし、そんな奇妙な関係は少しずつ変わっていく。

三人は庭の草を抜き、洗濯を手伝い、一緒にスイカを食べる。

最初は「死ぬかもしれない老人」だった人に、いつしか三人は親しみを感じるようになる。

そして、おじいさんにとっても三人は、自分の静かだった生活へ突然入り込んできた、かけがえのない存在になっていく。

死を待っていたはずなのに。

気がつけば少年たちは、おじいさんが生きている時間の中にいた。


「人が死ぬところを見たい」という残酷な好奇心

この物語の始まりは、少し残酷だ。

人が死ぬところを見てみたい。

大人が言えば、かなり異様な言葉に聞こえる。

けれど三人の少年たちには、誰かの死を望んでいるような悪意があるわけではない。

むしろ彼らにとって、「死」があまりにもわからないものだからこそ、見て確かめたかったのではないだろうか。

木山はこう考える。

「知りたいことがあるのなら、知る努力をするべきだ。」(p22より引用)

この一文は、物語の最初では子どもらしい行動力にも見える。

わからないなら、見ればいい。

死ぬとはどういうことなのか。

人は死ぬ瞬間、どうなるのか。

死んだ人間はどんな姿になるのか。

ならば、死にそうな老人を見張っていればわかるかもしれない。

理屈だけなら単純だ。

でも、彼らがこのあと知ることになる「死」は、そんなに単純なものではなかった。

ここが『夏の庭』のおもしろいところだと思う。

少年たちは確かに最後まで「知ろう」とする。

ただし、最初に知りたかったものと、最後に知るものが違う。

死という現象を知りたかった。

ところが、人を知ってしまった。

この違いが大きい。


最初のおじいさんには、まだ「名前」がない

三人が最初に見ているおじいさんは、ひとりの人間というより「観察対象」に近い。

年老いている。

ひとりで暮らしている。

家も庭も荒れている。

だから、もうすぐ死ぬかもしれない。

三人にとって重要なのは、その人がどんな人生を生きてきたのかではなく、**「この人は死ぬのか」**という一点だけだった。

それはある意味では、僕たちがニュースなどで知らない人の死を見るときにも少し似ているのかもしれない。

「○人が亡くなった」

という数字を見ても、その一人ひとりが昨日何を食べ、誰と話し、何に悩み、どんなことを楽しみにしていたのかまでは知らない。

知らないから、死をどこか遠くに置いておける。

三人にとってのおじいさんも、最初はそうだったのだと思う。

「死ぬかもしれない人」。

それだけだった。

ところが、話してしまう。

関わってしまう。

一緒に何かをしてしまう。

すると、「死ぬかもしれない人」ではいられなくなる。

そこには、その人だけの人生があることに気づいてしまう。


死を待っていたはずなのに、生きている時間が増えていく

僕が『夏の庭』でとても好きなのは、少年たちとおじいさんの距離が縮まっていく過程だ。

大げさな事件が起きて、突然仲良くなるわけではない。

庭の草を抜く。

洗濯をする。

話をする。

スイカを食べる。

そんな小さな出来事が積み重なっていく。

最初は、おじいさんが死ぬ瞬間を見逃さないために家を見ていた。

それなのに、いつの間にか三人はおじいさんの生活そのものに入り込んでいる。

ここで物語が、静かに反転する。

「死ぬところを見るための夏」が、「一緒に生きる夏」へ変わっていく。

これがすごくいい。

おじいさんは、三人に何か立派な教訓を語り続ける先生ではない。

三人も、おじいさんを救うためにやってきた立派な少年たちではない。

たまたま出会った。

最初の目的なんて、むしろ不純だった。

それでも人間は、一緒に時間を過ごしてしまえば関係を持ってしまう。

そして関係を持つということは、その人が自分にとって「どうでもいい誰か」ではなくなるということでもある。


荒れた庭が、少しずつ生き返っていく

タイトルにもなっている「庭」。

この庭の存在は、やはりかなり重要だと思う。

最初のおじいさんの庭は荒れている。

雑草が伸び、長いあいだ手入れされていない。

その庭を、少年たちは片づけていく。

草を抜く。

何もなくなった土が現れる。

そして、そこに新しいものを植える。

雨が降る場面では、こんな言葉がある。

「ぼくたちはそれぞれの花畑を夢見ながら、何もなくなった庭に降る雨をただ見ていた。すっかり生まれ変わり、新しく何かが根づくことを待っている土に、天から水がまかれる音を耳をすまして聞いていたのだ。」(p87より引用)

この場面が、とても好きだ。

何もなくなった庭。

けれど、それは「何もない」だけではない。

これから何かが根づくことのできる場所になった。

そう考えると、この庭の変化は、おじいさん自身の変化にも重なって見える。

ひとりで暮らし、生活も庭も荒れていたおじいさんのところへ、突然三人の少年がやってくる。

うるさい。

面倒くさい。

最初はそんな存在だったはずだ。

けれど、彼らが入り込んだことで、おじいさんの日常が再び動き始める。

少年たちだけがおじいさんから何かをもらったのではない。

おじいさんもまた、少年たちから何かをもらっている。

だから僕はこの作品を、単純な「老人が少年たちに死について教える物語」とはあまり思わない。

四人が出会ったことで、四人それぞれの時間が少し動き出す物語なのだと思う。


なぜ、この物語は「夏」なのだろう

『夏の庭』というタイトルが好きだ。

もしこれが『春の庭』でも『冬の庭』でも、まったく違う物語になっていたと思う。

夏休みには、不思議な時間感覚がある。

子どもの頃の夏休みは、始まった瞬間には永遠に続くように思える。

まだ何十日もある。

明日も休み。

明後日も休み。

同じ友達と遊び、同じ道を歩き、同じような一日が続いていく。

作中にも、

「まるで同じ日が永遠に続くみたいに。何もかもが、夏の日差しの下に押さえつけられていた。」(p65より引用)

という言葉がある。

でも、夏休みは必ず終わる。

どれだけ長く感じても、終わる。

カレンダーは進んでいる。

日差しは少しずつ変わり、日が短くなり、風の匂いが変わる。

だから『夏の庭』を読んでいると、四人が楽しく過ごすようになればなるほど、少し寂しくなる。

この時間は続かない。

読者はどこかでそれを知っているからだ。

三人は知らない。

あるいは、考えていない。

おじいさんと明日も会えるような気がしている。

でも夏は終わる。

「永遠に続くように感じる時間にも終わりがある」ことそのものが、この小説の大きなテーマの一つなのではないかと思う。


子どもは、世界のすべてを知らない

『夏の庭』を読んでいると、三人が「死」だけを知ろうとしているわけではないことにも気づく。

彼らには、それぞれの家庭がある。

それぞれの事情がある。

親にも、子どもには完全にはわからない人生がある。

河辺の言葉には、それが強く表れている。

「音より速く飛べる飛行機があるのに、どうしてうちにはおとうさんがいないんだよ、どうしておかあさんは日曜日のデパートで、あんなにおびえたような顔をするんだよ。」(p106より引用)

世界には、理解できることと理解できないことがある。

飛行機が音より速く飛ぶ仕組みを説明することはできても、なぜ自分の家族がこうなっているのかは簡単には説明できない。

子どもの頃は、大人になれば何でもわかるようになる気がしていた。

でも、実際にはそんなことはない。

人の気持ち。

家族。

後悔。

死。

なぜあの人はあのとき、あんなことを言ったのか。

なぜ自分は、あのとき何も言えなかったのか。

大人になってもわからないことだらけだ。

作中には、

「たぶん、この世界には隠れているもの、見えないものがいっぱいあるんだろう。」(p97より引用)

という言葉もある。

三人の夏は、死の正体を暴く冒険ではなく、むしろ**「世界には簡単にはわからないものがある」と知っていく夏**だったのかもしれない。


「生きている」とは、息をしていることなのか

物語が進むにつれて、「死ぬとは何か」という問いは「生きるとは何か」という問いに変わっていく。

これは当然なのかもしれない。

死だけを切り離して考えることはできない。

死ぬということを考えれば、その反対側にある「生きている」とは何なのかを考えることになる。

木山はこう考える。

「生きているのは、息をしているってことだけじゃない。それは絶対に、違うはずだ。」(p100より引用)

この言葉は、物語の序盤にあった「死ぬ瞬間を見れば、死がわかる」という発想からかなり遠いところまで来ている。

呼吸が止まれば死。

医学的な現象として考えれば、それに近い説明はできるのかもしれない。

でも、人間にとっての「生きている」は、それだけではない。

誰かと話す。

何かを好きになる。

後悔する。

怒る。

笑う。

一緒にスイカを食べる。

庭の草を抜く。

昔のことを思い出す。

明日のことを考える。

そんなものが全部集まって、「その人が生きている」ということになる。

だからこそ、その人を知れば知るほど、死は単なる呼吸停止ではなくなっていく。


「死ぬ」とは、もう会えなくなること

そして木山は、ひとつのことに気づく。

「死ぬ、というのはそういうすべてがぼくの目の前から消えてしまう、もう会えなくなってしまうということだと、ぼくはようやく気づいた。」(p110より引用)

僕はここが、『夏の庭』の大きな転換点だと思う。

最初、三人が知りたかったのは「人が死ぬところ」だった。

つまり、死を「瞬間」として見ようとしていた。

生きている。

そして死ぬ。

その境目を見れば、死というものがわかると思っていた。

でも違った。

本当に恐ろしいのは、その一瞬ではない。

その人との時間が、そこから先にはもう増えないこと。

明日は話せない。

もう一緒にスイカを食べられない。

庭で何かをすることもない。

新しい思い出を作ることもできない。

「もう会えない」。

死がこの言葉に置き換わった瞬間、急に現実味を帯びる。

僕たちは「死」という言葉を日常的に使う。

小説でも映画でもニュースでも見る。

でも、自分の知っている誰かについて「もう二度と会えない」と考えると、途端にその言葉の重さが変わる。

三人も同じだったのだと思う。

死そのものが変わったわけではない。

死ぬ人を知ってしまったから、死の意味が変わった。


それなのに、世界は普通に続いていく

そして僕がもう一つ強く残ったのが、そのあとに続く感覚だった。

大切な人がいなくなったとしても、世界は止まらない。

夏は夏のまま続く。

太陽は昇る。

誰かは笑っている。

電車は走る。

店は開く。

知らない人はいつも通り生活している。

自分にとっては世界が変わってしまったような出来事なのに、世界そのものは何もなかったように動いていく。

木山もそれを恐ろしいと感じる。

この感覚は、大人になればなるほどわかる人が増えるのではないだろうか。

自分にとって重大な出来事と、世界にとって重大な出来事は同じではない。

誰かを失った日の夕方にもスーパーでは特売が行われているし、テレビではバラエティ番組が流れている。

そのことが、妙に残酷に感じられる瞬間がある。

でも同時に、それこそが生きるということなのかもしれない。

世界は続く。

残された人も、その続いていく世界の中で生きていかなければならない。


おじいさんの死を、三人は「見る」

そして、ついにそのときがやってくる。

おじいさんは死ぬ。

三人が最初から待っていたはずの出来事だ。

でも、もう誰も待ってはいない。

ここが本当に苦しい。

三人は最初、「人が死ぬところを見てみたい」と言っていた。

そして最終的に、本当に死と向き合うことになる。

願いが叶った、と言ってしまえばそうなのかもしれない。

けれど、最初に想像していたものとはまったく違う。

そこにいるのは「死んだ老人」ではない。

一緒に庭をきれいにした人。

話をした人。

笑った人。

過去を聞いた人。

一緒に夏を過ごした人だ。

木山は亡くなったおじいさんを見て、

「ここにあるのはおじいさんの抜け殻で、おじいさんそのものではない、そんな感じだ。」(p194より引用)

と感じる。

これは、物語の冒頭に対する一つの答えにも思える。

三人は「死体」を見れば、死がわかると思っていた。

実際に死んだおじいさんを見る。

しかし、そこにあったのは「おじいさんそのもの」ではなかった。

つまり、死体を見ることによって死を理解できたわけではない。

むしろ、おじいさんがそこにいないことによって、彼らはおじいさんが「生きていた」ということを知る。

なんとも不思議だ。

生きているときには当たり前だった存在が、いなくなって初めて輪郭を持つ。


「最後まで目をそらさない」ということ

木山は、

「ぼくは、しっかりと見届けなくてはならない。最後まで、決して目をそらしてはならない。」(p199より引用)

と考える。

これも、序盤の「見たい」とは意味がまったく違う。

最初は好奇心から見ようとしていた。

最後は、悲しいからこそ見ようとしている。

同じ「見る」という行為なのに、その中身が変わっている。

ここに少年たちの成長があるのだと思う。

嫌なものから目をそらさない。

悲しいからなかったことにしない。

おじいさんが死んだことを、自分たちの夏の中にきちんと置く。

それは簡単なことではない。

でも、見届けることで初めて、彼らは別れを自分のものとして引き受けることができたのではないだろうか。


悲しいのは、生きている側なのかもしれない

火葬されたおじいさんの骨を見ながら、木山は考える。

「すごくさびしい。心細い。だけどそれは、結局はぼくの問題なのだ。おじいさんは、充分、立派に生きたのだ。」(p200より引用)

この言葉も好きだ。

死について考えていると、いつの間にか「死んだ人はかわいそうだ」という方向に考えてしまうことがある。

でも、この場面で木山が感じている寂しさは、木山のものだ。

会いたい。

もっと話したい。

まだいてほしかった。

それは全部、残された側の願いである。

おじいさん自身は、自分の人生を生きた。

もちろん後悔もあった。

孤独もあった。

決して幸福だけの人生ではない。

それでも、最後の夏に三人と出会い、庭をよみがえらせ、過去とも向き合った。

「充分、立派に生きた」。

この言葉には、ただ悲しむだけではない、相手の人生への敬意があるように感じた。


コスモスは「生まれ変わり」なのだろうか

そして、おじいさんがいなくなったあと、庭にはコスモスが咲く。

ここを単純に、

「命は受け継がれていく」

「死んでも新しい生命が生まれる」

というだけで読むこともできる。

もちろん、そういう読み方もできると思う。

でも僕には、もう少し具体的なものに感じられた。

おじいさん本人はいない。でも、おじいさんと三人が一緒に過ごした結果は、そこに残っている。

庭を片づけたこと。

土を出したこと。

種をまいたこと。

雨を眺めたこと。

それらは全部、四人が一緒に生きていた時間の中で起こった。

だから、おじいさんがいなくなったあとに花が咲く。

本人はいないのに、その人と一緒にしたことの続きが世界で起きている。

これは、人の記憶にも似ている。

誰かがいなくなっても、その人に言われた言葉で自分の行動が変わることがある。

その人と行った場所を見ると思い出す。

その人が好きだったものを、自分も好きになることがある。

その人がいなくなってからも、関係の続きを生きることがある。

そう考えると、コスモスは「おじいさんの代わり」ではない。

もっと静かなものだ。

誰かが生きた痕跡は、その人がいなくなった瞬間に全部消えるわけではない。

そのことを、庭に咲く花が見せているように思えた。


思い出は、どこへ行くのだろう

『夏の庭』には、こんな美しい一節もある。

「歳をとればとるほど、思い出は増えるのだから。」(p155より引用)

そして、その人がいなくなっても、思い出は空気の中を漂い、雨に溶け、土に染み込んで生き続けるのではないか、と想像する。

この発想が、『夏の庭』というタイトルともつながっているように思う。

雨。

土。

庭。

花。

記憶。

全部が別々のものではない。

おじいさんの人生にも、少年たちが知らない長い時間がある。

三人と出会う前から、おじいさんは生きていた。

愛した人がいる。

失ったものがある。

後悔していることがある。

少年たちが知ることのできたのは、その人生のほんの一部分だ。

それでも、その一部分を聞いたことで、おじいさんの記憶の一部は三人へ渡った。

そして三人が覚えていれば、おじいさんの人生の一部は三人の中にも残る。

人は自分ひとりの中だけに存在しているわけではないのかもしれない。

誰かと関わるたび、自分の一部分をその人の中に置いていく。

それが記憶なのだとしたら、人が完全に消えるというのは、僕たちが思っているよりずっと難しいことなのかもしれない。


「思い出の中に生きている」だけではない

ただ、この作品がおもしろいのは、単純に「死んだ人は思い出の中で生き続けます」という綺麗な言葉だけで終わらないところだ。

終盤、木山は今でも、

「もしおじいさんだったら」

と考える。

そして、それは、

「『思い出の中に生きている』なんていうのとは、ちょっと違う。もっとたしかな、手ごたえのある感じだ。」(p207より引用)

という。

僕はここがすごく好きだ。

思い出は、過去を懐かしむだけのものではない。

現在の自分の判断にまで入り込んでくる。

「おじいさんならどうするだろう」

そう考えることで、自分だけでは出せなかった答えが出る。

つまり、おじいさんとの出会いが、今の木山の一部になっている。

これは確かに、「思い出の中で生きている」という言葉だけでは少し足りない。

その人との関係が、自分の考え方を変えた。

自分の選択を変えた。

世界を見る角度を変えた。

もう会えない人が、現在の自分を動かすことがある。

それなら、その人との関係は「死んだ瞬間に終了した」とも言い切れない。

形を変えて続いている。

だから「手ごたえ」があるのだと思う。


「忘れたくないから書く」ということ

そして、ブログを書いている自分として、とても心に残った言葉がある。

「だけど、ぼくは書いておきたいんだ。忘れたくないことを書きとめて、ほかの人にもわけてあげられたらいいと思う。」(p204より引用)

これを読んだとき、少し立ち止まった。

僕も、本を読んだあとにこうして感想を書いている。

Instagramにも書く。

ブログにも書く。

心に残った言葉をメモしておく。

別に、すべてを忘れないためだけにやっているわけではない。

でも、読んだ瞬間に確かに感じたことが、時間が経つと驚くほど消えていくことがある。

大好きだった本なのに、数年後には細かな内容を思い出せないこともある。

でも、書いておけば残る。

「あのときの自分は、ここで立ち止まったんだ」

「この言葉を好きだと思ったんだ」

と、あとからもう一度出会うことができる。

そして文章として外に出せば、自分の中だけにあったものを誰かに渡すこともできる。

その人が同じ本を読むかもしれない。

違うことを感じるかもしれない。

また誰かに話すかもしれない。

そう考えると、「書く」という行為もまた、記憶を誰かへ渡していく方法なのかもしれない。

だから今、僕が『夏の庭』についてこうして書いていること自体、この作品から受け取ったものの続きなのだと思う。


大人になって読むと、「夏休み」の意味が変わる

『夏の庭』は児童文学として読まれてきた作品でもある。

実際、子どもの頃に読んだという人も多いと思う。

でも、大人になってから読んでもかなり刺さる。

むしろ、大人だからこそわかる寂しさもある。

子どもの頃は、夏休みが「現在」だった。

早く宿題を終わらせないといけない。

今日は誰と遊ぶ。

明日は何をする。

そんなことばかり考えていた。

でも大人になって夏休みを思い出すと、そこに最初から「もう戻れない時間」という意味がついてしまう。

夕方まで一緒に遊んだ友達。

毎日通った道。

公園。

学校。

当時は、それらがいつかなくなるなんて考えていなかった。

明日も同じように続くと思っていた。

でも、続かなかった。

それぞれ進学し、引っ越し、仕事をし、別々の人生を生きていく。

今ではどこで何をしているのか知らない人もいる。

別に喧嘩したわけではない。

「今日で最後にしよう」と約束したわけでもない。

ただ、いつの間にか会わなくなった。

人生には、そういう別れもある。

だから『夏の庭』を読んでいると、おじいさんとの死別だけではなく、子ども時代そのものとの別れまで感じてしまう。

三人の少年たちも、ずっと三人のままではいられない。

夏は終わる。

小学校も終わる。

それぞれの人生が始まる。

だからこそ、一緒にいられる時間がこんなにも眩しい。


「永遠に続くと思っていた時間」は、だいたい終わっている

子どもの頃は、不思議なくらい「終わり」を考えない。

今一緒に遊んでいる友達と、来年も遊ぶと思っている。

家族はずっとそこにいると思っている。

自分もずっと子どものままのような気がしている。

でも大人になると、終わりを知ってしまう。

人間関係にも終わりがある。

仕事にも終わりがある。

住んでいる場所から離れる日が来る。

好きだった店が閉まる。

犬や猫も歳をとる。

自分自身も歳をとる。

「ずっと」は、ほとんどない。

そう考えると寂しい。

でも、『夏の庭』は「だから全部むなしい」とは言わない。

むしろ逆だ。

終わるからこそ、そこで起きたことがなくなるわけではない。

夏は終わった。

おじいさんもいなくなった。

それでも、三人は変わった。

庭には花が咲いた。

おじいさんの言葉は三人の中に残った。

だったら、時間が終わることと、その時間が無意味になることはまったく別なのだ。

ここに、この小説の優しさがあるように思う。


「あの世に知り合いがいるんだ」が、たまらなく好きだ

そして最後。

僕がこの作品でいちばん好きなのが、

「だってオレたち、あの世に知り合いがいるんだ。それってすごい心強くないか!」(p208より引用)

という言葉だ。

初めて読んだとき、なんていい言葉なんだろうと思った。

この言葉は、死を否定していない。

「おじいさんは天国で幸せに暮らしています」と断定するわけでもない。

死は怖くないと言っているわけでもない。

三人は死の正体を完全に理解したわけでもない。

それでも、最初とは一つだけ決定的に違う。

あの世に、知っている人がいる。

物語の途中では、

「あの世は、海の底にあるのかもしれない。深い、だれも知らない海の底に。」(p112より引用)

と想像していた。

「だれも知らない場所」。

それは怖い。

どこにあるのかわからない。

何があるのかわからない。

誰がいるのかわからない。

でも、おじいさんが死んだことで、その「誰も知らない場所」にひとりだけ知り合いができた。

場所そのものは何もわかっていない。

死後の世界についての謎も、一つも解決していない。

なのに、少しだけ心強くなる。

この感覚がたまらなく好きだ。


死への恐怖をなくすのではなく、少しだけ形を変える

僕は『夏の庭』が、死について明快な答えを出さないところが好きだ。

死は怖くない。

人生は素晴らしい。

大切な人は心の中で永遠に生き続ける。

そんなふうに簡単にはまとめない。

死は怖い。

別れは寂しい。

もう会えない。

その事実は変わらない。

でも、

「あの世に知り合いがいる」

と思えたらどうだろう。

死というものが、ほんの少しだけ違って見える。

恐怖がゼロになるわけではない。

ただ、真っ暗だった場所のどこかに、小さな明かりが一つ灯る。

「あそこには、おじいさんがいるかもしれない」

そう思えるだけで、未知だったものが完全な未知ではなくなる。

これは、死に対する答えというより、死と一緒に生きていくための小さな考え方なのだと思う。


本当は「生きているほうが不思議」なのかもしれない

そして、もう一つ忘れられない言葉がある。

「だけどさ、ほんとは生きているほうが不思議なんだよ、きっと。」(p113より引用)

死について考えていると、僕たちは「なぜ死ぬのか」と考える。

でも逆に考えれば、今ここに生きていることだって十分不思議だ。

何十億人もいる人間の中で、たまたま誰かと出会う。

同じ学校になる。

同じクラスになる。

同じ職場になる。

たまたま近所に住んでいる。

たまたま一冊の本を読む。

そして、その人のことを好きになる。

友達になる。

一緒に時間を過ごす。

『夏の庭』の三人とおじいさんだって、本来なら出会わなかったかもしれない。

「人が死ぬところを見たい」なんて妙な好奇心がなければ、三人はあの庭に入り込まなかった。

おじいさんの人生を知らなかった。

一緒にスイカを食べることもなかった。

庭をきれいにすることもなかった。

コスモスを見ることもなかった。

そう考えると、死だけが不思議なのではない。

誰かと同じ時間を生きられることの方が、ずっと不思議なのかもしれない。


『夏の庭』は、死についての小説であり、出会いについての小説だった

読み始めたとき、僕はこの作品を「子どもたちが死について知っていく物語」だと思っていた。

もちろん、それは間違ってはいない。

でも読み終えると、少し違って見える。

これは死についての物語であると同時に、人と出会うことについての物語なのではないだろうか。

死を知りたかった三人は、おじいさんを知った。

そして、おじいさんを知ったからこそ、死を知った。

順番が大切なのだと思う。

最初から死について立派な説明を聞いても、三人にはここまで届かなかったはずだ。

一緒に過ごしたからわかった。

その人が自分にとって大切になったから、いなくなることの意味がわかった。

死を理解したというより、

誰かを失うとはどういうことなのかを知った。

そして同時に、

誰かと出会うとはどういうことなのかも知った。

出会えば、いつか別れる。

それだけ聞けば悲しい。

でも、出会わなければ残らなかったものもある。

三人の中には、おじいさんが残った。

おじいさんの最後の夏には、三人がいた。

庭には、四人が過ごした時間の結果として花が咲いた。

それなら、別れがあるからといって、出会いが悲しいものになるわけではない。


ひとつの夏は終わっても、あの夏は終わらない

夏は終わる。

庭の景色も変わる。

少年たちは成長する。

おじいさんはいなくなる。

何一つ、同じままではいられない。

それでも、不思議なことに、読み終えたあとに残るのは絶望ではなかった。

寂しい。

でも、あたたかい。

悲しい。

でも、少し心強い。

そんな相反する感情が同時に残る。

もしかすると、それこそが誰かを思い出すということなのかもしれない。

もう会えないから寂しい。

でも、会えたから嬉しい。

終わってしまったから悲しい。

でも、確かにそこにあった。

だから最後の、

「あの世に知り合いがいるんだ」

という言葉が、僕はたまらなく好きなのだと思う。

死は怖い。

別れは寂しい。

その事実は何も変わらない。

でも、あの世に知っている人がひとりいる。

自分のことを知っている人が、向こう側にいる。

そう思えたら、死というものはほんの少しだけ違って見えるのかもしれない。

そして、生きている今も少しだけ違って見える。

いつか終わるからといって、今を急いで意味のあるものにしなくてもいい。

一緒にスイカを食べるだけでもいい。

くだらないことを話すだけでもいい。

庭の草を抜くだけでもいい。

同じ雨の音を聞くだけでもいい。

そのときには何でもないと思っていた時間が、あとになって、その人との大切な時間だったとわかることがある。

だからこそ、今ここに誰かといることは、思っている以上に不思議なことなのだろう。

ひとつの夏が終わった。

けれど三人にとって、おじいさんと過ごしたあの夏は、これから先もずっと終わらない。

『夏の庭』というタイトルが、読み終えたあとには、最初よりずっと美しく見えた。


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