また、ため息をついている
職場に、やたらため息をつく上司がいる。
「はぁ〜〜〜。」
一回ならいい。
疲れているんだろう。
仕事をしていれば、ため息くらいつく。
僕だってつく。
しんどい日もあるし、面倒くさい仕事もある。
朝起きた瞬間から帰りたい日だってある。
人間だもの。
ところが、十分後。
「はぁ〜〜〜。」
まただ。
さらにしばらくすると、
「はぁ〜〜〜。」
また聞こえた。
朝から何回目だろう。
時計を見る。
まだ10時である。
このペースで夕方まで酸素はもつのだろうか。
しかも、ため息というのは妙に耳に入る。
コピー機の音は気にならなくなる。
キーボードの音もそのうち背景になる。
エアコンの音なんて、存在すら忘れる。
でも、
「はぁ〜〜〜。」
これは聞こえる。
なぜだ。
別に僕に向かってため息をついているわけではない。
本人はパソコンを見ている。
僕は僕で仕事をしている。
なのに聞こえる。
「はぁ〜〜〜。」
気にしない。
仕事を続ける。
「はぁ〜〜〜。」
気にしない。
「はぁ〜〜〜。」
……。
多いな。
一回気になり始めると、もうダメである。
さっきまでただの呼吸だったものが、存在感を持ち始める。
そして僕の中に、一つの疑問が生まれる。
なんでそんなにため息をつくんだ。
さっきのため息では足りなかったのか
一回や二回ならわかる。
面倒くさい仕事が来た。
「はぁ。」
わかる。
上司に何か言われた。
「はぁ。」
わかる。
仕事でミスした。
「はぁ。」
これもわかる。
ため息というのは、何か嫌なことがあったときに出るものだと思っていた。
ところが、ため息が多い人は違う。
何も起きていないように見えるときでも、
「はぁ〜〜〜。」
十分後、
「はぁ〜〜〜。」
さらに十分後、
「はぁ〜〜〜。」
さっきのため息では足りなかったのか。
一度しっかり吐いたはずである。
何ならかなり長かった。
肺の奥にあったものまで全部出したように見えた。
それなのに、また出る。
ため息というのは、そんなに短時間で再装填されるものなのだろうか。
僕はだんだん、腹が立つより不思議になってくる。
なぜこの人は、こんなにため息をつくのか。
気になって考えてみた。
もちろん本人に、
「なんでそんなため息ばっかりついてるんですか?」
と聞いたわけではない。
そんなことを聞いたら、
「はぁ〜〜〜。」
が一回増えそうである。
だから、ここからは僕なりの想像だ。
本当に疲れているのかもしれない
まず、一番普通に考えられるのは、
疲れている。
これだろう。
仕事は疲れる。
肉体的にも疲れるし、頭も疲れる。
人間関係でも疲れる。
自分の仕事だけやっていればいいわけでもない。
特に上司なら、部下の仕事を確認したり、トラブルに対応したり、さらにその上の上司から何か言われたりする。
僕から見えていない仕事もたくさんあるだろう。
家に帰れば家のこともある。
眠れていないのかもしれない。
体調が悪いのかもしれない。
腰が痛いのかもしれない。
そう考えると、
「はぁ〜〜〜。」
くらい出るだろう。
僕だって疲れたら出る。
ここまではわかる。
問題は、
なぜ一日中出続けるのか。
疲労というものは、一回ため息をついたら消滅するわけではない。
だから何度も出る。
それもわかる。
わかるのだけれど、
一時間に何回も聞こえてくると、さすがに思う。
だいぶ疲れてますね。
むしろ少し心配になる。
ため息で乗り切ろうとせず、一回休んだ方がいいんじゃないか。
コーヒーでも飲んできたらどうだ。
いや、帰って寝た方がいい。
僕が上司の健康まで心配し始めている。
ため息には、そんな力がある。
もはや癖になっているのかもしれない
もう一つ考えられるのが、
本人は自分がため息をついていることに気づいていない。
これもかなりありそうだ。
人間には、自分では気づかない癖がある。
貧乏ゆすり。
ペンをカチカチする。
指を鳴らす。
独り言。
鼻歌。
「よいしょ」
「よいしょ」
「よいしょ」
一日に何回「よいしょ」と言うんだ、という人もいる。
でも本人は数えていない。
僕にだって、たぶん何かある。
自分では気づいていないだけで、誰かをイライラさせている癖があるかもしれない。
ため息も同じなのだろう。
本人の中では、
「はぁ〜〜〜。」
という音まで含めて、呼吸になっている。
こちらには盛大に聞こえているけれど、本人にとっては無意識。
だとしたら、
「うるさい!」
と腹を立てても仕方がない部分はある。
本人には、
うるさくしている自覚すらない。
こっちは一日中聞いている。
本人は一回も聞いていない。
この差は大きい。
僕が、
「今日めちゃくちゃため息ついてましたよ」
と言ったら、
「え、そう?」
となる可能性もある。
その横で僕だけが、
「37回です」
と答えられる。
怖い。
数えるのはまだやめておこう。
言葉にできない不満を、ため息にしているのかもしれない
ため息というのは、考えてみると便利だ。
職場で突然、
「もう仕事したくねええええ!」
と叫ぶのは難しい。
「この仕事めちゃくちゃ面倒くさい!」
とも言いにくい。
「なんで俺ばっかりこんな仕事せなあかんねん!」
も、立場によっては言えない。
特に上司なら、
「もう全部嫌です。帰ります」
とはなかなか言えないだろう。
そこで、
「はぁ〜〜〜。」
である。
これだけで、
「疲れた」
「面倒くさい」
「しんどい」
「うまくいかない」
「帰りたい」
いろんなものを一音に詰め込める。
ため息、圧縮率がすごい。
しかも言葉ではない。
「今、仕事嫌って言いましたよね?」
とはならない。
何も言っていないから。
「機嫌悪いんですか?」
と聞かれても、
「いや、別に」
で終われる。
もしかすると、職場で口にできない感情が多い人ほど、ため息という形で外に出しているのかもしれない。
言葉にできないから、
「はぁ〜〜〜。」
で逃がす。
そう考えると、少しわかる気もする。
ただし、
逃がしたものは、こちらに飛んできている。
「察してくれ」が混ざっていることもある気がする
そしてこれは、すべての人に当てはまるとは思わないけれど、
ため息の中には、ときどき、
「察してくれ」
が混ざっている気もする。
特に、やたら大きいため息。
「はぁ〜〜〜〜〜!」
それ、必要な音量か。
肺から出たというより、
職場全体に向けて発射していないか。
パソコンをカタカタ。
「はぁ〜〜〜。」
書類を見る。
「はぁ〜〜〜。」
またパソコン。
「はぁ〜〜〜。」
僕の中では、
「忙しい」
「大変」
「疲れている」
「誰か気づいて」
みたいな字幕が勝手につく。
本当にそうなのかは知らない。
ただの癖かもしれない。
でも、あまりに大きく、あまりに何度も続くと、
「どうしたんですか?」待ちなのか?
と思ってしまう。
そこで、
「大丈夫ですか?」
と聞く。
「いや、別に」
たぶん一番困る答えである。
別になら、
もう少し静かに別にしていてほしい。
もちろん本当に忙しいなら、そう言ってくれればいい。
「今日仕事多くて大変やわ」
それなら、
「大変ですね」
と言える。
手伝えることがあるなら手伝えるかもしれない。
でも、
「はぁ〜〜〜。」
だけ渡されても困る。
何をすればいいのかわからない。
ため息は情報量が多そうに見えて、
肝心なことは何もわからない。
上司のため息は、勝手に字幕がつく
そして、相手が上司だと余計に気になる。
同僚が、
「はぁ〜。」
とやっていても、
「疲れてるんかな」
くらいで終わることがある。
でも上司が、
「はぁ〜〜〜。」
とやると、少し違う。
怒ってる?
誰かミスした?
仕事遅い?
何か問題あった?
もしかして俺?
何も言われていないのに、こっちは勝手に考える。
上司のため息には、
勝手に字幕がつく。
「はぁ〜〜〜。」
《お前ら仕事遅いねん》
本人は、
「昨日あんまり寝られへんかったな」
と思っているだけかもしれない。
また、
「はぁ〜〜〜。」
《なんで俺ばっかり忙しいねん》
本人は、
「昼飯、何食べよかな」
かもしれない。
知らない。
だから厄介なのだ。
上司という立場には、本人が思っている以上に影響力がある。
機嫌が悪そうなら、話しかけるタイミングを考える。
質問するのを少し待つ。
報告を後回しにする。
何も怒られていないのに、周囲の動きが変わる。
別に、
「上司は常にニコニコしていろ」
と言いたいわけではない。
そんな職場も怖い。
朝から夕方まで満面の笑みで、
「今日も頑張ろう!」
と言われ続けるくらいなら、
たまにはため息をついていてほしい。
人間でいてくれ。
ただ、立場のある人の感情は、自分一人だけのものとして処理されないことがある。
本人はただ息を吐いている。
周囲は意味を探している。
そこにズレがある。
ため息は「独り言」なのに、周りが受信させられる
結局、僕がため息ばかりつく人を苦手なのは、
これなのだと思う。
勝手に受信させられる。
本人にとっては、自分のため息。
でも音だから周囲にも届く。
しかも言葉ではないから、内容がわからない。
「はぁ〜〜〜。」
……何?
俺?
仕事?
疲れた?
怒ってる?
腹減った?
帰りたい?
腰痛い?
知らんがな。
「今日は仕事多くて疲れた」
と言われれば、
「ああ、疲れてるんやな」
で終わる。
でもため息には説明がない。
説明がないから、聞いた側が意味を補う。
それが一回ならいい。
何度も続くと、こっちまで疲れてくる。
本人の疲労や不機嫌を、
こちらまで少しずつ処理させられているような感じがする。
疲れているのはわかる。
しんどいのもわかる。
でも、そのしんどさを一日中、
「はぁ〜〜〜。」
という音にして周囲に配り続けられると、
こっちまでしんどくなる。
疲労の無料配布である。
いらない。
僕は申し込んでいない。
じゃあ、ため息ばかりつく上司にどう対処するか
問題はここからだ。
相手が知らない人なら離れればいい。
友達なら、
「ため息多ない?」
と言えるかもしれない。
でも上司。
ちょっと面倒くさい。
「ため息うるさいですよ」
とは、なかなか言えない。
言った瞬間、
「はぁ〜〜〜。」
とやられたら、もう何も言えない。
だから僕がまずやるのは、
ため息に意味を与えないこと。
上司が、
「はぁ〜〜〜。」
とやった。
そこで、
「僕、何かしたかな」
「仕事遅かったかな」
「機嫌悪いのかな」
と全部自分に結びつけない。
何も言われていないのだから、何もわからない。
腰が痛いのかもしれない。
寝不足かもしれない。
昼に食べたものが重かったのかもしれない。
ただの癖かもしれない。
わからないものを、
わざわざ自分への不満に翻訳しなくていい。
僕は、
「ちょっと派手な呼吸」
くらいに考える。
「はぁ〜〜〜。」
呼吸。
「はぁ〜〜〜。」
また呼吸。
今日はよく呼吸している。
それくらいでいい。
できるなら、物理的に離れる
それでも気になるなら、
距離を取れる場合は取る。
別の場所で作業できるなら移動する。
休憩なら少し離れる。
イヤホンや耳栓が許される環境なら使う。
人間関係の問題というと、
「ちゃんと話し合わなければ」
と思いがちだけれど、
三メートル離れたら解決する問題もある。
何でも真正面から向き合わなくていい。
ため息一回ごとに、
「今のため息について話し合いませんか?」
なんてやっていたら、
今度は僕が職場で一番面倒くさい人になる。
聞こえなければ、それで終わる。
それでいい。
最終手段、数える
それでも逃げられない。
席も近い。
毎日聞こえる。
どうしても気になる。
だったらもう、
数える。
腹を立てるから疲れる。
いっそ観察対象にしてしまう。
朝9時12分。
「はぁ〜〜〜。」
1。
9時41分。
「はぁ〜〜〜。」
2。
10時03分。
「はぁ〜〜〜。」
3。
午前中で7回。
悪くないペースだ。
何が悪くないのかわからない。
昼休み。
一旦、記録は止まる。
午後。
「はぁ〜〜〜。」
8。
「はぁ〜〜〜。」
9。
二桁が見えてきた。
「はぁ〜〜〜。」
10。
きた。
いや、来なくていい。
昨日の記録は27回。
15時の時点で23回。
あと4回。
新記録が見えてきた。
「はぁ〜〜〜。」
24。
「はぁ〜〜〜。」
25。
僕は仕事をしながら、少し期待している。
頑張れ。
いや、
頑張るな。
こんなふうに、自分の中で少し笑えるものに変えてしまうのも一つの方法だと思う。
もちろん、本当にメモ帳に正の字を書き始める必要はない。
ため息を数えることに夢中になって仕事が止まったら、
上司より僕の方が問題である。
でも、
「またかよ」
と毎回イライラするより、
「本日12回目」
くらいに思った方が楽なこともある。
他人の癖を変えるのは難しい。
だったら、こちらの受け取り方を少しだけ変える。
それくらいならできる。
本当にしんどいなら、我慢し続けなくてもいい
ただし、
何でも「気にしない」で済ませればいいとは思わない。
ため息だけではなく、
舌打ち。
大きな独り言。
物に当たる。
誰かに聞こえるように不満を言う。
そういう行動まで重なって、職場にいるだけで緊張するようになっているなら話は別だ。
業務に支障が出るくらいなら、信頼できる人に相談するのもありだと思う。
関係性によっては本人に、
「今日めっちゃため息ついてますけど、大丈夫ですか?」
くらい軽く聞いてみてもいいかもしれない。
本人が、
「え、そんなついてた?」
と初めて気づく可能性もある。
ただ、相手は上司だ。
関係性も職場もそれぞれ違う。
無理に直接指摘する必要はない。
僕が大事だと思うのは、
他人の機嫌を、自分一人で全部処理しないこと。
上司がため息をついている。
それは上司の状態だ。
何も言われていないのに、
「僕が何かしたのかな」
と背負う必要はない。
ため息まで部下の仕事にしなくていい。
それでも今日も、ため息は聞こえる
ここまで散々書いたけれど、
僕だってため息はつく。
疲れたら出る。
嫌なことがあれば出る。
面倒くさい仕事が来れば、
「はぁ。」
くらい言う。
だから、
ため息をつくなとは思わない。
一回や二回なら、何とも思わない。
上司だって人間だ。
疲れる。
イライラする。
帰りたい日だってあるだろう。
ただ、一日中、
「はぁ〜〜〜。」
「はぁ〜〜〜。」
「はぁ〜〜〜。」
と聞こえてくると、
やっぱり少ししんどい。
だから僕は、なるべく意味を考えない。
僕への不満だと決めつけない。
ただの癖かもしれない。
疲れているだけかもしれない。
ちょっと派手な呼吸だと思っておく。
今日も向こうから聞こえた。
「はぁ〜〜〜。」
僕は思う。
疲れているんだろう。
大変なんだろう。
気にしない。
「はぁ〜〜〜。」
また聞こえた。
気にしない。
「はぁ〜〜〜。」
…………。
時計を見る。
まだ午前10時23分。
僕は心の中で静かに数える。
本日、8回目。
