急に、自宅の洗濯機が暴れ出した。
ダンスなんてもんじゃない。
脱水が始まると、ガタン、ガタン、ガガガガガガ、とものすごい音を立てながら揺れ始めた。
最初は僕も、「今日は元気だな」くらいに思っていた。
家電に元気も何もないのだけれど。
しかし、どうも様子がおかしい。
揺れているだけではない。
少しずつ動いている。
お前、そこから動けたんか。
洗濯機というものは、家電の中でもかなり「動かない側」の存在だと思っていた。
掃除機ならわかる。あいつは移動することを前提に生まれている。扇風機だって季節によって多少は場所を変える。
しかし洗濯機は違う。
一度設置されたら、基本的にはそこで一生を終える。
冷蔵庫と同じだ。
「私はここで生きていきます」
そんな覚悟すら感じる。
ところが、うちの洗濯機にはまだ夢があったらしい。
ガタン。
ガタン。
ガガガガガガ。
少しずつ前へ出てくる。
どこへ行く。
僕は慌てて洗濯機を押さえた。
まさか三十代になって、家電とフィジカル勝負をすることになるとは思わなかった。
押し返す僕。
前へ進もうとする洗濯機。
何を目指しているのかはわからない。
自由か。
外の世界か。
少なくとも、洗面所から出たいという強い意志だけは伝わってきた。
このままでは洗濯どころではない。
仕方なく僕は、人生で初めてコインランドリーへ行くことにした。
コインランドリーは、なんとなく面倒くさそうだった
コインランドリーというものの存在は、もちろん昔から知っていた。
街を歩けば見かける。
ガラス張りの店内に、大きな洗濯機や乾燥機が並んでいる。
でも、入ったことは一度もなかった。
理由は単純である。
面倒くさそうだったからだ。
家に洗濯機があるのに、わざわざ洗濯物を袋に詰める。
それを持って家を出る。
店まで運ぶ。
お金を払う。
洗う。
待つ。
また持って帰る。
工程、多くない?
家なら洗濯機に放り込んでボタンを押せばいい。
その間にご飯を食べてもいいし、風呂に入ってもいいし、寝転がっていてもいい。
なのに、なぜわざわざ洗濯物と一緒に外出しなければならないのか。
僕にとってコインランドリーとは、家に洗濯機がないときに仕方なく利用する場所だった。
できればお世話にならずに人生を終えたい。
そのくらいの距離感だった。
ところが洗濯機が突然、自我に目覚めた。
人生というものはわからない。
できれば一生行かないと思っていた場所へ、洗濯機に追い出されることもある。
スマホと洗濯物だけ持って、早朝の街へ出た
初めてコインランドリーへ行ったのは、早朝だった。
持っていったのは、スマホと洗濯物。
ほとんどそれだけ。
洗濯物を抱えて、まだ人の少ない街を歩いた。
初めて入る場所なので、少し緊張していた。
コインランドリーに緊張する必要があるのかはわからない。
でも、初めての場所というのは、それだけで少し身構える。
そもそも使い方もよくわからない。
洗剤は持っていくのか。
どの機械を使えばいいのか。
お金はどう払うのか。
何分かかるのか。
知らないことだらけだった。
店に着いて、中をのぞいた。
誰もいなかった。
早朝のコインランドリー。
人の気配はない。
でも機械は並んでいる。
明るい店内。
丸い窓。
無機質な椅子。
僕は恐る恐る洗濯物を入れ、表示されている案内を読みながら操作した。
そして洗濯機が動き始めた。
ゴウン。
ゴウン。
ゴウン。
さっきまで自宅で暴れ回っていた洗濯機とは違う。
こちらは落ち着いている。
同じ洗濯機とは思えない。
育ちがいい。
僕は椅子に座った。
そして、しばらくスマホを触っていた。
ふと顔を上げる。
洗濯物が回っている。
またスマホを見る。
しばらくして、また洗濯物を見る。
何をするでもなく座っているうちに、不思議な感覚になった。
なんだろう。
妙に落ち着く。
初めて来た場所なのに。
ついさっきまで、面倒くさそうな場所だと思っていたのに。
なんか、いい。
誰もいないから落ち着くのだと思った
最初は理由なんて簡単だと思った。
誰もいないからだ。
僕は人が多い場所があまり得意ではない。
いや、かなり控えめに言った。
僕は究極の人嫌いである。
人類に滅亡してほしいとか、そういう壮大な話ではない。
人類には存続してもらって構わない。
ただし、できれば僕から少し離れたところで存続してほしい。
だから、早朝の誰もいないコインランドリーが落ち着くのは当然だった。
誰にも話しかけられない。
誰にも気を使わない。
誰かの会話も聞こえてこない。
ただ機械だけが一定の音を立てている。
これは落ち着く。
理由がわかった。
そう思っていた。
ところが、後日、昼にもコインランドリーへ行ってみた。
今度は人がいた。
何人かいた。
洗濯物を入れている人。
乾燥機から服を取り出している人。
椅子に座って待っている人。
僕の理論では、ここで落ち着かなくなるはずだった。
ところが。
別に嫌じゃない。
あれ。
人いるぞ。
なのに平気だ。
そこで、僕は少し考えた。
もしかすると僕は、人が嫌いなんじゃないのかもしれない。
人が嫌いなんじゃなくて、人間関係が苦手なのかもしれない
コインランドリーにいる人たちは、僕に何も求めてこない。
これが、とてもいい。
挨拶しなくていい。
世間話をしなくていい。
愛想よくしなくていい。
「今日は暑いですね」もいらない。
相手が何を考えているのか想像しなくていい。
沈黙を気まずがらなくていい。
同じ空間にいるのに、お互いがお互いの人生に参加していない。
これが、ものすごく心地いい。
たとえば職場で誰かと同じ部屋に二人きりになったら、なんとなく会話しなければならないような空気が生まれることがある。
別に喋らなくても法律違反ではない。
しかし、沈黙というものは、なぜか人間関係の中では「処理すべきもの」になりがちだ。
何か喋らなきゃ。
そういう圧力が生まれる。
コインランドリーには、それがない。
隣に知らない人が座っている。
僕はスマホを見る。
相手もスマホを見る。
以上。
素晴らしい。
会話終了どころか、始まってすらいない。
でも、別に敵対しているわけでもない。
同じ場所にいて、それぞれ洗濯物がきれいになるのを待っている。
目的だけは同じ。
関係はない。
この距離がいい。
もしかすると僕は、人が嫌いなのではなく、人と人の間に発生する「何か」が苦手なのかもしれない。
期待とか。
気遣いとか。
役割とか。
空気とか。
そういうものが発生しなければ、人が同じ空間にいること自体は案外嫌ではない。
昼のコインランドリーで、それに気づいた。
他人と一緒にいるのに、一人でいられる。
そんな場所は、意外と少ない。
夜のコインランドリーは、なんだかエモい
そして僕は、夜にもコインランドリーへ行った。
夜のコインランドリーは、また少し違う。
なんだかエモい。
「エモい」で説明を終わらせると語彙力が死んでしまうので、なぜそう感じるのか考えてみた。
外は暗い。
街の明かりも少なくなっている。
その中で、コインランドリーだけが妙に明るい。
ガラスの向こうには、大きな機械が並んでいる。
その丸い窓の中で、誰かの服がぐるぐる回っている。
シャツ。
タオル。
靴下。
誰かが今日使ったもの。
誰かの生活の一部。
それが夜の中で回っている。
考えてみれば、不思議な光景だ。
そこへ知らない人がやって来る。
洗濯物を入れる。
ボタンを押す。
椅子に座る。
しばらくすると別の人が来て、乾いた洗濯物を取り出して帰っていく。
名前も知らない。
仕事も知らない。
どんな家に住んでいるのかも知らない。
今日、楽しいことがあったのか。
嫌なことがあったのか。
何も知らない。
でも、その人にも生活があることだけはわかる。
洗濯物があるからだ。
人の人生には入り込みたくない。
でも、人の生活の気配は嫌いじゃない。
これは、自分でも少し意外だった。
僕は一人が好きだ。
でも、世界に本当に自分一人しかいなくなったら、それはそれで寂しいのかもしれない。
知らない誰かがいて。
その人も今日一日を生きて。
夜になって洗濯物を持ってここへ来た。
そのくらいの距離で、人を感じる。
それがちょうどいい。
夜のコインランドリーがエモく見えるのは、そんな「知らない生活」が静かに集まっているからなのかもしれない。
洗濯物だけ入れて、どこかへ行く人たち
コインランドリーに何度か行くうちに、気づいたことがある。
洗濯物を入れると、そのまま外へ出ていく人が結構いる。
もちろん、それが普通なのかもしれない。
洗濯には時間がかかる。
だったら、その間にスーパーへ行く。
コンビニへ行く。
用事を済ませる。
家が近ければ、一度帰る。
効率がいい。
何も間違っていない。
でも、その姿を見るたびに僕は思う。
もったいない。
せっかくなのに。
ここからがいいところなのに。
洗濯機に服を入れてボタンを押した瞬間から、僕の好きな時間が始まる。
あとは待つだけだ。
なのに、なぜまた用事を作るのだろう。
洗濯機が働いてくれているのに、なぜ人間まで働くのだ。
任せよう。
今はあいつに任せよう。
僕らはもう十分頑張った。
あとは洗濯機の仕事だ。
そう思って、僕は座る。
本を読む。でも、ぼーっともする
コインランドリーでは本を読むことがある。
洗濯物が回る音を聞きながら本を読む。
これが結構いい。
家で読むのとも、電車で読むのとも違う。
適度な機械音があって、時間も決まっている。
あと二十分。
あと十五分。
その間だけ読む。
でも、ずっと読んでいるわけではない。
途中で本から顔を上げる。
洗濯物を見る。
ぐるぐる回っている。
また読む。
数ページ読んで、また顔を上げる。
今度は外を見る。
何も考えない。
ただ、ぼーっとする。
これがいい。
本を読むという行為には、まだ「何かをしている」感じがある。
一冊読み終われば達成感もある。
知識が増えたり、物語を楽しんだりする。
つまり、ある意味では有意義だ。
でも、ぼーっとすることには成果がない。
三十分ぼーっとしたところで、
「本日のぼーっと、無事完了しました」
とはならない。
何も残らない。
だから普段は、ぼーっとしていると少し不安になる。
何かした方がいいんじゃないか。
スマホを見るか。
本を読むか。
ブログを書くか。
何か考えるか。
せっかく時間があるんだから。
そんなことを思ってしまう。
でもコインランドリーでは違う。
堂々とぼーっとできる。
なぜなら僕は今、
洗濯をしているからだ。
いや。
正確には、洗濯機が洗濯をしている。
僕は何もしていない。
それでも「何してるの?」と聞かれたら、
「洗濯」
と答えていい。
すごい。
こんなに強力な免罪符があるだろうか。
実際には椅子に座って洗濯物が回るのを眺めているだけなのに、僕は今、家事をしていることになっている。
洗濯機よ。
ありがとう。
君が回ってくれているおかげで、僕は堂々と何もしない人間になれる。
どうして、こんなに落ち着くんだろう
何度か通ううちに、最初に感じた疑問がまた浮かんできた。
どうしてコインランドリーは、こんなに妙に落ち着くんだろう。
考えてみた。
まず、音なのかもしれない。
コインランドリーには、ずっと機械の音がある。
ゴウン、ゴウン。
ブーン。
一定の低い音。
静かではない。
むしろ結構うるさい。
でも、人の会話とは違う。
意味がない。
聞き取る必要がない。
返事をする必要もない。
こちらに何も要求してこない音だ。
無音よりも、こういう一定の音がある方が、僕には落ち着くのかもしれない。
次に、目的が一つしかないこと。
コインランドリーへ来た理由は明確だ。
洗濯。
以上。
何を食べよう。
何を買おう。
誰に返信しよう。
次に何をしよう。
そういうことを、とりあえず考えなくていい。
今は洗濯が終わるのを待つ。
人生が一時的に、とても単純になる。
そして、時間が決まっていることも大きい気がする。
あと二十八分。
あと十七分。
あと六分。
数字が減っていく。
人生のいろいろなことは、いつ終わるのかわからない。
仕事がいつ楽になるのか。
悩みがいつ消えるのか。
夢がいつ叶うのか。
そもそも叶うのか。
何も表示されない。
人生にも「残り17分」と表示してくれれば、もう少し頑張れることもあるのかもしれない。
でも乾燥機は親切だ。
あと何分で終わるか教えてくれる。
しかも、ほぼ予定どおり終わる。
信頼できる。
人生よりだいぶ親切である。
「待つ」ということが許されている
そして、たぶん一番大きいのはこれだと思う。
コインランドリーでは、
「待つこと」が許されている。
僕たちは、待ち時間ができるとすぐ何かで埋めようとする。
電車が来るまでスマホを見る。
病院の待ち時間にSNSを見る。
料理ができるまで別の家事をする。
動画を見ながらご飯を食べる。
何かをしながら、何かをする。
空白があると、そこに何かを詰めたくなる。
時間を無駄にしてはいけない。
効率よく生きなければならない。
そんな空気が、いつの間にか染みついている。
だからコインランドリーで洗濯物だけ入れて外へ出ていく人を見ると、僕は「もったいない」と思うのかもしれない。
その人たちが間違っているわけではない。
むしろ効率だけを考えれば、そちらの方が正しい。
でも僕は、せっかくできた空白を、そのまま残しておきたい。
三十分。
何もしなくていい時間。
それをわざわざ別の予定で埋めなくてもいいじゃないか。
本を読んでもいい。
スマホを見てもいい。
でも、それすらしなくてもいい。
洗濯物が回っている。
それを眺めている。
それだけでいい。
待ち時間というのは、必ずしも「何かが始まるまでの無駄な時間」ではないのかもしれない。
待っている、その時間自体を過ごしてもいい。
何もしない時間には、理由が必要なのかもしれない
家で三十分ぼーっとしていると、たまに思う。
何してるんだろう。
別に何も悪いことをしていない。
誰にも迷惑をかけていない。
それでも、何となく時間を無駄にしているような気がする。
でもコインランドリーなら思わない。
洗濯が終わっていないからだ。
僕にはここにいる理由がある。
この「理由」が、案外大きいのかもしれない。
人間は、何もしないことそのものより、
「何もしない自分を説明できないこと」
に不安を感じるのではないだろうか。
今日は何した?
何もしてない。
そう答えると、なんとなく一日を無駄にしたような響きになる。
でも、
洗濯してた。
と言えば生活になる。
実際には、そのほとんどを洗濯機がやっているのに。
コインランドリーは、何もしない時間に理由をくれる。
あなたは今、サボっているのではありません。
待っているのです。
そう言ってくれているような気がする。
人の気配だけがある場所
もう一つ、落ち着く理由がある。
人との距離だ。
早朝には誰もいなかった。
昼には何人かいた。
夜にも誰かがやって来た。
でも、どの時間帯でも落ち着いた。
だから、僕が求めていたのは「完全な孤独」ではなかったのだと思う。
誰かはいてもいい。
むしろ、少しくらいいた方がいいのかもしれない。
ただし、関係はなくていい。
これくらいが僕にはちょうどいい。
誰かが洗濯物を畳んでいる。
誰かが乾燥機の残り時間を確認している。
誰かが椅子に座ってスマホを見ている。
僕も本を読む。
ときどきぼーっとする。
誰も誰かに興味を持たない。
でも、同じ場所で同じように生活を整えている。
孤独だけど、孤立していない。
その感じが、僕には心地いい。
一人になりたい。
でも世界から人が消えてほしいわけではない。
人とは少し離れていたい。
でも、人の生活の気配は感じていたい。
そんなわがままな願いを、コインランドリーはちょうどよく叶えてくれる。
洗濯機が壊れて、よかったのかもしれない
あれだけ面倒くさそうだと思っていたコインランドリーに、今では何度も行っている。
早朝にも行った。
昼にも行った。
夜にも行った。
誰もいない時間も好きだった。
人がいる時間も嫌いじゃなかった。
夜の明かりは、なんだかエモかった。
本も読んだ。
スマホも触った。
そして、何もせずにぼーっとした。
最初は洗濯をするために行っただけだった。
でも、いつの間にか僕は、洗濯以外のものも求めてそこへ行っている気がする。
何もしなくていい時間。
誰とも関わらなくていい時間。
でも、完全に一人ではない時間。
ただ待っていればいい時間。
コインランドリーが妙に落ち着くのは、たぶんその全部なんだと思う。
音がいい。
距離がいい。
時間がいい。
目的が単純なのもいい。
洗濯機が働いてくれているのもいい。
でも、全部説明してしまうのも少し違う気がする。
なんでだろう。
やっぱり、妙に落ち着く。
それくらいでいい。
あの日、自宅の洗濯機が暴れ出さなかったら、僕は今でもコインランドリーを「面倒くさそうな場所」だと思っていたはずだ。
行ったこともないのに。
そう考えると、あの洗濯機にも少し感謝している。
少しだけだ。
あれだけ暴れたのだから、全面的に許すつもりはない。
でも、あいつが洗面所から脱走しようとしなければ、僕はこの場所を知らなかった。
最近は、洗濯物を入れて、機械が動き出すと、椅子に座る。
本を開く。
数ページ読む。
ふと顔を上げる。
丸い窓の向こうで、洗濯物がぐるぐる回っている。
そのまま、しばらく眺める。
何も考えていない。
たぶん。
外へ出ていく人もいる。
僕は残る。
せっかくなのに。
ここからが、いいところなのだ。
洗濯機が働いている。
だから今くらい、僕は何もしなくていい。
あと二十三分。
それまでは、ここにいよう。
