ちょっとした予定でも入れてしまえば、一日何もしたくなくなる。
たとえば、15時から歯医者の予約が入っている。
たったそれだけだ。
朝から仕事があるわけでもない。昼まで誰かと会うわけでもない。歯医者に行って、診てもらって、帰ってくる。移動時間を合わせても、せいぜい二時間くらいだろう。
なのに、その日は朝からもうダメなのである。
起きた瞬間から、「今日、15時から歯医者か」と思う。
朝の9時だったとする。あと六時間もある。
六時間。本だってかなり読める。ブログの記事も書ける。買い物にも行ける。映画だって観られる。
時間だけを見れば、何でもできる。
でも、できない。
なぜなら今日の15時には、歯医者がいる。
本を読もうとする。数ページ読んだところで時計を見る。まだ10時。「あと五時間か」と思う。
少し物語に入り込んだところで、今度は「何時に家を出たらいいんだっけ」と気になる。
14時20分に出れば間に合う。ということは、14時くらいには準備を始めたい。昼ご飯は13時では遅いか。12時半くらいに食べよう。
そうなると、午前中しかない。
いや。
さっきまで六時間あったはずなのに。
どこへ行った、僕の六時間。
予定までの時間は、なぜか自由時間にならない
世の中には、休日にいくつもの予定を入れられる人がいる。
午前中に歯医者へ行く。そのあと料理教室に参加する。終わったら買い物をして、夜は友人と食事。
そんな一日を過ごして、「今日は充実した一日だった」と言う。
すごい。
僕からすると、ほとんどツアーである。
歯医者。料理教室。買い物。友人と食事。
一日の中に予定が四つもある。
僕なら、歯医者がある時点でその日はもう「歯医者の日」である。
料理教室なんて入る余地がない。ましてや、そのあと友人と食事?
どういうことだ。歯医者に行ったのだ。今日はもう十分ではないか。
もちろん、時間だけを考えればおかしい。
歯医者が11時に終わったなら、そのあと料理教室へ行ける。料理教室が15時に終わったなら、買い物もできる。夜19時から友人と食事をすることだってできる。
時計の上では、すべて成立している。
それなのに僕にはできない。
だから、たぶん問題は「時間」ではない。
僕が欲しいのは、空いている時間ではないのだ。
何にも追われていない時間が欲しい。
最近、そんなことに気づいた。
15時の予定は、15時から始まるわけではない
15時から歯医者。
普通に考えれば、予定が始まるのは15時である。でも僕の場合、違う。
朝起きた瞬間から、すでに歯医者は始まっている。
正確には、「15時に歯医者へ行かなければならない自分」が朝からずっと存在している。
忘れてはいけない。遅刻してはいけない。何時に家を出るか考える。その前にご飯を食べる。着替える。歯を磨く。財布はあるか。診察券はあるか。
一つ一つは大したことではない。それなのに、頭のどこかにずっと残っている。
パソコンで何かをダウンロードしているとき、画面の端に小さく進捗状況が表示されていることがある。
別の作業はできる。でも、なんとなく気になる。
僕にとって予定とは、あれに近い。
脳内の片隅でずっと起動している。
本を読んでいても、「そろそろかな」。
ブログを書いていても、「これ、途中になりそうだな」。
映画を観ようとしても、「二時間あるのか。終わるの何時だ?」
何かを始めるたびに、15時から逆算する。
そして最終的にこうなる。
「まあ、帰ってきてからやればいいか」
何もしない。
「午前中は空いてる」が、あまり空いていない
予定を入れるときによく使われる言葉がある。
「午前中は空いてるよ」
確かに空いている。
13時から予定なら、朝から昼までは何もない。
でも僕の感覚では、完全には空いていない。
13時から予定がある午前中と、一日何もない日の午前中は、同じ午前中ではない。
一日何もないなら、10時から本を読み始めて、そのまま14時まで読んでいてもいい。気が変わって突然出かけてもいい。昼になってから遠くの本屋へ行こうと思ってもいい。
でも13時から予定があると、それができない。
12時には昼ご飯を食べたい。11時半には時間を意識する。10時から何かを始めても、「あと二時間くらい」と考えてしまう。
予定は13時なのに、13時だけを奪っていかない。
その前の時間まで、少しずつ持っていく。
だから僕に「午前中は空いてるやん」と言っても、あまり響かない。
空いている。確かに空いている。
でも、何にもつながっていない午前中ではない。
13時の予定につながっている午前中なのだ。
実は、前日の夜から少し始まっている
もっと言えば、予定は当日の朝から始まっているわけでもない。
前日の夜から、少し始まっている。
明日15時に歯医者。
寝る前に思う。
「明日、歯医者か」
だからといって眠れなくなるわけではない。
ただ、「明日は何しようかな」ではなく、「明日は歯医者まで何しようかな」になる。
予定は一時間だけのはずなのに、いつの間にか予定が主役で、自由時間がその隙間になる。
ずいぶん偉くなったものだ、歯医者。
予定が終わったあとも、なぜか何もしない
では、歯医者から帰ってきたら何かするのか。
しない。
これがさらに意味不明なのである。
15時から歯医者へ行って、16時半に帰宅したとする。
まだ夕方だ。一日は全然終わっていない。ブログも書ける。本も読める。映画だって一本観られる。
それなのに、家に帰った僕はどこか満足している。
「今日は歯医者行ったしな」
何をそんなに大仕事を終えた顔をしているのだろう。
虫歯を削ったのは先生である。僕は椅子に寝転んで口を開けていただけだ。
それでも、なぜか一仕事終えた感がある。
そしてスマホを見る。少し休む。ご飯を食べる。気づけば夜。
「もう今日はいいか」
終わる。
結局、その日の成果は歯医者だけ。
朝から夕方までずっと歯医者を意識して、実際に歯医者にいた時間は一時間程度。
実働一時間。精神的拘束ほぼ一日。
恐ろしいコストパフォーマンスである。
予定がキャンセルになると、一日が返ってくる
この感覚がよくわかる瞬間がある。
予定がキャンセルになったときだ。
朝、連絡が来る。
「今日の予定、また今度でもいい?」
もちろんいい。
むしろその瞬間、ものすごく嬉しい。
相手に会いたくなかったわけではない。予定が嫌だったわけでもない。
それなのに、「今日、何もなくなった!」と思う。
さっきまで同じ朝だった。一日の長さも変わっていない。予定が一つ消えただけ。
それなのに急に世界が広くなる。
本を読める。ブログを書ける。どこかへ行ける。昼寝してもいい。何もしなくてもいい。
さっきまで何もする気にならなかったのに、予定が消えた瞬間、いろいろなことをしたくなる。
時間が増えたわけではない。
二時間の予定が消えたなら、増えたのは二時間だけのはずだ。
でも感覚としては、一日まるごと返却された。
これを考えると、やっぱり僕が欲しいのは時間の量ではないのだと思う。
予定に触られていない時間。
自分で好きにできる時間。
それが戻ってきたことが嬉しいのだ。
そもそも僕は「予定」が嫌いなのだろうか
ここまで考えて、一度疑問に思った。
僕は予定そのものが嫌いなのだろうか。
でも、どうも違う。
何も予定がない休日。
昼くらいに起きて、「本屋行こうかな」と思う。
行ける。普通に行ける。
そのまま電車に乗って、少し遠くまで行くことだってある。買い物をして、本屋を何軒か回る。気づけば数時間経っている。
別に苦痛ではない。むしろ楽しい。
ところが前日に「明日は13時に本屋へ行こう」と決めた瞬間、少しだけ窮屈になる。
やることは同じなのに。
「行きたくなったから行く」と「13時に行くと決めているから行く」では、僕の中で全然違う。
ここで、なんとなく正体が見えてきた。
僕が苦手なのは予定そのものではなく、未来の自分の行動が、すでに決められていることなのかもしれない。
「いつでもいい」と「15時まで」は全然違う
朝9時から15時まで。六時間ある。
「六時間、好きなことをしてください」と言われたら、かなり嬉しい。
でも、「15時から予定があります。それまで好きなことをしてください」と言われたら、同じ六時間なのに少し窮屈になる。
時間の長さはまったく同じ。
違うのは、終わりが決まっていることだけ。
15時という壁がある。
だから僕は、その壁から逆算してしまう。
あと五時間。あと四時間。そろそろ昼ご飯。あと二時間。もう遠くには行けない。あと一時間。そろそろ準備。
そうやって六時間を細かく切り刻んでいるうちに、何もできなくなる。
もしかすると僕にとって自由時間とは、「何時間空いているか」ではないのかもしれない。
いつ始めてもいい。いつやめてもいい。急に寝てもいい。突然どこかへ出かけてもいい。何もしなくてもいい。
その「選べる状態」そのものが自由なのだと思う。
15時から予定があると、14時59分まで自由だったとしても、完全な自由には感じられない。
自由に終了時刻がついている。
言ってしまえば、自由時間に賞味期限が印刷されている。
それが、なんとなく嫌なのだ。
予定がある日は、何をしていても「途中」になる
もう一つ嫌なのが、予定までの時間に何かを始めても、ずっと「途中」という感覚があることだ。
たとえば朝から本を読む。
本来なら、面白ければそのまま何時間読んでもいい。あと一章だけ、と読み進めているうちに昼を過ぎてもいい。それが休日の読書の良さだと思う。
でも15時から予定がある日は違う。
どれだけ面白くても、どこかで強制終了しなければならない。
ブログも同じだ。
書き始めて調子が出てきたところで、「でもそろそろ準備しないとな」がやってくる。
僕はこれが嫌なのだと思う。
何かをすることより、何かを途中でやめることの方が気になる。
だから最初から始めない。
冷静に考えれば、かなりもったいない。
一時間だけ読めばいい。一時間だけ書けばいい。そうすれば、その一時間はちゃんと使える。
理屈ではその通りだ。
でも僕が欲しいのは、一時間で強制終了する読書ではない。
「飽きるまで読める」という状態そのものが欲しい。
三十分で飽きるかもしれない。それならそれでいい。
逆に四時間読んでしまうかもしれない。
大事なのは、何時間やったかではなく、いつやめるかを自分で決められることなのだ。
そう考えると、予定がある日に何もできない理由が少しわかる。
僕は時間を失っているというより、途中でやめなくていい権利を失っている。
たった一つ予定が入るだけで、その日のあらゆる行動に終了時刻が生まれる。
だから落ち着かない。
何もしない時間だって同じだ。ぼんやりしていても、「あと二時間で準備」と思った瞬間、それはもう純粋なぼんやりではない。
休んでいるのに、次の予定へ向けて待機している。
たぶん僕は、予定そのものより、この「途中で切られる感じ」が苦手なのだ。
夜に予定がある日は、さらに厄介だ
特に困るのが、夜の予定である。
「19時からご飯行こう」
世間的には、かなり普通の約束だと思う。昼間は好きに使える。
でも僕には厳しい。
19時から食事の予定が入っていると、朝からもう19時がいる。
昼の12時。まだ七時間ある。
でも、「今日19時からご飯か」と思っている。
15時。あと四時間。
17時。もうあと二時間。
18時。準備開始。
僕の場合、朝から19時の食事会に参加しているようなものである。
もちろん実際には参加していない。家にいる。コーヒーを飲んでいる。
でも精神だけは、ずっと食事会の控室にいる。
そして食事が終わって帰宅したら、当然もう何もしない。
本当に一日が終わる。
楽しみな予定でも同じなのが困る
しかも、これは嫌な予定だけではない。
楽しみにしていたイベントや、会いたい人との約束でも、時間が決まっていると意識してしまう。
つまり「行きたくないから何もできない」わけではない。
内容より、「何時にこれをする」という約束そのものが頭の容量を使っているのだと思う。
一つの予定を一日中、大事に抱えている。
歯医者の予約を、国際会議みたいに扱っている。
暇と自由は、たぶん違う
こういう話をすると、「でも、それまで暇なんでしょ?」と言われそうだ。
そう。暇である。
ただ僕にとって、暇と自由は少し違う。
15時から予定があって、朝9時から何もすることがない。
これは暇だ。でも完全に自由ではない。
反対に、何も予定がない日に朝から本を読んでいる。誰にも会わない。どこにも行かない。
見た目だけなら、こちらも暇に見える。
でも僕の感覚では全然違う。
自分で本を読むことを選んでいる。飽きたらやめられる。そのまま五時間読んでもいい。途中で寝てもいい。急に外へ出てもいい。
僕にとって大事なのは、何をしているかではなく、その時間の決定権を誰が持っているか。
予定がない日は、その決定権を全部自分が持っている。
だから何もしなくても贅沢に感じる。
だから僕は「予定の日」を作る
では、どうするか。
予定があるたびに一日何もできないのなら、さすがにもったいない。
予定に強い人間になる。一日に三つも四つも予定を入れて、軽やかに移動できる人間を目指す。
……という方向には、僕は行かなかった。
たぶん向いていない。
そこで逆に考えることにした。
一つ予定が入ったなら、その日をもう「予定の日」にしてしまう。
たとえば歯医者の予約を入れる。
もう、その日は自由な休日ではない。
だったら頑張って、その日に用事をまとめる。
歯医者に行く。必要なものを買う。髪を切る必要があるなら美容院にも行く。本屋にも寄る。ほかに外で済ませたいことがあるなら、できるだけ同じ日に持ってくる。
どうせ一個の予定で一日が潰れたような気持ちになるのだ。
だったら、本当に一日潰してしまえばいい。
歯医者だけで一日を使った気になるくらいなら、歯医者も美容院も買い物もまとめてしまう。
この日は頑張る。
毎日効率よく動こうとするのではない。
予定の日だけ頑張る。
朝から今日はそういう日だと決める。外に出る。用事を一つずつ片づける。
そして全部終わったら帰る。
その日は疲れていい。帰ってきて何もできなくてもいい。
だって、本当にいろいろやったのだから。
一個ずつ別の日に入れる方が、僕にはしんどい
普通なら、予定を詰め込みすぎない方が楽なのかもしれない。
月曜日に歯医者。水曜日に美容院。金曜日に買い物。日曜日に人と会う。
一日一個なら負担が少ない。
でも僕には逆である。
一個の予定が一日を支配するなら、予定を四日に分散したら、四日支配される。
それなら一日にまとめたい。
月曜日はもう諦める。
歯医者。美容院。買い物。できれば人と会う用事まで入れる。
その代わり、火曜日、水曜日、木曜日は何もない。
この方が嬉しい。
全部をまとめられるわけではない。
それでも、自分で調整できる予定なら、なるべく固める。
僕には「毎日少しずつ予定がある生活」より、「予定がある日」と「何もない日」が分かれている生活の方が合っている。
予定の日を頑張るのは、何もない日を守るため
予定の日にたくさん動くこと自体が目的ではない。
効率のいい人間になりたいわけでもない。スケジュール帳を予定で埋めたいわけでもない。
むしろ逆だ。
予定の日を作るのは、何もない日を作るためだ。
今日頑張って用事を全部済ませる。
明日は何もない。
この「明日は何もない」が欲しい。
朝起きても、どこにも行かなくていい。何時に家を出るか考えなくていい。時計を見なくてもいい。
そんな一日をまるごと持っている。
これがかなり嬉しい。
そして、せっかく何もない日を作ったからといって、「有意義に過ごさなければ」とも思わない。
朝9時から読書。11時からブログ。14時から散歩。16時から映画。
こんなことを始めたら、結局また予定の日である。
何もない日は、本当に何も決めない。
起きてから考える。
本を読みたければ読む。途中で眠くなったら寝る。ブログを書きたくなったら書く。散歩したくなったら出る。ずっと家にいたければ家にいる。
何もしていないように見えても、自分で何もしないことを選んでいる。
それなら僕にとっては、ちゃんと自由な一日なのだ。
「予定がない=暇」ではない
僕たちはいつの間にか、「予定がある=充実している」「予定がない=暇」みたいに考えてしまうことがある。
カレンダーが埋まっていると、なんとなく生活している感じがする。
休日にいくつもの場所へ行き、何人もの人と会い、夜まで外にいる。
それを楽しいと思う人にとっては、最高の休日だと思う。
でも、全員がそうである必要はない。
僕は予定表が真っ白な日を見ると、少し嬉しくなる。
本を読むのもいい。文章を書くのもいい。散歩するのもいい。昼寝するのもいい。何もしないのもいい。
何も決められていないから、その日の気分で全部選べる。
何もないから、何でもできる。
この感覚が好きだ。
「予定があると何もできない」を直さなくてもいい
以前なら、予定が一つあるだけで何もできない自分に対して、「時間の使い方が下手なのかな」と思うこともあった。
だって六時間空いているのに何もしないのだ。
客観的に見れば、もったいない。
朝の時間を有効活用する。スキマ時間を使う。一日の予定をあらかじめ決める。
きっと、それが合う人もいる。
でも僕の場合、一日を細かく区切れば区切るほど、自由が細切れになっていく。
10時までこれ。12時までこれ。15時からこれ。18時からこれ。
そんな休日を過ごしたら、休んだ気がしない。
だったら、無理に予定に強い人間にならなくてもいい。
一つ予定があると一日が気になる。
なら、予定をまとめればいい。
予定の日は頑張る。その代わり、何もない日は空ける。
自分の性格を無理やり直すのではなく、自分の性格に合わせて予定を組む。
僕は予定をこなすのが上手くなったわけではない。
予定の入れ方が、少しだけ上手くなった。
それで十分な気がしている。
何も予定がない日は「空白」ではない
カレンダーを見る。
予定がある日には文字がある。
歯医者。美容院。仕事。食事。
そして予定がない日は真っ白だ。
見た目だけなら、何もない。
でも最近、この空白こそ大事なのではないかと思う。
予定が書かれていないということは、まだ何に使うか決めていない時間が残っているということだから。
何もないのではない。
まだ何にでもなれる。
朝起きて本を読み始めれば、読書の日になる。急に出かければ、外出の日になる。文章を書き始めれば、書く日になる。疲れていたら、眠る日になる。
全部、当日に決められる。
予定が書かれていないカレンダーの白い部分は、埋め忘れた空白ではない。
僕にとっては、自分のために残している余白だ。
自由時間とは「空いている時間」ではなかった
こうして考えてみると、僕が欲しかったものは「暇」ではなかった。
自由だった。
何時間空いているかではない。
その時間をどう使うかを、自分で決められること。
朝起きたときに、「今日は何をしよう」と思えること。
そして、「やっぱり何もしない」も選べること。
それが僕にとっての自由なのだと思う。
予定がある日には、未来の自分が少しだけ予約されている。
15時の自分は歯医者のもの。19時の自分は食事の約束のもの。
もちろん、それが悪いわけではない。
人と生きていれば、そういう時間は必要だ。
ただ僕は、自分がまだ誰にも予約されていない時間が好きなのだと思う。
だから、予定の日は頑張る
生きていれば予定は入る。
歯医者にも行かなければならない。美容院にも行く。買い物もしなければならない。誰かと会うこともある。
全部をなくすことなんてできない。
だから僕は、予定がある日は頑張ることにした。
どうせ今日は予定の日だ。
それなら、まとめられるものはまとめる。
外へ出る。用事を片づける。次の場所へ行く。また用事を片づける。
今日は少しくらい疲れてもいい。
そして、できるだけ別の日を空ける。
予定の日に頑張ったぶん、何もない日は頑張らない。
たぶん僕には、このくらい極端な方が合っている。
毎日を平均的に充実させなくてもいい。
たくさん動く日があっていい。何もしない日があっていい。
全部の日を同じように使う必要なんてない。
そして翌日。
カレンダーには何も書いていない。
朝起きても、どこにも行かなくていい。
何時までに何かをする必要もない。
そんな日は、「今日、何も予定ないな」と思う。
以前なら、それを「何もない一日」と呼んでいたかもしれない。
でも今は少し違う。
何も予定がない。
だから、本を読んでもいい。文章を書いてもいい。散歩してもいい。昼寝してもいい。どこかへ行ってもいい。
そして、何もしなくてもいい。
まだ今日の使い方を、誰も決めていない。
もちろん、僕自身も決めていない。
朝になった僕が決めればいい。
たぶん僕が欲しかった休日は、たくさん休める日でも、たくさん遊べる日でもなかった。
その日の自分に、その日の使い方を任せられる日だった。
予定表の空白を見る。
何も書かれていない。
それでいい。
むしろ、それがいい。
何も予定がない。
だから今日は、全部僕の時間だ。
