健康診断があった。
会社で働いていると、定期的にやってくるあれだ。
身長を測る。
体重を測る。
血圧を測る。
血を抜かれる。
尿を提出する。
視力を測る。
いろいろ調べてもらって、最後に「今年も健康ですね」と言われれば安心する。
大切なのは分かっている。
健康診断そのものを否定するつもりはない。
自分では元気だと思っていても、体の中で何が起きているかなんて分からない。
定期的に調べてもらうのは大切なのだろう。
分かっている。
分かっているのだが、だからといって楽しみではない。
「来週、健康診断だ!」
とカレンダーに丸をつけて楽しみにしている人には、まだ会ったことがない。
僕も当然、楽しみではない。
しかも今回は夜勤明けだった。
朝まで仕事をして、そのあと健康診断。
眠い。
非常に眠い。
仕事が終わったら帰りたい。
家に帰って、服を脱いで、布団に入って、そのまま寝たい。
僕が求めているのは健康ではない。
睡眠である。
いや、健康も大切だ。
でも今この瞬間だけは、健康より睡眠の方が欲しい。
そんな状態で、僕は健康診断へ向かうことになった。
「バリウムは35歳からです」
健康診断の少し前、会社で説明があった。
健康診断について、いくつか案内があったと思う。
その中で、僕の耳に残った言葉がある。
「バリウムは35歳からです」
なるほど。
バリウムは35歳から。
僕は34歳である。
終わり。
僕には関係のない話だ。
非常に分かりやすい。
35歳から。
僕は34歳。
数字が違う。
小学校で習うレベルの話である。
僕はまだ35歳ではない。
だからバリウムはない。
そう理解した。
ここで、
「待てよ。現在34歳ではあるが、健康診断には年度年齢という概念が存在するかもしれない。僕は来年の1月に35歳になる。つまり今年度中に35歳になる人間として、すでに35歳のグループへ分類されている可能性があるのではないだろうか」
などとは考えなかった。
そんなところまで読み取れる人がいるのだろうか。
いるのかもしれない。
僕には無理だった。
僕にとって、
「35歳から」=35歳になってから
だった。
僕は34歳。
対象外。
以上。
だからその瞬間、僕の頭からバリウムは消えた。
来年の話だと思った。
来年になったら、
「とうとう僕もバリウムか」
と思えばいい。
今年はまだ大丈夫。
あと一年ある。
そう思っていた。
注意事項は読んでいた
健康診断の案内には、飲食についての注意事項も書いてあった。
たしか、10時間くらい前から飲食を控えてください、みたいな内容だったと思う。
そこは読んでいた。
別に案内を一文字も読まずに、
「健康診断? 知らん知らん。ポテチ食おうぜ」
と暴れていたわけではない。
読んではいた。
ただ、僕にはこれまでの経験があった。
バリウムがないときは、普通にこんな感じで健康診断へ行っていた。
もちろん、本来はダメなのだろう。
血液検査などにも食事は影響する。
健康診断の前には、きちんと注意事項に従った方がいい。
それは分かっている。
でも僕の中では、なぜか、
「特にヤバいのはバリウム」
という認識になっていた。
そして今回は、そのバリウムがない。
なぜなら僕は34歳だからだ。
会社からも「35歳から」と聞いた。
なら今年もいつも通りでいい。
そんな非常に雑な理論が、僕の中で完成していた。
健康診断の6時間前くらいにパンを食べた
ということで、健康診断の6時間くらい前だったと思う。
僕はパンを食べた。
普通に食べた。
パンである。
健康診断への反抗として食べたわけではない。
「10時間前から食べるなだと? 知るか!」
とパンを掲げたわけでもない。
腹が減ったから食べた。
夜勤中なのだ。
腹も減る。
健康診断は朝9時から。
その10時間前から完全に食べないとなると、仕事中ずっと空腹で過ごすことになる。
僕は健康診断のために働いているわけではない。
仕事をするためには、それなりに腹も満たしたい。
そして何度も言うが、僕の中ではバリウムはない。
だから食べた。
もぐもぐ。
おいしい。
何の罪悪感もない。
健康診断を数時間後に控えている人間とは思えないほど、普通に食べた。
そして仕事へ戻った。
この時点で未来の僕に声をかけられるなら、教えてあげたい。
「お前、今日バリウムあるぞ」
たぶんパンを置くだろう。
でも未来の僕は来なかった。
だから食べた。
朝。仕事が終わった
ようやく仕事が終わった。
朝である。
眠い。
もう帰りたい。
しかし健康診断は朝9時から。
すぐ家に帰るわけにはいかない。
健康診断がある。
面倒だ。
いや、大切なのは分かっている。
何度でも言う。
大切なのは分かっている。
でも、
大切なことと面倒なことは両立する。
歯医者だって大切だ。
役所の手続きだって大切だ。
確定申告だって大切だ。
大切だからといって、楽しみになるわけではない。
僕は眠かった。
仕事は終わっている。
本来なら、もう自由である。
帰れる。
寝られる。
しかし今日は健康診断。
健康を確認するために、睡眠時間を削っている。
なんだかよく分からない。
喉が渇いた。水を飲もう
仕事が終わったら、喉が渇いていた。
動いていたのだから当然である。
水を飲みたい。
飲もう。
僕は水を飲んだ。
少しではない。
500mlくらい飲んだ。
ガブガブ飲んだ。
うまい。
仕事終わりの水はうまい。
体の中に染み込んでいく。
生き返る。
健康的だ。
非常に健康的である。
水分補給は大切だ。
これから健康診断へ向かう人間として、僕はむしろ正しいことをしているような気分だった。
もちろん、健康診断前なので正しくない。
でも僕は気にしていない。
バリウムはないからだ。
35歳からだから。
僕は34歳だから。
この理論は強い。
何度でも僕を安心させてくれる。
35歳から。
魔法の言葉である。
ガブガブ。
もう500ml近く飲んでしまった。
今さら誰かに、
「水、飲んじゃダメですよ」
と言われても遅い。
水はもう僕の中にいる。
時間がある。コーヒーでも飲もう
それでも健康診断までは少し時間があった。
どうしよう。
眠い。
夜勤明けなのだから当然だ。
そこで僕は考えた。
コーヒーでも飲もう。
飲んだ。
水だけではなかった。
コーヒーまで飲んだ。
健康診断の6時間くらい前にパン。
仕事が終わって水500ml。
そしてコーヒー。
着々と仕上がっている。
何が仕上がっているのかは分からない。
少なくとも、健康診断を受けるための体ではない気がする。
しかし本人は穏やかだった。
何も知らないからである。
コーヒーを飲んで少し落ち着いた。
眠気も少しマシになった気がする。
よし。
そろそろ行くか。
パンを食べた。
水を飲んだ。
コーヒーも飲んだ。
腹も減っていない。
喉も渇いていない。
少し目も覚めた。
普通に健康な気持ちで健康診断に挑む。
本来ダメだろう。
今振り返ると、本当にそう思う。
健康診断前の注意事項とは何だったのか。
でもそのときの僕は、妙に清々しかった。
準備万端。
行こう。
「バリウムありますよ」
健康診断の会場に着いた。
受付を済ませる。
あとは流れに身を任せるだけだ。
健康診断というのは、一度始まると妙に流れ作業になる。
次はこちらです。
次はこれです。
次はあちらです。
言われるがままに移動していく。
僕も素直についていく。
眠い。
早く終わらないかな。
それしか考えていない。
健康診断が終われば帰れる。
家に帰ったら寝よう。
布団が待っている。
すると、バリウムの話になった。
「バリウムありますよ」
へ?
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
バリウム?
誰が?
僕が?
いやいや。
僕は34歳である。
会社では「35歳から」と言っていた。
僕はまだ35歳ではない。
だからバリウムはない。
そういう話だったはずだ。
でも、あるらしい。
僕に。
なぜだ。
どうやら、今年度中に35歳になる人も対象になるらしい。
なるほど。
そういうことか。
いや、
知らんがな。
制度としては正しいのだろう。
健康診断の世界では、そういう年齢の数え方をするのだろう。
僕が知らなかっただけなのだろう。
でも、ちょっと待ってほしい。
「35歳から」と聞いた34歳が、
「僕は違うな」
と思うのは、そんなにおかしいだろうか。
僕の理解力がなさすぎるのだろうか。
35歳から。
普通に考えれば35歳からではないのか。
34歳を含むなら、
「今年度中に35歳になる人から」
と言ってほしい。
それなら僕にも分かる。
「あ、それ僕です」
となる。
でも僕が聞いたのは、
「35歳から」
だった。
僕は34歳だった。
だからパンを食べた。
水を飲んだ。
コーヒーも飲んだ。
もう全部終わっている。
「すみません。水、めっちゃ飲みました」
ここで大きな問題が発生する。
バリウムがある。
しかし僕は水を飲んでいる。
しかも500ml。
ちょっとではない。
「朝、うっかり一口だけ……」
というかわいい話ではない。
ガブガブ飲んだ。
さらにコーヒーまで飲んでいる。
さらにさかのぼればパンまで食べている。
これは言わないといけない。
僕はスタッフの人に正直に伝えた。
朝、水をかなり飲んだこと。
すると、検査自体はできなくはないけれど、きちんと分からない部分が出る可能性がある、というような説明をされた。
受けること自体はできる。
でも、せっかく受けても分からないところがあるかもしれない。
なるほど。
じゃあ、
「いいです」
となった。
わざわざバリウムを飲んで、ぐるぐる回って、それで「よく分かりませんでした」では悲しい。
僕はバリウム検査を受けないことにした。
当日キャンセルである。
僕の人生初のバリウムは、目の前までやってきて消えた。
まだ一滴も飲んでいない。
また別の日に来るんですか?
ただ、一つ気になる。
今日受けなかったなら、別の日に来る必要があるのだろうか。
それは嫌だ。
今日は夜勤明けでここまで来た。
眠い。
もう帰りたい。
ここからさらに、
「では後日、バリウムだけ受けに来てください」
となったら面倒である。
また健康診断会場まで来ないといけない。
バリウムだけのために。
僕は確認した。
別日に来ないといけないのか。
すると、
「また来年受けてもらって」
という感じだった。
来年。
そうですか。
じゃあ今年は終わりですね。
分かりました。
帰ります。
僕の初バリウムは一年延期された。
来年の僕へ。
頑張ってくれ。
正直、ちょっと嬉しい
もちろん健康のことを考えれば、検査は大切なのだと思う。
せっかく受けられるのなら、受けた方が安心なのかもしれない。
それは分かっている。
でも、正直な気持ちを言わせてほしい。
バリウムを飲まなくてよくなって、ちょっと嬉しかった。
だって、あまりいい噂を聞かない。
白くてドロッとしたものを飲む。
発泡剤も飲む。
ゲップを我慢する。
台の上で体を動かす。
終わったら下剤を飲む。
初体験としては、なかなかハードルが高い。
僕は今日、それをやる覚悟すらしていなかった。
数分前まで、
「僕は34歳だから関係ない」
と思っていたのだ。
そこから突然、
「ではバリウムを」
と言われても、心の準備が追いつかない。
そして水を飲んでいたことで、結果的に延期になった。
残念なような。
よかったような。
いや。
やっぱり少し嬉しい。
向こうの人も迷惑だろう
ただ、健診する側からすれば迷惑だろう。
予約には僕のバリウム検査も入っていたのかもしれない。
準備もしていたのかもしれない。
それなのに当日やってきた男が、
「水、500mlくらい飲みました」
と言う。
しかも実はパンも食べている。
コーヒーまで飲んでいる。
注意事項は書いてある。
それも僕は見ている。
向こうからすれば、
何をしているんだ、この人は。
と思っても不思議ではない。
申し訳ない。
そこは本当にそう思う。
でも、僕も迷惑なんだ
ただ、少しだけ言わせてほしい。
僕も迷惑なんだ。
別に健康診断を受けたくて、朝からワクワクしながらここに来たわけではない。
会社に受けるように言われているから来ている。
健康診断が必要なのは分かっている。
会社にも必要なのだろう。
僕自身の健康のためでもある。
分かっている。
でも、気持ちとしては、
帰れるなら帰って寝たい。
それだけである。
朝まで仕事をした。
仕事は終わった。
本来なら僕の一日は終わっている。
なのに健康診断があるから、まだ寝られない。
眠い目をこすりながら会場へ来ている。
だから、別に僕も好きで検査を当日キャンセルしたわけではない。
最初から自分が対象だと分かっていたら、それなりに準備した。
パンを我慢したかもしれない。
少なくとも水を500mlも一気に飲まなかった。
コーヒーも飲まなかった。
僕はバリウム検査を妨害するために、水を飲んだわけではない。
ただ、
自分にバリウムがあると知らなかった。
それだけなのだ。
向こうも迷惑。
僕も迷惑。
お互い大変である。
誰が悪いという話でもないのかもしれない。
ただ一つ言えるのは、
「35歳から」の説明だけ、もう少し詳しくしてほしかった。
35歳から、とは何歳からなのか
改めて考えてみる。
35歳から。
これは何歳からなのだろう。
35歳からだろう。
僕はそう思う。
でも健康診断では、現在34歳でも年度内に35歳になるなら35歳側へ入ることがある。
知らなかった。
年度という存在は強い。
僕が、
「いや、まだ34歳です」
と言っても、
「でも年度内に35歳になりますよね」
と追いかけてくる。
逃げられない。
誕生日はまだ来ていない。
でも健康診断だけ先に35歳になった。
なんだそれ。
せめて説明するとき、
「現在34歳でも、今年度中に35歳になる人は対象です」
と一言つけてほしい。
その一言があれば、今回の悲劇は防げた。
僕は、
「あ、今年僕もバリウムあるんだ」
と理解する。
パンを見つめる。
我慢する。
水を見つめる。
我慢する。
コーヒーを見つめる。
我慢する。
眠い。
腹減った。
喉渇いた。
それでも健康診断へ行く。
そしてバリウムを飲む。
それが正しい世界線だったのだろう。
しかし現実の僕は違った。
パン。
水。
コーヒー。
完全に自由だった。
調べたら、バリウムって省略できるらしい
家に帰って、一つだけ調べた。
細かいことを延々と調べる気にはならなかった。
眠いからだ。
ただ、一つだけ気になった。
そもそもバリウムって断れるのか。
調べてみると、少なくとも今回の僕の年齢区分では、胃の検査を省略できる場合があるらしい。
なんだ。
省略できるんかい。
それなら最初から外しておいてくれないだろうか。
基本セットにバリウムを入れて、
「嫌なら外してください」
ではなく、
最初は外しておいて、
「バリウムを受けたい人は追加してください」
にしてほしい。
トッピング方式である。
ラーメンの煮卵みたいに。
バリウム追加。
僕はいらない。
少なくとも今の僕なら追加ボタンは押さない。
もちろん検査自体を否定しているわけではない。
必要な人もいるだろう。
受けたい人もいるだろう。
医師から勧められる場合だってあるだろう。
でも選べるなら、もう少し分かりやすく選ばせてほしい。
今回の僕なんて、選ぶ以前の問題だった。
自分が注文していることすら知らなかった。
席に座ったら、
「お待たせしました。バリウムです」
と出てきたようなものだ。
頼んでない。
いや、会社が頼んでいたのかもしれない。
知らない。
会社にバレるんだろうか
帰りながら、少し考えた。
これ、会社に分かるんだろうか。
健康診断の結果を見たら、
「胃部X線・未実施」
みたいに書かれるのだろうか。
分からない。
会社はバリウム込みの料金を払っているのだろうか。
それなのに僕が受けなかったら、どうなるんだろう。
キャンセル料とかあるのだろうか。
当日キャンセルだから高いのだろうか。
僕に請求されたりするのだろうか。
そして会社から、
「なんでバリウム受けなかったんですか?」
と聞かれるのだろうか。
説明するしかない。
「35歳からと聞いていたので、自分は34歳だから関係ないと思っていました。6時間くらい前にパンを食べ、仕事が終わって水を500ml飲み、そのあとコーヒーまで飲みました」
長い。
怒られるだろうか。
少し考えた。
僕にも落ち度はある。
注意事項には飲食について書いてあった。
それでも僕は食べた。
水も飲んだ。
コーヒーも飲んだ。
健康診断前の人間として、褒められた行動ではない。
そこは認めよう。
だから、もし怒られるのなら仕方がない。
怒られるなら、甘んじて怒られよう。
僕は背中を見せない。
そんなことより、
バリウムやらなくてよかった。
ポテチでも食おう。
ぼりぼり。
