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子どもに好かれる人はなぜ好かれるのか。僕は大人に嫌われる大人だ。

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僕は、なぜか子どもに好かれる。

自分で言うのもなんだが、昔からそうだった。

親戚の子どもだったり、知り合いの子どもだったり。最初は少し警戒されていても、気づけば近くにいる。

何かを見せにくる。

どうでもいい話をしてくる。

遊ぼうと言われる。

僕も遊ぶ。

別に子どもがものすごく好きで、見つけた瞬間に駆け寄っていくわけではない。

「わあ、かわいいねえ」

と頬を緩ませながら近づくタイプでもない。

むしろ最初は普通にしている。

なのに、いつの間にか遊んでいる。

一方、大人にはそれほど好かれない。

むしろ嫌われやすい方だと思う。

愛想がいいわけでもない。

雑談も苦手だ。

みんなで仲良くしましょう、という空気も苦手。

職場でも必要なことは話すけれど、それ以外は黙っていることが多い。

「今日は暑いですね」

「そうですね」

終わり。

僕としては会話が完結している。

今日は暑い。

相手もそう思っている。

僕もそう思っている。

お互いの認識が一致した。

以上である。

ところが普通は、ここから会話を続けるらしい。

「明日も暑いみたいですよ」

「そうなんですね」

「今年はいつまで暑いんでしょうね」

「どうなんでしょうね」

「去年も暑かったですよね」

「暑かったですね」

すごい。

暑さだけで、こんなに喋れる。

僕には難しい。

そして僕は黙る。

たぶん、こういうところなのだと思う。

大人から見ると、僕は愛想のない人間なのだろう。

ところが子どもが相手になると、なぜか話は変わる。

「うんち!」

と言われる。

「うんち!」

と返す。

「うんちぶりぶり!」

「ぶりぶり!」

二人で笑う。

普通に面白い。

僕は子どもを喜ばせるために、無理して子どものテンションに合わせているわけではない。

僕も楽しいのだ。

なんだったら僕から言うこともできる。

うんち。

ぶりぶり。

お尻におって。

意味なんてない。

何一つない。

でも面白い。

そこで、ふと思った。

僕は子どもに好かれる。

大人には嫌われやすい。

これはもしかすると、僕の精神年齢が異様に低いだけなのではないだろうか。

目次

子どもに合わせている感覚がない

子どもに好かれる人には、いろいろな特徴があるのだと思う。

優しい。

よく笑う。

話を聞いてくれる。

子どもの目線に立てる。

一緒に遊んでくれる。

たしかに僕も一緒に遊ぶ。

でも、「子どもの目線に合わせている」という感覚はあまりない。

合わせるというより、普通に自分も楽しんでいる。

子どもが、

「見て!」

と言う。

見る。

変な石がある。

「何これ!」

となる。

木の棒を拾ってくる。

「剣!」

と言う。

「おお、剣やな」

となる。

そこから戦いが始まる。

僕はそのとき、

「ここは大人である僕が、子どもの豊かな想像力を尊重して、木の棒を剣として扱ってあげよう」

なんて考えていない。

そんなことを考えながら遊んでいたら、たぶん面白くない。

木の棒を持った。

剣だ。

それでいい。

もちろん、本当に剣だと思っているわけではない。

僕は大人である。

木の棒と剣の区別くらいつく。

木の棒を武器にして銀行へ行ったりもしない。

そんなことをしたら捕まる。

でも、木の棒だと分かっていることと、木の棒を剣にして遊ぶことは両立する。

「これ、伝説の剣や」

それでいい。

五分前まで公園の端に落ちていた。

誰かが踏んでいたかもしれない。

犬がおしっこをかけている可能性だってある。

そんな木の棒でも、拾った瞬間に伝説の剣になる。

僕はこういうことを普通に楽しめる。

だから子どもと遊んでいても、それほど疲れないのかもしれない。

「遊んであげている」という感覚がないからだ。

子どもと僕。

どちらかがサービスを提供しているわけではない。

一緒に遊んでいる。

僕も面白い。

向こうも面白い。

それで終わりだ。

もしかすると子どもからすると、僕は「遊んでくれる大人」ですらないのかもしれない。

ただのデカいやつ。

ちょっと年齢のいった仲間。

そのくらいなのかもしれない。

大人になると「うんち」が使えなくなる

ところが大人同士になると、急に難易度が上がる。

子どもの世界では最強クラスの破壊力を誇っていた「うんち」が使えなくなる。

職場の休憩室。

二人きり。

沈黙。

相手が言う。

「今日は暑いですね」

「暑いですね」

ここで、

「うんちぶりぶりですね」

とは言えない。

なぜだ。

子どもの世界ではあれほど盛り上がったのに。

大人の世界では完全な使用禁止カードである。

下手をすると、変な人だと思われる。

いや、確実に思われる。

仕方がないので、天気の話をする。

「明日は雨らしいですよ」

「そうなんですね」

「週末も天気悪いみたいですよ」

「そうなんですね」

僕は思う。

何なんだ、この時間は。

もちろん、雑談に意味があることくらいは分かる。

人との距離を縮める。

緊張をほぐす。

相手のことを知る。

職場の人間関係を円滑にする。

天気は誰も傷つけにくいから、雑談の入口として便利なのだろう。

分かる。

分かるのだが、どうしても思ってしまう。

天気の話もうんちの話も、どちらもどうでもよくないか。

明日は雨です。

そうですか。

うんちぶりぶり。

そうですか。

どちらも僕の人生を根本から変える情報ではない。

だったら、僕は笑える方のどうでもいい話がしたい。

意味のないことをするなら、楽しい意味のないことをしたい。

たぶん僕は、昔からそうなのだ。

僕は無口なのだろうか

僕はあまり喋らない人だと思われることがある。

たしかに、職場ではあまり喋らない。

二人きりになっても、無理に話題を探したりしない。

沈黙になったら沈黙のままでいいと思っている。

だから相手からすると、気まずいのかもしれない。

「何か喋らないと」

と思わせている可能性もある。

申し訳ない。

でも僕は、その沈黙の間に別のことを考えている。

今日何を読もう。

ブログ何書こう。

あそこに落ちている木の棒、ちょうどいい長さだな。

そんなことを考えている。

相手のことが嫌いだから黙っているわけではない。

怒っているわけでもない。

ただ、話すことがないから話していない。

ところが、大人の世界では「話すことがないので話しません」が意外と通用しない。

話すことがなくても話す。

それが雑談なのだろう。

「休日何してるんですか?」

「本読んでます」

「へえ。本読むんですね」

「はい」

終わる。

僕は本当に終わっていいと思っている。

でも相手はたぶん、

「好きな作家とかいるんですか?」

と続けてくれる。

ありがたい。

でも、申し訳なくもなる。

この人は今、一生懸命会話をつないでくれている。

僕も何か返した方がいいのだろう。

何を聞こう。

趣味?

休日?

好きな食べ物?

考えれば考えるほど面倒になってくる。

だったら、もう木の棒を一本渡してくれ。

大人と雑談するより、木の棒で戦いたい

たとえば職場の休憩時間。

僕と課長が二人きりになったとする。

「最近どう?」

「まあまあです」

「仕事慣れた?」

「ぼちぼちです」

「休みの日、何してるの?」

「本読んでます」

こういう会話が続く。

別に課長は悪くない。

むしろ気を遣って話しかけてくれている。

優しい。

それでも僕の中の何かが、少しずつ眠っていく。

でも、そこにいい感じの木の棒が二本落ちていたら話は変わる。

僕は一本拾う。

もう一本を課長に渡す。

「課長、木の棒ありますわ」

課長は困るだろう。

「なんやそれ」

違う。

課長。

よく見てほしい。

「これ、勇者の剣ですわ。伝説の」

一本渡す。

僕も一本持つ。

「お前は何やねん」

「僕、今日は魔王やりますわ」

戦闘開始である。

カン。

カン。

木の棒がぶつかる。

もちろん、本当に殴ったら危ないので、そこは大人の力加減である。

課長が攻撃してくる。

僕が防ぐ。

「課長、なかなかやりますね」

「お前もな」

「でも僕、魔王なんで」

「知らんがな」

楽しい。

さっきまで話すことがなかった二人が、急に喋っている。

そして戦闘終了。

僕は木の棒を置く。

「課長」

「なんや」

「レベル1上がりましたんで、メモしときますわ」

スマホを取り出す。

現在レベル34。

何のレベルなのかは分からない。

そこは考えなくていい。

そして時計を見る。

休憩終了だ。

「よし、じゃあ午後も頑張りますか」

二人で仕事へ戻る。

僕はこれでいい。

むしろ、これがいい。

遊んだら大人ではなくなるのだろうか

大人になると、遊び方が変わる。

お酒を飲む。

旅行へ行く。

ゴルフをする。

買い物へ行く。

ゲームをする。

もちろん、どれも楽しいと思う。

僕も大人の遊びを否定したいわけではない。

ただ、なぜ子どもの頃にしていた遊びを、全部卒業しなければならないのだろう。

木の棒で戦う。

鬼ごっこをする。

探検する。

秘密基地を作る。

ティッシュを丸めて野球をする。

大人がやってはいけない理由は、そんなにあるだろうか。

危険だから。

迷惑だから。

それなら危なくないように、迷惑にならないようにすればいい。

年齢そのものは理由にならない。

33歳が木の棒を持ったら、木の棒が爆発するわけでもない。

40歳が鬼ごっこをしたら、警報が鳴るわけでもない。

50歳が秘密基地を作ったら、国から怒られるわけでもない。

大人になった。

ただそれだけだ。

僕たちはいつの間にか、

「これは子どもがすること」

と自分たちで線を引いている。

その線は、誰が引いたのだろう。

ティッシュを丸めればボールになる

僕はティッシュを丸めて野球がしたい。

別に子どもとではない。

大人同士でもいい。

むしろ大人同士でやりたい。

職場の休憩時間。

話すことがない。

沈黙。

普通なら誰かが天気の話を始める。

でも、もういい。

ティッシュを一枚取ろう。

ギュッ。

ギュッ。

丸める。

ほら。

ボールだ。

バットは紙を丸めて作ればいい。

ゴミ箱あたりをストライクゾーンにする。

もちろん仕事の邪魔にならない場所で、安全にやる。

僕が投げる。

相手が打つ。

それだけだ。

しかも、素晴らしいことに喋らなくていい。

投げる。

打つ。

拾う。

また投げる。

沈黙していても気まずくない。

だって今、野球をしている。

会話を維持するために、次の話題を探す必要がない。

「最近どうですか?」

もいらない。

「休日何してるんですか?」

もいらない。

投げればいい。

僕はティッシュのボールを握る。

「変化球いくわ」

投げる。

ティッシュなので、ふわっと落ちる。

「絶対打たれへんで、これ」

打たれる。

「……打つんかい」

また投げる。

「今のスライダーやから」

「ただ落ちただけやろ」

「ちゃう。縦スラや」

こんな会話なら、いくらでもできる。

そこで気づく。

僕は無口なのではないのかもしれない。

人と関わりたくないわけでもない。

ただ、喋るために喋るのが苦手なのだ。

何かを一緒にしていたら、言葉は勝手に出てくる。

僕にはその方が自然なのだ。

大人の世界には見えないものが多すぎる

もう一つ、大人同士の人間関係で難しいものがある。

見えないものだ。

本音。

建前。

立場。

空気。

距離感。

機嫌。

愛想。

言葉の裏。

「大丈夫です」

と言っている。

でも、本当は大丈夫ではない。

「また行きましょう」

と言っている。

でも、本当に誘ったら困る場合がある。

「全然気にしてないですよ」

と言っている。

でも、めちゃくちゃ気にしている。

難しい。

難しすぎる。

僕は思う。

もう言ってくれ。

嫌なら嫌と言ってくれ。

行きたくないなら行きたくないと言ってくれ。

怒っているなら怒っていると言ってくれ。

でも、大人の世界ではそれだけでは成立しないのだろう。

相手への配慮もある。

角を立てないための言葉もある。

その場を円滑にするための嘘もある。

僕だってそれくらいは分かる。

すべての本音をぶつければいいとは思わない。

思ったことを全部言う人が素晴らしいとも思わない。

それでも、難しい。

言葉だけを聞いていてはいけない。

表情を見る。

声のトーンを見る。

その場の空気を読む。

これまでの関係性を考える。

相手の立場も考える。

今日の機嫌まで考える。

もう国語の長文読解より難しい。

しかも模範解答がない。

子どもの世界はもう少し分かりやすい

もちろん子どもだって嘘をつく。

本音を隠すこともある。

子ども同士にも複雑な人間関係はある。

だから「子どもは純粋で、大人は汚れている」なんて話をしたいわけではない。

そんな単純ではない。

ただ、子どもと遊んでいると、感情と言葉の距離が近いと感じることがある。

「これやりたい!」

「嫌!」

「面白い!」

「もう一回!」

「お腹すいた!」

「帰りたい!」

分かりやすい。

探検したい。

じゃあ行こう。

木の棒を見つけた。

剣だ。

戦おう。

うんち。

ぶりぶり。

笑う。

僕にはそのくらいがちょうどいい。

子どもに合わせているのではない。

僕の中にも、その分かりやすさがまだ残っているのだと思う。

だから僕は大人に嫌われるのかもしれない

そう考えると、僕が大人からどう見えているのかも少し分かる。

愛想がない。

あまり喋らない。

何を考えているか分からない。

付き合いが悪い。

変わっている。

そう思われても仕方がない。

僕は、大人同士の人間関係で使われる細かな技術をあまり使わない。

興味がないのに、興味があるふりをするのも苦手だ。

沈黙になったからという理由だけで、話題を探すこともしない。

みんなが笑っているから、自分も笑うということも少ない。

嫌われることもあるだろう。

でも不思議だ。

そんな僕が、子どもの世界へ行くと急に違う人間になる。

いや、違う。

たぶん僕は変わっていない。

同じ僕だ。

大人の前では、

「今日は暑いですね」

「そうですね」

で終わる。

子どもの前では、

「魔王来たぞ!」

「逃げろ!」

と走り回る。

「うんち!」

「ぶりぶり!」

で爆笑する。

大人の世界では、愛想のない人。

子どもの世界では、ヒーローだ。

いや。

今日は魔王だった。

こんなに無邪気なのに

少し不思議でもある。

僕は大人から見れば、たぶん無邪気な人間には見えない。

黙っている。

一人でいる。

雑談しない。

愛想笑いも少ない。

場合によっては、冷たい人に見えるかもしれない。

でも僕の頭の中では、

「あの木の棒、剣にちょうどいいな」

と思っている。

こんなに無邪気なのに。

ティッシュを見れば、丸めたら野球できると思う。

知らない道を見れば、探検したくなる。

変な形の石があれば、少し気になる。

「うんち」と言われれば笑える。

なのに大人の世界では、それらはほとんど表に出ない。

出す機会がない。

「今日は暑いですね」

という扉から、伝説の剣にはなかなかたどり着けない。

だから僕の無邪気さは、大人には見つけてもらいにくいのかもしれない。

子どもは簡単だ。

「遊ぼ!」

その一言で扉が開く。

精神年齢が低いだけなのだろうか

それでもやっぱり思う。

僕は単純に精神年齢が低いだけなのではないか。

33歳。

木の棒で戦いたい。

ティッシュで野球したい。

うんちで笑える。

並べるとなかなかひどい。

でも僕は、ちゃんと大人でもある。

仕事へ行く。

お金のことも考える。

自分の生活を考える。

危険なことと安全なことの区別もつく。

木の棒が本当に伝説の剣だとは思っていない。

自分が魔王だとも思っていない。

遊びが終われば仕事へ戻る。

「よし、じゃあ午後も頑張りますか」

と言える。

だったら、それでいいんじゃないだろうか。

大人になるというのは、木の棒がただの木の棒だと理解することなのかもしれない。

でも、

木の棒を二度と剣にしてはいけないということではない。

現実が分かることと、想像することは両立する。

むしろ大人だからこそ、両方できる。

木の棒だと知っている。

でも、今だけ剣にする。

午後から仕事がある。

でも、休憩中だけ魔王になる。

それでいい。

大人になると、何でも本来の用途に戻っていく

子どもの頃、物にはもっとたくさんの使い道があった。

段ボールは箱ではなかった。

家になった。

基地になった。

車になった。

巨大ロボットの操縦席にもなった。

タオルはマントになった。

傘は武器になった。

石は宝物になった。

床の模様は、踏んではいけない場所になった。

ソファからソファへ飛び移るだけで冒険になった。

ところが大人になると、物が本来の用途へ戻っていく。

ティッシュは鼻をかむもの。

木の棒はゴミ。

段ボールは資源ごみ。

タオルは体を拭くもの。

それは正しい。

ものすごく正しい。

でも、少し寂しくもある。

僕は物を本来の用途だけで見る大人になりきれなかったのかもしれない。

ティッシュを見れば、まだボールになる。

木の棒を見れば、まだ剣になる。

それくらいの余白は残しておきたい。

意味のないことをするなら、楽しい意味のないことをしたい

大人になると、意味を求めることが増える。

それは何の役に立つのか。

仕事につながるのか。

お金になるのか。

成長できるのか。

将来につながるのか。

効率はいいのか。

でも僕たちは、その一方で毎日たくさんの意味の薄いことをしている。

何となくスマホを見る。

何となくテレビを見る。

何となく天気の話をする。

何となく愛想笑いをする。

もちろん、それぞれに小さな意味はある。

だったら遊びにも、小さな意味くらいあっていい。

いや。

別になくてもいい。

木の棒で戦って何になるのか。

何にもならない。

ティッシュで野球して何が残るのか。

何にも残らない。

レベルが1上がったと言っても、本当に上がっているわけではない。

履歴書にも書けない。

「特技:伝説の剣を使用した魔王討伐」

たぶん採用担当者が困る。

でも、楽しかった。

それでいい。

意味のないことをするなら、僕は楽しい意味のないことをしたい。

天気の話を五分するくらいなら、五分間ティッシュを投げたい。

しかも喋らなくていい。

投げればいい。

「変化球いくわ」

それくらいでいい。

昔、一緒に遊んだあいつらは

ここまで考えていると、昔のことを思い出す。

子どもの頃、一緒に遊んでいたやつら。

あいつらも昔は木の棒を持っていた。

誰かが勇者になった。

誰かが敵になった。

意味の分からない設定をその場で作った。

昨日まで存在しなかった必殺技を突然使った。

「それ反則やろ!」

「昨日覚えた」

「いつやねん!」

そんなことで本気で言い合った。

ティッシュよりもっとくだらないもので遊んだこともあるだろう。

何をしていたのか、もうほとんど覚えていない。

でも楽しかったことだけは、なんとなく覚えている。

意味なんて考えていなかった。

将来役に立つかなんて考えなかった。

ただ面白いからやった。

あいつらも今は大人になった。

働いているだろう。

結婚したやつもいるかもしれない。

子どもがいるやつもいるだろう。

会社では敬語を使って、上司に頭を下げて、

「今日は暑いですね」

なんて言っているかもしれない。

ちゃんとした大人になっているのだろう。

僕も一応、大人になった。

でも、あいつらはどうなのだろう。

もし今、久しぶりに会ったら。

僕がその辺から木の棒を一本拾う。

もう一本をあいつに渡す。

「ほら」

あいつは何と言うだろう。

「何これ?」

と言うだろうか。

「お前、33やぞ」

と笑うだろうか。

「汚いから捨てろ」

と言われるかもしれない。

それはそれで仕方がない。

僕たちはもう大人だ。

でも。

もしかすると、少しだけ周りを見渡してから、木の棒を握ってくれるかもしれない。

そして、

「お前、今日どっち?」

と聞いてくれるかもしれない。

そうなったら、僕はたぶん笑う。

「僕?」

少し考える。

勇者もいい。

昔は勇者をやりたかった。

主人公がよかった。

でも今は、なんとなくこっちがいい。

「今日は魔王やるわ」

あいつも笑う。

「じゃあ俺、勇者な」

何十年ぶりかの戦いが始まる。

カン。

カン。

昔より体は重い。

すぐ息が切れる。

「ちょっと待って」

「魔王弱すぎるやろ」

「33歳やぞ」

「さっき年齢関係ない言うてたやん」

休憩する。

また戦う。

勝敗なんてどうでもいい。

どちらが勝ってもいい。

レベルが1上がったら、あとでメモしておけばいい。

そして遊び終わったら、木の棒を元の場所へ戻す。

僕たちはまた大人に戻る。

仕事へ行く。

家へ帰る。

明日の予定を確認する。

請求書を払う。

ご飯を食べる。

ちゃんと現実へ戻る。

それでいい。

僕は、それくらいの大人でいたい

僕はもう子どもではない。

ちゃんと大人になった。

少なくとも年齢だけなら、間違いなく大人だ。

これからもっと年を取る。

40歳になる。

50歳になる。

いつか白髪も増えるだろう。

その頃にも、木の棒を見て剣だと思えるだろうか。

ティッシュを丸めて、

「変化球いくわ」

と言えるだろうか。

うんちで笑えるだろうか。

僕は、できれば笑っていたい。

大人になることと、無邪気さを捨てることは同じではないと思う。

仕事をする。

責任を持つ。

約束を守る。

人に迷惑をかけない。

そういう大人として必要なものは持てばいい。

でも、そのために木の棒をただの木の棒に戻す必要はない。

大人の世界には、僕には難しいことがたくさんある。

本音と建前。

愛想。

空気。

距離感。

言葉の裏。

いまだによく分からない。

だから僕はこれからも、大人の世界では愛想のない人に見えるのかもしれない。

嫌われることもあるだろう。

それでもいい。

僕にはどうやら、大人同士の複雑な人間関係より、木の棒一本の方が分かりやすい。

そして、ずっと気になっている。

昔、一緒に遊んだあいつらは。

今でも、やってくれるだろうか。

もしまた会うことがあったら、試してみようと思う。

その辺に落ちている木の棒を拾う。

一本を渡す。

「何これ?」

そう聞かれたら答える。

「何って」

僕も一本拾う。

少しだけ距離を取る。

構える。

「伝説の剣やん」

そして聞こう。

「お前、勇者やる?」

もしあいつが笑いながら構えてくれたら。

僕も笑う。

「じゃあ僕、今日は魔王やるわ」

ひとしきり戦おう。

レベルが上がったら、ちゃんとメモしておこう。

そして遊び終わったら、木の棒を置く。

服についた土を払う。

時計を見る。

そろそろ戻らないといけない。

僕たちはもう、大人なのだから。

「よし。じゃあ午後も頑張りますか」

それくらいの大人が、僕にはちょうどいい。

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