小学生にとって「トイレに行く」は一大イベントだった
小学生の頃。
授業中に誰かが手を挙げる。
「先生、トイレ行っていいですか?」
先生が言う。
「いいですよ」
その子が席を立つ。
ただ、それだけのことである。
人間が椅子から立ち上がり、教室の扉を開け、トイレへ向かう。
大人になった今なら、そこに面白い要素なんて一つもない。
ところが、小学生の教室では違った。
誰かが小さな声で言う。
「うんこちゃう?」
クスクス。
別の誰かが乗っかる。
「絶対うんこや!」
ギャハハハハ。
もう笑っている。
まだしていない。
そもそも本当にうんこなのかすら分からない。
ただトイレへ向かっただけだ。
それなのに面白い。
本人が、
「ちゃうわ!」
と否定しようものなら、さらに面白くなる。
「うんこやろ!」
「ちゃうって!」
「うんこマン!」
「違うって!」
「うんこマン怒ったー!」
爆笑。
終わりである。
もう逃げられない。
認めても、うんこマン。
否定しても、うんこマン。
怒っても、うんこマン。
無視しても、うんこマン。
なんなら「おしっこや!」と説明したところで、
「ほんまはうんこやろ!」
と返される。
小学生のうんこ裁判に、無罪判決はない。
そしてトイレから帰ってくる。
「うんこマン帰ってきた!」
また笑う。
その後も続く。
休み時間。
「うんこマン、ドッジボールしようぜ!」
給食。
「うんこマン、牛乳取って!」
帰り。
「じゃあな、うんこマン!」
一度トイレへ行っただけで、一日名前を奪われる。
昨日まで普通の田中君だった男が、二時間目にトイレへ行ったことで、突然うんこマンとして生きることになる。
ひどい話である。
しかし当時の僕らは、これが面白くて仕方なかった。
今考えると、本当に不思議だ。
だって、笑っている僕らだって全員うんこをする。
「うんこマン!」と叫んでいる本人も、家に帰ればうんこをする。
先生もする。
校長先生もする。
教頭先生もする。
たぶん、PTA会長もする。
全員である。
全員やっていることなのに、誰か一人がやっているかもしれないというだけで爆笑する。
「田中、昨日ご飯食べたらしいぞ!」
では誰も笑わない。
「田中、昨日寝たらしいぞ!」
これも面白くない。
「田中、息してるらしいぞ!」
心配になる。
ところが、
「田中、今うんこしてるぞ!」
急に面白い。
なぜだ。
同じ人間の生理現象なのに、うんこだけ異常に強い。
小学生にとって、うんこは最強の娯楽だった。
「うんこ」と言うだけで成立する異常な笑い
さらに不思議なのは、別に誰かがトイレへ行かなくてもいいことである。
「うんこ」
これだけでも笑う。
文章ですらない。
主語もない。
述語もない。
物語もない。
伏線もない。
オチもない。
ただ、
「うんこ」
ギャハハハハ。
強すぎる。
お笑い芸人なら、笑わせるためにネタを考える。
構成を作る。
間を考える。
言葉を選ぶ。
何度も練習する。
舞台に立つ。
小学生。
「うんこ!」
爆笑。
圧倒的なコストパフォーマンスである。
しかも「うんこ」は応用も利く。
うんこマン。
うんこ星人。
うんこ野郎。
うんこ先生。
友達の名前の前につけてもいい。
後ろにつけてもいい。
「田中うんこ」
「うんこ田中」
どちらでも笑える。
意味なんてない。
田中君とうんこの間に何の関係もない。
それでも面白い。
つまり、小学生にとって「うんこ」は、単なる名詞ではなかったのかもしれない。
何にでも装着できる笑いのブースターだった。
普通の鉛筆。
面白くない。
うんこ鉛筆。
ちょっと面白い。
普通の先生。
面白くない。
うんこ先生。
怒られる。
でも面白い。
ただのマン。
何者か分からない。
うんこマン。
完成する。
何が完成したのかは知らない。
うんこだけではない。「おっぱい」でも笑える
そして、思い返してみると、小学生が笑うのはうんこだけではない。
「おっぱい!」
これでも笑う。
「ボインボイン!」
さらに笑う。
誰かが両手を胸の前で動かしながら、
「ボインボイン!」
もう終わりである。
くだらない。
あまりにもくだらない。
でも、当時は面白かった。
国語の授業。
先生が真剣に黒板へ漢字を書いている。
教室は静かだ。
そんなとき、隣のやつが小声で、
「おっぱい」
と言う。
笑う。
やめろ。
今はダメだ。
先生にバレる。
そう思えば思うほど面白くなる。
「おっぱい」
もう一回言う。
やめろ。
「ボインボイン」
追撃するな。
肩が震える。
先生がこちらを見る。
「どうしたんですか?」
「何でもないです」
何でもない。
本当に何でもない。
おっぱいと言っただけだ。
先生が授業を再開する。
隣を見る。
目が合う。
また笑う。
もはや「おっぱい」が面白いのか、笑ってはいけないのに笑っている状況が面白いのか分からない。
先生が、
「静かにしなさい!」
と怒る。
さらに面白い。
怒られれば怒られるほど、笑ってはいけなくなる。
笑ってはいけなくなればなるほど、笑いたくなる。
人間は面倒だ。
でも、ここに一つヒントがある気がする。
うんこ。
おっぱい。
おなら。
こういう言葉には共通点がある。
普段、どこでも堂々と言う言葉ではない。
特に大人が真面目にしている場所では言わない。
つまり、
「言ってはいけない感じ」がある。
小学生は、その境界線を見つけるのがうまい。
そして見つけた瞬間、踏みに行く。
なぜだ。
「言ってはいけない」が面白いのかもしれない
例えば、授業中に、
「消しゴム!」
と突然叫んでも、そこまで面白くない。
「ランドセル!」
弱い。
「給食袋!」
何も起きない。
でも、
「うんこ!」
強い。
言葉の意味そのものに、少し下品で、少し恥ずかしくて、人前ではあまり堂々と言わない感じがある。
だから、真面目な場所で口にすると空気が壊れる。
その「壊れた感じ」が面白いのかもしれない。
大人が作った教室には、ルールがある。
授業中は静かにする。
先生の話を聞く。
ふざけない。
変なことを言わない。
そこへ、
「うんこ」
たった三文字で穴を開ける。
すごい。
小学生なりの反逆なのかもしれない。
もちろん本人たちは、そんな大層なことを考えていないだろう。
「俺は今、社会規範に対する反抗として排泄物を口にする」
なんて考えている小学生がいたら怖い。
ただ面白いから言っている。
でも、その「面白い」の中には、大人が決めたルールをほんの少しだけ破る快感も含まれているのかもしれない。
そして大人が、
「そんなこと言わないの!」
と注意する。
すると子どもは知る。
なるほど。
これは効く言葉なのか。
翌日。
「うんこ!」
また言う。
大人が禁止することで、逆にその言葉へ力を与えている可能性すらある。
「絶対に押すな」と書かれたボタンがあれば押したくなる。
「絶対に言うな」と言われた言葉は言いたくなる。
小学生にとって、うんこは赤いボタンだったのかもしれない。
でも、なぜ「排泄物」では笑わないのだろう
ただ、それだけでは説明できない。
もし「下品で、普段言わないもの」だから面白いのなら、
「排泄物」
でも笑っていいはずだ。
でも弱い。
教室の後ろから、
「排泄物!」
と叫ぶ。
……。
なんだろう。
急に保健の授業が始まりそうだ。
「大便!」
これも少し違う。
「便!」
もっと違う。
「糞便!」
病院っぽい。
やはり、
「うんこ!」
これが強い。
ということは、意味だけではなく、音そのものにも何かあるのだろう。
「うん」という少し間の抜けた始まり。
最後の「こ」。
短い。
言いやすい。
勢いよく叫べる。
繰り返せる。
「うんこうんこうんこ!」
リズムまでいい。
「排泄物排泄物排泄物!」
途中で疲れる。
うんこマン。
言いやすい。
排泄物マン。
何かの専門家みたいだ。
音、意味、下品さ、言ってはいけない感じ。
いろんなものが奇跡的に合わさって、
「うんこ」という完成された笑いの単語が生まれている。
なんだ、あの完成された言葉は。
みんなするのに、なぜ恥ずかしいのか
もう一つ面白いのは、うんこが「全員やっているのに隠すもの」だということだ。
食事は隠さない。
むしろ人と一緒にする。
「今日何食べた?」
普通の会話である。
写真を撮る。
SNSに載せる。
「今日のランチです」
誰も驚かない。
でも、
「今日何出た?」
とはあまり聞かない。
「今日のうんこです」
と写真を載せられても困る。
入口は公開する。
出口は隠す。
同じ食べ物の旅なのに、扱いが違いすぎる。
トイレには個室がある。
鍵まである。
音を聞かれたくない。
臭いも残したくない。
誰かが待っていると少し焦る。
僕らは排泄という行為を、とても個人的なものとして扱っている。
だから小学生は、そこを突くのかもしれない。
「あいつ今、みんなに隠れてうんこしてるぞ!」
全員やるのに。
全員知っているのに。
わざわざ暴く。
そして笑う。
よく考えたら、変な文化である。
でも、秘密だからこそ面白い。
「みんなするけど、人前では見せない」
という絶妙な位置に、うんこはいる。
もし人類が公園の真ん中で普通にうんこをする生き物だったら、ここまで面白くなかったのかもしれない。
隠すから面白い。
恥ずかしいから面白い。
言ってはいけないから言いたい。
人間、ややこしい。
そして大人になると、トイレは何のイベントでもなくなる
では、大人になった今はどうだろう。
仕事中。
誰かが席を立つ。
「ちょっとトイレ行ってきます」
「はい」
終了。
誰も見ない。
誰も笑わない。
そもそも、気にもしない。
「あの人、今から大便かな」
なんて考えない。
考えている人がいたら、ちょっと怖い。
本人が十分後に帰ってくる。
誰も、
「長かったな!」
とは言わない。
誰も、
「うんこやったやろ!」
とは言わない。
ましてや、
「うんこマン帰ってきた!」
なんて叫ばない。
普通に仕事が続く。
小学生の頃なら一大イベントだったことが、大人の世界では何も起こらない。
これ、よく考えると不思議だ。
僕らはいつから変わったのだろう。
中学生くらいだろうか。
高校生?
大学生?
社会人?
境目が分からない。
卒業式の日に先生から、
「皆さんは今日で小学校を卒業します。明日から、うんこで笑ってはいけません」
と言われた記憶はない。
中学校の入学式でも、
「本校では、うんこマンという呼称を禁止します」
なんて説明はなかった。
誰にも教えられていない。
なのに、いつの間にか言わなくなった。
いつの間にか笑わなくなった。
僕らは、いつの間にうんこを卒業したのだろう。
大人は、本当にうんこが面白くないのか
ただ、ここで疑問が生まれる。
大人になると、本当にうんこが面白くなくなるのだろうか。
例えば、会社の会議。
部長が前に立つ。
真剣な顔で資料を映す。
「それでは、来期の事業計画について説明します」
全員が資料を見る。
「まず第一四半期の目標ですが」
一呼吸。
「うんこ」
……。
いや。
笑う。
僕なら絶対に笑う。
何だったら、一度下を向く。
笑ってはいけない。
部長だ。
会議中だ。
でも無理だ。
隣の人と目が合ったら終わる。
肩が震える。
部長が何事もなかったように、
「続いて営業戦略についてですが」
と進めたら、もっと面白い。
ということは、大人はうんこで笑えなくなったわけではない。
単体では足りなくなったのかもしれない。
小学生なら、
うんこ。
これだけで笑える。
大人は、
真面目な会議。
偉い人。
突然の発言。
場違い。
笑ってはいけない状況。
そこまで揃って、ようやく笑う。
僕らは大人になるにつれて、
うんこに条件をつけるようになった。
面倒である。
昔は三文字でよかったのに。
笑いの仕組みを覚えすぎたのかもしれない
大人になると、いろんな笑いを知る。
皮肉。
言葉遊び。
間。
伏線。
裏切り。
あるある。
比喩。
高度な漫才やコントを見て笑う。
映画の巧妙な会話で笑う。
小説の一文で笑う。
経験や知識が増えたからこそ分かる笑いもある。
それは大人になる楽しさだと思う。
でもその一方で、
「ただ変な音だから面白い」
「言ってはいけない言葉だから面白い」
「友達が笑っているから面白い」
という単純な笑いから、少しずつ離れていく。
面白さを判断する前に、
「何が面白いんだ?」
と考えるようになる。
うんこ。
小学生。
爆笑。
大人。
「それで?」
この「それで?」が増えたのかもしれない。
説明を求める。
意味を求める。
オチを求める。
価値を求める。
理由を求める。
でも、小学生の笑いには「それで?」がない。
うんこ。
終わり。
それで完成している。
なんだか、うらやましい。
大人になると、言葉に責任がついてくる
もちろん、大人が職場で「うんこマン」と叫ばなくなるのは、笑いの感性が変わったからだけではない。
大人になると、言葉には責任がついてくる。
例えば僕が仕事中にトイレへ行く。
後ろから同僚が、
「うんこマン!」
と叫ぶ。
僕なら、相手との関係によっては笑うかもしれない。
でも、嫌な人もいる。
当然だ。
毎回トイレへ行くたびに、
「うんこマン!」
と呼ばれたら、普通に腹が立つ人もいるだろう。
相手が嫌がっているのに繰り返せば、ただの嫌がらせになる。
小学生の頃なら、
「やめろや!」
「うんこマン怒ったー!」
で済んでいたことも、大人の世界ではそうはいかない。
それは悪いことではない。
相手の気持ちを考える。
傷つけないようにする。
場所をわきまえる。
言っていいことと悪いことを考える。
大切なことだ。
さらに「おっぱい! ボインボイン!」なんて職場で人に向かって言えば、性的な嫌がらせと受け取られてもおかしくない。
小学生が教室で言う「おっぱい」と、大人が職場で誰かに向けて言う「おっぱい」は、同じ言葉でも意味が違う。
誰が。
誰に。
どこで。
どんな意図で。
大人になると、言葉の周りにいろんな情報がついてくる。
小学生の言葉は、もっと裸だった。
「うんこ!」
ただ、それだけ。
大人の言葉には、文脈が服を着せる。
成長とは、そういうことなのかもしれない。
笑わなくなったのではなく、笑ってはいけないと知っただけ?
では、大人は本当にうんこを面白くないと思っているのだろうか。
ここも少し怪しい。
もしかすると、
「うんこで笑うのは子どもっぽい」
と知ってしまっただけなのかもしれない。
大人が「うんこ」で大爆笑していたら、
「何歳やねん」
と言われる。
だから笑わない。
いや、面白くないふりをする。
大人らしく振る舞う。
つまり、笑いそのものが消えたのではなく、
「ここでは笑わない」
というブレーキが強くなった可能性もある。
実際、気心の知れた友人同士なら、大人だってくだらない下ネタで笑う。
飲み会で意味のない話をして笑う。
誰かの言い間違いで何十分も笑う。
深夜になると、何でも面白くなることもある。
ということは、あの小学生は完全に消えたわけではない。
奥にいる。
ただ普段は、
「社会人です」
という顔をして座っている。
会議では真面目な顔をする。
電車では静かにする。
職場では礼儀正しくする。
でも、何かの拍子に、
「うんこ」
と聞く。
奥にいた小学生が、
「お?」
と顔を出す。
いる。
まだいる。
僕らの中に、うんこマンは生きている。
大人は笑うためにお金まで使う
ここまで考えていると、少し変な気持ちになってきた。
大人は、娯楽にお金を使う。
映画を観る。
旅行へ行く。
テーマパークへ行く。
ゲームを買う。
ライブへ行く。
お酒を飲む。
美味しいものを食べる。
僕もそうだ。
どれも楽しい。
大人だからこそできる楽しみもたくさんある。
でも、ときどき、
「最近、何か面白いことないかな」
と言う。
これが不思議だ。
小学生の僕らを見てみろ。
うんこ。
爆笑。
無料である。
「うんこマン!」
さらに爆笑。
まだ無料。
ティッシュを丸めて投げる。
野球が始まる。
木の棒を拾う。
剣になる。
段ボール箱を見つける。
秘密基地になる。
廊下の線だけ踏んで歩く。
ゲームになる。
何もないところから、勝手に遊びを作る。
娯楽費、ほぼゼロ。
強い。
もちろん、大人にもそういう遊び心がある人はいる。
でも、多くの場合、僕らは楽しむために何かを用意するようになった。
場所。
道具。
コンテンツ。
お金。
予定。
一方、小学生はその辺にあるものだけで笑う。
何だったら、何もなくてもいい。
友達がいればいい。
いや。
友達すらいなくても、
「うんこ」
と一人で言って笑っているやつもいたかもしれない。
最強である。
よく考えると、少し寂しいことだ
大人になる。
できることは増えた。
行ける場所も増えた。
使えるお金も増えた。
知識も増えた。
好きなものを自分で選べるようになった。
それなのに、
笑うために必要な条件まで増えてしまった。
これは少し寂しい。
小学生の頃。
誰かがトイレへ向かう。
それだけで楽しかった。
今。
誰かがトイレへ向かう。
何も起こらない。
僕はスマホを見ている。
隣の人もスマホを見ている。
トイレへ行った人は静かに戻ってくる。
仕事が続く。
正しい。
圧倒的に正しい。
誰も傷つかない。
誰も邪魔されない。
社会人として完璧である。
でも、よく考えると。
ちょっと寂しくないか。
別に、職場でうんこマン祭りを開催してほしいわけではない。
そんな会社は嫌だ。
朝礼で、
「本日のうんこマンは黒川さんです」
なんて発表されたら、その日のうちに退職を考える。
それでも。
誰かがトイレへ行くだけで笑えた時代が、自分にも確かにあった。
それが少し懐かしい。
僕らが失ったのは「うんこ」ではないのかもしれない
たぶん僕が寂しいのは、うんこで笑わなくなったことそのものではない。
もっと別のものだ。
何でもないことを、面白いことに変える力。
それを少しずつ失っていることが寂しいのだと思う。
子どもの世界には、意味のない遊びがたくさんある。
何の役にも立たない。
将来にもつながらない。
お金にもならない。
誰にも評価されない。
ただ面白いからやる。
大人になると、
「それ何の意味があるの?」
と聞くようになる。
勉強なら将来のため。
仕事ならお金のため。
運動なら健康のため。
読書なら知識のため。
旅行なら経験のため。
何かと理由をつける。
でも、小学生が、
「うんこマン!」
と叫ぶことに理由なんてない。
面白いから。
それだけ。
もしかすると、大人になるというのは、
意味のないものに意味を求めるようになること
なのかもしれない。
そして、そのせいで少しだけ、世界が退屈になる。
くだらないものは、くだらないままでいい
だからといって、明日から職場でうんこマンと叫ぼうとは思わない。
やめておこう。
普通に怒られる。
でも、くだらないことを楽しむ感覚くらいは残しておきたい。
意味がなくてもいい。
役に立たなくてもいい。
生産性がなくてもいい。
笑えれば、それでいい。
大人になると、何かにつけて「有意義」を求める。
有意義な休日。
有意義な読書。
有意義な時間。
有意義な人間関係。
そんなに全部、有意義じゃなくていいだろう。
たまには、
「うんこ」
でいい。
何の役にも立たない。
何も生まない。
でも笑える。
それだけで十分だった時代が、僕らにはあった。
むしろ、そんな時間こそ贅沢なのかもしれない。
今日も僕はトイレへ向かう
今日も仕事中、僕はトイレへ向かう。
席を立つ。
歩く。
誰もこちらを見ない。
誰も、
「どこ行くん?」
とは聞かない。
もちろん、
「うんこちゃう?」
とも言わない。
静かなものだ。
僕はトイレへ入り、個室の扉を閉める。
小学生の頃なら、外から、
「うんこマン!」
なんて聞こえてきたかもしれない。
今は何も聞こえない。
静かだ。
平和だ。
最高である。
……。
いや。
やっぱり少し寂しい。
用を済ませて、仕事へ戻る。
誰も僕を見ない。
誰も笑わない。
何事もなかったように時間が流れている。
それが大人の世界だ。
僕らは成長した。
常識を覚えた。
人への配慮を覚えた。
言葉の責任を覚えた。
場所をわきまえることを覚えた。
笑っていいことと、笑ってはいけないことも覚えた。
たくさんのものを手に入れた。
その代わりに、
誰かがトイレへ向かうだけで笑えた自分を、どこかへ置いてきた。
あの頃は、
うんこ。
それだけでよかった。
三文字で笑えた。
一円もいらなかった。
予約もいらない。
スマホもいらない。
動画もいらない。
特別な予定もいらない。
友達が、
「うんこ」
と言った。
笑った。
それで一日が楽しかった。
ずいぶん簡単だった。
ずいぶんくだらなかった。
そして、
ずいぶん豊かだった。
今さら小学生に戻りたいとは思わない。
トイレへ行くたびに騒がれるのも嫌だ。
毎日うんこマンと呼ばれたら、たぶん三日目くらいで怒る。
でも、ほんの少しだけ。
あの頃のくだらなさを取り戻したいと思う。
何でもないことを面白がって。
意味のないことをして。
理由もなく笑って。
「何がおもろいねん」
と言いながら、また笑う。
そんな時間が、大人にもあっていい。
だから。
もし僕が仕事中にトイレへ向かうのを見かけたら。
いや。
やっぱり職場ではやめてほしい。
でも、たまには。
本当に、たまにでいい。
あの頃みたいに。
うんこマンと言ってくれ。
誰か。
