職場には、いろんな噂が流れる。
「あの人、仕事めちゃくちゃ早いらしいで」
「あの人、実はめちゃくちゃ怖いらしい」
「あの二人、仲悪いらしい」
僕はこういう噂話に、そこまで興味がない。
誰と誰が仲悪かろうが、僕には関係ない。
仕事が終われば帰る。
それだけだ。
だが、ある日。
僕の耳に、とんでもない噂が入ってきた。
「あの人、白ブリーフ履いてるらしいで」
……。
白ブリーフ?
僕の耳が反応した。
周りの反応は、だいたい同じだった。
「え、白ブリーフ?」
「今どき?」
「ダサい」
「ちょっと嫌やわ」
そんな感じだったと思う。
白ブリーフ。
どうやら世間では、あまり評判がよろしくないらしい。
だが、僕は違った。
見たい。
猛烈に見たい。
テンションが急上昇した。
なぜだろう。
考えてみれば、僕は白ブリーフを長い間見ていない。
最後に見たのはいつだ。
小学生くらいじゃないだろうか。
子どものころは、そこまで珍しいものでもなかった気がする。
白いブリーフ。
何の変哲もないパンツだった。
それが大人になるにつれて、僕の世界から姿を消した。
気づけば周りはボクサーパンツばかりになった。
黒。
紺。
グレー。
たまに派手な柄。
でも、白ブリーフはいない。
いつの間にか絶滅したのだと思っていた。
いや、もちろん売っているのだから絶滅はしていない。
どこかにはいる。
でも、見ない。
そんな白ブリーフを履いた男が、職場にいるらしい。
しかも、同じ更衣室を使っている。
こんな近くにいたのか。
急に白ブリーフが、幻の生物みたいに思えてきた。
珍しい。
そして、懐かしい。
絶対に見たい。
僕の中で、謎の使命感が生まれた。
しかし、更衣室なんて無闇に入るものではない
問題がある。
白ブリーフがいる場所は、更衣室だ。
当たり前だが、更衣室というのは白ブリーフを観察するための場所ではない。
着替える場所だ。
「白ブリーフのおっさんがいるらしいから、ちょっと見てくるわ」
そんな理由で何度も出入りしていたら、白ブリーフのおっさんより僕のほうが怖い。
だからといって、ずっと待っているわけにもいかない。
相手がいつ着替えているのか分からないのだ。
どうする。
考えた。
とりあえず、出没時間の聞き取り調査からだ。
何をしているんだ、僕は。
しかし、行動しなければ白ブリーフには出会えない。
情報を集めることにした。
いつ頃、更衣室に現れるのか。
何時くらいなのか。
そうして調べていくうちに、だいたいの出没時間が分かってきた。
よし。
これで会える。
……と思った。
しかし、新たな問題が発生した。
僕の出勤時間と合わない。
なんということだ。
白ブリーフは存在している。
出没時間も分かった。
場所も分かっている。
なのに会えない。
こんなことがあるのか。
どうする。
僕は考えた。
そして、一つの答えにたどり着いた。
出勤時間を変えてもらうか。
いや。
待て。
白ブリーフを見るために勤務時間を変える人間がいるのか。
ここにいた。
僕だ。
「仕事があるから」と後輩に頼んだ
とりあえず行動だ。
僕は後輩に頼んでみた。
出勤時間を代わってほしい。
理由も必要だ。
僕は言った。
「仕事があるから」
後輩は、
「それならしょうがないですね」
と了承してくれた。
優しい。
本当にありがとう。
さらに、勝手に勤務時間を変更するわけにはいかない。
上司の許可も得た。
これで正式に勤務時間が変わった。
後輩の了承。
上司の許可。
必要な手続きはすべて終えた。
完璧だ。
ここで一つだけ、訂正しておかなければならない。
仕事なんてものはない。
何もない。
用事もない。
急いで帰らなければならない理由もない。
白ブリーフを見る。
それだけだ。
後輩よ。
すまない。
「それならしょうがないですね」と言ってくれたが、全然しょうがなくない。
僕は白ブリーフを見るために、君と勤務時間を代わった。
上司もまさか、自分が許可した勤務時間変更の裏に、一枚の純白のパンツが存在しているとは思っていないだろう。
だが、もう後戻りはできない。
ここまで来たのだ。
見るしかない。
いた
そして、その日はやってきた。
僕は更衣室へ向かった。
いつもとは違う時間。
白ブリーフを見るために変更した勤務時間。
後輩の協力。
上司の許可。
すべては、この瞬間のためにある。
更衣室に入る。
そして――。
いた。
いた。
本当にいた。
僕の視線の先に、噂の男がいた。
そして。
真っ白だ。
純白だ。
疑いようがない。
白ブリーフだ。
50代後半だろうか。
紛れもなく、おっさんだ。
だが、不思議だった。
少年のようだ。
小学生のころに見ていた、あの白ブリーフ。
長い年月を経て、今、僕の目の前にある。
懐かしい。
珍しい。
なんだこれは。
白の妖精か。
僕は固まった。
そして、その場で凝視した。
よくない。
人のパンツを凝視するものではない。
そんなことは僕だって分かっている。
だが、目をそらせなかった。
何しろ僕は、この瞬間のために勤務時間まで変更したのだ。
ここで目をそらしてどうする。
見届けなければならない。
白い。
本当に白い。
噂は本当だった。
都市伝説ではなかった。
白ブリーフは、まだこの世界に存在していた。
しかも、堂々と履いている
僕が一番驚いたのは、白ブリーフそのものではなかった。
堂々としている。
これだった。
別に隠すわけでもない。
恥ずかしそうにするわけでもない。
周囲を気にしている様子もない。
普通だ。
あまりにも普通に、白ブリーフを履いている。
たぶん本人にとっては、何の特別なことでもないのだろう。
「俺は世間に流されない」
「白ブリーフを貫くぜ」
そんな思想すら、おそらくない。
ただパンツを履いている。
それが白い。
それだけだ。
かっこいい。
僕はそう思ってしまった。
ここまで堂々としていれば、かっこいい。
そもそも、なぜ白ブリーフはダサいのか
不思議になった。
白ブリーフを履いているという噂を聞いたとき、周りは笑っていた。
ダサい。
気持ち悪い。
今どき白ブリーフなんて。
そんなイメージがある。
でも、なぜなのだろう。
白ブリーフが何をした。
パンツである。
ただのパンツだ。
調べてみると、白ブリーフに対して「子どもっぽい」「おじさんっぽい」「古い」といった印象を持つ人は実際にいる。
これが面白い。
子どもっぽくて、おじさんっぽい。
どっちなんだ。
少年なのか。
おっさんなのか。
両方なのか。
そう考えると、僕が彼を見た瞬間に、
「おっさんだ。でも、少年のようだ」
と思ったのも、あながち間違っていなかったのかもしれない。
白ブリーフには、妙な時間のねじれがある。
子どものころに履いていた記憶。
昔のお父さんやおじさんのイメージ。
そこへ現在の大人の男性が現れる。
いろんな時代が、一枚のパンツに詰まっている。
昔からダサかったわけではない
さらに面白いのは、白ブリーフが最初から「ダサいパンツ」だったわけではないことだ。
考えてみれば当然だ。
昔はもっと普通に履かれていた。
つまり白ブリーフそのものに、「ダサい」という成分が練り込まれているわけではない。
時代が変わった。
トランクスが広がった。
ボクサーパンツが広がった。
男性下着の「普通」が変わった。
そして、いつの間にか白ブリーフは古いものとして見られるようになった。
僕自身もそうだ。
誰かに、
「なぜ黒のボクサーパンツを履いているんですか?」
と聞かれたら、答えられない。
好きだから?
かっこいいから?
機能的だから?
たぶん違う。
なんとなくだ。
みんな履いている。
売っている。
無難。
だから履いている。
もしかすると僕は、自分でパンツを選んでいるようで、時代に選ばされているだけなのかもしれない。
真っ白だからこそ、余計にパンツなのかもしれない
白という色も大きいのだろう。
黒いボクサーパンツなら、なんとなくファッションっぽく見える。
ブランドのロゴが入っていたりする。
柄が入っていたりする。
でも、白ブリーフは違う。
パンツだ。
圧倒的にパンツだ。
「私は下着です」と全身で主張している。
逃げも隠れもしない。
真っ白。
純白。
潔い。
だからこそ、人によっては「恥ずかしい」「ダサい」と感じるのかもしれない。
だが、僕の目の前にいた男は、その純白を堂々と身につけていた。
白。
何色にも染まっていない。
流行にも染まらない。
周囲の評価にも染まらない。
「白ブリーフはダサい」という価値観にも染まらない。
きっと、自分色に染めるのだろう。
何を言っているんだ、僕は。
パンツの話だ。
ダサいものを堂々と身につけるとかっこいい
このとき僕は、一つ思った。
ダサいものって、何なのだろう。
誰かが決めたものではないだろうか。
みんなが履かなくなった。
だからダサい。
昔流行った。
だからダサい。
若い人が履かない。
だからダサい。
そんなものなのかもしれない。
もちろん、何をかっこいいと思うかは人それぞれだ。
白ブリーフを見て「やっぱり無理」と思う人もいるだろう。
それでいい。
僕だって、白ブリーフそのものを世界一かっこいい下着だと言いたいわけではない。
でも。
ここまで堂々としていれば、かっこいい。
これは本当に思った。
「これ履いたら変に思われるかな」
「ダサいと思われるかな」
「みんなと違うかな」
僕たちは、そんなことをいろいろ考える。
そして無難なものを選ぶ。
誰にも何も言われないものを選ぶ。
でも、彼は違った。
いや、違ったのかどうかすら分からない。
何も考えていないのかもしれない。
そこがまた、かっこいい。
世間に反抗して白ブリーフを履いているわけではない。
普通に履いているだけなのだ。
そこに迷いがない。
僕は自分のパンツを見た
そして僕は、ふと自分のパンツを見た。
黒のボクサーパンツだ。
……。
何だこれは。
急に恥ずかしくなってきた。
何がボクサーだ。
お前は何と戦っている。
誰と戦うんだ。
黒いボクサーパンツを履いているだけで、少しだけ無難な場所に逃げ込んでいる僕。
その目の前には、白ブリーフを堂々と履く男がいる。
考えてみれば、おかしい。
僕がボクサーパンツ。
彼がブリーフ。
でも。
彼の方が、よっぽどボクサーじゃないか。
世間の視線。
流行。
「ダサい」という評価。
「気持ち悪い」という評価。
そんなものを全部相手にして、リングの中央に立っている。
いや。
本人は戦ってすらいない。
相手にしていないのだ。
それが一番強い。
僕は完敗した
僕は完敗した。
1R、テクニカルノックアウト。
パンチ一発返せなかった。
そもそも彼は、僕と戦っていない。
ただ更衣室で着替えていただけだ。
勝手に僕がリングに上がり、勝手に倒された。
完敗だ。
でも。
少し違った。
悔しくなかった。
むしろ――。
爽快だった。
なんだろう。
「ダサいと思われないようにする」
「変に思われないようにする」
そんなものが、ものすごく小さなことに思えた。
別に好きなものを身につければいい。
好きな格好をすればいい。
他人からダサいと思われたっていい。
本人が堂々としていれば、それでいい。
白ブリーフを見ただけなのに。
新しい自分になれた気がした。
どんな上司よりも尊敬している
今でも、仕事中に彼とすれ違う。
話はしない。
仲がいいわけでもない。
一緒に仕事をすることも、ほとんどない。
すれ違ったら、
「お疲れさまです」
挨拶する。
それだけだ。
彼は知らない。
僕が白ブリーフを見るためだけに、出没時間を聞き取り調査したことを。
勤務時間まで変更したことを。
後輩に「仕事があるから」と頼んだことを。
その仕事が存在しなかったことを。
上司の許可まで取ったことを。
そして、自分の白ブリーフ姿が、一人の男の価値観を少しだけ変えたことを。
おそらく、これからも知ることはない。
それでいい。
僕だけが知っていればいい。
仕事について何かを教えてもらったわけではない。
人生について語り合ったわけでもない。
ありがたい言葉をもらったわけでもない。
ただ一度、更衣室で白ブリーフを履いている姿を見ただけだ。
それでも。
どんな上司よりも、僕は彼を尊敬している。
役職なんて関係ない。
肩書きもいらない。
人は、言葉だけで誰かに何かを教えるわけではないのだ。
彼は何も言わなかった。
ただ、堂々とそこにいた。
純白で。
僕はそれを見た。
それだけだ。
白ブリーフはダサいのか
ダサいのかもしれない。
気持ち悪いと思う人もいるのだろう。
ドン引きする人もいる。
別に、それを否定するつもりはない。
好みだから。
でも僕は、一人の白ブリーフのおっさんを見てしまった。
50代後半だろうか。
真っ白だった。
純白だった。
おっさんだった。
でも、少年のようだった。
白の妖精だった。
そして堂々としていた。
だから僕は思う。
白ブリーフはダサい?
気持ち悪い?
ドン引き?
いや、かっこいいだろ。
少なくとも、僕が見たあの男はかっこよかった。
誰が何を履いていようが、別にいい。
何を好きでもいい。
流行から外れていてもいい。
誰かに笑われてもいい。
堂々としていればいい。
僕は白ブリーフのおっさんに教えてもらった。
いや。
本人は何も教えていない。
勝手に僕が学んだだけだ。
でも、それでいい。
これからも仕事中に彼とすれ違ったら、いつも通り挨拶するだろう。
「お疲れさまです」
彼も普通に返してくれるだろう。
僕たちの関係は、それだけだ。
ただ僕は心の中で、ほんの少しだけ思う。
今日もかっこいいですね。
あの日の僕は完敗した。
1R、テクニカルノックアウト。
いや、違う。
爽快だった。
新しい自分になれた気がした。
ちなみに今も、黒のボクサーパンツを履いている。
