電車に乗った。
運よく座れた。隣の人も座っている。
しばらくすると、その人が足を組んだ。
領土が増えた。
さっきまで座席一人分に収まっていた人間が、足を一本持ち上げた瞬間、突然1.3人くらいになった。膝がこちらに寄ってくる。靴の先が通路へ飛び出す。座っている場所は変わっていないのに、使用している空間だけが広がった。
電車ではよく見る光景だ。
僕は以前から、これが少し気になっていた。
なぜ、人は足を組むのだろう。
もちろん、足を組むこと自体を禁止したいわけではない。空いている電車なら好きなだけ組めばいい。右足を上にしてもいいし、左足を上にしてもいい。途中で組み替えてもいい。なんだったら一駅ごとに左右を交代してもいい。
ただ、混んでいる電車で通路側に靴が飛び出していると、どうしても思う。
邪魔だ。
しかも僕は、たまに避けない。
通路を歩いていて、前方に足を組んだ人がいる。靴がこちらの進路に出ている。
普通なら少し身体を横にずらせばいい。たった数十センチだ。僕だってそれくらいできる。
でも、ときどき思う。
このまま行ったろ。
別に蹴りたいわけではない。ぶつかりたいわけでもない。ただ、そっちが出した足なのだから、そっちが引っ込めてくれ、という非常に小さな意地が発生する。
そのまま真っすぐ歩く。
あと一メートル。
まだ引かない。
五十センチ。
まだ出ている。
三十センチ。
スッ。
足が引っ込む。
勝った。
何に?
毎回、心の中で小さな勝利を感じるのだが、よく考えると何の競技なのか分からない。相手は僕と勝負していることすら知らない。僕だけが勝手にチキンレースを開催して、勝手に優勝している。
ただ、不思議でもある。
人が近づくと、かなりの確率で足を引っ込める。
ということは、その瞬間には「このままだと当たる」「邪魔になる」と認識しているのだろう。
だったら最初から出さなければいいのではないか。
そう思った。
でも、そこで一つ疑問が生まれた。
そもそも、なぜ人は足を組むのだろう。
僕は「邪魔だ」という側からしか見ていなかった。でも、あれだけ多くの人がやっているのだから、何か理由があるはずだ。
調べてみることにした。
足を組むと、身体的には楽なのか
まず考えられるのは、ものすごく単純な理由だった。
楽だから。
人間はずっと同じ姿勢で座っていると疲れる。背筋を伸ばした姿勢を延々と維持するのも楽ではない。姿勢を少し崩したり、重心を変えたりしたくなる。
足を組むという動作も、その姿勢変更の一つなのだろう。
実際、座った状態で足を組むと、腹部の一部の筋肉の活動が低下したという研究がある。つまり、人によっては足を組むことで身体を少し預けやすくなり、「楽だ」と感じることには身体的な理由も考えられる。
ただし、だから足を組む姿勢が身体にとって完璧という話ではない。別の研究では、足を組むことで骨盤の傾きが大きくなったり、臀部にかかる圧力が左右非対称になったりすることも示されている。
つまり、「楽に感じる」と「理想的な姿勢」は同じではない。
これは面白い。
人間は必ずしも身体にとって最も美しい姿勢を選んでいるわけではない。その瞬間にちょっと楽な姿勢を選ぶ。
ソファに座った僕だってそうだ。最初はちゃんと座っている。十分後には少し崩れる。さらに時間が経つと、なぜそんな形になったのか自分でも分からない姿勢でスマホを見ている。
人間は、姿勢に関してかなり怠惰だ。
だから電車で足を組んでいる人も、
「よし。今から骨盤を傾けよう」
なんて考えているわけではない。
ただ、
「ああ、こっちの方が楽」
なのかもしれない。
なるほど。
少しだけ理解できた。
立ち仕事で、ただ足が疲れているだけかもしれない
そして、もっと単純な理由もある。
足が疲れている。
朝からずっと立ち仕事をしていた人かもしれない。
八時間、九時間、立っていた。
店内を歩き回った。荷物を運んだ。階段を上った。ようやく仕事が終わった。
駅まで歩く。
電車に乗る。
座れた。
「ああ、疲れた」
足を組む。
以上。
そこに深層心理なんて何もない。
虚栄心もない。
自尊心もない。
縄張り意識もない。
自己演出もない。
ただ足が疲れた。
僕は知らないおじさんの右足一本から、その人の人格の奥底まで潜ろうとしていたのかもしれない。
「なぜ彼は足を組むのか。自分を大きく見せたいのだろうか。心の奥に何か――」
違う。
今日ずっと立ってたんです。
そう言われたら終わりだ。
「お疲れさまです」としか言えない。
これを考えると、電車の中で見えているのは、その人の一日のほんの一部分でしかないのだと思う。
今、足を組んでいる。
それしか僕には分からない。
その人が五分前まで何をしていたのかも、朝からどれくらい歩いたのかも、腰が重いのかも、脚がだるいのかも知らない。
人の行動には、こちらから見えない事情がある。
そう考えると、少し優しい気持ちになれる。
少しだけ。
なぜなら、靴はまだ通路に出ている。
ただの癖という可能性もある
もう一つ大きそうなのが、癖だ。
これも深い理由なんてない。
座ったら足を組む。
それだけ。
家のソファでも組む。
会社の椅子でも組む。
喫茶店でも組む。
電車でも組む。
本人に「なんで足を組んでいるんですか?」と聞いたら、
「え? なんでやろ」
で終わるかもしれない。
人間には、こういう動作がたくさんある。
腕を組む。
髪を触る。
頬杖をつく。
貧乏ゆすりをする。
ペンを回す。
スマホを開く。
気づいたらやっている。
足を組むのも、その一つなのかもしれない。
最初は身体的に楽だった。
何度もやった。
その姿勢に慣れた。
座ると自然に足が上がるようになった。
いつの間にか「いつもの姿勢」になった。
こうなると、身体的な理由と心理的な理由をきれいに分けることすら難しくなる。
楽だから始めた。
繰り返したから癖になった。
癖になった姿勢だから落ち着く。
落ち着くからまた組む。
身体と心理がぐるぐる回っている。
どこが始まりなのか、本人にも分からない。
足を組むと落ち着く人もいるのかもしれない
心理的には、「落ち着く」という理由もありそうだ。
人には、それぞれ安心する姿勢がある。
椅子に深く座る人もいる。浅く座る人もいる。腕を組む人もいる。手を膝の上に置く人もいる。
足を組んだ状態が、その人にとっていつもの姿勢なら、それだけで安心することもあるだろう。
いつもと同じ。
身体が収まる。
なんとなく落ち着く。
これも十分な理由だ。
だから、「足を組む=偉そう」と単純には言えない。
外から見れば堂々として見えても、本人はただ落ち着いているだけかもしれない。
ここが人間の面白いところだと思う。
同じ姿勢でも、中身が違う。
格好よく見せたい、という可能性はないのか
一方で、自己演出の要素が混ざっている人もいるのではないかと思う。
足を組んでゆったり座る姿には、どこか「余裕」のイメージがある。
映画やドラマでも、堂々とした人物が椅子に深く腰掛けて足を組んでいる姿は想像しやすい。
社長室。
大きな椅子。
足を組む。
似合う。
逆に、採用面接で緊張している学生が、面接官の前で豪快に足を組んでいる姿はあまり想像できない。
同じ足組みでも、そこには「余裕」「自信」「堂々としている」といった社会的なイメージが乗っている気がする。
ならば、そのイメージを自分でも無意識に利用している人がいても不思議ではない。
格好よく見せたい。
大人っぽく見せたい。
余裕があるように見せたい。
堂々として見せたい。
いわば自己演出だ。
そこには虚栄心が少し混ざる場合だってあるかもしれない。
実際の自分よりも少し格好よく見せたい。
少し余裕があるように見せたい。
人間なら、多かれ少なかれ持っている感情だと思う。
僕だって写真を撮るとき、わざわざ一番変な顔を選ばない。少しくらい良く見えるものを選ぶ。
それと同じように、「自分がどう見えるか」が座り方に表れる人もいるかもしれない。
自信があるから組むのか、自信がないから組むのか
堂々としているから足を組む。
これは分かりやすい。
でも、逆もあるのではないか。
自信がないからこそ、自信があるように見える姿勢を取る。
もし自己演出というものがあるなら、こっちだって成立する。
本当に自信がある人が、何も考えずゆったり足を組んでいる。
一方で、自信のなさを隠したくて「余裕のある自分」を作るために足を組んでいる人もいるかもしれない。
外から見れば、まったく同じだ。
右足が左足の上に乗っている。
それだけ。
でも内側は真逆かもしれない。
自尊心が高いから堂々としている。
自尊心の低さを補いたくて堂々として見せている。
あるいは、そんなことは一ミリも考えておらず、ただ右のふくらはぎが疲れている。
分からない。
右足一本に可能性がありすぎる。
だから「足を組んでいる人はこういう性格」と決めつけるのは無理がある。
僕がやりたいのも心理診断ではない。
可能性を考えているだけだ。
その人の中で、身体的な楽さ、疲労、癖、安心感、自己演出、虚栄心、自信、自信のなさ。そういうものがいろいろな割合で混ざって、最終的に足が一本上がる。
人間が足を一本持ち上げるだけなのに、ずいぶん複雑だ。
「マナー違反だと思っていない」もありそうだ
そして、電車という場所で考えるなら、もう一つ大きな理由がありそうだ。
本人は、悪いことだと思っていない。
これだ。
僕は通路に飛び出した靴を見ると「邪魔だな」と感じる。
だから無意識に、
「この人も邪魔だと分かっているはずだ」
と思ってしまう。
でも、そもそもそうではないのかもしれない。
本人の中では、足を組むことがマナー違反のカテゴリーに入っていない。
座る。
足を組む。
終わり。
誰かに迷惑をかけてやろうなんて当然思っていない。
自分の領土を拡大してやろうとも思っていない。
「本日は通路を十二センチほど占領させていただきます」
とも思っていない。
ただ、いつものように座っているだけ。
そして人が近づいてきた。
「あ、当たりそう」
スッ。
足を引っ込める。
つまり、最初から「邪魔になるから組まない」と考える人と、「人が来たら引っ込めればいい」と考える人では、マナーの境界線が違うのかもしれない。
これも悪意とは限らない。
他人の存在を意識するタイミングが違うだけだ。
ある人は、電車が混んでいるのを見た時点で足を組まない。
ある人は、人が前を通る瞬間だけ戻す。
ある人は、隣に誰かが座ったら戻す。
ある人は、ぶつかりそうになって初めて気づく。
同じ車両に乗っていても、それぞれが持っている「ここから先は迷惑」という線が違う。
マナーというのは、この線のすり合わせなのだろう。
法律なら、ある程度は線が書いてある。
でも日常のマナーは曖昧だ。
電車で足を何センチ開いたら違反、なんて規則はない。
膝はここまで。
靴はここまで。
肘は座席から十二センチ以内。
そんな線は床に引かれていない。
だから人によって感覚が違う。
座席は一人分。でも、その前の空間は誰のものなのか
考えてみると、電車の座席には境界がある。
ここからここまで一人分。
長い座席なら、最近は座る位置が分かるように区切られているものもある。
でも、座った人の前方には線がない。
膝はどこまで出していいのか。
足先はどこまでいいのか。
荷物は?
傘は?
肘は?
ここから急に曖昧になる。
座席は一人分なのに、足を組んだ瞬間、領空まで拡大してくる。
僕が気になっていたのは、足を組む行為そのものより、たぶんこっちなのだと思う。
自分の身体が、自分に割り当てられた空間から他人が使う空間へ出てくること。
しかも本人は、それをほとんど意識していない。
公共空間では、こういうことがたくさんある。
リュック。
傘。
キャリーケース。
大きく開いた新聞。
肘。
足。
本人にとっては身体や持ち物の延長だから、意外と占有している面積に気づきにくい。
でも他人から見ると、
そこ、通りたいんですけど。
となる。
理由は一つではない
ここまで考えて、ようやく最初の疑問に戻る。
電車で足を組む人は、なぜ足を組むのか。
答え。
分からない。
いや、投げ出したわけではない。
むしろ調べたり考えたりした結果、分からなくなった。
身体的に楽だからかもしれない。
同じ姿勢に疲れたからかもしれない。
一日中立ち仕事をして、足が疲れているのかもしれない。
昔からの癖かもしれない。
その姿勢が落ち着くのかもしれない。
格好よく見えると思っているのかもしれない。
余裕を演出したいのかもしれない。
虚栄心が少し混ざっているのかもしれない。
自信があるのかもしれない。
逆に、自信のなさを補いたいのかもしれない。
そもそも電車で足を組むことを悪いと思っていないのかもしれない。
そして、おそらく一人の中でも一つではない。
身体的な楽さ四十パーセント。
癖四十パーセント。
落ち着く十五パーセント。
なんとなく五パーセント。
そんな配合かもしれない。
もちろん割合なんて測れない。
しかも同じ人でも日によって違うだろう。
月曜日。
仕事で立ちっぱなしだった。疲れたから組む。
火曜日。
なんとなく癖で組む。
水曜日。
今日は空いているから組む。
木曜日。
腰がしんどくて姿勢を変えたい。
金曜日。
知らん。なんとなく組みたい。
それでいい。
人間の行動なんて、案外そんなものだと思う。
僕たちは自分の行動すべてに立派な理由を持っているわけではない。
だから、足を組んでいるだけで人間性は分からない
これは今回考えてみて、かなり大事だと思った。
電車で足を組んでいる人を見て、
「偉そうな人だ」
「自己中心的な人だ」
「自尊心が低い人だ」
「虚栄心が強い人だ」
と決めつけることはできない。
そういう心理が関係している人がいる可能性はある。
でも、ただ疲れているだけの人もいる。
ただの癖の人もいる。
何も考えていない人もいる。
行動一つから人格全部を読むことはできない。
僕らは他人の人生を知らない。
見えているのは、たまたま同じ電車に乗った数分間だけだ。
これは足組みに限らないのかもしれない。
目の前で起きた一つの行動を見て、その人全体を決めてしまう。
でも実際には、理由なんていくつもある。
そう考えると、他人に少し寛容になれる。
足を組んでいる。
そうか。
疲れているのかもしれない。
今日も一日大変だったのかもしれない。
ゆっくり休んでほしい。
本当にそう思う。
ただし。
満員電車ではやめとけ
ここだけは言いたい。
満員電車ではやめとけ。
理由は分かった。
身体的に楽なのも分かった。
疲れているのも分かった。
癖なのも分かった。
心理的に落ち着く可能性も分かった。
自己演出かもしれない。
何も考えていないだけかもしれない。
全部いい。
でも、混んでいるなら一回下ろそう。
足を組むこと自体が悪いのではない。
自分の快適さのために、他人が使う空間まで占有するところから問題になる。
空いている電車なら、僕は何とも思わない。
好きなだけ組めばいい。
右。
左。
右。
左。
好きにしてくれ。
でも満員電車では、ただでさえ一人あたりの空間が小さい。
立っている人もいる。
通路を歩く人もいる。
隣の席にも人がいる。
そこで足を組めば、自分が少し楽になる代わりに、誰かが少し避けることになる。
この「少し」が大事なのだと思う。
足を組んでいる本人からすれば、ほんの十センチかもしれない。
でも、その十センチを避けるために、歩いている人が身体をひねる。
隣の人が少し狭くなる。
誰かの快適さのコストを、知らない誰かが払う。
公共空間のマナーって、結局こういうことなのかもしれない。
「これは絶対に悪い行為です」と決めることではなく、
自分が楽になることで、誰かがちょっと困っていないか。
そこを想像すること。
それでも僕は避けないことがある
ここまで偉そうに書いておいてなんだが、僕も大して立派ではない。
前から足が出ている。
避ければいい。
身体を少し横にずらせば終わる。
それなのに、
このまま行ったろ。
と思う。
これは完全に僕の意地だ。
相手が足を出している。
僕は避けられる。
でも避けない。
もし本当にぶつかったら、僕だって「全面的に被害者です」という顔はできないだろう。
ぶつかる可能性を認識しながら直進しているのだから。
マナーについて八千字近く考えている人間の行動とは思えない。
でも、やってしまう。
たぶん僕の中にも心理がある。
「なぜ僕が避けなければならないんだ」
という小さな反発。
相手が作った障害物なのだから、相手が片づけてくれ。
そう思っている。
つまり僕も僕で、自分の価値観を通そうとしている。
足を組む人の心理を考えていたら、途中から僕自身の面倒くさい心理まで出てきた。
人間とは面倒だ。
そして今日も電車に乗る。
前を見る。
いた。
足を組んでいる人。
靴が通路に出ている。
もしかすると、朝から立ちっぱなしだったのかもしれない。
仕事で疲れているのかもしれない。
ただの癖かもしれない。
その姿勢が一番落ち着くのかもしれない。
自分を格好よく見せたいのかもしれない。
本人は足を組んでいることすら意識していないのかもしれない。
僕には分からない。
いろんな理由がある。
人それぞれだ。
僕はその人の一日を知らない。
だから、足を組んでいるというだけで、その人の性格まで決めつけるのはやめようと思う。
少し優しい気持ちで、通路を歩く。
あと一メートル。
まだ足は出ている。
五十センチ。
まだだ。
三十センチ。
スッ。
足が引っ込んだ。
今日もぶつからなかった。
よかった。
そして僕は、また少しだけ思う。
勝った。
だから何に?
足を組む理由は、人それぞれだ。
身体的な理由もある。
心理的な理由もある。
疲れも、癖も、その日の事情もある。
いくつもの理由が混ざっていることだってある。
それは分かった。
理解もした。
ただ、一つだけお願いしたい。
満員電車ではやめとけ。
