僕は高級料理店が苦手である。
別に、高級な料理が嫌いなわけではない。おいしいものは好きだ。むしろ大好きである。
ただ、高級料理店という空間がどうにも落ち着かない。
きれいに整えられたテーブル。静かな店内。丁寧すぎる接客。どこか緊張感のある雰囲気。
なぜだろう。
食事をしに来ただけなのに、妙に気を使ってしまう。
一方、街中にある普通の洋食屋は好きだ。
特別きれいな内装でもない。おしゃれな照明があるわけでもない。椅子やテーブルだって、ごく普通のものだ。
そこで800円のハンバーグを食べる。
「うまっ!」
感動である。
しかも、不思議なことに、初めて入った店なのに懐かしさを感じることがある。
店主のことも知らない。昔から通っていたわけでもない。それなのに、なぜか落ち着く。
この違いは何なのだろう。
高級料理店のほうが、お金をかけて快適な空間を作っているはずなのに、僕は安い洋食屋のほうが居心地よく感じる。
僕は一体、料理店に何を求めているのだろうか。
高級料理店は、なぜか入った瞬間から緊張する
高級料理店には独特の空気がある。
まず、店内が静かだ。
大きな声で話すのは、何となくためらわれる。椅子を引く音さえ気になる。
テーブルには、きれいな食器が並んでいる。
ナイフ。フォーク。スプーン。ナプキン。
一体、どれから使えばいいのだろう。
もちろん、基本的なマナーくらいは知っているつもりだ。
しかし、普段の食事でナイフとフォークの順番を考えることなど、ほとんどない。
僕は食事をしたいのであって、テーブルマナーの試験を受けに来たわけではない。
しかも、店員の接客が丁寧だ。
「いらっしゃいませ」
「こちらへどうぞ」
「本日のお料理は……」
ありがたい。非常にありがたい。
ただ、丁寧に接客されればされるほど、こちらも丁寧に振る舞わなければならない気がする。
姿勢を正す。
言葉遣いを気にする。
料理を食べる速度まで意識する。
……。
僕は何をしているのだろう。
食事とは、もっと気軽なものではなかっただろうか。
お腹がすいた。
何か食べたい。
おいしかった。
本来は、それだけで十分なはずだ。
しかし、高級料理店では食べること以外に考えることが増えてしまう。
せっかくお金を払っているのに、なぜ僕が緊張しているのだろう。
高級料理店が苦手な心理とは?
高級料理店が苦手な理由は、単に値段が高いからではないと思う。
僕の場合、むしろ空間や雰囲気に対する苦手意識が大きい。
考えられる心理を整理してみよう。
① 周囲から評価されているように感じる
高級料理店では、服装や食べ方、話し方などを意識しやすい。
実際には誰も気にしていないかもしれない。
それでも、どこかで見られているような気分になる。
ナイフの持ち方は合っているだろうか。
料理を食べる順番は正しいだろうか。
声が大きすぎないだろうか。
そんなことを考えていると、肝心の料理に集中できない。
僕は料理を味わいたいのであって、自分の振る舞いを監視したいわけではない。
② 慣れない空間に緊張する
人は慣れない環境では、どうしても周囲を意識しやすい。
普段から高級料理店に通っている人なら、何とも思わないのかもしれない。
しかし、僕にとっては非日常である。
何が普通なのかわからない。
どこまで自由にしていいのかわからない。
その結果、必要以上に気を使ってしまう。
③ 丁寧な接客に気疲れする
高級店の接客は、細かなところまで行き届いていることが多い。
水を注いでくれる。
料理を説明してくれる。
食べ終わる頃合いを見て、お皿を下げてくれる。
素晴らしいサービスだと思う。
ただ、僕は少し放っておいてほしい。
食事中に何度も人が近づいてくると、そのたびに意識が店員へ向いてしまう。
僕は気を使われると、気を使い返してしまう。
結果として、客であるはずの僕が疲れてしまうのだ。
④ 自分のペースで食事をしたい
僕は、自分の好きなように食べたい。
好きなものを注文して、好きな順番で食べる。
おいしかったら「うまっ」と言う。
それでいい。
しかし、かしこまった店では、食事の進行にも一定の流れがある。
料理が順番に運ばれてくる。
説明を聞く。
食べ終わる。
次の料理を待つ。
その流れを楽しめる人もいるだろう。
ただ、僕は少し窮屈に感じてしまう。
食事を楽しむためのルールが、僕にとっては食事を楽しみにくくする原因になっているのかもしれない。
4万円の寿司。そら美味いやろと思ってしまう
もう一つ、高級料理店が苦手な理由がある。
それは、値段に対する満足度だ。
たとえば、4万円の寿司を食べたとしよう。
おいしい。
ものすごくおいしい。
口の中でとろける。
感動するほどおいしい。
……。
いや、4万円やぞ。
そら美味いやろ。
むしろ、まずかったら大事件である。
もちろん、4万円の寿司には、それだけの理由があるのだろう。
食材の仕入れ、職人の技術、仕込み、店の設備、接客。
簡単には真似できない仕事が積み重なっているはずだ。
それは理解している。
しかし、僕が客として感じる満足度は、必ずしも値段に比例しない。
4万円の寿司は、4,000円の寿司の10倍おいしいのだろうか。
いや、そもそも味を10倍という数字で表すこと自体がおかしい。
おいしさは計算できない。
それでも、つい考えてしまう。
4万円も払ったのだから、おいしくて当然ではないか。
僕の中では、食べる前から期待値が高くなっている。
そして、実際においしかったとしても、
「まあ、4万円やしな」
と思ってしまう。
何とも損な性格である。
800円のハンバーグで感動してしまう
一方、街中の洋食屋で800円のハンバーグを食べる。
特別な食材を使っているとは聞いていない。
料理の説明もない。
ただ、ハンバーグが運ばれてくる。
一口食べる。
「うまっ!」
これである。
この感動が好きなのだ。
800円で、こんなにおいしいものが食べられるのか。
得した気分になる。
しかも、気取らずに食べられる。
ナイフとフォークをどう使うかなんて、いちいち考えない。
ソースをつける。
ご飯を食べる。
またハンバーグを食べる。
おいしい。
幸せである。
僕にとっては、これだけで十分なのだ。
4万円の寿司がおいしいことと、800円のハンバーグがおいしいことは、もちろん矛盾しない。
どちらもおいしいのだろう。
ただ、僕が感動するのは、必ずしも高い料理ではない。
むしろ、安い料理が期待を大きく超えてきたときのほうが、強く印象に残ることがある。
4万円の寿司には4万円分の期待をしてしまう。800円のハンバーグには、800円分の期待しかしていない。
その差が、感動の大きさに影響しているのかもしれない。
高い料理ほど満足度も高くなるのか
価格と満足度は、必ずしも比例しない。
たとえば、1,000円の食事をして、ものすごく満足したとする。
では、1万円払えば10倍満足できるのだろうか。
そんなことはない。
食事には、ある程度の満足に達すると、それ以上お金をかけても感動が大きく増えるとは限らない面がある。
もちろん、高い料理にしかない味や体験もあるだろう。
しかし、それをどれだけ価値あるものと感じるかは、人によって違う。
僕は、800円のハンバーグで十分に幸せになれる。
そう考えると、残りの3万9,200円で何ができるだろう。
本を買える。
何度も外食できる。
別の日にも、おいしいものを食べられる。
いや、別に4万円の寿司を食べる人を否定したいわけではない。
その一食に大きな価値を感じるなら、それは素晴らしいことだ。
ただ、僕は違う。
僕にとっての満足は、料理の値段では決まらない。
むしろ、支払った金額に対して、どれだけ幸せな気持ちになれたかが重要なのだと思う。
高い料理を食べたという満足感と、おいしい料理を食べたという満足感は、似ているようで違うのかもしれない。
高級料理店には、店主のセンスを押し付けられるような感覚がある
そして、僕が高級料理店を苦手とする理由の中でも、特に気になることがある。
それは、店主のセンスだ。
高級料理店には、店主や料理人のこだわりが詰まっている。
料理の盛り付け。
食器の形。
照明の明るさ。
椅子やテーブル。
壁の色。
店内に流れる音楽。
すべてが計算されているように感じる。
もちろん、それ自体は悪いことではない。
むしろ、素晴らしい仕事だと思う。
ただ、僕にはときどき、そのこだわりを押し付けられているように感じられるのだ。
「これが俺の世界観だ」
「これが俺のセンスだ」
「俺の料理を食え」
そんな無言の圧力を感じることがある。
実際に店主がそんなことを考えているわけではないだろう。
あくまで僕が勝手に感じてしまうものだ。
しかし、どうにも落ち着かない。
見たこともない料理が出てくる。
大きなお皿の真ん中に、小さな料理が置かれている。
何なのかわからない。
店員が丁寧に説明してくれる。
食材の産地。
調理方法。
料理人のこだわり。
なるほど。
素晴らしい。
しかし、僕は思う。
いや、普通に飯を食わせてくれ。
もちろん、説明を聞くこと自体が楽しい人もいるだろう。
料理の背景を知ることで、味わいが深まることもあるはずだ。
ただ、僕はそこまで求めていない。
食事をするために、料理人の思想まで理解しなければならないような気分になるのが苦手なのだ。
僕は食事をしに来たのであって、個展を見に来たわけではない
高級料理店の料理は、ときどき芸術作品のように見える。
美しい盛り付け。
独創的な組み合わせ。
見たこともない食材。
料理人の個性が強く表れている。
それを楽しむ人がいるのはわかる。
料理も一つの表現なのだろう。
しかし、僕は料理人の作品を鑑賞したいわけではない。
ただ、おいしいものを食べたいのだ。
美術館なら、作品をじっくり眺める。
作者の意図を考える。
表現の意味を想像する。
それはそれで楽しい。
しかし、食事の時間にまで同じことをしたいかと聞かれると、僕は少し違う。
料理が運ばれてくる。
説明を聞く。
味わう。
料理人の意図を理解しようとする。
……。
いつの間にか、食事が鑑賞になっている。
僕は食事をしに来たのであって、店主の個展を鑑賞しに来たわけではない。
もちろん、料理人がこだわること自体は素晴らしい。
ただ、そのこだわりを客がどこまで受け取るかは、自由であってほしい。
僕は、何も考えずに「うまっ」と言いたいのである。
街の洋食屋には、店主の存在が見えてこない
一方、街中にある普通の洋食屋はどうだろう。
特別おしゃれな内装ではない。
高級な食器もない。
料理の説明もない。
注文すると、ハンバーグが運ばれてくる。
それだけだ。
店主がどんな哲学を持っているのか。
なぜこの皿を選んだのか。
どんな世界観を表現したいのか。
そんなことは、何も考えない。
不思議なことに、店主の存在が前面に出てこないのだ。
もちろん、店主にもこだわりはあるだろう。
何年も試行錯誤して作ったハンバーグかもしれない。
ソースにも秘密があるのかもしれない。
食材の仕入れにも、譲れない考えがあるのかもしれない。
しかし、それを客に意識させない。
ただ、ハンバーグが出てくる。
食べる。
おいしい。
それで完結する。
店主のこだわりがないのではない。こだわりを押し付けられているように感じないのだ。
これが、僕には心地よい。
店主のことを知らなくてもいい。
料理の背景を理解しなくてもいい。
ただ、おいしく食べればいい。
その自由さが好きなのだと思う。
高級料理店では、客なのに主役になれない気がする
高級料理店では、料理人の技術や店の世界観が主役になっているように感じることがある。
もちろん、客を楽しませるために作られた空間なのだろう。
しかし、僕にはどうしても、店の雰囲気に自分を合わせている感覚がある。
声を小さくする。
姿勢を正す。
料理の説明を聞く。
店の流れに従う。
客である僕が、店の世界観に入っていく。
一方、街の洋食屋では、そんなことを考えない。
普段どおりの自分でいられる。
お腹がすいたら注文する。
料理が来たら食べる。
おいしかったら喜ぶ。
店の世界観を理解する必要もない。
つまり、僕が食事の主役になれるのだ。
高級料理店では、僕が料理に合わせている。
街の洋食屋では、料理が僕の日常に入ってくる。
そんな違いを感じる。
もちろん、これは僕個人の感覚である。
高級料理店でも自然体で楽しめる人はいるだろうし、店主の個性を味わうことこそが楽しみだという人もいるだろう。
ただ、僕はそうではない。
僕は店主のセンスに合わせたいのではない。自分の好きなように食事を楽しみたいのだ。
なぜ古びた洋食屋に温もりを感じるのか
そして、もう一つ不思議なことがある。
僕は、街の普通の洋食屋に温もりを感じることがある。
特別きれいな店ではない。
内装も新しくない。
椅子やテーブルも、ごく普通のものだ。
それなのに、落ち着く。
むしろ、少し古びた雰囲気が心地よい。
なぜだろう。
高級料理店のほうが、快適に過ごせるように設計されているはずだ。
照明も、音楽も、家具も、細かく考えられている。
しかし、僕は普通の洋食屋のほうが安心する。
もしかすると、完璧に整えられた空間より、多少の生活感がある空間のほうが、自分も自然体でいられるのかもしれない。
高級料理店では、店内のすべてが美しく整っている。
だからこそ、自分もその空間にふさわしく振る舞わなければならない気がする。
一方、街の洋食屋には、そんな緊張感がない。
少し古いテーブル。
見慣れた食器。
厨房から聞こえる調理の音。
どれも特別なものではない。
しかし、そこには人が日常を営んできた気配がある。
何十年も続いている店なのかもしれない。
毎日のように同じ席に座る常連客がいるのかもしれない。
そんなことを想像すると、なぜか温かい気持ちになる。
高級料理店には完成された美しさがある。街の洋食屋には、誰かの暮らしの気配がある。
僕が落ち着くのは、後者なのだろう。
初めて入った店なのに、なぜか懐かしい
ここが、最も不思議なところである。
僕は、初めて入った洋食屋でも懐かしさを感じることがある。
昔から通っていたわけではない。
店主と知り合いでもない。
その店に思い出なんて、一つもない。
それなのに、なぜか懐かしい。
これは一体、どういうことなのだろう。
普通、懐かしいという感情は、過去の記憶から生まれるものだと思う。
昔住んでいた町。
子どもの頃に通った店。
家族と食べた料理。
そうした記憶があるから、懐かしく感じるのだろう。
しかし、初めて入った店には、その店自体の記憶がない。
では、何を懐かしんでいるのか。
もしかすると、特定の店ではなく、自分の中にある「昔ながらの食堂」というイメージに懐かしさを感じているのかもしれない。
どこかで見たことのある椅子。
昔からありそうなメニュー。
飾り気のない店内。
厨房から聞こえる音。
それらが、過去に経験したさまざまな食事の記憶と重なっている可能性がある。
一つ一つは覚えていなくても、雰囲気として残っているのだろうか。
考えてみれば、不思議な話である。
初めて来た場所なのに、帰ってきたような気持ちになる。
しかも、そこには800円のハンバーグがある。
何という幸せな空間だろう。
高級料理店は非日常。街の洋食屋は日常
高級料理店の魅力の一つは、非日常を味わえることなのだと思う。
普段とは違う空間。
特別な料理。
洗練された接客。
いつもより少しおしゃれをして、特別な時間を過ごす。
それを楽しみにしている人もいるだろう。
記念日や誕生日に高級料理店へ行く。
素敵なことだと思う。
しかし、僕は非日常を求めていないのかもしれない。
むしろ、日常の中にある小さな幸せが好きなのだ。
普通の街を歩く。
何となく気になった洋食屋に入る。
800円のハンバーグを注文する。
食べる。
「うまっ!」
それだけで十分に幸せである。
特別な演出もいらない。
豪華な内装もいらない。
料理人の長い説明もいらない。
ただ、おいしい料理と、落ち着ける空間があればいい。
高級料理店は、僕を非日常へ連れていこうとする。
一方、街の洋食屋は、初めてなのに日常へ帰ってきたような気持ちにさせる。
この違いは大きい。
僕が食事に求めているのは、特別な体験ではなく、安心しておいしいものを食べられる時間なのかもしれない。
高級料理店を楽しめる人がうらやましくもある
もちろん、高級料理店を楽しめる人を否定したいわけではない。
むしろ、少しうらやましいとも思う。
料理人のこだわりを楽しむ。
食材の違いを味わう。
美しい盛り付けに感動する。
空間や接客も含めて、一つの体験として楽しむ。
そういう感性があるのは素敵なことだ。
僕には、そこまでの価値を感じられないだけなのだろう。
同じ4万円の寿司でも、ある人にとっては忘れられない体験になる。
一方、僕は「そら美味いやろ」と思ってしまう。
同じ800円のハンバーグでも、ある人にとっては普通の昼食にすぎない。
一方、僕は「うまっ!」と感動する。
結局、満足度は値段だけでは決まらない。
何に価値を感じるかによって変わるのだ。
高級料理店の洗練された空間が好きな人もいれば、僕のように街の洋食屋の生活感が好きな人もいる。
どちらが正しいという話ではない。
ただ、僕は高級なものをありがたがるより、自分が本当に心地よいと思えるものを大切にしたい。
僕は高級料理が嫌いなのではない
改めて考えてみると、僕は高級料理そのものが嫌いなのではない。
おいしい料理は好きだ。
丁寧な仕事にも敬意を感じる。
料理人の技術や努力も、素晴らしいものだと思う。
ただ、かしこまった空間が苦手なのだ。
店主の世界観を押し付けられているように感じることが苦手なのだ。
そして、高いお金を払えば払うほど、満足への期待が大きくなってしまう。
4万円の寿司を食べて、おいしいと感じる。
そら美味いやろ。
一方、800円のハンバーグを食べて、おいしいと感じる。
うまっ!
僕は、後者の感動が好きなのだ。
特別きれいではない店内。
どこか懐かしい椅子やテーブル。
厨房から聞こえる調理の音。
店主のこだわりを意識することもなく、ただ料理を食べる。
そして、なぜか温かい気持ちになる。
初めて入った店なのに、昔から知っている場所のように感じる。
不思議である。
もしかすると、僕が求めているのは高級な料理でも、特別なサービスでもないのかもしれない。
ただ、気を使わずに食事ができる場所。
自分のままでいられる場所。
そして、安くておいしい料理。
それだけなのだろう。
高級料理店には、店主のセンスがある。
街の洋食屋には、僕の居場所がある。
さて、今日もどこかでハンバーグを食べよう。
できれば1,000円以内で。
もちろん、おいしい店がいい。
内装は特別きれいでなくても構わない。
店主のこだわりも、別に説明してくれなくていい。
ただ、ハンバーグを出してほしい。
そして、一口食べて、こう言いたい。
「うまっ!」
僕にとっては、それが最高の贅沢なのだ。
