『はじめてのおつかい』というテレビ番組がある。
小さな子どもが、親から頼まれたものを買うために、一人で家を出る。
小さな体で一生懸命歩く。
途中で道を間違えたり、頼まれたものを忘れたり、泣いてしまったり。それでもなんとか目的地までたどり着き、買い物をして、家まで帰ってくる。
昔は何気なく見ていた。
でも、大人になった今になって思う。
あの子たちはすごい。
本当にすごい。
なぜなら僕にも、はじめてのおつかいの記憶があるからだ。
そして僕は、
全然できなかった。
僕のはじめてのおつかいは、徒歩2、3分だった
正確に何歳だったのかは覚えていない。
何を買うように頼まれたのかも、かなり記憶が曖昧だ。
たしか、近所の文房具屋へ行って、消しゴムか何かを買ってくる。
そんなおつかいだったと思う。
家から文房具屋までは近い。
徒歩2、3分くらいだったはずだ。
信じられないほど遠い場所へ行かされたわけではない。
電車にも乗らない。
バスにも乗らない。
山も越えない。
川も渡らない。
外国でもない。
近所の文房具屋である。
徒歩2、3分。
はじめてのおつかいとしては、かなり優しい難易度だったと思う。
ただし、正しい方向へ歩いた場合に限る。
僕は家を出た。
そして、
颯爽と逆方向へ歩いていった。
なぜなのかは分からない。
今となっては記憶も曖昧なのだが、おそらく僕自身は文房具屋を目指していた。
最初から遊びに行こうとしていたわけではない。
「おつかいなんて嫌だ。逃げてやる」
と思っていたわけでもない。
僕の中ではちゃんと、
「文房具屋へ行く」
という目的があったのだと思う。
ただ、
方向だけが違った。
しかも、おそらく迷いなく歩いていた。
こっちだ。
文房具屋はこっちだ。
幼い僕はそう信じて、目的地とは反対方向へ進んでいった。
今なら分かる。
これは偶然ではない。
僕は現在も、とんでもなく方向音痴である。
知らない駅から出ると、かなりの確率で方向を間違える。
地図を見ても怪しい。
自分では「こっちだ」と思って歩き始めるのだが、その自信と正解率がまったく比例していない。
むしろ、
「絶対こっち」
と思っているときほど危ない。
どうやら僕の方向感覚は、幼少期から一貫しているらしい。
文房具屋がない
当然だが、いくら歩いても文房具屋は現れない。
だって逆方向だから。
ここからの記憶はさらに曖昧なのだが、僕は途中で駄菓子屋に入ったような気がする。
もしかすると、
「文房具屋じゃなくて、ここだったかな」
と思ったのかもしれない。
これも子どもらしい。
大人なら、
「文房具屋がない。ということは、道を間違えたのでは?」
と考える。
しかし幼い僕は、自分が歩いてきた方向ではなく、
最初に与えられた情報のほうを疑った可能性がある。
文房具屋だったっけ。
駄菓子屋だったっけ。
こっちだったような気もする。
そして僕は、駄菓子屋でお菓子を選び始めた。
ただ、ここで不思議なことが起きる。
お菓子を選んでいる途中で、
違和感があった。
「あれ?」
何かがおかしい。
僕は何をしに来たんだ。
お菓子だったか。
いや。
違う。
文房具屋じゃなかったか。
たしか、何か文房具を買うんじゃなかったか。
そこで僕の頭の中に、本来の目的が戻ってきた。
そして、
パニックになった。
とりあえず公園へ走った
文房具屋に行かなければならない。
でも、文房具屋がどこにあるのか分からない。
自分が正しいと思って歩いてきた道には、文房具屋がなかった。
どうすればいい。
幼い僕は考えた。
いや、おそらくその場では、まともに考えられていなかった。
そして僕は行動した。
とりあえず公園に走った。
なぜだ。
文房具屋は公園にはない。
消しゴムも売っていない。
問題は何一つ解決していない。
しかし、パニックになった幼い僕にとって、公園は知っている場所だったのだと思う。
知らない状況になった。
どうすればいいのか分からない。
だから、とりあえず自分が知っている場所へ行った。
公園に着いた僕は、
ブランコに乗った。
そして考えた。
文房具屋はどこだ。
どうすればいい。
僕は何をしているんだ。
ブランコに揺られながら、一人で考えた。
そして、ついに一つの結論を出した。
いったん帰ろう。
今考えると、意外と悪くない判断である。
分からなくなった。
迷った。
目的地へ行けない。
それなら、無理に探し回るより、一度家に帰る。
幼いなりに、最終的にはかなり安全な選択をしている。
ただし、
なぜその結論を出すためにブランコに乗る必要があったのかは分からない。
僕にとっては必要だったのだろう。
緊急作戦会議である。
家に帰ると、騒然としていた
ブランコ会議を終えた僕は家へ帰った。
すると、
家が騒然としていた。
僕を探していたらしい。
そりゃそうだ。
家から徒歩2、3分の文房具屋へ行ったはずの子どもが帰ってこない。
最初は、
「遅いな」
くらいだったのかもしれない。
でも、あまりにも帰ってこない。
心配になって文房具屋へ確認しに行く。
「うちの子、来ませんでしたか?」
店の人は答える。
「来てませんよ」
大事件である。
家を出た。
徒歩2、3分先の店へ向かった。
しかし、その店には来ていない。
では、どこへ行ったのか。
親からすれば、
子どもが消えた。
そりゃ騒然とする。
一方その頃、当の本人は、
駄菓子屋で違和感を覚え、
公園まで走り、
ブランコに乗り、
一人で会議をしていた。
そして、
「いったん帰ろう」
と結論を出して帰宅した。
家に帰ると、みんな慌てている。
僕としては、
「ん?」
という感じだった。
自分の中では、そこまでの大事件ではなかったのだと思う。
おつかいに行った。
道を間違えた。
よく分からなくなった。
公園で考えた。
家に帰った。
以上。
しかし親から見れば違う。
徒歩2、3分の場所へ行った子どもが、そこに到着していない。
しかも、どこにいるのか分からない。
同じ出来事なのに、見えている景色がまったく違う。
今になって考えると、本当に申し訳ない。
ただ、幼い僕には、
「自分が帰ってこないことで、親がどれだけ心配するか」
まで想像する力はなかったのだろう。
そもそも「おつかい」って、ものすごく難しくないか
大人になって考えてみると、不思議である。
僕たちは簡単に、
「おつかいに行く」
と言う。
でも、おつかいって本当に簡単なのだろうか。
たとえば、
「文房具屋で消しゴムを買ってきて」
という指示。
大人なら何でもない。
財布を持つ。
家を出る。
文房具屋へ行く。
消しゴムを探す。
レジでお金を払う。
家へ帰る。
終わり。
でも、この短い行動の中には、いくつもの能力が必要になる。
子どもにとっては、かなり高度な総合問題なのではないか。
では一体、どういう能力が必要なのか。
そして、
僕は何が足りていなかったんだろう。
少し考えてみたい。
① 指示を理解する力
まず必要なのは、当然ながら親の指示を理解する力だ。
どこへ行くのか。
何を買うのか。
何個買うのか。
買ったあとどうするのか。
「文房具屋で消しゴムを一つ買って帰ってきて」
という短い言葉でも、
目的地。
商品。
個数。
その後の行動。
いくつもの情報が入っている。
大人には簡単でも、小さな子どもには立派なミッションである。
僕の場合、この部分はおそらく理解していた。
たぶん。
文房具屋へ行こうとはしていた。
方向は逆だったが。
② 覚えておく力
指示は、聞いた瞬間に理解すれば終わりではない。
家を出たあとも覚えておかなければならない。
心理学では、情報を一時的に保持しながら何かをする働きとして「ワーキングメモリ」が研究されている。
おつかいなら、
「文房具屋」
「消しゴム」
「買ったら帰る」
といった情報を頭の中に置いたまま、歩いたり、周囲を見たり、店を探したりする必要がある。
これが意外と難しい。
外には情報が多すぎる。
車が走っている。
犬がいる。
友達がいる。
公園がある。
駄菓子屋がある。
お菓子がある。
子どもからすれば、全部が強烈だ。
その中で、
「僕は消しゴムを買いに来た」
という目的を保持し続ける必要がある。
僕は途中でお菓子を選んでいた。
ということは、
一回、消えている。
そして途中で、
「あれ?」
となった。
完全に忘れていたわけではない。
どこかに残っていたのだろう。
お菓子を選びながら、記憶が帰ってきた。
遅い。
でも帰ってきた。
③ 目的を維持する力
これは「覚えている」と少し違う。
覚えていても、その目的に沿って行動できるとは限らない。
おつかいの目的は、
「頼まれたものを買って帰ること」。
途中に面白そうなものがあっても、最終的にはそこへ戻ってこなければならない。
こうした目標に向かって自分の行動を調整する働きには、「実行機能」と呼ばれる認知機能が関わる。
簡単に言えば、
「今、自分は何をするべきなのか」を保ちながら、自分を動かす力。
これがおつかいにはかなり重要なのだと思う。
僕の場合、
文房具屋へ行く。
↓
文房具屋がない。
↓
駄菓子屋に入る。
↓
お菓子を選ぶ。
となっている。
ミッションが途中で変わっている。
しかも、おそらく本人には変更した自覚がない。
「文房具屋に行く」が、いつの間にか「この店で何か買う」くらいに変換されていたのかもしれない。
恐ろしい。
④ 誘惑を抑える力
おつかいには、誘惑を抑える力も必要になる。
お菓子。
おもちゃ。
公園。
友達。
犬。
虫。
子どもにとって街は誘惑だらけである。
「気になる。でも今はおつかい中だから行かない」
と自分の行動を止める必要がある。
これは実行機能の中でも「抑制」と呼ばれる働きに近い。
ただ、僕の場合は少し違う。
駄菓子屋に入ったからといって、
「お菓子食べたい! おつかいなんかどうでもいい!」
となったわけではなさそうなのだ。
僕は普通にお菓子を選び、
途中で、
「あれ?」
となっている。
つまり、
誘惑に負けたというより、目的そのものを見失っている。
そして結局、お菓子は買わなかった。
そう考えると、
誘惑には勝った。
しかし、
おつかいには負けた。
⑤ 方向感覚
これは必要だ。
間違いなく必要だ。
店がどこにあるのか。
どちらへ行けばいいのか。
どの道を曲がればいいのか。
家へはどう戻るのか。
いくら他の能力が優秀でも、目的地とは反対方向へ進めば到着しない。
僕はここが致命的だった。
家から徒歩2、3分。
かなり近い。
でも距離の問題ではない。
2、3分でも、逆に歩けば着かない。
そして残念なお知らせがある。
僕は今でも、とんでもなく方向音痴だ。
つまり、これは「あの頃はまだ幼かったから」で全部片づけられない。
あの日だけの事故ではなかった。
僕は昔から、
方向が分からない人だった。
三十年以上たっても、ここだけあまり成長していない。
⑥ 間違いに気づく力
ただし、僕にも能力はあった。
駄菓子屋でお菓子を選んでいる途中、
「あれ?」
と思った。
これは結構重要なのではないか。
自分がやっていることと、本来やるべきことがズレている。
そのズレを認識した。
僕は完全に何も分かっていなかったわけではない。
間違いに気づく能力はあった。
問題はその次だった。
⑦ 間違いを修正する力
間違えた。
では、どうするか。
ここからが難しい。
大人なら、
「一度来た道を戻ろう」
「誰かに文房具屋の場所を聞こう」
「家へ戻って確認しよう」
など、いくつかの選択肢を考えられる。
幼い僕は違った。
間違いに気づいた。
パニックになった。
そして、
公園へ走った。
間違いに気づく能力はあった。
間違いを直す能力がなかった。
これが、当時の僕に最も足りていなかった能力の一つなのかもしれない。
人生でもそうだが、
「間違っていると分かること」と、
「じゃあ、どう修正するか」は別の能力なのだ。
⑧ パニックになったときに落ち着く力
ただ、公園へ走った行動も、今になって考えると完全な失敗とは言い切れない。
知らない状況になった。
何をすればいいのか分からない。
怖くなった。
そこで僕は、知っている公園へ行った。
そしてブランコに乗った。
しばらく考えた。
「いったん帰ろう」
という結論を出した。
これ、意外と悪くない。
パニックのまま知らない道を走り続けなかった。
遠くへ行かなかった。
一度止まった。
考えた。
そして安全な場所である家へ戻ることにした。
もちろん、
「まず公園へ行く」
という選択が正解だったかは怪しい。
しかし、
ブランコに乗って落ち着いた結果、行動を修正できた。
そう考えると、幼い僕なりの感情調整だったのかもしれない。
大人だってパニックになったとき、
コーヒーを飲む。
椅子に座る。
少し歩く。
深呼吸する。
いったん別の場所へ行く。
そんなことをする。
僕の場合、それが、
ブランコだった。
⑨ 人に助けを求める力
今なら思う。
駄菓子屋の人に聞けばよかったのだ。
「文房具屋さん、どこ?」
たったこれだけで解決した可能性がある。
あるいは、近くの知っている大人を探す。
分からないときに、
「分からない」
と言える。
困ったときに、
「助けて」
と言える。
これも立派な能力だと思う。
子どもの一人行動では、全部を自分だけで解決する必要はない。
むしろ、自分では解決できない状況を判断して、安全な相手に助けを求められることのほうが重要な場合もある。
幼い僕には、その発想がなかった。
公園へ行った。
助けを求める相手として、
人間ではなくブランコを選んだ。
ブランコは何も答えてくれない。
ただ揺れるだけだ。
それでも最終的に帰宅できたのだから、僕とは相性がよかったのかもしれない。
⑩ 交通ルールと危険を判断する力
そして、忘れてはいけないのが安全面である。
信号を見る。
横断歩道を渡る。
車が来ていないか確認する。
自転車にも気をつける。
知らない人についていかない。
道路へ急に飛び出さない。
おつかいは「買い物」だけではない。
一人で街を移動する行為でもある。
ここが、単純に「何歳になったらできる」と言い切れない理由なのだと思う。
同じ5歳でも、
家の前の一本道を50メートル歩けば着く店と、
大きな交差点をいくつも渡らなければならない店では、難易度がまったく違う。
年齢だけではなく、
その子がどれくらい交通ルールを理解しているのか。
道を覚えているのか。
周囲を確認できるのか。
そして、その地域の交通環境がどうなのか。
いくつもの条件を合わせて考える必要がある。
⑪ 買い物そのものをする力
ようやく店に着いた。
でも、おつかいは終わらない。
頼まれた商品を探す。
似た商品から正しいものを選ぶ。
分からなければ店員さんに聞く。
値段を見る。
レジへ持っていく。
お金を渡す。
商品とお釣りを受け取る。
忘れ物をせず店を出る。
そして家へ帰る。
こう考えると、
「買い物ができる」と「おつかいができる」は違う。
親と一緒なら買い物ができる子でも、一人のおつかいになると難易度は一気に上がる。
親がいないからだ。
いつもなら横にいる大人が、
「こっちだよ」
「それじゃないよ」
「信号赤だよ」
「店員さんに聞いてみよう」
「お金出して」
と補助してくれる。
一人のおつかいでは、その補助を自分の頭の中でやらなければならない。
だから、おつかいとは、
子どものいろいろな能力を同時に使う総合試験
なのかもしれない。
では、はじめてのおつかいは何歳から?
調べてみると、やはり「○歳になれば大丈夫」と一律には決めにくいようだ。
子どもの発達には個人差がある。
さらに、同じ年齢でも環境によって難易度がまったく違う。
普段から何度も歩いている道なのか。
交通量は多いのか。
横断歩道はいくつあるのか。
店員さんと話す必要があるのか。
どれくらいの距離なのか。
困ったときに助けを求められる場所があるのか。
こうした条件で大きく変わる。
つまり、
「何歳から?」だけでは決められない。
年齢より、
「この子は、このおつかいを安全に遂行できるだけの力があるか」
を見る必要があるのだと思う。
最初は一緒に歩く。
次は少し離れて見守る。
近くの安全な場所から始める。
知っている店へ行く。
一つだけ買う。
そうやって少しずつ難易度を上げていく。
いきなり「一人で全部やってこい」ではなく、子どもの発達や周囲の環境に合わせて考える。
そのほうが自然なのだろう。
僕には何が足りなかったのか
では、改めて考えてみよう。
幼い僕には、何が足りなかったのか。
指示を理解する力。
たぶん、○。
文房具屋へ行こうとはしていた。
記憶力。
△。
途中で怪しくなった。
目的を維持する力。
△。
なぜか駄菓子屋でお菓子を選んでいる。
誘惑を抑える力。
○。
結局、お菓子は買わなかった。
方向感覚。
×。
しかも現在まで改善が見られない。
間違いに気づく力。
○。
お菓子を選びながら「あれ?」となった。
間違いを修正する力。
△。
最初に選んだ修正方法は、
公園へ走る。
問題解決能力。
△から○。
ブランコ会議を経て、
「いったん帰る」
という安全な結論にはたどり着いた。
帰宅能力。
○。
ちゃんと家には帰ってきた。
そしてもう一つ。
素早さ。
これは、
◎。
僕は颯爽と逆方向へ向かった。
間違った方向へ進む速度だけは申し分なかった。
あの番組の子たちは、やっぱりすごい
そう考えると、『はじめてのおつかい』に出てくる子どもたちはやっぱりすごい。
頼まれたものを覚える。
道を歩く。
車に気をつける。
店を探す。
商品を探す。
人と話す。
お金を払う。
困ったら考える。
泣いても、また歩く。
そして家へ帰る。
大人になると全部が当たり前になってしまう。
でも、子どもにとっては当たり前ではない。
一つひとつ、これまで身につけてきた能力を使っている。
はじめてのおつかいとは、
単に、
「一人で買い物ができました」
というイベントではないのかもしれない。
自分で覚える。
自分で考える。
自分で選ぶ。
自分で失敗する。
そして、自分で帰ってくる。
小さな子どもにとっては、とんでもない冒険なのだ。
僕も冒険した。
かなり冒険した。
ただし、
目的地とは逆方向へ。
今でも、あの日のことをぼんやり覚えている。
文房具屋へ行くはずだった。
なぜか違う方向へ行った。
駄菓子屋でお菓子を選んだ。
途中で、
「あれ?」
と思った。
パニックになった。
公園へ走った。
ブランコに乗った。
考えた。
「いったん帰ろう」
家へ帰った。
家は騒然としていた。
そして僕は、
「ん?」
だった。
はじめてのおつかいは何歳からできるのか。
調べてみても、結局「○歳」と一つの数字では決められない。
その子がどんな力を身につけているのか。
どんな道を歩くのか。
どんな店へ行くのか。
何か起きたとき、自分で安全な選択ができるのか。
そこまで含めて考える必要がある。
僕には、間違いに気づく力はあった。
最後には家へ戻ることもできた。
でも、方向を判断する力や、間違えた直後に正しく修正する力は、まだ足りなかったのだと思う。
そして大人になった今、一つだけ確実に言えることがある。
あの日の僕には、まだ少し早かった。
ただし、
素早さだけは十分だった。
