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棋士はなぜ自分から『参りました』と投了するのか。ボクシングとは真逆の美学。

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僕は将棋が好きだ。

めちゃくちゃ強いわけではない。何十手も先を読めるわけでもないし、プロ棋士の対局を見ていても、解説がなければ何が起きているのか分からないことも多い。

それでも将棋は面白い。

プロ棋士の対局もたまに見る。

一手指しては考える。

また一手指しては考える。

長考に入ると、盤面を見つめたまま何十分も動かないことさえある。

きっと頭の中では、僕には想像もできないほど大量の駒が動いているのだろう。

そんな対局を見ていると、ときどき解説者が言う。

「これはかなり厳しくなりましたね」

そうなの?

僕にはまだ普通に見える。

飛車もいる。

角もいる。

金もいる。

王将もいる。

盤上には駒がたくさんある。

しかし解説者には、もう終わりが見えているらしい。

そして数手進んだところで、負けている棋士が静かに頭を下げる。

「負けました」

あるいは、

「参りました」

対局終了。

待ってくれ。

王将、まだ生きてるぞ。

目次

将棋は「詰み」までやらないことがある

将棋を始めたばかりの頃、僕はこれが不思議だった。

将棋の目的は相手の玉を詰ませることである。

日本将棋連盟の対局規則にも、対局の目的は相手の玉を先に詰ますことだと定められている。一方で、対局は「詰み」だけでなく「相手の投了」によっても終了する。プロやアマ有段者では、負けを悟れば詰む前に投了するのが普通だという。

ルールとしては分かる。

でも、観客としては思う。

最後までやってくれ。

王将が逃げる。

追いかける。

また逃げる。

金を打つ。

銀を打つ。

もう逃げられない。

詰み。

「なるほど。負けたな」

僕にも分かる。

ところが実際には、そのずっと手前で、

「参りました」

となる。

僕だけ置いていかれる。

棋士には見えている。

解説者にも見えている。

将棋に詳しい視聴者にも見えている。

でも僕には見えていない。

みんなが、

「これはもう投了ですね」

みたいな顔をしている中、僕だけ画面の前で、

「いや、まだ王将おるやん」

と思っている。

映画で言えば、刑事がついに犯人のアジトを突き止めたところである。

扉を開ける。

犯人がいる。

刑事と犯人の目が合う。

――終。

いや。

逮捕してくれ。

そこを見に来たんだ。

なぜ負ける側が自分で終わらせるのか

そして、もう一つ不思議なことがある。

将棋では、負ける側が自分で勝負を終わらせる。

これが面白い。

審判が、

「はい、あなたの負けです」

と言うわけではない。

王将が実際に盤上から消えるわけでもない。

まだ合法的に指せる手が残っていることもある。

それでも本人が盤面を見て、

「もう勝てない」

と判断する。

そして自分で言う。

「参りました」

よく考えると、ものすごい行為ではないだろうか。

自分で自分の敗北を宣言するのだ。

僕なら嫌だ。

できることなら誰かに言ってほしい。

「残念ですが、あなたの負けです」

「そうですか。ルールなら仕方ないですね」

という顔をしたい。

しかし将棋では、自分で未来を読み、自分で敗北を理解し、自分の口で認める。

誰かに負けを宣告されるのではない。

自分が一番最初に、自分の負けを認める。

ここに将棋という競技の面白さがあるように思う。

相手がミスするかもしれないやん

とはいえ、僕には一つ疑問がある。

最後までやったらいいのではないだろうか。

だって、相手も人間である。

ミスするかもしれない。

プロ棋士だって人間だ。

絶対に間違えない人はいない。

ものすごく優勢だったのに、一手のミスで形勢が変わることだってある。

だったら最後まで指せばいい。

たとえ勝てる可能性が0.1%しかなくても、その0.1%に賭ければいい。

相手が突然とんでもないところに飛車を動かすかもしれない。

王手を見落とすかもしれない。

駒を持った瞬間に別のことが気になるかもしれない。

「あれ?」

「家の鍵、閉めたっけ?」

ある。

人間ならある。

朝、家を出た。

駅まで来た。

突然不安になる。

「あれ、鍵閉めた?」

もう頭の中は玄関でいっぱいである。

そんな状態で完璧な終盤を指せるだろうか。

もしかすると、対戦相手が急に盤面ではなく玄関のドアを読み始めるかもしれない。

「確か右手に鞄を持って……左手で鍵を……いや、待てよ」

チャンスである。

僕ならそこまで待ちたい。

相手の頭の中から飛車と角が消え、玄関の鍵だけになる瞬間を待ちたい。

しかしプロ棋士は、そんな奇跡を期待して指し続けるわけではない。

勝ち目がないと判断したところで投了する。

これはなぜなのだろう。

野球なら絶対に「参りました」と言わない

将棋の投了について考えていると、他のスポーツではどうなのだろうと思った。

たとえば野球。

9回裏。

二死。

1点差。

こちらの攻撃。

マウンドには、とんでもない守護神が出てきたとする。

今シーズンの防御率は0.00。

誰一人として点を取れていない。

球速160キロ。

変化球もキレキレ。

絶望的である。

打てる気がしない。

そこで打者が打席に入る。

投手を見る。

成績を見る。

少し考える。

そして、そっとバットを地面に置く。

「参りました」

そんなやつはいない。

ベンチから、

「おい!」

と声が飛んでくるだろう。

観客も怒る。

せめて打て。

防御率0.00なのは分かった。

すごい投手なのも分かった。

でも、まだ一球も投げていない。

もしかしたら一球目はボールかもしれない。

二球目もボール。

三球目もボール。

おい。

ちょっと怪しくなってきたぞ。

四球目。

ボール。

四球である。

バットを振らずに出塁できた。

防御率0.00の投手だって人間なのだ。

ど真ん中に失投するかもしれない。

暴投するかもしれない。

野手がエラーするかもしれない。

何が起こるかは、実際にやってみなければ分からない。

だから野球では、どれだけ絶望的でもプレーする。

ところが将棋では違う。

実際にはまだ起きていないことを頭の中で進めて、

「これはもう無理だ」

と判断する。

そして終わる。

なんだか不思議である。

将棋は「未来で負けて、現在で終わる」

野球と将棋の大きな違いは、未来の確定度なのかもしれない。

野球では、どれだけ優秀な投手でも次の一球がどこへ行くかは完全には分からない。

打者がどう反応するかも分からない。

風が吹くかもしれない。

打球がイレギュラーするかもしれない。

人間の身体を使う以上、

「こうなる可能性が高い」

と、

「必ずこうなる」

の間には大きな差がある。

将棋にももちろんミスはある。

しかし終盤になると、選択肢を一つずつ読んでいくことができる。

ここへ逃げたら、この手。

こちらへ逃げたら、この手。

この駒で受けたら、この手。

別の駒で受けても、この手。

全部調べても助からない。

そうなったとき、盤上ではまだ詰んでいなくても、棋士の頭の中ではその先まで進んでいる。

つまり、

未来ではもう負けている。

だから現在に戻ってきて、

「参りました」

と言う。

未来で負けて、現在で勝負を終わらせる。

そんな競技、なかなかない。

それでも相手は人間だ

ただし、ここでやっぱり引っかかる。

未来を読み切ったとしても、それは相手が正しい手を指すことが前提ではないのか。

相手が間違えれば未来は変わる。

そう考えると、投了というのは単なる計算だけではないように思える。

「この局面は理論上負けです」

だけではない。

そこには、

「この相手なら、この勝ちを逃さないだろう」

という判断も入っているのではないだろうか。

これは面白い。

投了は、自分の負けを認める行為である。

同時に、相手の力を認める行為でもある。

「僕にはもう勝ち筋がありません」

そして、

「あなたなら、ここから間違えずに勝つでしょう」

だから終わる。

もちろん、実際の棋士が投了するたびにそんな文章を頭の中で読み上げているわけではない。

でも行為だけを見ると、そういう意味にも見える。

もし僕なら、

「いや、こいつミスるかもしれん」

と、もう少し粘る。

かなり粘る。

相手が嫌な顔をするくらい粘る。

そのうち、

「こいつ、いつ投了すんねん」

と思われる。

それでも粘る。

玄関の鍵を思い出すまで粘る。

だから僕には棋士の「参りました」が格好よく見えるのかもしれない。

「相手のミス待ち」をしない美学

もちろん、将棋でも逆転の可能性があるなら続ける。

少し不利だからといって、すぐに投了するわけではない。

難しい局面なら粘る。

相手に正確な手を何度も要求できるなら戦う。

だから「将棋は相手のミスを期待してはいけない」という単純な話ではない。

ただ、もう勝負が明らかになったところで、

「相手がとんでもないミスをするかもしれない」

という一点だけを頼りに延々と指し続けることを、プロは普通しない。

そこに僕は、将棋独特の美学を感じる。

勝負は勝てる限り続ける。

でも、

負けたと理解したら認める。

この境界線を自分で判断する。

考えてみれば、「最後まで諦めない」より難しいのかもしれない。

最後までやるだけなら、ある意味では判断しなくてもいい。

終わるまで続ければいい。

しかし投了するには、

「ここだ」

と決めなければならない。

まだ指せる。

でも終わる。

この決断が必要になる。

ボクシングは真逆に見える

ここで思い浮かんだのが、ボクシングだった。

僕はボクシングも好きだ。

将棋とボクシング。

一見すると全然違う。

片方は盤を挟んで座っている。

もう片方はリングの上で殴り合う。

静と動。

頭脳と肉体。

もちろん将棋にも体力は必要だし、ボクシングにも高度な頭脳戦があるので、そんな単純に分けられるものではない。

それでも見た目はまるで違う。

そして何より、負け際の美学が真逆に見える。

ボクシングでは、倒されても立ち上がる姿に僕たちは心を動かされる。

強烈なパンチをもらう。

倒れる。

レフェリーがカウントする。

1。

2。

3。

苦しそうだ。

もう無理かもしれない。

それでも床に手をつく。

ロープをつかむ。

立とうとする。

7。

8。

立った。

観客が沸く。

もちろん、立てば何でもいいわけではない。

選手の安全が最優先であり、レフェリーが危険だと判断すれば試合は止められる。JBCの説明でも、ダウン後に立ち上がった選手に深刻なダメージがあると判断された場合は試合がストップされる。また現在は、ラウンド途中にセコンドがタオルを投入して棄権させる運用も認められている。

だから、「倒れても絶対に立つことが正義」という話ではない。

それでもボクシングという競技には、

「まだ戦えるなら立つ」

という、とても分かりやすい美しさがある。

棋士は立てるのに座ったまま終わる

将棋は逆だ。

まだ戦える。

身体は元気である。

駒も残っている。

王将もいる。

時間だって残っているかもしれない。

それでも、

「もう勝てない」

と判断すれば手を止める。

ボクサーは倒されても、

「まだ終わっていない」

と立ち上がる。

棋士はまだ倒されていないのに、

「もう終わっている」

と頭を下げる。

立ち上がる美学と、手を止める美学。

真逆である。

ボクサーが突然「参りました」と言ったら

将棋の投了をボクシングに持ち込んでみる。

最終ラウンド。

両者がリング中央で向かい合う。

相手がジャブを出してくる。

こちらの選手が避ける。

相手の動きを見る。

そして考える。

「このあと右ストレートが来る」

「それを避けたら左フック」

「さらにボディ」

「これは最終的に倒されるな」

突然グローブを下ろす。

「参りました」

会場は騒然である。

レフェリーも、

「え?」

となる。

まだ殴られてないぞ。

セコンドも困る。

観客はもっと困る。

でも将棋では、それに近いことが普通に起きる。

最後の攻撃を実際に受ける必要がない。

その攻撃が成功すると分かれば終わる。

ボクシングなら、

「まだ立っている」

ことが続行の理由になる。

将棋なら、

「この先どうなるか分かった」

ことが終了の理由になる。

同じ勝負なのに面白い。

ボクシングでは他人が止めることもある

もう一つ面白い違いがある。

ボクシングでは、自分がまだ戦いたいと思っていても、試合を止められることがある。

レフェリーが、

「これ以上は危険だ」

と判断する。

セコンドが、

「もう十分だ」

と判断する。

本人はまだ戦いたい。

でも周囲が止める。

なぜなら身体に重大な危険があるからだ。

将棋は身体を殴られる競技ではない。

だから基本的には、自分で盤面を見て、自分で終わりを判断できる。

ここにも対照がある。

ボクシングでは、本人が諦めなくても誰かが止める。

将棋では、誰かに止められる前に本人が負けを認める。

もちろん競技の性質が違うので、そのまま比較できるわけではない。

でも、この違いは面白い。

片方は「まだやれる」と本人が思っていても終わる。

もう片方は、外から見れば「まだやれる」ように見えても、本人が「もう無理だ」と終わらせる。

「最後まで諦めるな」は本当に絶対なのか

僕たちは子どもの頃から、

「最後まで諦めるな」

と何度も言われる。

スポーツ。

受験。

仕事。

夢。

何でもそうだ。

途中でやめると、

「まだできたんじゃない?」

と言われる。

続ける人は褒められる。

諦めなかった人の物語は感動的である。

確かにそうだと思う。

最後まで続けたから成功することもある。

もう無理だと思ったところから状況が変わることもある。

簡単に諦めないことは大切だ。

でも将棋を見ていると、

諦めることにも技術がいるのではないか

と思えてくる。

まだ可能性があるのにやめる。

これはただの諦めかもしれない。

でも、もう可能性がないことを理解してやめる。

これは判断である。

同じ「やめる」でも全然違う。

続ける理由は「可能性」か「意地」か

仕事でも似たようなことがある。

もうどう考えてもうまくいっていない。

本人も薄々分かっている。

でも、

「ここまで頑張ったから」

という理由で続ける。

人間関係でもある。

もうお互いにしんどい。

一緒にいる意味も分からなくなっている。

それでも、

「長く付き合ってきたから」

という理由だけで続ける。

夢だってそうかもしれない。

本当にまだやりたいから続けているのか。

それとも、

「諦めた人間になりたくない」

から続けているのか。

ここは難しい。

もちろん、人生は将棋のように未来を読み切れない。

「ここから絶対に詰みです」

なんて局面は、ほとんどない。

明日突然状況が変わるかもしれない。

だから人生で簡単に「投了」する必要はない。

それでも、

続けることだけを無条件に美しいとするのも違うのではないか。

将棋の「参りました」を見ていると、そう思う。

負けを認めるのは、意外と難しい

人は負けを認めたくない。

これは将棋だけではない。

議論でもそうだ。

明らかに自分が間違っていたとしても、

「でも」

と言いたくなる。

「いや、それはそうなんだけど」

と何かを足したくなる。

最後に一発だけ言い返したくなる。

自分から、

「僕が間違っていました」

と言うのは難しい。

勝負なら、なおさらだろう。

何時間も考えてきた。

その一局のために準備もしてきた。

勝ちたい。

それでも最後には、自分から言う。

「負けました」

これは弱さではない。

むしろ、自分の負けを正確に見る力が必要なのだと思う。

投了するにも棋力がいる

考えてみれば、初心者ほど投了のタイミングが分からない。

僕もそうだ。

自分がどれくらい悪いのか分からない。

まだいける気がする。

王将を逃がす。

また逃がす。

とりあえず金を打つ。

なんとなく銀も打つ。

相手からすれば、

「もう終わってるけどな」

という局面かもしれない。

でも本人には分からない。

負けが見えていないからだ。

強い人は違う。

相手の攻めを読む。

自分の受けを読む。

別の手を探す。

それでも助からない。

そこで初めて、

「負けました」

と言える。

つまり将棋では、

勝つために読む力だけではなく、自分が負けたと理解するためにも読む力が必要なのだ。

これ、すごくないだろうか。

弱いから諦めるのではない。

強いからこそ、早く負けが分かることもある。

負ける側にしか指せない最後の一手

将棋は交互に一手ずつ指す。

先手。

後手。

先手。

後手。

そうやって対局が進んでいく。

でも最後だけ少し違う。

負ける側が、

「参りました」

と言う。

盤上に駒は動かない。

棋譜の上では投了になる。

でも僕には、これも一つの「手」のように見える。

負ける側にしか指せない最後の一手。

勝った側は言えない。

「あなた、もう負けてますよ」

とは言わない。

相手が認めるまで待つ。

そして負けた側が、自分で終わりを決める。

勝者が勝利を宣言するのではなく、敗者が敗北を認めることで勝負が完成する。

この形は、とても美しい。

それでも僕は最後まで見たい

ここまで投了の美学について書いておいて申し訳ない。

僕はやっぱり最後まで見たい。

「これは詰みですね」

と言われても、

いや、その詰みを見せてくれと思う。

棋士には分かる。

解説者にも分かる。

将棋に詳しい人にも分かる。

僕には分からない。

未来が見える人たちだけで勝手に終わらせないでほしい。

こっちは現在を生きている。

「ここから15手詰みです」

と言われても、

15手やってくれ。

せめて10手くらいやってくれ。

途中で僕も、

「あ、これは無理や」

と言いたい。

みんなと一緒に納得したい。

でも、きっとその「もう無理」が早く見えること自体が棋力なのだろう。

僕が最後まで見たがるのは、最後まで見ないと分からないからなのかもしれない。

「参りました」は諦めの言葉ではない

以前の僕には、

「参りました」

は単純な降参の言葉に見えていた。

諦めた。

もうやめた。

負けを認めた。

でも、よく考えると少し違う。

適当に諦めているわけではない。

最後まで勝つ道を探す。

読む。

考える。

可能性を探す。

それでもない。

そこで初めて言う。

「参りました」

だからこれは、

「もう頑張りません」

ではない。

「ここまで考えた結果、あなたの勝ちです」

という言葉なのだと思う。

そう考えると、ずいぶん印象が変わる。

立ち上がる美学。手を止める美学。

ボクシングでは、倒されても立ち上がる。

将棋では、まだ指せても手を止める。

ボクサーは身体で、

「まだ終わっていない」

と示す。

棋士は言葉で、

「もう終わった」

と認める。

正反対だ。

でも、どちらも格好いい。

なぜだろう。

たぶん、どちらも自分の状態から逃げていないからだ。

まだ戦える。

だから立つ。

もう勝てない。

だから頭を下げる。

ただ意地を張っているわけではない。

ただ諦めているわけでもない。

自分が今どこにいるのかを受け入れている。

そこが共通しているのかもしれない。

諦めないことだけが強さではない

僕たちは、

「何度倒れても立ち上がる人」

を強い人だと思う。

それは間違っていない。

でも、

「もう終わったことを認められる人」

も強いのかもしれない。

負けを認める。

間違いを認める。

やめる。

方向を変える。

頭を下げる。

どれも簡単ではない。

むしろ意地を張って続けるほうが楽なことさえある。

「まだやれる」

と言い続けていれば、負けを認めなくて済むからだ。

将棋の投了には、それがない。

自分で読む。

自分で判断する。

そして自分で言う。

「参りました」

誰かに言わされるのではない。

自分で終わらせる。

だから格好いいのだと思う。

真逆なのに、どちらも美しい

ボクシングと将棋。

まったく違う競技である。

一方は拳を交える。

一方は盤上で駒を交える。

一方は倒れても立つ。

一方は倒される前に終わる。

真逆の美学だ。

でも、どちらを見ても僕は格好いいと思う。

最後まで戦うこと。

終わりを認めること。

続ける勇気。

やめる勇気。

立ち上がる強さ。

手を止める強さ。

世の中では前者ばかり語られる。

「諦めるな」

「最後までやれ」

「倒れても立て」

もちろん、それも大切だ。

でも将棋は、もう一つの強さを見せてくれる。

負けを理解し、相手を認め、自分から終わらせる強さ。

今日もどこかで棋士が盤面を見つめている。

何十手も先まで読む。

自分の勝つ道を探す。

まだ何かないか。

別の手はないか。

逃げ道はないか。

最後まで探す。

そして、すべての道がなくなったとき。

静かに頭を下げる。

「参りました」

僕にはまだ、その先の未来は見えていない。

王将も盤上にいる。

まだ指せそうに見える。

だから心の中では少しだけ思っている。

いや、もうちょっとやってくれ。

もしかしたら相手がミスするかもしれない。

もしかしたら急に家の鍵が気になるかもしれない。

それでも棋士は、そんな偶然を待たずに負けを認める。

倒されても立ち上がるボクサーを格好いいと思う。

まだ倒されていないのに頭を下げる棋士も、格好いいと思う。

真逆なのに、どちらも美しい。

最後まで諦めないことだけが、強さではないのかもしれない。

自分で終わりを見つけて、

自分でそれを認めて、

相手に頭を下げる。

そんな強さもある。

僕もいつか、何かを終わらせるべきときが来たら、潔く言えるだろうか。

「参りました」

……いや。

たぶん僕は、もうちょっと粘る。

相手が家の鍵を気にし始めるまで。

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