子どもは、なぜアンパンマンが好きなんだろう。
小さな子どもがアンパンマンを見つける。
「あ! アンパンマン!」
嬉しそうに指をさす。
おもちゃ売り場でもアンパンマン。
絵本でもアンパンマン。
テレビでもアンパンマン。
とにかくアンパンマンが好きだ。
よく考えると、不思議である。
ヒーローなんて、ほかにもいくらでもいる。
仮面ライダーもいる。
ウルトラマンもいる。
スーパー戦隊もいる。
プリキュアもいる。
もっと強そうなやつもいる。
もっと派手なやつもいる。
変身するやつもいる。
巨大化するやつもいる。
剣を持つやつもいる。
ものすごい必殺技を使うやつもいる。
それなのに、小さな子どもたちはアンパンマンに夢中になる。
なんでお前なんだ。
僕も幼い頃、アンパンマンを見ていた。
だから僕自身も、かつてアンパンマンに魅了されていた一人である。
でも、何がそんなに好きだったのかは覚えていない。
アンパンマンがかっこよかったのか。
ストーリーが面白かったのか。
ばいきんまんが好きだったのか。
アンパンチに興奮していたのか。
何も覚えていない。
ただ、
アンパンマンを見ていた。
という記憶だけが残っている。
そして、いつの間にか見なくなった。
アンパンマンを嫌いになった記憶はない。
「本日をもちまして、アンパンマンを卒業いたします」
と宣言した覚えもない。
ただ、気づいたら見なくなっていた。
アンパンマンはいなくなっていない。
今もいる。
僕が離れていっただけだ。
ということは、アンパンマンそのものが変わったわけではない。
変わったのは僕だ。
だったら、
幼い頃の僕には見えていて、今の僕には見えなくなった何か
がアンパンマンにはあるんじゃないだろうか。
一体、子どもたちはアンパンマンの何に魅了されているんだろう。
考えてみたい。
まず、アンパンマンの顔は異常に分かりやすい
改めてアンパンマンの顔を思い浮かべてみる。
丸い。
とにかく丸い。
顔が丸い。
鼻も丸い。
ほっぺも丸い。
目も口も単純。
赤い鼻。
赤いほっぺ。
茶色い顔。
複雑なところがほとんどない。
大人の僕からすれば、
「アンパンマンの顔だな」
で終わる。
でも、小さな子どもはまだ目の前にあるものを見て、形を覚えて、顔を覚えて、少しずつ区別していく途中だ。
そんな時期に、
丸。丸。丸。
アンパンマン。
これは強いんじゃないだろうか。
細かい装飾なんてない。
複雑な模様もない。
顔を見る。
鼻がある。
ほっぺがある。
笑っている。
分かる。
もしかするとアンパンマンは、「かっこいい」と思うよりも先に、
認識できることそのものが気持ちいいキャラクター
なのかもしれない。
昨日まで分からなかったものが分かる。
知らなかった顔を覚える。
そして次に見たとき、
「アンパンマン!」
と分かる。
これだけでも、小さな子どもには楽しいのかもしれない。
色も、とにかく分かりやすい
アンパンマンは色まではっきりしている。
赤。
黄色。
茶色。
ばいきんまんも黒、紫、白。
キャラクターごとの違いが見た瞬間に分かる。
大人向けなら、くすんだ色や絶妙な配色も格好いい。
幼児にそんな渋さはいらない。
赤。
以上。
分かりやすい。
アンパンマンの世界って、全体的に「迷わせない」んだと思う。
顔も分かりやすい。
色も分かりやすい。
形も分かりやすい。
大人になると複雑さを楽しめる。
でも、まだ世界そのものを覚えている途中の子どもにとっては、
分かること自体が楽しい。
「知ってる!」が大量にある
小さな子どもは、知っているものを見つけるとよく指をさす。
犬を見つける。
「ワンワン!」
車を見つける。
「ブーブー!」
電車を見つける。
「でんしゃ!」
僕たち大人は、もう世界を知りすぎてしまった。
スーパーでバナナを見ても、
「バナナだああああ!」
とはならない。
なったらちょっと怖い。
でも、小さな子どもにとって世界はまだ新しい。
昨日まで知らなかったものに名前がつく。
犬。
猫。
パン。
カレー。
電車。
花。
果物。
どんどん世界が増えていく。
そしてアンパンマンの世界には、
その「知ってる!」が大量にある。
アンパンマン。
あんパン。
しょくぱんまん。
食パン。
カレーパンマン。
カレーパン。
てんどんまん。
天丼。
SLマン。
SL。
名前からして、そのままである。
ひねれ。
と思うくらい、そのままだ。
でも、幼児にはそれがいいんだと思う。
パンを覚れた。
アンパンマンを見る。
パンが歩いてる。
電車を覚えた。
SLマンを見る。
知ってるやつがいる。
アンパンマンの世界って、子どもが現実世界で覚え始めたものを、キャラクターにして返してくれる世界なのかもしれない。
新しいキャラクターが出る。
名前を知る。
覚える。
また出てくる。
「あ! 知ってる!」
また一つ、世界が自分のものになる。
名前を言えること自体が楽しい
アンパンマンは名前も分かりやすい。
アンパンマン。
ばいきんまん。
ドキンちゃん。
メロンパンナちゃん。
言葉を覚えている途中の子どもにとって、
キャラクターの名前を言える
というのも楽しいんじゃないだろうか。
アンパンマンを指さして、
「アンパンマン!」
と言う。
お母さんやお父さんが、
「そう! アンパンマンだね」
と返す。
正解した。
大人には何でもない。
でも、言葉を覚えている途中なら、自分が言った言葉が相手に伝わること自体が嬉しい。
アンパンマンを知っている。
名前を言える。
それを大人も分かってくれる。
アンパンマンは、子どもが覚えた言葉を使う相手にもなっているのかもしれない。
そして、食べ物である
それにしても、ヒーローの顔があんパンってすごい。
ライオンでもない。
ドラゴンでもない。
ロボットでもない。
パン。
なんでや。
でも、小さな子どもの世界を考えると、食べ物ってものすごく身近だ。
お腹が空く。
食べる。
おいしい。
満たされる。
難しい説明なんていらない。
そしてアンパンマンのヒーローとしての行動も、ものすごく分かりやすい。
お腹を空かせた人がいる。
自分の顔をあげる。
食べる。
元気になる。
助かった。
これなら幼い子どもにも分かる。
「正義とは何か」なんて説明しなくていい。
お腹が空いている人に食べ物をあげる。
優しい。
これで成立する。
もしかするとアンパンマンって、ものすごく難しい「正義」を、幼児でも理解できるところまで単純にしたヒーローなのかもしれない。
しかも、ただ余っているパンを渡すんじゃない。
自分の顔をちぎる。
……。
いや。
ちょっと待て。
よく考えたら怖い
大人の僕が出てきてしまう。
顔をちぎる?
怖い。
改めてアンパンマンの設定を冷静に考えてみる。
顔がパン。
その状態で空を飛ぶ。
困っている人を見つける。
自分の顔をちぎる。
食わせる。
顔が欠ける。
力が出なくなる。
顔が濡れても力が出なくなる。
すると、
「アンパンマン! 新しい顔よ!」
新しい頭部が飛んでくる。
交換。
「元気100倍!」
復活。
そして、
殴る。
冷静に並べると結構な狂気である。
僕はなぜ子どもの頃、これを怖がらなかったんだ。
大人になった僕なら気になる。
古い顔はどこへ行った。
交換された瞬間、意識はどうなっている。
記憶は顔にあるのか。
身体にあるのか。
やめろ。
アンパンマンだ。
でも、ここにも子どもが魅了される理由が隠れている気がする。
設定はめちゃくちゃなのに、
ルールはめちゃくちゃ分かりやすい。
顔が濡れる。
弱くなる。
新しい顔。
復活。
以上。
現実にあり得るかどうかなんて関係ない。
その世界で何が起きるのかが分かればいい。
「次に何が起こるか分かる」が楽しい
大人になると、物語には意外性を求める。
「まさか、こいつが犯人だったとは!」
「ここで伏線がつながるのか!」
予想を裏切られることが面白い。
アンパンマンはかなり逆だ。
ばいきんまんが何かする。
誰かが困る。
アンパンマンが来る。
ピンチになる。
顔が濡れる。
新しい顔が来る。
元気100倍。
アンパーンチ。
バイバイキーン。
またこれだ。
大人ならそう思う。
でも子どもは、
そろそろ来る。
来るぞ。
来るぞ。
「アンパンマン! 新しい顔よ!」
来たあああああ。
なのかもしれない。
知ってる。
でも嬉しい。
むしろ、
知っているから嬉しい。
世界はまだ分からないことだらけだ。
そんな中でアンパンマンは、次に何が起きるのかが分かる。
そして自分の予想通りになる。
これはかなり気持ちいいんじゃないだろうか。
子どもは「また同じ」を楽しめる
同じ絵本を何度も読んでもらいたがる子どもがいる。
昨日読んだ。
今日も読む。
結末を知っている。
それでも読む。
大人なら、
「もう知ってるやん」
と思う。
でも、知っているからいいのかもしれない。
次のページで何が起きるか分かる。
めくる。
やっぱり起きた。
アンパンマンも似ている。
子どもには、
同じものにもう一度出会う喜び
がある。
アンパンマンは今日もアンパンマンだ。
突然、
「実は僕が黒幕だったんだ」
とは言わない。
やめてくれ。
幼児が泣く。
いつもの世界が、今日もいつものように動く。
その安心も魅力なんだと思う。
怖い。でも、怖すぎない
アンパンマンにも危険はある。
ばいきんまんが悪さをする。
物を奪う。
誰かを困らせる。
アンパンマンを攻撃する。
怖い。
でも、
怖すぎない。
これが絶妙だ。
最後にはアンパンチを食らって、
「バイバイキーン!」
と飛んでいく。
元気そうやないか。
そして次の話では、また普通にいる。
つまりアンパンマンの世界には危険があるけれど、
戻ってこられる危険
なんだと思う。
怖い。
でも大丈夫。
ピンチ。
でも大丈夫。
ばいきんまんがいる。
でもアンパンマンもいる。
子どもは安全なところから少しだけ怖いものを経験する。
不安になる。
助かる。
安心する。
怖い。大丈夫だった。
この往復自体が楽しいのかもしれない。
アンパンマンは「強い人」より「来てくれる人」
アンパンマンは、強さだけで人気なんじゃない。
そもそも顔が濡れたら弱る。
結構すぐピンチになる。
それでも子どもが好きなのは、
必ず来てくれるから
なんじゃないだろうか。
幼い子どもは、自分一人でできないことだらけだ。
お腹が空いても自分で料理できない。
高い場所にあるものは取れない。
怖いことがあれば大人を呼ぶ。
転べば誰かが起こしてくれる。
そんな子どもにとって、
「困ったときに誰かが来てくれる」
ということはものすごく大きい。
アンパンマンはそれを何度も見せてくれる。
お腹が空いた。
来る。
ばいきんまんに困らされた。
来る。
助けてほしい。
来る。
だからアンパンマンは、
「僕もこんな強い男になりたい」
という憧れより先に、
「この人が来れば大丈夫」
なのかもしれない。
自分もアンパンマンになれる
そして、アンパンマンは真似しやすい。
必殺技は、
アンパーンチ!
拳を出す。
以上。
変身ベルトはいらない。
剣もいらない。
複雑な変身ポーズもいらない。
小さな子どもでもできる。
腕を前に出して、
「アンパーンチ!」
これだけでアンパンマンになれる。
見るだけじゃない。
参加できる。
アンパンマンが飛ぶ。
自分も両手を広げる。
アンパンマンがパンチする。
自分もパンチする。
歌が流れる。
歌う。
踊る。
名前を呼ぶ。
テレビの向こう側にいるヒーローを、自分の身体で再現できる。
アンパンマンという作品には、
「お前にはまだ早い」
がものすごく少ないのかもしれない。
分かる。
言える。
真似できる。
だから楽しい。
歌まで強い
アンパンマンといえば歌もある。
僕は大人になった今でも曲を知っている。
何年まともに見ていなくても残っている。
小さな子どもは、物語を全部理解できなくても音なら楽しめる。
言葉の意味が全部分からなくてもいい。
メロディーがある。
リズムがある。
繰り返しがある。
身体を動かせる。
つまりアンパンマンは、
物語が理解できなくても楽しめる。
顔を見るだけでもいい。
色を見るだけでもいい。
歌ってもいい。
真似してもいい。
名前を呼ぶだけでもいい。
全部を理解しないと楽しめない作品ではない。
これも幼児には強い。
そして、ジャムおじさんが一番怖い
ここまで考えてきたけれど、大人になった僕にはどうしても気になる人がいる。
ばいきんまんではない。
ジャムおじさんだ。
子どもの頃は何とも思わなかった。
優しいパン屋のおじさん。
それくらいだった。
でも今見ると、
この人、何してるんだ。
パンを焼く。
分かる。
アンパンマンの顔を焼く。
まあ……分かることにしよう。
それを投げる。
なぜ投げる。
しかも、かなり遠くからアンパンマンの頭部に正確に装着される。
どんな肩をしているんだ。
パン職人の肩じゃない。
そして新しい顔が装着された瞬間、
「元気100倍!」
完全復活する。
待て。
お前は何を焼いた。
ただのあんパンじゃないだろう。
僕があんパンを頭に乗せても、元気100倍にはならない。
通報されるだけだ。
そもそも、新しい顔の中には何が入っている。
あんこ。
本当にあんこだけか。
怖い。
ばいきんまんより、よっぽど謎である。
でも子どもの頃の僕は、
「ジャムおじさん怖っ」
なんて一度も思わなかった。
ジャムおじさんは新しい顔を作る。
それでよかった。
大人は理由を求める。
仕組みを求める。
子どもは、
「この人はこういう人」
で受け入れられる。
顔がパンでもいい。
空を飛んでもいい。
頭部を交換してもいい。
世界のルールさえ分かれば楽しめる。
どうして大きくなると見なくなるんだろう
ここまで考えると、逆の疑問も見えてくる。
なぜ僕はアンパンマンを見なくなったんだろう。
アンパンマンが変わったわけではない。
今でも丸い。
今でも飛んでいる。
今でも顔を分けている。
今でも新しい顔が飛んでくる。
変わったのは僕だ。
大きくなるにつれて、もっと複雑なものを理解できるようになる。
複雑なキャラクターも覚えられる。
長い名前も覚えられる。
登場人物の気持ちを考えられる。
善と悪だけではない話も楽しめる。
予想を裏切られることも面白くなる。
ゲームもできる。
漫画も読める。
世界が広がる。
すると、
丸い。
分かりやすい。
いつもの展開。
絶対に助けに来る。
アンパーンチ。
というアンパンマンの良さが、少しずつ必要ではなくなっていく。
つまり、
アンパンマンの魅力が減るんじゃない。
子どもの方が、その魅力を必要としなくなっていく。
これなんじゃないだろうか。
小さな頃には、
分かりやすい顔が嬉しかった。
知っているものを見つけるのが嬉しかった。
名前を言えるのが嬉しかった。
次の展開が分かるのが嬉しかった。
怖いことのあとに安心できるのが嬉しかった。
助けに来てくれるのが嬉しかった。
アンパンチを真似するのが嬉しかった。
歌うのが嬉しかった。
でも大きくなる。
できることが増える。
分かることが増える。
そして、いつの間にかアンパンマンを見なくなる。
アンパンマンを卒業したというより、アンパンマンが用意してくれていた階段を上り終えた。
そんな感じなのかもしれない。
僕も昔は、何かを見ていた
僕も昔はアンパンマンを見ていた。
今の僕が小さな頃の僕に会って、
「アンパンマンの何がそんなに好きなん?」
と聞いても、おそらく説明できないだろう。
「丸い形状と明瞭な色彩が乳幼児期の視覚認知に適しているから」
なんて答えたら怖い。
お前、何歳や。
たぶん、
「アンパンマン!」
くらいしか言わない。
でも、それで十分だったんだと思う。
丸い顔を見る。
嬉しい。
名前を言う。
嬉しい。
歌が流れる。
嬉しい。
アンパンマンが来る。
嬉しい。
新しい顔が来る。
嬉しい。
アンパンチ。
嬉しい。
僕たち大人は「なぜ好きなのか」を言葉で説明しようとする。
でも幼い子どもは、そんな説明を必要としていない。
身体ごと喜んでいる。
見る。
聞く。
指をさす。
名前を呼ぶ。
真似する。
笑う。
また見る。
アンパンマンは、幼児の「見る」「聞く」「覚える」「予測する」「真似する」「安心する」というものを、全部まとめて刺激しているのかもしれない。
だから強い。
ヒーローとして一番強いわけではない。
物語が一番壮大なわけでもない。
でも、
幼い子どもが今持っている能力で、最大限楽しめる。
それがアンパンマンなんじゃないだろうか。
アンパンマンが変わったんじゃない
大人になった僕はアンパンマンを見る。
顔がパンだ。
自分の顔を食べさせている。
空を飛んでいる。
顔を交換している。
横には謎のパン職人がいる。
怖い。
少し狂っている。
子どもの頃は何とも思わなかった。
同じアンパンマンなのに。
だから結局、
アンパンマンが変わったんじゃない。
僕が変わった。
僕にはもう、子どもの頃と同じアンパンマンを見ることはできない。
新しい顔が飛んできても、
「よっしゃあああ!」
ではなく、
「古い顔どこ行った?」
と思ってしまう。
知識が増えた。
疑問が増えた。
世界が複雑になった。
その代わりに、
単純なものを単純なまま楽しむ力を、少し失ったのかもしれない。
アンパンマンは今も変わらずそこにいる。
今日も誰かが困れば飛んでいく。
お腹が空いていれば顔を分ける。
ばいきんまんが悪さをすれば戦う。
顔が濡れれば弱る。
新しい顔が飛んでくる。
元気100倍。
アンパーンチ。
そして、昨日までアンパンマンを知らなかった小さな子どもが、初めてあの丸い顔を見る。
覚える。
また見る。
指をさす。
「アンパンマン!」
しばらく、その子にとってアンパンマンは特別な存在になる。
そして何年か経つ。
いつの間にか見なくなる。
嫌いになったわけではない。
ただ、次の世界へ行く。
アンパンマンは追いかけない。
同じ場所にいる。
次の小さな子どもがやって来る。
また、
「アンパンマン!」
と呼ばれる。
考えてみれば、アンパンマンって不思議なヒーローだ。
大人になるまでずっと追いかけてもらう必要はない。
人生のほんの短い時期に、ものすごく好きになればいい。
僕にも、そんな時期があった。
理由はもう覚えていない。
でも、確かにあった。
今の僕には見えなくなった何かを、幼い僕はあの丸い顔の中に見ていた。
顔。
色。
食べ物。
名前。
知っているもの。
繰り返し。
予測。
安心。
助けてもらえること。
真似できること。
歌えること。
少し怖いこと。
そして、最後には必ず大丈夫になること。
一つだけではない。
幼い子どもが世界を楽しむためのものが、アンパンマンにはたくさん詰まっている。
だから、ヒーローが山ほどいる中でもアンパンマンなのだろう。
そして僕にはもう、その魔法が効かない。
少し寂しい。
でも、それでいい。
僕の代わりに今日もどこかの子どもが、アンパンマンを見つけて叫んでいる。
「アンパンマン!」
その子にはきっと、僕にはもう見えないものが見えている。
ただ、一つだけ。
大人になったからこそ見えるものもある。
僕はもうアンパンマンより、
ジャムおじさんの方が気になって仕方がない。
あの人だけは本当に何者なんだ。
