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電車のブラインドを勝手に閉める人は何なのか。そんなに眩しいのか。

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電車に乗っていると、たまに思うことがある。

なぜ、そんなに簡単にブラインドを閉めてしまうのだ。

僕は電車の窓から差し込む日差しが好きだ。特に、少し肌寒い季節。窓から暖かい日差しが差し込んでくると、それだけで幸せな気持ちになる。

ポカポカして気持ちいい。電車の心地よい揺れも加わって、なんとも贅沢な時間だ。

別に何か特別なことをしているわけではない。ただ座っているだけ。太陽の光を浴びているだけ。

電車の中で、ひそかに日向ぼっこを楽しんでいるのだ。

そんなときである。

シャーーーーッ。

突然、ブラインドが下ろされる。

さっきまで差し込んでいた日差しが消える。車内が少し暗くなる。暖かさも失われる。そして、僕のささやかな幸せが終わる。

おい。

僕の太陽を返してくれ。

何をしてくれるんだ。こっちは今、気持ちよく日向ぼっこをしていたんだぞ。

せっかく太陽が顔を出しているというのに、なぜわざわざ遮断するのだ。そんなに眩しいのか。そんなに日差しが嫌なのか。

もちろん、ブラインドを閉めた人には理由があるのだろう。それはわかる。わかるのだが。

せめて、あと5分くらい日向ぼっこをさせてくれないだろうか。

いや、5分で満足するかはわからない。できれば目的地までお願いしたい。

目次

なぜ、せっかくの日差しを遮断するのか

そもそも、僕には「日差しが眩しいからブラインドを閉めたい」という感覚があまりない。

日差しが差し込んでくると、むしろ嬉しい。暖かい。気持ちいい。太陽が僕を歓迎してくれているような気さえする。

もちろん、真夏の強烈な日差しは別だ。暑すぎるときもあるし、紫外線が気になる人がいるのも理解できる。

しかし、春や秋、冬の暖かい日差しなんて最高じゃないか。わざわざ遮る必要があるのだろうか。

僕は窓から差し込む光を眺めながら思う。なんて気持ちのいい日なんだ。

ところが、隣の人は違うらしい。ブラインドを閉める。しかも、ためらいがない。まるで当然のように閉める。

お前、吸血鬼なのか。

太陽の光を浴びたら灰にでもなってしまうのか。日差しを見た瞬間に、体が危険信号を出しているのか。

こちらはポカポカしているというのに、向こうは太陽から逃げようとしている。同じ人間とは思えない。

いや、もちろん同じ人間だ。わかっている。ただ、感じ方があまりにも違うのだ。

僕にとっては歓迎すべき日差しが、相手にとっては排除すべき日差しになっている。

同じ太陽なのに、ここまで評価が分かれるものなのか。

人間はいつからそんなに貧弱になったのだ

少し大げさなことを言わせてほしい。

人間はいつから、そんなに貧弱になったのだ。

太陽だぞ。あの太陽だ。地球上の生命を支えてきた、偉大な存在だ。

植物は太陽の光を浴びて育つ。動物たちは日当たりのいい場所で休む。そして猫なんて、わざわざ日向を探して寝転がっている。

それなのに、人間はどうだ。少し日差しが差し込んできただけで、

シャーーーーッ。

遮断。

おいおい。太陽に何か恨みでもあるのか。

せっかくのお日様じゃないか。もう少し仲良くしようじゃないか。

たまには太陽に身を任せよう。日差しを浴びて、ポカポカしよう。

人間には、日向ぼっこを楽しむ余裕が必要なのだ。

……と、ここまで偉そうに言ってみたが、眩しさには個人差がある。光に敏感な人もいる。目の状態によって、日差しがつらく感じられる人もいるだろう。

だから、本当に貧弱だと言いたいわけではない。ただ、僕には不思議なのだ。あんなに気持ちのいい日差しを、なぜ自ら手放してしまうのか。

猫が聞いたら怒るだろう

この話を猫が聞いたら、どう思うだろうか。きっと怒ると思う。

猫は日向ぼっこの達人だ。日当たりのいい場所を見つける能力に関しては、人間よりも優れているのではないだろうか。

窓際に日差しが差し込めば、いつの間にかそこにいる。体を丸めたり、長く伸ばしたりしながら、実に気持ちよさそうに眠っている。

そんな猫の目の前で、突然ブラインドを閉めたらどうなるだろう。

「何をしているニャ!」

怒るに違いない。「せっかくのお日様を隠すんじゃないニャ!」

せっかく見つけた最高の日向ぼっこスポットを、人間の都合で奪われてしまうのだ。たまったものではない。

それでも、僕は猫たちの味方だ。僕だって日向ぼっこが好きなのだ。暖かい日差しを浴びながら、何も考えずに過ごす。それだけで幸せになれる。

猫たちよ。僕は君たちの気持ちがよくわかる。

でも、相手からしたら僕がおかしいのかもしれない

さて、ここまで散々文句を言ってきた。しかし、ここで一つ考えてみたい。

相手からしたら、僕の方がおかしいのではないだろうか。

僕は思っている。「なんでブラインドを閉めるんだ。こんなに気持ちいいのに」

しかし、相手はこう思っているかもしれない。「なんでブラインドを閉めないんだ。こんなに眩しいのに」

なるほど。これは面白い。

お互いに、相手の感覚が理解できないのだ。

僕にとって日差しは快適なもの。相手にとって日差しは不快なもの。

同じ電車に乗っている。同じ窓から差し込む、同じ太陽の光を浴びている。それなのに、感じ方が正反対なのだ。

僕は日向ぼっこをしている。相手は眩しさに耐えている。僕が幸せを感じている時間に、相手は不快な思いをしているのかもしれない。

そう考えると、少し申し訳ない気もしてくる。いや、僕は何もしていないのだが。ただ座っているだけなのだが。

しかし、相手にとっては、僕がブラインドを閉めないこと自体が不思議なのだろう。

つまり、どちらも正しい。

どちらも間違っていない。自分が快適だと感じる環境を求めているだけなのだ。

誰かにとって快適な環境が、別の誰かにとっても快適とは限らない。

自分の普通は、他人の普通ではないのだ。

頭では理解できる。理解できるのだが、それでも僕は思う。

僕の日向ぼっこを返してくれ。

閉められた僕には、マイナスしかない

ブラインドを閉めることで、相手は快適になる。眩しさがなくなる。暑さも和らぐかもしれない。つまり、相手にとってはプラスだ。

では、僕はどうだろう。暖かい日差しがなくなる。日向ぼっこができなくなる。景色も見えにくくなる。

僕にとっては、マイナスしかない。

ただ、さっきまで楽しんでいた時間を奪われただけなのだ。

もちろん、逆も同じである。ブラインドを開けたままにしておけば、相手は眩しさを我慢することになる。だから、僕だけが被害者だと言いたいわけではない。

ただ、ここには不思議な構造がある。

誰かが快適になるための行動が、別の誰かの快適さを奪ってしまう。

しかも、相手に悪意があるとは限らない。むしろ、周囲の人も眩しいだろうと思って、親切心で閉めている可能性すらある。

本人は良いことをしているつもりなのに、僕は心の中で怒っているのだ。「余計なことをしてくれるな」と。

一方で、相手はこう思うかもしれない。「誰も閉めないから、代わりに閉めてあげた」

なんというすれ違いだろう。

親切と迷惑は、受け取る人によって入れ替わることがあるのだ。

では、僕が勝手に開け返したらどうなるのか

ここで、一つの疑問が浮かぶ。

勝手に閉められたブラインドを、僕が勝手に開け返したらどうなるのだろう。

相手は眩しいから閉めた。僕は暖かいから開けた。どちらも自分の快適さを求めている。どちらも相手に許可を取っていない。

行動の原理は同じではないか。

ところが、なぜだろう。勝手に閉める行為は普通に見えるのに、勝手に開け返す行為は、どこか喧嘩を売っているように見える。

これが不思議なのだ。

想像してみよう。

相手がブラインドを閉める。

シャーーーーッ。

僕が開ける。

シャーーーーッ。

相手が再び閉める。

シャーーーーッ。

僕が再び開ける。

シャーーーーッ。

何をしているんだ、僕たちは。

電車の中で、見知らぬ大人二人が無言の戦争を始めている。言葉は一切交わしていない。しかし、意思表示だけは異常に激しい。

閉める。開ける。閉める。開ける。

もはやブラインドの耐久試験である。

周囲の乗客も困惑するだろう。「何なんだ、この二人は」

僕だってそう思う。もちろん、実際に何度も開閉を繰り返すのは迷惑だろう。そんなことをしたいわけではない。

ただ、考えてしまう。

なぜ、先にブラインドを操作した人の意思が、そのまま優先されるように見えるのだろうか。

相手が閉めたから、僕は我慢する。では、僕が先に開けていたことは、なぜ尊重されないのだろう。

これはなかなか難しい問題である。

そもそも、ブラインドの権限は誰にあるのか

さらに考えてみよう。

電車のブラインドを操作する権限は、いったい誰が持っているのだろうか。

窓際に座っている人か。しかし、窓際の席に座ったからといって、その窓を所有しているわけではない。

先に座っていた人か。では、早い者勝ちなのだろうか。

ブラインドに一番近い人か。いや、それは単に手が届くというだけではないか。

日差しが直接当たっている人か。しかし、日差しを浴びたい人もいる。

では、誰なのだ。

ブラインドの支配者は、いったい誰なのだ。

もちろん、鉄道会社がルールを定めている場合は、それに従えばいい。しかし、特に明確な決まりがない場合、判断は乗客に委ねられる。

そして現実には、手を伸ばして操作した人が、その場の環境を決めてしまう。

ブラインドに手が届くというだけで、周囲の人の日差しまで左右できる。

操作できることと、操作していいことは同じなのだろうか。

公共の設備は、誰か一人のものではない。だからこそ、誰がどう使うのかという問題が生まれる。

結局、誰か一人に絶対的な権限があるとは言い切れない。

ブラインド一枚なのに、なんて面倒くさい問題なのだ。

一言聞けばいい? では、誰に聞くのだ

こういう話をすると、きっとこんな意見が出てくる。「閉める前に、一言聞けばいいじゃないか」

なるほど。確かにそうだ。

「眩しいので、ブラインドを閉めてもいいですか?」

こう聞かれれば、僕だって答える。おそらく「どうぞ」と言うだろう。心の中では泣いているかもしれないが。

僕の日向ぼっこが……。

しかし、ここでも疑問が浮かぶ。

いったい誰に聞けばいいのだ。

隣の人か。向かいの人か。同じ窓の日差しを浴びている人全員か。それとも、その車両に乗っている全員か。

仮に5人に聞いたとしよう。4人が「閉めていいですよ」と答えた。しかし、僕だけが反対した。

「すみません。日向ぼっこをしているので」

さあ、どうする。多数決なのか。4対1だから閉めるのか。それとも、一人でも反対したら閉められないのか。

そもそも、僕の一票にはどれくらいの価値があるのだ。窓際だから二票もらえるのか。日差しを直接浴びているから三票なのか。

電車のブラインドを閉めるだけで、臨時国会でも開くつもりか。

そんなことをしていたら、目的地に着いてしまう。

もちろん、実際にはそこまで考える必要はないのだろう。近くの人に一言声をかける。相手の反応を見る。お互いに少し譲り合う。

それで十分な場合も多いはずだ。ただ、「聞けば解決する」と簡単に言い切れないのも事実である。聞いたところで、意見が分かれる可能性はあるのだから。

ブラインドを閉めると、景色まで失われる

僕がブラインドを開けておきたい理由は、日差しだけではない。

窓から見える景色も好きなのだ。

電車の窓から見える景色には、独特の魅力がある。住宅街。川。山。田んぼ。商店街。駅のホーム。見知らぬ街の風景。

特別な観光地でなくてもいい。普段の生活の中にある、ごく普通の景色が好きなのだ。

季節によっても表情が変わる。春には桜が咲く。夏には緑が濃くなる。秋には木々が色づく。冬には澄んだ空が広がる。

同じ路線でも、毎日まったく同じ景色というわけではない。そして、ときどき思いがけない発見がある。

「あんなところに公園があったのか」

「あの建物、いつの間にできたんだろう」

「あの道はどこにつながっているんだろう」

そんなことを考える時間が、僕は好きだ。

だから、ブラインドを閉められると、日差しだけでなく景色まで奪われた気分になる。さっきまで外の世界が広がっていた窓が、突然ただの壁のようになってしまう。

もちろん、スマホを見れば暇はつぶせる。本を読むことだってできる。でも、せっかく電車に乗っているのだから、外の景色を楽しみたいときもある。

僕は太陽だけでなく、窓の向こうの世界も好きなのだ。

鉄道会社さん、ポカポカ車両を作ってくれ

ここまで考えて、僕は一つの結論にたどり着いた。

閉めたい人もいる。開けたい人もいる。どちらも正しい。しかし、どちらかが我慢しなければならない。

だったら、いっそのこと分けてしまえばいいのではないか。

鉄道会社さん。お願いがあります。

1車両だけでいいので、ブラインドのない車両を作ってください。

その名も、

「ポカポカ車両」

どうだろう。なかなか素晴らしい名前ではないか。

この車両にはブラインドがない。日差しを遮ることができない。だから、最初から日差しが好きな人だけが乗ってくる。

眩しいのが苦手な人は、別の車両を利用すればいい。もちろん、車両の冷暖房や安全面はきちんと整えてもらう。

ただ、窓から差し込む自然の光を楽しめるようにするのだ。

朝のポカポカ車両。昼のポカポカ車両。夕方のポカポカ車両。時間帯によって、日差しの入り方も変わる。

そして、車内アナウンスが流れる。

「この車両は、ポカポカ車両です。窓から差し込む日差しと景色をお楽しみください」

なんて素晴らしい車両なんだ。

僕は毎日乗りたい。できれば座席は、景色を楽しみやすい配置にしてほしい。窓も大きい方がいい。

車内は静かで、のんびりしている。みんな暖かい日差しを浴びながら、気持ちよさそうに座っている。

誰もブラインドを閉めない。そもそもブラインドがない。

争いの原因そのものを取り除いた、平和な車両なのだ。

ポカポカ車両には、猫も乗ってくるだろう

そして、僕は思う。ポカポカ車両を作れば、人間だけでなく、猫たちも喜ぶのではないだろうか。

もちろん、現実にはペットの乗車ルールや衛生面の問題がある。そこはひとまず置いておこう。今は僕の妄想の世界である。

ポカポカ車両の窓際に、猫がいる。暖かい日差しを浴びながら、気持ちよさそうに丸くなっている。

その隣では、おじさんがウトウトしている。向かいのおばあちゃんも、のんびり景色を眺めている。

若いお姉さんもポカポカ。学生さんもポカポカ。猫もポカポカ。

みんなポカポカしている。

なんていい車両なんだ。

猫にとっても、最高の移動手段ではないだろうか。目的地に着いても、降りようとしないかもしれない。

車掌さんが声をかける。「お客様、終点ですよ」

猫は答える。「ニャー」

降りる気はなさそうだ。まあ、いいじゃないか。こんなに気持ちよさそうに寝ているのだから。

……いや、よくないか。鉄道会社にも事情がある。

しかし、そんなことまで考えてしまうほど、ポカポカ車両には夢があるのだ。

ハトまで乗ってくるかもしれない

さらに、こんなことも考えた。

ハトまで乗ってくるのではないだろうか。

駅のホームで見かける、あのハトたちだ。彼らも日向ぼっこが好きそうではないか。ポカポカ車両の噂を聞きつけて、やってくるかもしれない。

車内には猫。窓際にはおじさん。そして、床にはハト。

「クルックー」

ハトが鳴いている。猫は気持ちよさそうに寝ている。おじさんも寝ている。おばあちゃんは景色を眺めている。

なんて平和な光景なんだ。

人間も猫もハトも、みんな太陽の光を浴びている。誰もブラインドを閉めようとしない。誰も日差しに文句を言わない。

人間同士では、たった一枚のブラインドを巡って意見が分かれていた。それなのに、この車両では人間も動物も仲良く過ごしている。

世界平和の答えは、ポカポカ車両にあったのかもしれない。

……ただし、ハトには一つだけお願いがある。

車内でフンだけはしないでくれ。

せっかく心までポカポカしているのに、頭の上に落とされたら一瞬で冷めてしまう。それだけは勘弁してほしい。

結局、みんな自分が快適でいたいだけなのだ

さて、随分と話が大きくなってしまった。最初は、電車のブラインドを勝手に閉める人への小さな不満だった。それが、いつの間にか猫やハトまで乗ってくる謎の車両の話になっている。

しかし、考えてみれば、根本にあるのは単純なことだ。

人はそれぞれ、自分が快適だと思う環境で過ごしたいのだ。

眩しい人はブラインドを閉めたい。僕は日差しを浴びたい。暑い人は冷房を強くしてほしい。寒い人は弱くしてほしい。

誰もが自分なりの快適さを求めている。そして、その快適さが他人と一致するとは限らない。

だからこそ、公共の場では難しい問題が生まれる。全員の希望をかなえることはできない。誰かが譲る必要もある。

僕だって、相手が眩しそうにしていれば、ブラインドを閉めることに反対するつもりはない。

ただ、できれば覚えておいてほしい。

その日差しを、気持ちいいと感じている人もいるのだ。

ブラインドを閉めることが、誰かの快適さにつながる。同時に、誰かの小さな楽しみを終わらせているかもしれない。もちろん、開けておくことも同じだ。

だから、どちらが絶対に正しいとは言えない。僕も、自分の感覚だけが正しいとは思わないようにしたい。

……とはいえ。やっぱり、ブラインドを閉められると少し寂しい。

僕の日向ぼっこが終わってしまったのだから。

みんなポカポカしている。なんていい車両だ

だから、僕は今日も願っている。いつか、ポカポカ車両が誕生することを。

窓から暖かい日差しが差し込む。外には街並みが広がっている。電車はゆっくりと走っている。

窓際のおじさんがポカポカしている。隣のお姉さんもポカポカしている。向かいのおばあちゃんもポカポカしている。

猫もポカポカ。ハトもポカポカ。もちろん、僕もポカポカだ。

誰も争わない。誰もブラインドを閉めない。みんな、それぞれの時間を楽しんでいる。

なんていい車両なんだ。

日差しを浴びて、暖かい。景色を眺めて、楽しい。電車に揺られて、心地よい。

体もポカポカ。心までポカポカだ。

もはや、ただの移動手段ではない。そこは、人間と動物たちが仲良く日向ぼっこをする、平和な空間なのだ。

鉄道会社さん。どうか、ご検討いただけないだろうか。1車両だけでいい。

僕はそこに乗る。そして、今日も太陽の光を浴びながら、のんびり景色を眺めたい。

僕が求めているのは、そんなささやかな幸せなのだ。

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