ボクシングを見ていて、ふと思った。
僕はボクシングを見るのが好きだ。
鍛え上げられた肉体。鋭いパンチ。緊張感のある駆け引き。
一瞬の油断が勝敗を分ける。
そんな真剣勝負を見ていると、ふと気になることがある。
ち、ち、ち、ちくびが……出ている。
しかも、両選手ともだ。
堂々と出ている。
隠す素振りすらない。
右の選手も乳首を出している。
左の選手も乳首を出している。
レフェリーは服を着ているが、両選手は上半身裸だ。
つまり、リングの中には少なくとも四つの乳首が存在している。
そして、その四つが世界中に中継されているのだ。
なんということだ。
もちろん、ボクシングでは当たり前の光景である。
誰も気にしていない。
実況者も何も言わない。
解説者も何も言わない。
観客も乳首のことなど気にしていない。
「右のストレートが入りました!」
「素晴らしいディフェンスです!」
「このラウンドは赤コーナーが優勢でしょう!」
そんなことばかり言っている。
いや、当たり前なのだが。
しかし、僕は考えてしまう。
もしかすると、乳首も採点されているのではないだろうか。
ジャッジはリングサイドから両選手を真剣に見つめている。
有効打、攻撃の正確性、試合の支配力。
それらを評価している。
しかし、その中に乳首の美しさが含まれている可能性はないだろうか。
右の選手は左右のバランスがいい。
左の選手は少し乳首が下を向いている。
これは減点対象か。
「このラウンド、赤コーナーが10対9で取りましたね」
「そうですね。乳首の位置が非常に安定していました」
そんな解説があってたまるか。
試合終了後、判定が発表される。
「ジャッジ1、115対113!」
「ジャッジ2、114対114!」
おっと、判定が割れた。
これはパンチの評価が分かれたのか。
それとも乳首なのか。
ジャッジによって乳首の好みが違うのだろうか。
だとしたら、選手たちも大変である。
パンチを磨くだけでなく、乳首のコンディションまで整えなければならない。
試合前の記者会見では、こんな質問が飛ぶかもしれない。
「今回の試合に向けて、乳首の仕上がりはいかがですか?」
「過去最高ですね。左右とも非常にいい状態です」
何を言っているんだ。
僕はボクシングを見ていたはずなのに、いつの間にか乳首のことばかり考えている。
しかし、このくだらない疑問から、もっと大きな疑問が生まれた。
そもそも、なぜ男性は乳首を隠さなくていいのだろうか。
何を隠そう、僕の乳首は小さくて可愛い。
ここで少し、僕自身の乳首について話しておきたい。
何を隠そう。
僕の乳首は、小さくて可愛い。
自分で言うのもなんだが、なかなかの乳首だと思っている。
大きすぎず、小さすぎず。
いや、どちらかといえば小さい。
控えめで、たおやかだ。
決して自己主張しない。
かといって、存在感がないわけでもない。
胸元で静かに暮らしている。
実に品のある乳首なのだ。
まるで大和撫子のようではないか。
僕は自分の乳首を、そこそこ気に入っている。
もちろん、毎朝鏡の前で乳首を眺めているわけではない。
「今日も可愛いね」
などと声をかけているわけでもない。
そこまでの関係ではない。
しかし、もしボクシングで乳首も採点されるのなら、僕はなかなかの高得点を獲得できると思っている。
パンチでは負けるかもしれない。
スタミナでも負けるかもしれない。
しかし、乳首なら勝負できる。
判定まで持ち込めば、勝機はある。
いや、何の勝負をしているんだ。
それにしても、自分の乳首を褒める機会というのは、人生でほとんどない。
他人から褒められることもない。
「素敵な乳首ですね」
そんなことを突然言われたら、褒め言葉なのかどうか判断に困る。
だからこそ、自分くらいは褒めてやってもいいと思う。
三十年以上、僕の胸元にいてくれたのだ。
ありがとう。
これからもよろしく頼む。
なぜ女性は隠して、男性は隠さなくていいのか。
話を戻そう。
男性にも乳首がある。
女性にも乳首がある。
大きさや形、色などには個人差があるが、どちらも乳首だ。
それなのに、扱いがまるで違う。
男性は海で上半身裸になれる。
プールでも上半身裸になれる。
ボクシングでは、何万人もの観客の前で乳首をさらけ出している。
ところが、女性が同じ格好をすれば、場所によっては大きな問題になる。
なぜなのだ。
乳首は乳首ではないのか。
もちろん、女性の胸は性的なものとして扱われることが多い。
それはわかる。
しかし、なぜそうなったのだろう。
僕は考えた。
いっそのこと、逆ならいいのに。
女性は堂々と乳首を出して歩く。
男性は必死になって乳首を隠す。
夏になると、男性向け雑誌で特集が組まれる。
「今年の夏こそ! 男の乳首透け対策!」
「女性に嫌われない乳首の隠し方!」
「乳首が目立たない最新インナー10選!」
学校では、男子生徒が先生に注意される。
「おい! 乳首が透けてるぞ!」
「すみません!」
「身だしなみをしっかりしなさい!」
会社でも上司に呼び出される。
「君ねえ、社会人なんだから乳首の管理くらいしなさい」
乳首の管理。
なんだ、その業務は。
そんなことまで管理しなければならないのか。
出勤前には鏡の前で乳首をチェック。
左右の位置を確認。
透け具合を確認。
問題がなければ、ようやく家を出る。
なんとも面倒くさい。
しかし、よく考えてみれば、今の女性にはこれに近い服装上の気遣いが求められる場面がある。
僕がふざけて想像した世界も、立場を逆にすれば、そこまで荒唐無稽ではないのかもしれない。
男性の乳首は自由なのか。実はそうでもない。
さらに調べてみると、面白いことがわかった。
男性の乳首は、決して完全に自由なわけではない。
例えば、クールビズ。
夏になると、男性は薄手のワイシャツを着ることが増える。
すると、問題になるものがある。
透け乳首だ。
白いワイシャツの下から、乳首がうっすら透けている。
これを不快に感じる人がいるらしい。
僕が目にした記事では、ある企業の調査で、女性の6〜7割ほどが男性の透け乳首に不快感を示したと紹介されていた。
調査の対象や質問の仕方によって数字の意味は変わるので、そのまま世の女性全員の意見とは言えない。
しかし、透け乳首がエチケットの問題として語られていること自体が、僕には面白かった。
なんということだ。
男性の乳首は自由の象徴だと思っていた。
ところが、実際には厳しい監視の目にさらされていたのだ。
海では出していい。
プールでも出していい。
ボクシングでは世界中に中継してもいい。
しかし、会社では透けてはいけない。
全部見せるのはいいのに、少しだけ見えるのはダメなのか。
乳首よ。
お前はいったい、何をしたというのだ。
しかも、僕の乳首は小さくて可愛い。
控えめで、たおやかだ。
そんな僕の乳首でさえ、透けているだけで不快に思われる可能性がある。
なんとも世知辛い世の中ではないか。
乳首にも、TPOというものが存在するらしい。
ただし、ここで一つ疑問が生まれる。
不快だからといって、隠さなければならないのだろうか。
見せるつもりがないから嫌なのか。
僕は一つの仮説を立てた。
もしかすると、見せるつもりがないのに見えてしまうことが、不快感の原因なのではないだろうか。
ボクシングでは、最初から乳首を出している。
誰も驚かない。
ところが、ワイシャツは本来、胸元を覆う服だ。
その下から乳首が浮かび上がっている。
隠しているはずなのに、見えてしまう。
その中途半端さに違和感を覚えるのかもしれない。
なるほど。
そういうことか。
いや、待てよ。
それなら、女性の乳首が透けていた場合も、同じように不快なのだろうか。
男性の透け乳首は不快。
女性の透け乳首も不快。
そうであれば、透けて見えること自体が嫌なのだという説明も成り立つ。
しかし、もし男女によって反応が違うのなら、話は変わってくる。
もちろん、女性の場合には性的な視線や、本人が望まない注目を集めてしまう問題もある。
単純に男性と女性を同じ条件で比較することはできない。
それでも僕は思う。
人間は乳首そのものを見ているのではなく、乳首の持ち主や状況を見て判断しているのではないか。
そう考えると、ますます不思議だ。
僕の乳首は何も悪いことをしていない。
ただ、胸についているだけだ。
それなのに、服装や場所によって評価が変わる。
まるで乳首が面接を受けているようではないか。
「あなたの長所を教えてください」
「控えめで、たおやかなところです」
「なるほど。しかし、弊社では透け乳首は採用しておりません」
不採用である。
乳首にとって、なんとも厳しい社会だ。
不快なら、何でも隠すべきなのか。
もちろん、服装のマナーというものは存在する。
職場や学校、公共の場所では、ある程度の配慮が求められる。
それは理解できる。
しかし、僕が気になるのは、その理由だ。
「不快に感じる人がいるから、隠した方がいい」
本当にそれだけで十分なのだろうか。
例えば、僕は電車で大声で話す人が苦手だ。
周囲に音が響く。
静かに過ごしたい人の邪魔になる。
これはわかりやすい。
では、乳首はどうだろう。
音を出すわけでもない。
臭いを放つわけでもない。
誰かにパンチを繰り出すわけでもない。
ただ、そこに存在しているだけだ。
もちろん、本人が見せつけるような行動をしている場合は別の話である。
しかし、ワイシャツから自然に透けてしまった乳首まで、本人の落ち度として扱う必要があるのだろうか。
僕は少し疑問に思う。
「不快に思う人がいる」ということと、「隠す義務がある」ということは、必ずしも同じではない。
世の中には、さまざまな好みがある。
ある人が気にならないものを、別の人は不快に感じる。
そのすべてに合わせていたら、僕たちは何を着ればいいのだろう。
とはいえ、だからといって、周囲への配慮が一切不要だとも思わない。
自分の自由も大事。
他人への配慮も大事。
その折り合いをどこでつけるか。
乳首の問題は、意外にも難しい。
まさか僕も、乳首について考えていて、社会のマナーの問題にたどり着くとは思わなかった。
男性の乳首にも、歴史があった。
さらに、乳首の歴史について調べてみた。
すると、驚くべきことがわかった。
昔は男性も、上半身裸になることを制限されていた時代や場所があったのだ。
例えば、20世紀前半のアメリカでは、男性が上半身裸で泳ぐことを認めない施設や地域があった。
当時の男性用水着には、胸まで覆うものが多かった。
今の感覚では少し不思議である。
海で泳ぐ男性が、乳首を隠しているのだ。
しかし、当時はそれが普通だった。
その後、水着の流行や社会の考え方が変わり、男性の上半身裸が広く受け入れられるようになった。
つまり、男性の乳首も、最初から自由だったわけではない。
乳首にも、解放の歴史があったのだ。
なんということだ。
僕たちは、先人たちの積み重ねの上に立っている。
今、僕が海で乳首を出せるのも、昔の人たちが当たり前を変えてきたからなのかもしれない。
ありがとう、先人たち。
ありがとう、乳首。
一方、女性の胸の露出に対する考え方も、地域や時代によって違ってきた。
世界中の女性が、昔から必ず胸を隠していたわけではない。
つまり、今の僕たちが当たり前だと思っていることも、絶対的なルールではないのだ。
そう考えると、乳首の恥ずかしさとは何なのだろう。
生まれつき恥ずかしいものなのか。
それとも、隠すものだと教えられることで、恥ずかしくなっていくのだろうか。
僕には後者の影響も大きいように思える。
そもそも、なぜ男性にも乳首があるのか。
ここで、もう一つ根本的な疑問が生まれた。
そもそも、なぜ男性にも乳首があるのだろう。
女性の乳房には授乳という重要な役割がある。
では、男性の乳首は何をしているのか。
調べてみると、乳首のもとになる組織は、胎児の発生の早い段階で作られるらしい。
男性と女性の体の違いがはっきり形成される前から、乳首の発達は始まっている。
そのため、男性にも乳首が残る。
もちろん、男性の乳首にも感覚などはあるので、まったく無意味なものというわけではない。
しかし、僕は考えてしまう。
僕の乳首は、いったい何のためにここにいるのだろう。
生まれてから三十年以上。
ずっと僕についてきた。
文句も言わず、給料も求めず、休日も要求しない。
朝も昼も夜も、ただ胸元にいる。
僕が寝ている間も、乳首はそこにいる。
僕が仕事をしている間も、乳首はそこにいる。
僕がボクシングを見ている間も、乳首はそこにいる。
なんと健気な存在だろう。
少し愛おしくなってきた。
普段、僕たちは乳首に感謝することなどない。
しかし、乳首は今日も僕たちと一緒に生きている。
乳首よ。いつもありがとう。
いや、何を感謝しているんだ。
隠しても、そこに乳首があることは全員知っている。
そもそも、乳首を隠すことに、どれほどの意味があるのだろうか。
服を着ていれば、乳首は見えない。
しかし、そこに乳首があることは全員知っている。
隠したところで、誰も驚かない。
「あの人、乳首があるらしいよ」
「ええっ! 本当に!?」
そんな会話をしている人はいないだろう。
乳首があることは、何も秘密ではない。
しかも、大体乳首なんてものは、乳首なのだ。
胸についている。
一般的には二つある。
大きさや形、色に違いはある。
しかし、基本的には乳首である。
何をそんなに隠す必要があるのだ。
もちろん、隠したい人は隠せばいい。
僕だって、いつでも乳首を見せびらかしたいわけではない。
しかし、隠さなければならない理由を考え始めると、どうにも不思議なのだ。
乳首は、見られた瞬間に何かが変わるのだろうか。
それまで普通の人間だった人が、乳首を見せた途端、別の存在になるのだろうか。
そんなわけがない。
乳首は乳首だ。
昨日も乳首だった。
今日も乳首だ。
おそらく明日も乳首だろう。
乳首は何も変わっていない。変わっているのは、それを見る僕たちの意識なのだ。
そう考えると、乳首というのは不思議な存在である。
何もしていないのに、社会からさまざまな意味を与えられている。
ある場所では普通。
別の場所では恥ずかしい。
また別の場所では、不快だと言われる。
乳首も大変だ。
しかし、隠すからこそ価値が生まれるのではないか。
ここまで考えてきた僕は、一つの可能性に気づいた。
乳首は、隠しているからこそ価値が上がるのではないだろうか。
例えば、ボクシング。
両選手とも堂々と乳首を出している。
しかし、誰も騒がない。
珍しくもなんともないからだ。
ところが、普段は隠されているものが、ふとした瞬間に見えたらどうだろう。
人はそこに特別な意味を感じることがある。
つまり、乳首そのものに特別な価値があるというより、隠すという習慣が、その価値を生み出しているのではないか。
これは大変な発見である。
僕はこれまで、乳首の自由について考えてきた。
しかし、自由になりすぎることで、乳首の特別感が失われる可能性があるのだ。
もし明日から全人類が乳首を出して生活するようになったら。
最初は驚くだろう。
街を歩けば乳首。
電車に乗れば乳首。
スーパーに行っても乳首。
レジの店員さんも乳首。
どこを見ても乳首である。
しかし、一週間もすれば慣れるかもしれない。
一か月後には、誰も気にしなくなっているかもしれない。
乳首の大暴落である。
なんということだ。
僕は乳首の自由を求めていたはずなのに、知らず知らずのうちに乳首の市場価値を破壊しようとしていたのだ。
もちろん、性的な魅力は単純に希少性だけで決まるものではない。
見慣れていても魅力を感じるものはある。
しかし、隠されていることで、特別な意味が生まれるという面はあると思う。
見えないからこそ、気になる。
見せないからこそ、見たくなる。
人間とは、なんとも不思議な生き物だ。
では、どうすればいいのか。
隠すべきなのか。
見せるべきなのか。
僕は自分の小さくて、控えめで、たおやかな乳首を見つめた。
どうやら、乳首の問題は思っていた以上に奥が深い。
もしボクシングで乳首を隠すのが当たり前になったら。
ここで、もう一度ボクシングに戻ろう。
もし、ボクシングの選手たちが全員乳首を隠すようになったらどうだろう。
赤コーナーの選手も、青コーナーの選手も、乳首を厳重に隠している。
乳首専用のカバーをつけているのかもしれない。
あるいは、胸元を覆う特別なユニフォームが開発されるかもしれない。
選手たちは試合前、乳首が隠れているか入念に確認する。
セコンドもチェックする。
「よし、乳首は大丈夫だな」
「はい。完璧です」
「絶対に出すなよ」
「わかっています」
なんという緊張感だ。
そして、ゴングが鳴る。
カーン!
両選手が激しく打ち合う。
右ストレート!
左フック!
強烈なボディーブロー!
観客が沸く。
そのときだった。
赤コーナーの選手の乳首カバーが、激しい動きによってずれてしまった。
「おおっとー! 赤コーナー! 乳首がポロリ!」
実況者が叫ぶ。
「これはまずい! 減点か!?」
解説者も慌てる。
「いやあ、これは予想外ですね。ここまで乳首の管理は完璧だったんですが」
「レフェリーはどう判断するのでしょうか!」
レフェリーが選手に近づく。
しかし、試合は続行される。
「おっと! レフェリーは流しました!」
「乳首の露出を確認しましたが、注意はありません!」
その直後、青コーナーの選手にも異変が起こる。
「ああっと! 青コーナーも乳首が出たー!」
「両者乳首! 両者乳首です!」
会場は騒然。
観客は総立ち。
「なんという展開でしょう! まさか両選手の乳首が同時に露出するとは!」
セコンドも叫ぶ。
「落ち着け! 乳首を気にするな! パンチに集中しろ!」
しかし、選手は乳首が気になって仕方がない。
片手で乳首を隠しながら、もう片方の手でパンチを繰り出す。
ガードが下がる。
危険だ。
乳首を守ろうとして、顔面を守れなくなっている。
もはや何の競技かわからない。
試合終了後、判定が発表される。
「ジャッジ1、115対113!」
「ジャッジ2、114対114!」
判定が割れた。
乳首の露出は採点に影響したのだろうか。
「本日の勝敗を分けたポイントは何でしょうか?」
「やはり第8ラウンドの乳首でしょうね」
そんな解説が始まる。
世界乳首統一タイトルマッチである。
いや、何を統一するんだ。
しかし、ここで気づくことがある。
現実のボクシングでは、両選手の乳首が最初から出ていても、誰も気にしない。
ところが、隠すことが当たり前になった途端、乳首が見えるだけで大事件になる。
乳首は何も変わっていない。
同じ乳首だ。
変わったのは、僕たちが作ったルールだけなのである。
乳首は誰のものなのだろう。
ここまで、乳首について真剣に考えてきた。
自分でも、なぜこんなに考えているのかわからない。
しかし、考えれば考えるほど、不思議なことが出てくる。
男性は乳首を出してもいい。
女性は隠すことを求められる場面が多い。
男性でも、ワイシャツから透けていると不快に思われることがある。
そして、隠すからこそ特別な意味が生まれる可能性もある。
では、結局どうすればいいのだろう。
僕は思う。
見せたい人は見せればいいし、隠したい人は隠せばいい。
もちろん、法律や場所ごとのルールはあるし、周囲への配慮も必要だ。
どこでも好き勝手に露出していいという話ではない。
しかし、少なくとも、誰かが不快に感じるという理由だけで、身体の一部を恥ずかしいものとして扱う必要はないのではないか。
乳首は、誰かを不快にするために存在しているわけではない。
そこにあるだけだ。
しかも、僕たちは全員、乳首というものの存在を知っている。
隠したところで、秘密にはならない。
そして、乳首を隠すことに価値を感じる人もいれば、見せることに自由を感じる人もいる。
どちらも、その人の考え方だろう。
ただ、僕は一つだけ言いたい。
乳首を、もう少し普通のものとして扱ってもいいのではないだろうか。
男性だから。
女性だから。
透けているから。
見えているから。
そんな理由で、乳首にさまざまな評価が下される。
乳首も、たまったものではない。
今日も僕の乳首は、静かに暮らしている。
結局、男性の乳首を隠さなくてもいいとされるのは、身体の違いだけで決まったことではない。
歴史や文化、社会の常識が大きく関わっている。
そして、その常識は時代とともに変わってきた。
今は当たり前のことも、百年後には不思議に思われているかもしれない。
「昔の人って、乳首を隠していたらしいよ」
「えっ、なんで?」
そんな会話が交わされる未来が来るかもしれない。
逆に、男性も乳首を隠すことが当たり前になる可能性だってある。
そうなったら、僕はどうするだろう。
おそらく、普通に隠すと思う。
面倒くさいなあと思いながら、乳首カバーをつけて出勤するのだろう。
しかし、たまには鏡の前でカバーを外し、自分の乳首を眺めるかもしれない。
小さくて可愛い。
控えめで、たおやか。
相変わらず、いい乳首だ。
僕はそっと微笑む。
そして、乳首に語りかける。
「お前も大変だな」
もちろん、返事はない。
乳首は何も言わない。
今日も静かに、僕の胸元で暮らしている。
僕はそんな乳首を、これからも大切にしていきたいと思う。
最後に、もう一度だけ言わせてほしい。
乳首なんてものは、乳首なのだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
……いや、僕の乳首だけは、少し可愛いかもしれない。
