やっと休憩だ。
長かった。ようやく仕事から解放された。
僕は喫煙所へ向かった。誰もいない。素晴らしい。タバコを取り出し、火をつける。
ふう。
ああ、落ち着く。
誰とも話さなくていい。何も考えなくていい。ただ静かにタバコを吸う。仕事中、散々人の声を聞いてきたのだ。休憩くらい、自分の頭の中を静かにしておきたい。
この数分間が好きだ。
そのときだった。
ガチャ。
喫煙所の扉が開いた。
五人の男たちが入ってきた。
ずいぶん大人数だな。全員知り合いらしい。すでに楽しそうに話している。
僕は思った。
嫌な予感がした。
いや、まだ何も起きていない。ただ五人が入ってきただけだ。喫煙所は僕の私有地ではない。誰が来ようと自由である。
しかし、わかるのだ。この空気。入室する前から完成している盛り上がり。誰かが話すたび、別の誰かが肩を揺らしている。
こいつら、絶対うるさいぞ。
「ギャハハハハ!」
ほら来た。
嫌な予感というのは、こういうときだけ見事に当たる。
一人が話す。四人が笑う。別の一人が話す。今度は全員が笑う。笑い声が収まらないうちに、次の話題が始まる。
「いや、それマジで!」
「ヤバいやろ!」
「ギャハハハ!」
何がそんなに面白いのだ。こちらには一切わからない。わからなくてもいい。知りたくもない。
ただ、音だけが届く。
さっきまで静かだった空間が、一瞬で宴会場になった。
しかも酒も料理もない。灰皿しかないのに、騒がしさだけは立派な宴会場である。
僕は招待されていない。参加するつもりもない。なのに、なぜか二次会の会場に居合わせている。
頼む。早くお開きにしてくれ。
さらに追撃の一手が
五人組の笑い声に耐えながら、僕はタバコを吸っていた。
ガチャ。
また扉が開く。
今度は一人の男だ。電話をしながら入ってきた。
「いや、だから違うって!」
お前もか!
しかも声が大きい。電話の相手に聞かせるためなのか、喫煙所全体に聞かせるためなのか、よくわからない。
「昨日も言ったじゃん!」
知らん。昨日のことは昨日のうちに解決しておいてくれ。
「それはそっちの問題でしょ!」
そうなのか。大変だな。
いや、僕が理解する必要はない。僕はその会議の出席者ではないのだ。
右からは五人組の笑い声。奥からは電話の声。
電話の男は、周囲がうるさくて相手の声が聞き取りにくいのか、さらに声を張り上げる。すると五人組の会話も負けじと大きく聞こえる。
誰も音量を下げない。全員で騒音を育てている。
喫煙所が、宴会場とコールセンターの複合施設になってしまった。
こんな施設、誰が望んだのだろう。
それにしても、電話をしている男には聞いてみたい。
なぜ、わざわざこんな騒がしい場所で電話をするのだ。
静かな廊下に出ることはできないのか。もちろん、電話をしていい場所かどうかは確認が必要だが、少なくとも今の喫煙所は通話に向いていない。
本人も聞き取りにくそうにしている。相手もきっと聞き取りにくいだろう。周囲の僕たちも聞きたくない。
誰一人、得をしていないではないか。
それでも電話は続く。
「いや、そうじゃなくて!」
そうじゃないのは、こっちのセリフだ。
隣ではビジネスセミナーだ
もう勘弁してくれ。早く吸い終わって帰ろう。
そう思った瞬間、また扉が開いた。
今度は二人組。
まだ来るのか。
二人は僕の隣に座った。そして、すぐに会話を始める。
「いや、もっとコミットしないと」
「結局、マインドセットの問題なんだよね」
……。
何を言っているのだ。
「意識が低いんだよ」
「それじゃダメだって」
「もっと主体性を持たないと」
おお。何やら熱い話をしている。
横文字が多い。コミット。マインドセット。パフォーマンス。モチベーション。
ここは外資系企業の会議室か。
「結局、そこなんだよね」
どこなんだ。
「もっと上を目指さないと」
どこまで行くんだ。
「現状維持じゃ成長できないから」
そうなのか。
俺は何を聞かされているんだ。
僕はタバコを吸いに来ただけだ。自己啓発セミナーに申し込んだ覚えはない。受講料も払っていない。そもそも受講する意思がない。
それなのに講師は熱弁を振るい、受講者は深くうなずいている。
「もっと意識を高く持たないと!」
まず、お前の声量に対する意識を高く持ってくれ。
右では宴会。奥ではコールセンター。隣ではビジネスセミナー。
なんなんだ、この空間は。
全部同時開催である。しかも無料。誰も申し込んでいないのに、勝手に始まる。
頼むから、僕を巻き込まずに成長してくれ。
最後の刺客は蒸気機関車
さらに扉が開いた。
もう驚かない。好きにしてくれ。
一人の男が入ってきて、近くでタバコに火をつけた。
「スゥゥゥゥーー!」
「ハァァァァァーー!」
……。
なんだ、この音は。
「スゥゥゥゥーー!」
「ハァァァァァーー!」
お前は蒸気機関車か!
なんという吸引力。なんという排気音。一吸いごとに全力である。
しかも、この男は一言も喋っていない。ただタバコを吸っているだけだ。それなのに、存在感がすごい。
この「スーハー音」がやたらとうるさい人については、別の記事で詳しく書いた。

気になる方は、そちらも読んでいただけると嬉しい。
さて、話を戻そう。
右では宴会。奥では電話。隣ではビジネスセミナー。そして近くには蒸気機関車。
あれ。僕、喫煙所に入ったよな?
急に自信がなくなってきた。もしかすると入口を間違えたのかもしれない。宴会場と会議室とコールセンターが一体になった謎の施設に、迷い込んでしまったのではないか。
そう考えれば、すべて説明がつく。
僕はタバコを吸い終え、そっと立ち上がった。誰にも話しかけず、扉を開ける。
外に出て、入口の表示を確認した。
「喫煙所」
……。
合ってるやないか。
間違っていたのは、僕ではなかった。
なぜ五人で群れてくるのだ
それにしても不思議だ。
なぜ、タバコを吸うだけなのに、五人でやってくるのだろう。
一人では吸えないのか。タバコにも団体行動が必要なのか。五人そろわないと火がつかない仕組みなのか。
もちろん、そんなわけはない。
考えてみれば、理由はいくつかありそうだ。
まず、休憩時間が同じなのだろう。同じ職場で働いていれば、休憩に入るタイミングも重なる。
「タバコ行く?」
「俺も行く」
「じゃあ俺も」
そうして人数が増えていく。
別に五人で行くことを計画したわけではなく、気づけば五人になっているのかもしれない。
次に、喫煙所を交流の場として使っている可能性がある。
仕事の愚痴を言う。昨日の出来事を話す。くだらないことで笑う。タバコを吸いながら仲間と過ごすことが、彼らにとっての気分転換なのだろう。
それ自体は理解できる。
僕にとって休憩とは、一人になる時間だ。しかし、誰かにとって休憩とは、人と話す時間なのかもしれない。
仕事中に一人で作業していた人なら、休憩時間に誰かと喋りたくなることもあるだろう。
つまり、休憩の仕方が違うのだ。
ただ、ひとつ疑問が残る。
なぜ、群れた瞬間に声まで大きくなるのだ。
五人で来ることと、大声で騒ぐことは別の話ではないか。
五人で静かに吸ってもいい。小声で話してもいい。誰かが話し終わるまで待ってもいい。
それなのに、全員が同時に喋り始める。
僕には、そこが不思議で仕方ない。
なぜ集団になると、あんなにうるさくなるのか
一人で喫煙所にいるとき、大声で独り言を言う人はあまり見かけない。
ところが、仲間が集まると急に声が大きくなる。
おそらく、意識が仲間内に集中するのだろう。
目の前の相手に話を聞いてほしい。面白い話をして笑わせたい。相手の反応が楽しい。そうして会話が盛り上がる。
すると、同じ空間にいる他人の存在が、意識から薄れてしまうのかもしれない。
本人たちは悪気なく楽しんでいるだけなのだろう。自分たちがどれほど大きな声を出しているか、気づいていない可能性もある。
そして、笑い声には連鎖するところがある。
一人が笑う。別の一人がもっと大きく笑う。その声につられて、また誰かが笑う。
一人ひとりは普通に喋っているつもりでも、五人分の声が重なれば相当な音量になる。
さらに周囲が騒がしくなると、相手に聞こえるように声を張る。すると、また騒がしくなる。
全員が全員の声を大きくしているのだ。
何という協力体制。
その団結力を、もう少し静かな方向に使えないものだろうか。
ただし、これは喫煙所に限った話ではない。
電車でも、休憩室でも、飲食店でも、同じことが起きる。
一人なら静かな人が、仲間といると急に大声になる。
人は集団になると、周囲より仲間内の空気を優先してしまうことがあるのだと思う。
だからこそ、ときどき外側を見る必要がある。
自分たちの会話に参加していない人も、同じ空間にいるのだ。
会話が悪いと言っているわけではない
ここは誤解されたくない。
僕は、喫煙所で会話すること自体が悪いとは思っていない。
雑談してもいい。笑ってもいい。仕事の相談をしてもいい。
喫煙所が交流の場になっていることも、別に否定しない。
そもそも、喫煙所は僕一人のために作られた場所ではない。
誰でも使う場所だ。だから、いろいろな人がいる。
ただ、音量には少し気を配ってほしい。
楽しそうなのはわかった。仲がいいのもわかった。仕事に対する意識が高いのもわかった。
でも、その楽しさや熱意を、周囲全員に届ける必要はない。
僕は、あなたたちの話に参加していない。
笑ってほしいと言われた覚えもない。感想を求められた覚えもない。ビジネスセミナーのアンケートに答える予定もない。
なのに、耳だけが勝手に参加させられている。
これがしんどいのだ。
会話は自由だ。しかし、自由だからといって、どれだけ大きな声を出してもいいわけではない。
自分たちが楽しいかどうかと、周囲が快適かどうかは、別の問題である。
楽しいのはわかった。だが、周囲まで楽しませようとしなくていい。
ちなみに、僕が望んでいるのは無音ではない。
換気扇の音もするだろう。扉が開く音もする。誰かが咳をすることだってある。それくらいは普通のことだ。
問題は、必要以上に大きな声を出し続けることなのだ。
僕は音に一切耐えられないわけではない。ただ、聞く必要のない会話を、強制的に大音量で聞かされるのが嫌なのである。
静かな人ほど、居場所がなくなる
もうひとつ、不思議なことがある。
騒がしい人たちが入ってくると、なぜか静かにしている僕の方が居づらくなるのだ。
僕は何もしていない。
誰にも迷惑をかけていない。タバコを吸っているだけだ。
それなのに、五人組が来た瞬間、空間の主役が変わる。
彼らは楽しそうに喋っている。僕は無言で立っている。
いつの間にか、僕の方が場違いな人間のように感じてしまう。
おかしいではないか。
静かにしている人間が、なぜ肩身の狭い思いをしなければならないのだ。
もちろん、彼らに悪意はないのかもしれない。僕を追い出そうとしているわけでもないだろう。
それでも、結果として僕は落ち着かなくなる。
騒いでいる側は、自分たちが楽しいからその場に残る。
静かに過ごしたい側は、居心地が悪くなってその場を離れる。
そうして、静かな人ほど先にいなくなる。
これでは、騒がしい人だけが快適な空間になってしまう。
喫煙所に限らず、共有スペースでは起こりがちなことだと思う。
静かな人は、黙っているだけでは希望が伝わらない。
だからといって、毎回「静かにしてください」と注意するのも疲れる。
せっかくの休憩時間に、知らない人へ注意する仕事まで増やしたくない。
僕は休憩しに来たのだ。
休憩中に、喫煙所の風紀委員をやりたくない。
そして、休憩時間には限りがある。
これが一番つらい。
いつでも好きなだけ休めるなら、騒がしい人たちが帰るまで待つこともできる。だが、僕の休憩は時計と一緒に減っていく。
五人組が大笑いしている間にも、一分、また一分と過ぎていく。
彼らにとっては楽しい一分だろう。僕にとっては、ただ耐えている一分だ。
同じ一分なのに、こんなにも中身が違う。
休憩を終えて仕事に戻るころ、彼らは「楽しかったな」と思うかもしれない。僕は「疲れたな」と思っている。
休憩したはずなのに、休憩前より疲れている。
これは、いったいどういう仕組みなのだ。
では、どうすればいいのか
現実的な対処法も考えてみた。
まず、混雑する時間を避ける。
休憩のタイミングを少しずらせるなら、静かな時間帯を狙う。喫煙所が複数あるなら、比較的空いている方を使う。
ただし、仕事の休憩時間は自由に決められないことも多い。いつでも好きな場所に移動できるわけでもない。
次に、あまりにも大声の通話や騒ぎが続くなら、施設の管理者に相談するという方法もある。
利用ルールがあるなら、それを守ってもらうのが筋だろう。
しかし、正直に言うと、僕はもっと簡単な方法が欲しい。
いちいち注意しなくてもいい。
誰かの機嫌を損ねる心配もない。
静かに吸いたい人が、静かに吸える。
そんな喫煙所だ。
そこで、僕は画期的な改善案を思いついた。
一灰皿、一個室にしてくれ
喫煙所を個室にしてくれ。
ただし、広い個室ではない。
今ある喫煙所を、そのまま細かく区切ってほしいのだ。
広さは変えない。収容人数も、できるだけ変えない。
灰皿が十個あるなら、十個の極小個室を作る。
一部屋は、人間一人が立てる程度でいい。
椅子もいらない。テーブルもいらない。豪華な設備なんて必要ない。
灰皿と、僕が入るスペース。
それだけで十分だ。
まるで証明写真の撮影ボックス。
いや、それより狭くても構わない。
僕はタバコを吸いに来ているのだ。ダンスを踊りに来たわけではない。
もちろん、換気や避難経路などの安全性は確保してもらわなければ困る。しかし、発想としてはこうだ。
一人ずつ仕切る。
これなら、五人組がやってきても、全員別々の個室に入るしかない。
宴会は解散。
ビジネスセミナーは閉講。
コールセンターも、周囲への音漏れを抑えられる設計にしてほしい。
蒸気機関車の排気音だって、少しは遠くなるだろう。
なんという平和。
なんという静寂。
しかし、きっと反対する人もいる。
「仲間と一緒に吸いたい!」
なるほど。
だったら、好きにしてくれ。
抱き合ってでも、一つの個室に入れ。
肩を寄せ合い、体を密着させ、顔を突き合わせて、好きなだけ雑談すればいい。
「ギャハハハハ!」
結構だ。
存分に笑ってくれ。
意識の高い話もしてくれて構わない。もっとコミットしてくれ。もっと上を目指してくれ。
ただし、全員その狭い個室の中だ。
そこまでして一緒にいたいのなら、もう止めない。
僕は隣の個室で、静かにタバコを吸わせてもらう。
それだけでいい。
一灰皿、一個室。
僕からの、ささやかなお願いである。
それが無理なら、静寂を100円で売ってくれ
もちろん、そんな個室を作るには費用もかかる。換気設備の問題もある。現実には難しいかもしれない。
だったら、もうひとつ提案がある。
有料の静かな喫煙スペースを作ってくれ。
一回100円でいい。
僕は払う。
喜んで払う。
高級なソファはいらない。テレビもいらない。飲み物もいらない。おしゃれな内装も必要ない。
ただ、静かにタバコを吸える場所を用意してほしい。
静寂、100円。
安いではないか。
いや、待て。
そもそも喫煙所で静かに過ごすために、なぜ僕がお金を払わなければならないのだ。
おかしい。
明らかにおかしい。
しかし、あの宴会場とコールセンターとビジネスセミナーと蒸気機関車が同時開催される空間に戻るくらいなら、100円払う。
僕は今、タバコではなく静寂を買おうとしている。
なんという時代なのだ。
しかも、静かな場所に入るために100円を払ったあと、隣の個室から「ギャハハハ!」と聞こえてきたらどうする。
それは困る。
返金してくれ。
僕が買ったのは、静寂なのだ。
僕はただ、タバコを吸いたいだけなのだ
考えてみれば、僕の望みはとても小さい。
仕事の合間に、数分だけ静かに過ごしたい。
誰かと話したいわけではない。誰かの話を聞きたいわけでもない。
もちろん、喫煙所で会話する人たちを全員否定したいわけではない。
楽しく休憩したい気持ちはわかる。
ただ、同じ場所には違う休憩の仕方を求める人もいる。
五人で話すことが休憩の人もいれば、一人で黙っていることが休憩の人もいる。
どちらも、その場所を使う権利がある。
だからこそ、少しだけ周囲を見てほしい。
僕は、あなたたちの休憩を邪魔していない。
できれば、僕の休憩も邪魔しないでほしい。
それだけなのだ。
さて、次の休憩時間。
僕は再び喫煙所へ向かった。
扉の前で、少し耳を澄ませる。
「ギャハハハハ!」
……。
まだ宴会をやっているのか。
僕は入口の表示を見た。
「喫煙所」
間違いない。
それでも、もう一度だけ確認したくなった。
ここ、本当に喫煙所だよな?
頼む。
一灰皿、一個室にしてくれ。
