駅の階段には、矢印がある。
上り。下り。右側通行。左側通行。
駅によって指定は違うが、矢印がある場所なら、その方向に歩けばいい。
難しいことではない。
しかし、なぜか逆走してくる人がいる。
それ自体も気になるのだが、僕がもっと不思議なのは別のことだ。
なぜ、逆走している人が避けないのだろう。
こちらは矢印どおりに歩いている。
向こうは反対方向から来る。
なのに、向こうは堂々としている。
まっすぐ進んでくる。
こちらが避けなければぶつかる。
いや、待て。
なんでお前がそんなに堂々としているんだ。
自分の歩く方向を確かめる。
合っている。
周囲の人も同じ方向に進んでいる。
それなのに、目の前の人だけがこちらへ向かってくる。
距離が縮まる。
五メートル。
三メートル。
一メートル。
まだ避けない。
お前、どこまで来るつもりなんだ。
結局、僕が身体をずらす。
相手は何事もなかったように通り過ぎていく。
そして、僕だけが思う。
なんで俺が避けてんねん。
別に道を譲ること自体が嫌いなわけではない。
狭い道なら、お互いに少しずつ身体をずらせばいい。
問題は、通行方向が指定されている場所で、逆走している側がまったく譲ろうとしないことだ。
朝の通勤時間なら、なおさらだ。
こちらも急いでいる。
電車の時刻を気にしながら、流れに合わせて歩いている。
そんなときに正面から逆走する人が現れると、思わず足が止まる。
後ろにも人がいるから、急に大きく避けるわけにもいかない。
たった一人の逆走で、周囲の数人が歩き方を変えることになる。
本人にとっては、何でもない数歩なのかもしれない。
しかし、周りには小さな影響が広がっている。
今日は、この小さな不条理について考えてみたい。
1.逆走していても、申し訳なさそうな人はいる
まず、誤解のないように書いておく。
逆走する人が全員、堂々と突っ込んでくるわけではない。
急いでいる様子で、周囲を確認しながら歩く人もいる。
人が近づけば自分から避け、申し訳なさそうに通り過ぎる人もいる。
何か事情があるのかもしれない。
乗り換えに急いでいるのかもしれないし、初めて利用する駅で通行方向を間違えたのかもしれない。
もちろん、急いでいれば逆走していいという話ではない。
それでも、周囲に配慮しようとしていることは伝わってくる。
そういう人にまで、いちいち腹を立てようとは思わない。
今回、僕が考えたいのは、逆走しているのに避けようとしない人である。
こちらを見ている。
前から人が来ることも分かっているはずだ。
それなのに進路を変えない。
まるで、こちらが避けるのが当然だと言わんばかりに歩いてくる。
同じ逆走でも、この違いは大きい。
道を間違えることは誰にでもある。
しかし、間違えたあとにどう振る舞うかは、その人次第だ。
2.歩きスマホまでしている人がいる
さらに厄介なのが、スマホを見ながら逆走する人だ。
階段を下りながら、画面を見ている。
こちらを見ない。
足元もろくに確認していないように見える。
お前は何を信じて歩いているんだ。
周囲の人間が全員、自分を避けてくれるとでも思っているのだろうか。
ここは平らな歩道ではない。
駅の階段だ。
段差がある。
大勢の人が行き来する。
少し足を踏み外せば危ない。
そんな場所で、通行方向を無視したうえにスマホを見る。
一体、何重に危険を重ねるつもりなのだろう。
連絡を確認したい気持ちは分かる。
急いで調べたいこともあるだろう。
しかし、それなら安全な場所に移動してから確認すればいい。
ちなみに、歩きスマホについては別の記事で詳しく書いたので、そちらも読んでほしい。

今回は逆走の話に戻る。
まず前を見ろ。そして矢印を見ろ。
話はそれからだ。
3.グループ逆走という集団行動
一人の逆走なら、まだ通る隙間がある。
しかし、二人、三人、四人と横に並んで逆走してくる人たちもいる。
楽しそうに話している。
笑っている。
盛り上がっている。
こちらが近づいても、列を崩さない。
目の前に、人間の壁ができている。
お前ら、何の隊列を組んでいるんだ。
階段を制圧する作戦でも始まったのだろうか。
こちらは矢印に従って歩いているだけなのに、なぜか集団の進路を予測しなければならない。
誰が避けるのか。
どこに隙間ができるのか。
そもそも隙間はできるのか。
そして、僕はもう一つ疑問に思う。
その中に一人くらい「こっち逆走やで」と言う人はいないのだろうか。
先頭の人が間違えたのかもしれない。
後ろの人は、何となくついてきただけかもしれない。
会話に夢中で、誰も矢印を見ていない可能性もある。
しかし、四人もいれば、誰か一人くらい気づいてもよさそうなものだ。
それでも全員で進んでくる。
満場一致で逆走を可決したんか。
集団で歩くことが悪いわけではない。
ただ、階段は自分たちだけのものではない。
横に広がれば、そのぶんほかの人が通れる場所は狭くなる。
仲良く歩くのは結構だが、できれば通行方向も仲良く守ってほしい。
4.なぜ逆走するのか。五つの心理を考えてみた
では、なぜ人は逆走するのだろう。
そして、なぜ避けない人がいるのだろう。
本人に聞いたわけではないので、ここからは僕の仮説だ。
事情も性格も人それぞれだろう。
それを踏まえたうえで、考えてみたい。
① そもそも矢印を見ていない説
一番単純なのが、これだ。
自分が逆走していることに気づいていない。
目的地のことだけを考え、床の表示も周囲の流れも見ていない。
駅を毎日利用していても、通行方向を意識したことがないのかもしれない。
しかし、ここで疑問がある。
周囲の人が、みんな自分と反対方向に歩いていたら、何かおかしいと思わないのだろうか。
階段を上ろうとしたら、正面から次々に人が下りてくる。
こちらに向かって、人の流れができている。
普通なら一度くらい考えそうだ。
「あれ、こっち下りなんかな?」
しかし、そのまま進んでくる。
自分以外の全員が逆走していると思っているのだろうか。
もしそうなら、相当な自信家だ。
周囲の数十人が同じ方向に歩いている。
それでも自分の方向が正しい。
ここまでくると、もはや信念である。
もちろん、表示が分かりにくい駅もある。
混雑していて矢印が見えないこともあるだろう。
だから、気づかなかった人を一律に責めるつもりはない。
ただ、階段では周囲を見てほしい。
自分の目的地だけでなく、目の前の人の流れも見てほしい。
② 自分の進みたい方向が最優先説
少し遠回りになるのが面倒だから、逆走する。
そんな人もいるのかもしれない。
階段の反対側まで移動するのが面倒。
目的地に近い側から進みたい。
数秒でも早く着きたい。
気持ちは分からなくもない。
人間、できれば楽をしたい。
しかし、その数秒を節約するために、ほかの人が避けなければならなくなる。
自分は最短距離を進む。
その代わり、周囲の人が立ち止まったり、身体をずらしたりする。
自分の近道が、他人にとっての障害物になっている。
ここが問題だ。
通行方向は、一人の人間が最短距離で移動するためのものではない。
大勢の人が安全に行き来するためのものだ。
全員が自分の都合だけで動き始めたら、どうなるだろう。
あちこちで人が交差し、階段は歩きにくくなる。
結局、みんなが不便になる。
自分一人の数秒より、周囲の安全を優先してほしい。
③ 相手が避けてくれると思っている説
僕が特に気になるのは、これだ。
逆走しても、周囲の人が避けてくれる。
だから、今回も避けてくれると思っている。
実際、僕も避ける。
ほかの人も避けるだろう。
ぶつかりたくないからだ。
すると、逆走した人は何事もなく通り抜けられる。
避けなくても大丈夫だった。
今日も大丈夫だった。
明日もきっと大丈夫だ。
そんな経験が積み重なれば、自分から避ける必要を感じなくなるのかもしれない。
しかし、勘違いしてほしくない。
周囲が避けてくれたのは、あなたの歩き方を認めたからではない。
ただ、ぶつかりたくなかっただけだ。
こちらは安全のために道を譲った。
それを当然だと思われたら、たまったものではない。
周囲の配慮によって逆走が成立している。
何とも皮肉な話だ。
④ 意地でも避けたくない説
もしかすると、道を譲ることを負けだと思っている人もいるのではないだろうか。
正面から人が来る。
自分からは避けない。
相手が動くまで、まっすぐ進む。
まるで、どちらが先に進路を変えるかを競っているようだ。
いや、何の勝負やねん。
駅の階段である。
競技場ではない。
優勝賞金もない。
勝者にメダルが贈られるわけでもない。
一歩避けたところで、何を失うというのだろう。
もちろん、本当に勝ち負けを意識しているかは分からない。
単に気づいていない可能性もある。
それでも、こちらが避けるまで進路を変えない人を見ると、不思議に思ってしまう。
少し身体をずらせば、二人とも安全に通れる。
駅の階段で勝利を目指す必要はない。
どうか平和に移動してほしい。
⑤ みんなが守っていないから自分も守らない説
誰かが逆走している。
それを見た人が、同じ方向へ進む。
さらに後ろの人が続く。
気づけば、何人も逆走している。
最初の一人は間違えただけかもしれない。
しかし、後ろの人は「みんなこっちから歩いているし、大丈夫やろ」と思ったのかもしれない。
グループ逆走にも、こうした心理が関係している可能性がある。
先頭の人が進む。
ほかの人はついていく。
誰も表示を確認しない。
結果、全員で逆走する。
間違っている人が増えたからといって、間違いが正解になるわけではない。
周囲に合わせることは大切だ。
しかし、合わせる相手を間違えてはいけない。
5.なぜルールを守っている僕が、余計に気を遣うのか
ここまで考えて、結局、一番気になるのは同じことだ。
こちらは矢印に従って歩いている。
それだけなのに、逆走する人が現れると、急に考えることが増える。
相手は避けるだろうか。
僕が避けた方がいいだろうか。
立ち止まるべきだろうか。
後ろから人が来ていないだろうか。
身体をずらした先に、別の人はいないだろうか。
たった数秒のすれ違いである。
それなのに、こちらばかり判断を迫られる。
そして、相手は何事もなかったように通り過ぎる。
お前は何も考えずに歩けて、こっちはお前の分まで考えて歩いている。
これが、どうにも納得できない。
しかも、この不公平さは目に見えにくい。
避けた人は、何も言わずに歩き続ける。
逆走した人も、何も言わずに歩き続ける。
外から見れば、ただ二人がすれ違っただけだ。
しかし、実際には片方が進路を変え、もう片方はそのまま進んでいる。
何も問題が起きなかったのは、どちらか一方が配慮したからかもしれない。
そう考えると、日常には似たようなことがたくさんある気がする。
誰かがルールを守らない。
別の誰かが、そのぶん気を遣う。
そして、何事もなかったように一日が過ぎていく。
ただし、駅の階段では、どちらが正しいかよりも大切なことがある。
安全だ。
階段には段差がある。
荷物を持った人もいる。
高齢者も子供もいる。
人とぶつかってバランスを崩せば、転倒するかもしれない。
後ろの人まで巻き込む可能性もある。
平らな道で肩が触れるのとは、危険の大きさが違う。
だから、相手が逆走していても、こちらが意地を張って進み続けるべきではない。
正しく歩いていたとしても、転んでしまえば何にもならない。
ルールを守ることは大切だ。
しかし、自分や周囲の安全はもっと大切だ。
6.断固として避けない、という選択肢もあるが
もちろん、こう考えることもできる。
「こっちはルールを守っているんだから、絶対に避けない」
相手が避けるまで、まっすぐ歩く。
気持ちは分かる。
僕だって、なぜ自分が道を譲らなければならないのかと思う。
しかし、僕はその方法を選ばない。
理由は単純だ。
相手がどんな人間なのか、分からないからである。
単に通行方向を間違えているだけの人かもしれない。
しかし、ぶつかった瞬間に怒鳴り始める人かもしれない。
「どこ見て歩いてんねん!」
いや、それはこっちの台詞なのだが。
そう言い返したところで、何になるのだろう。
口論になる。
時間を取られる。
場合によっては、駅員を呼ぶような騒ぎになるかもしれない。
僕はただ、駅の階段を上りたいだけなのだ。
それなのに、知らない人と争うことになる。
たった一歩を譲らなかったために、面倒なトラブルに巻き込まれるなんて、割に合わない。
だから避ける。
危なければ立ち止まる。
相手の動きを確認し、安全な場所を通る。
納得しているわけではない。
相手が正しいと思っているわけでもない。
ただ、関わりたくないのだ。
道を譲ることと、相手の行動を認めることは違う。
避けたからといって負けではない。
自分の安全と時間を守っただけだ。
僕には読みたい本がある。
書きたい文章もある。
やりたいことが山ほどある。
そんな僕が、駅の階段で知らない人と勝負している場合ではない。
7.正しい人が避けるのは、負けなのだろうか
ここで、もう一つ考えたいことがある。
こちらが避けた瞬間、何となく悔しい気持ちになるのはなぜだろう。
道を譲ること自体は、普段からしている。
狭い歩道ですれ違うときも、店の入口で人と鉢合わせたときも、お互いに譲り合えば済む。
しかし、駅の階段では事情が違う。
矢印という明確な基準があるからだ。
こちらはその基準を守っている。
それなのに、守っていない人のために自分が進路を変える。
この瞬間、何となく理不尽さを感じる。
では、相手が避けなかったからといって、こちらも絶対に避けなければどうなるだろう。
ぶつかる。
危ない。
場合によっては口論になる。
つまり、意地を張ったところで、何も得られない。
正しさを証明するために、わざわざ危険な目に遭う必要はない。
しかも、相手はそもそも勝負しているつもりすらないかもしれない。
こちらだけが「譲ったら負けだ」と思っていたら、何ともむなしい。
相手は階段を下りていく。
僕は階段を上っていく。
それで終わりだ。
人生の勝敗を、駅の階段の一歩で決めなくていい。
そう考えると、少し気が楽になる。
とはいえ、腹が立つときは腹が立つ。
そこで、僕は新しい対処法を考えた。
8.もう、こちらが寛容になるしかないのか
しかし、困ったことがある。
僕がどれだけ考えても、逆走する人がいなくなるわけではない。
明日もいるかもしれない。
明後日もいるかもしれない。
そのたびに腹を立てていても、疲れるだけだ。
注意するという方法もある。
しかし、素直に聞いてくれるとは限らない。
相手との距離や状況によっては、トラブルになる可能性もある。
だったら、もう考え方を変えるしかないのではないだろうか。
こちらが寛容になるのだ。
怒るのではない。
責めるのでもない。
もっと広い心で見守る。
そう。
小さな子供を見るような、温かい目で。
例えば、階段を上っているとする。
すると、正面から逆走してくる男性が現れる。
スーツを着ている。
革靴を履いている。
立派な大人だ。
しかし、矢印の方向には歩けない。
そんな男性を見て、僕は心の中で語りかける。
「あらあら、あぶないでちゅよ〜」
「そっちは逆走でちゅよ〜」
「矢印、見えまちゅか〜?」
「みんなと同じ方向に歩きまちょうね〜」
「ぶつかったら痛い痛いでちゅよ〜」
もちろん、口には出さない。
心の中だけである。
実際に言ったら、別のトラブルが始まる。
僕は静かに身体をずらす。
男性はそのまま通り過ぎていく。
そこで、もう一度、心の中で語りかける。
「はい、よくできまちたね〜。次は矢印も見てみまちょうね〜」
……。
いや、待て。
何もできてへんがな。
逆走している。
避けてもいない。
僕が避けただけだ。
何一つ成長していない。
それなのに、僕は何を褒めているのだろう。
しかし、こう考えると、少しだけ気持ちが楽になる。
もちろん、本当に相手を子供扱いして見下すという話ではない。
心の中でふざけて、自分の怒りを笑いに変えているだけだ。
9.知らない大人の育児をしている場合ではない
それにしても、不思議な話だ。
僕は駅を利用しているだけである。
仕事へ行く。
家へ帰る。
本屋へ行く。
ただ、それだけだ。
しかし、階段では、ときどき知らない大人を心の中で見守ることになる。
「あらあら、そっちじゃないでちゅよ〜」
「前を見まちょうね〜」
「お友達と横に広がらないようにしまちょうね〜」
「スマホは安全な場所で見まちょうね〜」
まるで保育園の先生だ。
しかし、目の前にいるのは園児ではない。
僕より年上に見える人までいる。
なんで34歳にもなって、知らんおっさんを育ててるんや、俺は。
いや、そもそも育てていない。
相手には何も伝えていないのだから。
ただ、怒ってぶつかるよりは、ずっといい。
僕が避ければ、何事もなく通り過ぎられる。
僕は自分の予定に戻れる。
相手のことを、それ以上考えなくて済む。
もちろん、逆走が正しいわけではない。
通行方向が示されているなら、基本的には守るべきだと思う。
事情があって違う方向に進むなら、周囲に配慮してほしい。
そして、ルールを守る人ばかりが余計な負担を背負う状況は、できればなくなってほしい。
ただ、その場で相手を変えることは難しい。
だったら、少なくとも自分の時間と安全は守りたい。
相手の逆走に、自分の一日まで巻き込まれる必要はない。
今日も、駅の階段を上る。
すると、正面から一人の男性がやってきた。
逆走だ。
しかも、避けない。
僕は周囲を確認し、安全に身体をずらす。
男性は何事もなかったように通り過ぎていく。
僕はその後ろ姿を見送り、心の中で静かにつぶやいた。
「あらあら、あぶないでちゅよ〜。階段はみんなのものでちゅからね〜」
立派な大人だった。
……。
だから、なんで俺が知らんおっさんの育児をしてるんや。
