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なんでも生理のせいにする人がうざい。言い訳にするな。ただの八つ当たりは許されるのか。

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「生理だから仕方ないでしょ」

この言葉について、僕は以前から疑問に思っていることがある。

生理がつらいことは理解できる。

身体的な痛みがあることも、精神的な変化があることも知っている。

もちろん、僕自身が生理を経験したことはない。

だから、その苦しさを完全に理解できるとは思っていない。

しかし、だからこそ疑問に思うことがある。

生理だからといって、他人を傷つけてもいいのだろうか。

例えば、イライラしているからといって、誰かに暴言を吐く。

何も悪いことをしていない相手に、理不尽に怒る。

相手の言葉を必要以上に攻撃的に受け取り、きつい言葉を返す。

そして、傷つけたことを指摘されると、こう言う。

「生理だから仕方ない」

僕は、この言葉に違和感がある。

生理がつらいことと、他人を傷つけていいことは、まったく別の話ではないだろうか。

もちろん、生理中の人がみんなこのような言動をするわけではない。

むしろ、つらい症状を抱えながら、周囲に気を遣って過ごしている人もたくさんいるだろう。

今回、僕が考えたいのは、生理そのものについてではない。

自分の苦しさを理由に、他人を傷つけることは許されるのか。

そして、他人を理解するとは、いったいどういうことなのか。

そんな話をしてみたい。

目次

生理による身体的な変化も、精神的な変化も理解できる。

まず、最初にはっきりさせておきたい。

僕は、生理による体調の変化を否定するつもりはない。

生理痛がひどい。

頭が痛い。

身体がだるい。

眠気が強い。

普段どおりに動くことさえ難しい。

そうした症状があることは知っている。

人によっては、日常生活に大きな支障が出ることもあるだろう。

仕事を休まなければならないほどつらい人もいる。

また、身体だけではなく、精神的な変化が生じることもある。

気分が落ち込む。

不安になる。

イライラする。

些細なことが気になる。

普段なら受け流せることに、強く反応してしまう。

月経前症候群、いわゆるPMSという言葉もある。

さらに、月経前不快気分障害、PMDDのように、精神的な症状が非常に強く現れる場合もある。

こうした症状は、単なる気の持ちようで片づけられるものではない。

本人の意思だけでは、どうにもならない部分もあるだろう。

だから、周囲の理解や配慮は必要だと思う。

体調が悪いなら、休めばいい。

無理をしなくていい。

誰かに助けを求めてもいい。

普段どおりに振る舞えない日があってもいい。

それについて、僕は何も否定したくない。

ただし、ここからが今回の本題である。

身体や精神の状態が変化することと、他人を傷つけることが許されるかどうかは、別の問題ではないだろうか。

つらいことは、他人を傷つけていい理由になるのか。

人間は、誰だって余裕を失うことがある。

疲れているとき。

寝不足のとき。

仕事で失敗したとき。

人間関係で悩んでいるとき。

身体が痛いとき。

精神的に追い詰められているとき。

普段なら気にならないことが、妙に腹立たしく感じられることもある。

僕にだって、そういう日はある。

だから、イライラすること自体を責めるつもりはない。

感情は、必ずしも自分の思いどおりになるものではないからだ。

しかし、イライラしていることと、その感情を誰かにぶつけることは同じではない。

例えば、何も悪いことをしていない相手に怒鳴る。

相手を傷つける言葉を浴びせる。

理不尽な態度を取る。

そして、こう言う。

「生理だから仕方ないでしょ」

僕は思う。

いや、傷つけられた側はどうなるのだ。

相手が生理でつらいことは理解できる。

しかし、だからといって、傷つけられた人の気持ちが消えるわけではない。

言われた言葉は残る。

嫌な思いをした事実も残る。

傷ついたという感情も残る。

それなのに、傷つけた側の事情だけが優先されてしまう。

僕は、そこに違和感がある。

もちろん、症状が強く、感情の調整が非常に難しくなることもあるだろう。

だから、すべての言動を本人の意思だけの問題として責めるのは違うと思う。

ただ、だからといって、傷つけられた側にまで無条件の我慢を求めていいわけではないはずだ。

相手の苦しさを理解することが、自分の苦しさを我慢する義務に変わってしまう。

それは、理解とは少し違うのではないだろうか。

「お前、生理を経験したことないやん」

こうした話をすると、こんな反論があるかもしれない。

「お前、生理を経験したことないやん」

ああ、そうだ。

僕は生理を経験したことがない。

これから先も、月経そのものを身体で経験することはない。

だから、その痛みや苦しさを完全に理解することはできない。

どれほどつらいのか。

どんな感覚なのか。

どのように気持ちが変化するのか。

経験していない以上、わからない部分がある。

それは認める。

しかし、僕が今話しているのは、生理の痛みを正確に説明できるかどうかではない。

その苦しさを理由に、他人を傷つけてもいいのかということだ。

生理を経験したことがなければ、この疑問を持ってはいけないのだろうか。

傷つけられた側が男性だった場合、その人は黙って受け入れなければならないのだろうか。

「生理のつらさがわからないくせに」

そう言われたら、何も言えなくなってしまうのだろうか。

僕は、そうは思わない。

経験していないからこそ、知ろうとする必要がある。

相手の話を聞く必要がある。

自分にはわからない苦しさが存在することを認める必要がある。

それは大切なことだ。

しかし、経験していないという理由で、傷ついた気持ちまで否定されるのは違う。

相手の痛みを理解しようとすることと、自分の痛みを無視することは同じではない。

そもそも、人間は誰かの苦しみを完全に理解できるのだろうか。

同じ生理を経験する女性同士であっても、症状の重さや感じ方は違う。

痛みが強い人もいれば、比較的軽い人もいる。

精神的な症状が強く出る人もいれば、ほとんど変化を感じない人もいる。

同じ経験をしているからといって、必ずしも同じ苦しさを理解できるわけではない。

だからこそ、経験の有無だけで相手の意見を退けるのではなく、互いの話を聞くことが必要なのではないだろうか。

僕は、生理のつらさを否定したいのではない。

つらい人にも、傷つけられた人にも、それぞれの気持ちがあると言いたいのだ。

では、右腕を骨折したら何をしても許されるのか。

ここで、少し別の例を考えてみたい。

例えば、僕が転んで右腕を骨折したとする。

痛い。

ものすごく痛い。

当然、日常生活にも支障が出る。

服を着替えるのも大変だろう。

料理をするのも難しい。

仕事だって、普段どおりにはできないかもしれない。

痛みが続けば、精神的にも余裕がなくなる。

気分が落ち込むこともあるだろう。

イライラすることだってあると思う。

そんな状態の僕が、周囲の人に暴言を吐いたとする。

理不尽に怒る。

相手を傷つける。

そして、こう言う。

「だって、僕は右腕を骨折しているんだから。仕方ないでしょ」

果たして、これで許されるのだろうか。

右腕を骨折しているから、重い荷物を持てない。

それは理解できる。

右腕を骨折しているから、仕事を休みたい。

それも理解できる。

右腕を骨折しているから、誰かに手伝ってほしい。

もちろん、できる限り協力したい。

しかし、右腕を骨折しているから、他人に暴言を吐いてもいい。

いや、そこは違うだろう。

なぜ、そうなるのだ。

痛みを抱えていることと、他人を傷つけることに、どんな関係があるのだろう。

もちろん、骨折と生理では身体に起こることが違う。

月経に関連する症状には、感情の調整そのものが難しくなるものもある。

だから、まったく同じ状態として比較できるわけではない。

それでも、考えたいことは共通している。

自分がつらいことは、他人を傷つける行為を無条件に正当化する理由になるのか。

僕は、ならないと思う。

「生理だから」が無敵のワードになってしまう。

僕がもう一つ気になっているのは、「生理だから」という言葉の扱われ方である。

もちろん、体調や精神状態を説明するために、この言葉を使うことは何もおかしくない。

「今日は生理で体調が悪い」

「生理前で気分が不安定になっている」

そう伝えてもらえれば、周囲も配慮しやすくなる。

しかし、もし「生理だから」という一言で、他人を傷つけたことまで何でも許されるとしたら、どうなるだろう。

理不尽に怒っても。

暴言を吐いても。

相手を傷つけても。

「生理だから仕方ない」

それですべてが終わってしまう。

そんなことになれば、これは無敵のワードではないか。

何を言われても、反論できない。

傷ついたと伝えても、「生理のつらさがわからないくせに」と返される。

では、傷つけられた側は、どうすればいいのだろう。

ただ黙って耐えるしかないのか。

相手の体調が戻るまで、自分の気持ちは後回しにしなければならないのか。

僕は、そこまで求めるのは違うと思う。

そもそも、つらい事情があることと、何をしても許されることは同じではない。

例えば、犯罪について考えてみる。

何らかの犯罪行為をして、「生理だったから仕方ありません」と説明したとする。

当然、それだけで行為が無条件に許されるわけではない。

もちろん、犯罪と日常の口論や暴言では、行為の重大さがまったく違う。

また、犯罪をしないからといって、日常の感情を自由に制御できると証明されるわけでもない。

ここで僕が言いたいのは、犯罪と八つ当たりを同列に扱いたいということではない。

事情を説明できることと、その行為が正当化されることは別だということだ。

これは、生理に限らない。

仕事で疲れているから。

寝不足だから。

ストレスがたまっているから。

精神的に余裕がないから。

どれも、本人にとっては切実な事情かもしれない。

しかし、その事情があるからといって、周囲の人が何をされても我慢しなければならないわけではない。

僕は、そう思う。

生理を理解する男性は、女心がわかる男性なのか。

もう一つ、以前から少し気になっていることがある。

それは、生理について理解を示す男性が、女性の気持ちをよく理解している男性として評価されることだ。

もちろん、生理について知識を持つことは大切だと思う。

身体の仕組みを知る。

どんな症状があるのかを知る。

体調が悪いときには、無理をさせない。

必要なときには、手を貸す。

そうした配慮ができるのは、素晴らしいことだ。

ただ、僕は少し疑問に思う。

生理について理解していることと、女心を理解していることは、同じなのだろうか。

そもそも、女心とは何なのだ。

女性は全員、同じ考え方をしているのだろうか。

同じことを言われて、同じように感じるのだろうか。

そんなはずはない。

生理の症状だって、人によって違う。

価値観も違う。

性格も違う。

考え方も違う。

それなのに、生理について知識があるというだけで、女性全体の気持ちを理解したように考えるのは、少し違う気がする。

僕は、女性を理解するというよりも、目の前の相手を理解しようとすることが大切なのだと思う。

その人は、何がつらいのか。

何をしてほしいのか。

何をしてほしくないのか。

それを知ろうとする。

そして、相手の気持ちを尊重する。

それでいいのではないだろうか。

また、理解のある男性とは、女性の言動を何でも肯定する男性のことなのだろうか。

例えば、相手が生理でつらいとき、体調を気遣う。

家事を代わる。

無理に外出を求めない。

それは配慮だと思う。

しかし、理不尽に怒鳴られたり、傷つくことを言われたりしても、何も言わずに受け入れる。

それも、理解なのだろうか。

僕には、そうは思えない。

理解することと、何でも許すことは違う。

そして、これは男性にも女性にも言えることだと思う。

男性だって、体調が悪い日はある。

精神的に余裕がない日もある。

仕事や人間関係で悩むこともある。

だからといって、他人を傷つけていいわけではない。

女性も同じだ。

お互いに、つらいときには助け合えばいい。

無理をしなくていい。

必要なときには、支え合えばいい。

ただし、どちらか一方だけが、常に我慢しなければならない関係は健全なのだろうか。

僕は、そうは思わない。

僕が一気に冷めてしまう瞬間。

ここまで、いろいろと書いてきた。

しかし、僕が最も強く感じるのは、実はもっと単純なことなのかもしれない。

それは、相手の人間性についてだ。

例えば、生理でイライラしている人がいたとする。

普段より言葉がきつい。

少し不機嫌そうにしている。

それだけなら、僕は何とも思わない。

今日は体調が悪いのだろう。

余裕がないのだろう。

そう考える。

しかし、そのイライラを他人にぶつける。

相手が傷ついていることにも気づこうとしない。

そして、指摘されるとこう言う。

「生理だから仕方ないでしょ」

その瞬間、僕は一気に冷めてしまうと思う。

ああ、この人、たぶん生理じゃなくても、こういうことをするんだろうな。

そう感じてしまうのだ。

もちろん、本当にそうなのかはわからない。

生理に伴う症状が、普段の言動とは大きく異なる状態を引き起こしている可能性もある。

だから、その一場面だけで人間性のすべてを判断するのは違うだろう。

それでも、傷つけたことを当然のように正当化されると、僕の中で何かが変わってしまう。

今日は生理だから。

明日は寝不足だから。

明後日は仕事で疲れているから。

その次は、ストレスがたまっているから。

もしかすると、これからも何かあるたびに、別の理由が出てくるのではないか。

そんなふうに考えてしまう。

僕が気になっているのは、イライラしたこと自体ではない。

自分が誰かを傷つけたとき、それをどう受け止める人なのかということだ。

誰だって、失敗する。

感情的になることもある。

思ってもいない言葉を口にしてしまうことだってある。

僕自身、これまでの人生で誰かを傷つけたことはあるだろう。

だから、常に完璧でいろと言いたいわけではない。

大切なのは、そのあとだと思う。

自分の言動を振り返るのか。

相手が傷ついたことを受け止めるのか。

必要なら謝るのか。

それとも、何かのせいにして終わらせるのか。

僕は、そこにその人の考え方が表れると思う。

例えば、こんなふうに言われたらどうだろう。

「今日は生理で本当につらくて、余裕がなかった。さっきはきついことを言ってごめん」

僕なら、受け止め方は大きく変わる。

もちろん、謝られたからといって、傷ついた気持ちがすぐに消えるとは限らない。

それでも、自分の言動と向き合おうとしていることは伝わる。

しかし、同じことを繰り返しながら、そのたびに「仕方ない」で終わらせようとする。

そうなれば、少しずつ信頼は失われていくと思う。

そして、あるとき気づくのだ。

自分が冷めた理由は、生理ではなかったのだと。

僕は、生理でイライラする人に冷めるのではない。自分のつらさを理由に、他人のつらさを無視する人に冷めるのだ。

自分に余裕がないとき、人間性が見えるのかもしれない。

人間は、余裕があるときには優しくできる。

気分がいいとき。

仕事が順調なとき。

身体の調子がいいとき。

何も問題が起きていないとき。

そんなときには、誰かを気遣うことも比較的簡単だろう。

しかし、余裕がなくなったときはどうだろう。

疲れている。

痛みがある。

思いどおりにいかない。

精神的に追い詰められている。

そんなとき、人は普段と違う言動を取ることがある。

だからこそ、僕はそのときの振る舞いに、その人の一面が表れるのではないかと思っている。

もちろん、苦しいときの言動だけが、その人の本当の姿だとは思わない。

人間は、そんなに単純なものではない。

体調が悪ければ、普段できることができなくなる。

心に余裕がなければ、他人に優しくできないこともある。

それをすべて人間性の問題として片づけるのは、あまりにも乱暴だろう。

ただ、つらいときに他人を傷つけてしまったとして、そのあとどうするのか。

そこには、その人の姿勢が表れると思う。

自分の苦しさだけを見るのか。

相手の苦しさにも目を向けるのか。

僕が大切だと思うのは、そこなのだ。

自分がつらいときほど、他人の痛みが見えなくなることがある。

だからこそ、少し落ち着いたときに、相手のことを考えられるかどうか。

それが、人間関係を続けていくうえで大切なのではないだろうか。

「仕方がない」と「許さなければならない」は違う。

僕は、今回の話で最も大切なのは、この違いだと思っている。

「仕方がない」

そして、

「許さなければならない」

この二つは、同じ意味ではない。

例えば、体調が悪くて仕事を休む。

仕方がないこともある。

精神的に余裕がなくて、普段どおりに会話できない。

それも、仕方がないことがある。

症状が強くて、思わずきつい言葉を使ってしまう。

そうしたことが起こる可能性も理解できる。

しかし、その言葉で傷ついた人がいるなら、その気持ちまでなかったことにはできない。

事情を理解することはできる。

なぜそうなったのかを知ることもできる。

それでも、傷ついた相手がすぐに許せるとは限らない。

それは当然ではないだろうか。

許すかどうかは、傷つけられた側の気持ちにも関わることだからだ。

一方で、傷つけた本人を責め続ければ解決するというものでもない。

症状が深刻なら、医療機関への相談や治療が必要な場合もある。

周囲が負担を減らせるように協力することも大切だろう。

お互いに距離を取ることが必要な場合もある。

大切なのは、誰か一人にすべてを我慢させることではないと思う。

そして、これは生理に限った話ではない。

誰にでも、つらい事情はある。

他人にはわからない苦しさを抱えている人もいる。

だから、相手の事情を理解しようとする姿勢は必要だ。

しかし、同時に、自分の言動が誰かを傷つけていないかを考えることも必要だと思う。

理解とは、相手の事情を知ろうとすることだ。何をされても黙って受け入れることではない。

僕が求めているのは、特別なことではない。

ここまで書いてきて、改めて思う。

僕が求めているのは、それほど難しいことなのだろうか。

生理で体調が悪いなら、休んでほしい。

無理をしないでほしい。

必要なら、周囲に助けを求めてほしい。

僕にできることがあれば、協力したいと思う。

しかし、理不尽に怒られたり、傷つくことを言われたりしたら、それは嫌だ。

ただ、それだけなのだ。

生理について理解してほしい。

そう言われれば、理解しようと思う。

知らないことがあれば、学ぼうと思う。

自分には経験できない苦しさがあることも、認めようと思う。

しかし、だからといって、何をされても許せるわけではない。

僕にだって、感情がある。

傷つくこともある。

嫌なことは嫌だと思う。

それを伝えることまで否定されるのなら、対等な関係とは言えないのではないだろうか。

そして、これは逆の場合も同じだ。

僕が疲れているからといって、誰かに暴言を吐いていいわけではない。

僕が精神的に追い詰められているからといって、相手を傷つけていいわけではない。

自分の事情を理解してほしいなら、相手にも事情があることを忘れてはいけない。

自分の痛みを大切にしてほしいなら、相手の痛みも大切にする。

それが、僕の考える思いやりだ。

もちろん、いつでもそれを実践できるとは限らない。

余裕がなくなることもある。

失敗することもある。

それでも、できなかったことに気づいたら、向き合えばいい。

必要なら謝ればいい。

同じことを繰り返さないために、できることを考えればいい。

人間関係とは、そういうものではないだろうか。

最後に。

僕は、生理のつらさを軽く考えたいわけではない。

経験したことがないからこそ、わからない部分があることは理解している。

だから、知ろうとする姿勢は持ち続けたい。

必要な配慮もしたい。

しかし、それと同時に、傷つけられた側の気持ちも大切にしたい。

生理だから仕方ない。

そういうことも、確かにあるだろう。

しかし、だからといって、何でも許されるわけではない。

自分の苦しさを理由に、他人の苦しさを無視していいわけではない。

僕が一気に冷めてしまうのは、そこなのだ。

生理でイライラしていることではない。

体調が悪いことでもない。

感情的になってしまったことだけでもない。

誰かを傷つけたあと、その人の気持ちに向き合おうとしないこと。

そして、自分の事情だけを理由に、相手にすべてを受け入れさせようとすること。

そこに、僕は失望してしまう。

相手を理解することは大切だ。

しかし、理解することと、何でも許すことは違う。

僕は、そう思っている。

そして最後に、一つだけ伝えたい。

「生理だから」は、苦しさを理解してもらうための言葉であって、他人を傷つけた責任を消すための言葉ではない。

自分のつらさも、相手のつらさも、どちらも大切にできる関係でありたい。

僕が望んでいるのは、ただそれだけなのだ。

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