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積読何冊ある?積読が増える心理とは。幸せ貯金。解消とか気にしなくていい。

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皆さん、積読は何冊ありますか。

僕は300冊くらいだろうか。

いや、350冊かもしれない。

待てよ。400冊はあるのではないか。

……。

もうわからない。

本棚に並んでいるものもあれば、棚に収まりきらず積んでいるものもある。買ったまま袋に入っている本も、たぶんある。

数えようと思えば数えられるのだろうが、数えようと思ったことがない。

なぜなら、何冊あるかを知ったところで、僕は何もしないからだ。

400冊あったら反省するのか。300冊なら許されるのか。200冊になったら表彰されるのか。

誰が。

何の大会だ。

世の中には「積読が増えてしまった」と嘆く人がいる。「積読を解消したい」と悩む人がいる。「今年こそ積読を減らす」と決意する人までいる。

僕には、これが不思議で仕方がない。

本を買った。まだ読んでいない。それだけではないか。

僕は積読に罪悪感を覚えたことがない。減らそうと思ったこともない。

だからといって、積読を増やすこと自体が嬉しいわけでもない。冊数を競っているわけではないし、積み上げた本の高さを測る趣味もない。

ただ、読みたい本を見つけると買う。

その結果、まだ読んでいない本が残る。

僕にとって積読は、片付けるべき仕事ではない。

幸せ貯金なのだ。

目次

読みたいと思う日と、読む日は違う

書店に入る。

棚を眺める。知らない作家の名前が目に入る。何だか気になるタイトルだ。表紙もいい。裏表紙を読んでみる。

おや。面白そうではないか。

ページを少し開く。文章の雰囲気も好きだ。値段を見る。財布の中身を思い浮かべる。

よし、買おう。

ここで一つ、聞きたい。

この本は、今日中に読まなければならないのだろうか。

そんな決まりはない。

僕には今読んでいる小説がある。次に読もうと思っている本もある。家には何百冊もの積読がある。

それでも、この本に出会ったのは今日なのだ。

本を買いたくなる瞬間と、本を読みたくなる瞬間は、必ずしも一致しない。

今日は買いたい。読むのは来週かもしれない。半年後かもしれない。何年後かもしれない。

それでいいではないか。

特に古本屋では、出会いは一期一会だ。今日見つけた一冊が、次に来たときにも残っている保証はない。状態のいい本ならなおさらだ。

僕は古本屋に行くと、棚をじっくり見る。タイトル、著者、装丁、値段、本の状態。いろいろ確かめながら歩く。

そうして、思いがけない一冊を見つけることがある。

その瞬間の「読みたい」を、なぜ家の積読の数で取り消さなければならないのだろう。

「まだ家に本があるから」と棚に戻すのも自由だ。

でも、気に入ったから買うのも自由だ。

買う順番と読む順番が違っていても、何もおかしくない。

本を選ぶ楽しさと、本を読む楽しさ

僕は本を読むのが好きだ。

そして、本を探すのも好きだ。

書店の棚を端から眺める。知らない作家を見つける。帯の一文に引っかかる。表紙に惹かれる。手に取って、戻して、また手に取る。

この時間が楽しい。

買った本を家に持ち帰り、本棚のどこに置こうか考える時間も好きだ。

今すぐ読むわけではない本でも、ふと背表紙が目に入ると、買った日のことを思い出す。

「ああ、これも読みたいんだった」

それだけで、少し嬉しくなる。

もちろん、本は読んでこそわかることが多い。物語の面白さも、文章の美しさも、登場人物の魅力も、ページを開かなければ出会えない。

でも、本を読む時間だけが本好きの楽しみだろうか。

好きな作家の新刊を待つ時間。書店で偶然見つける時間。買って帰る時間。次は何を読もうかと迷う時間。

それらも、僕にとっては本を好きでいる時間だ。

「買ったのに読んでいないから無駄だった」と考える人もいるかもしれない。

しかし、買ったときの期待はどうなるのだろう。

その本を見つけて嬉しかった気持ちは、読まなかったという理由で消えてしまうのだろうか。

僕はそうは思わない。

読書という趣味を、読了した冊数だけで測るのは、何だかもったいない気がする。

積読が増える人の心理とは

では、なぜ人は積読をするのだろう。

もちろん、理由は人によって違う。仕事が忙しくて読めない人もいれば、つい買いすぎてしまう人もいる。収集そのものが好きな人だっているだろう。

僕自身の感覚から、いくつか考えてみたい。

① 興味を持つ速度が、読む速度より早い

一冊の小説を読むには時間がかかる。

しかし、読みたい本を見つけるのは一瞬だ。

書店で一冊。誰かの感想を読んで一冊。好きな作家の新刊情報で一冊。古本屋で思いがけず二冊。

気づけば、読むより早く読みたい本が増えている。

当たり前である。

一冊読み終えるまで、ほかの本に興味を持ってはいけないという決まりはないのだから。

読書に使える時間は限られている。一方、世の中には膨大な数の本がある。

新しい本も次々に出る。昔の名作だって、知らないものばかりだ。

読む速度が出会う速度に追いつかない。

それは必ずしも失敗ではない。

興味を持てるものがたくさんあるということでもある。

② その日の気分で本を選びたい

今日は重たい純文学を読みたい。

明日はホラーを読みたい。

疲れているから、短いエッセイがいい。

そんなふうに、読みたい本は気分によって変わる。

本棚にさまざまな本があれば、その日の自分に合う一冊を選べる。

一冊しかなければ、それを読むか、読まないかだ。しかし、何冊もあれば選択肢がある。

僕にとって本棚は、決められた順番で処理する待機列ではない。

小さな書店のようなものだ。

昨日は手が伸びなかった本が、今日は妙に気になることもある。何年も置いていた小説を、突然読みたくなることだってある。

その気まぐれを受け止めてくれるのが、積読のいいところだと思う。

③ 今すぐではなく、いつか読みたい

「読みたい」という言葉には、いろいろな時間が含まれている。

今夜読みたい。

休みの日に読みたい。

気持ちに余裕ができたら読みたい。

いつか、じっくり読みたい。

どれも同じ「読みたい」だ。

しかし、全部を今すぐ実行できるわけではない。

だから、手元に置いておく。

未来の自分に選択肢を残しているのだ。

本を買うことは、必ず読むという契約ではない。

「いつか読みたい」という気持ちを、形にしておくことなのかもしれない。

④ まだ知らない物語に期待している

読んでいない本には、まだ知らない世界がある。

どんな人物が出てくるのだろう。どんな言葉に出会うのだろう。泣くのか、笑うのか、腹を立てるのか。

何もわからない。

もしかしたら、人生で一番好きな小説になるかもしれない。

もちろん、期待外れに終わることもあるだろう。

でも、読む前にはまだその可能性が開かれている。

積読とは、未来に残された楽しみでもあるのだ。

⑤ そもそも、積読を問題だと思っていない

そして、僕に最も当てはまるのがこれである。

積読が増えたからといって、特に困らない。

本がある。読んでいない。それだけだ。

だから、減らそうとも思わない。

誤解してほしくないのは、積読を増やすことが目的ではないということだ。

本が百冊増えたから、百冊分幸せが増えた。そういう単純な計算でもない。

読みたい本が手元にある。

それが嬉しい。

結果として何百冊になっていても、僕はそのことを失敗だとは思わない。

なぜ積読に罪悪感が生まれるのか

ここが、僕には最も不思議なところである。

「積読が増えてしまった」

「また買ってしまった」

「全然消化できていない」

本好きの人から、こんな言葉を聞くことがある。

……。

なぜ反省しているのだろう。

好きな本を買ったのではないのか。

もちろん、生活費を削ってまで買っていたり、置き場所がなくて困っていたりするなら別だ。そういう場合は、現実的な負担がある。

でも、特に困っていないのに罪悪感が生まれるのは、なぜだろう。

① お金を払ったのだから読まなければ損

本を買った。お金を払った。なのに読んでいない。

すると、もったいないと感じる。

この心理は理解できる。僕だって、お金を無駄にしたいわけではない。

しかし、読まなければ、その本に払ったお金はすべて無駄なのだろうか。

買ったときの楽しさもある。いつか読めるという期待もある。手元に置いておける嬉しさもある。

もちろん、読むことで初めて得られるものは多い。だからこそ僕も、本を読むのが好きなのだ。

でも、読まなかったという理由だけで、買ったときの気持ちまで否定する必要はないと思う。

そもそも、趣味の楽しさをすべて元が取れたかどうかで判断していたら、ずいぶん窮屈ではないか。

② 「読みたい」が「読まなければ」に変わる

本を買ったとき、僕たちは「読みたい」と思っている。

ところが、時間が経つと、言葉が変わる。

「そろそろ読まなければ」

「買ったんだから読まなければ」

おや。

いつの間に義務になったのだろう。

誰かに頼まれたわけではない。提出期限があるわけでもない。学校の読書感想文でもない。

自分で読みたくて買った本なのに、なぜ自分に命令しているのだ。

「読みたい」と「読まなければ」は、似ているようでまったく違う。

前者は楽しみだ。

後者は仕事に近い。

好きだったはずの読書が、いつの間にかノルマになる。

罪悪感は、そこから生まれるのかもしれない。

③ 未完了のものを残したくない

やり残したことが気になる人もいる。

未返信のメール。終わっていない家事。チェックのついていない予定。

そういうものと同じように、未読の本を捉えているのかもしれない。

本棚に百冊あれば、未完了の仕事が百件。

三百冊なら、三百件。

四百冊なら、四百件。

……。

そんな職場なら、僕は初日に退職したい。

でも、本棚は職場ではない。

未読の本は、処理待ちの案件ではない。

読みたいときに読むために、そこにある。

本棚を、勝手にToDoリストにしなくてもいいではないか。

④ 理想の読書家と比べてしまう

世の中には、たくさん本を読む人がいる。

一日に一冊読む人もいれば、一年に何百冊も読む人もいる。

そういう話を聞くと、自分ももっと読まなければと思う人がいるのかもしれない。

でも、読書の速度は人それぞれだ。

一冊を何日もかけて読む人もいる。好きな文章を何度も読み返す人もいる。途中で立ち止まり、考え込む人もいる。

読了冊数だけで、本をどれほど好きかは測れない。

一年に数冊しか読まなくても、本が好きなら本好きだろう。

そもそも、誰に認定してもらう必要があるのだ。

読書家検定でもあるのだろうか。

もしあるなら、僕は積読の項目で失格かもしれない。

まあ、それでも別に困らない。

⑤ 積読は減らすものだと思い込んでいる

「積読を解消する方法」

「積読を減らすコツ」

「積読を増やさない習慣」

こういう言葉を見ていると、積読は改善すべき状態のように思えてくる。

でも、ちょっと待ってほしい。

そもそも、積読は問題なのだろうか。

誰かに迷惑をかけているのだろうか。

生活に支障がないなら、何を解消する必要があるのだろう。

罪悪感は、本の冊数そのものから生まれるのではなく、その冊数をどう捉えるかによって生まれる部分もあるのだと思う。

同じ400冊でも、「400冊も読めていない」と思う人がいる。

「400冊くらい、まだ読める本がある」と思う人もいる。

本の数は同じだ。

違うのは、その本棚を見る目なのかもしれない。

「積読を解消する」という言葉が不思議だ

解消。

何とも立派な言葉である。

ストレスを解消する。

不安を解消する。

人手不足を解消する。

そして、積読を解消する。

……。

なぜ僕の本棚が、悩みや問題の仲間に入れられているのだ。

僕は積読に困っていない。

むしろ、これから読める本が手元にあることを嬉しく思っている。

それなのに「解消」と言われると、まるで何か悪いことをしているような気分になる。

もちろん、減らしたい人は減らせばいい。部屋を広く使いたい人もいるだろう。買いすぎを見直したい人もいるだろう。

僕が言いたいのは、減らすことが悪いという話ではない。

減らす必要を感じていない人まで、減らさなければならないと思う必要はないということだ。

本を一冊読み終えた。

「よし、積読が一冊減った」

それを喜ぶ人もいるだろう。

でも、僕ならまず「面白かった」と思いたい。

一冊減ったことより、その一冊を読んで何を感じたかのほうが大切だ。

読み終えた冊数を数えることが楽しいなら、それもいい。目標を決めて読むのが好きなら、それもいい。

ただ、その数字に追われて、読みたい本を読む自由まで失う必要はない。

読書は在庫処分ではないのだから。

積読が減らないことを、なぜ失敗と呼ぶのか

ここで、少し想像してみたい。

今年、僕が30冊の本を読んだとする。

そして、新しく40冊買ったとする。

積読は10冊増える。

この一年は、失敗だったのだろうか。

そんなわけはない。

30冊の物語を楽しんだのだ。面白い本に出会ったかもしれない。忘れられない文章を見つけたかもしれない。

その一方で、新しく40冊の読みたい本にも出会った。

何と充実した一年だろう。

しかし、積読を減らすことだけを目標にしていたら、この一年は「10冊増えてしまった」と反省することになる。

……。

なぜだ。

30冊も読んだではないか。

それなのに、買った冊数のほうが多いという理由で、自分を責めるのだろうか。

読書の楽しさを、引き算の結果で判断するのはもったいない。

読みたい本が増えることも、読んだ本が増えることも、どちらも本との付き合い方の一部なのだ。

僕にとって積読は幸せ貯金である

ここで、改めて言いたい。

僕は積読を増やすこと自体が幸せなのではない。

冊数が多いほど偉いとも思わない。

300冊より400冊のほうが幸せで、400冊より500冊のほうが幸せだという話でもない。

読みたい本を見つけたから買う。

その結果、まだ読んでいない本がたくさんある。

そして、その本たちが手元にあることを、僕は幸せだと思っている。

だから、幸せ貯金なのだ。

本棚には、まだ知らない物語がある。

まだ会っていない登場人物がいる。

まだ読んでいない一文がある。

いつか、人生で忘れられない一冊に出会うかもしれない。

読んで笑うかもしれない。泣くかもしれない。腹を立てるかもしれない。読み終わって、しばらく何も手につかなくなるかもしれない。

そんな未来が、本棚の中に眠っている。

僕は、それが嬉しい。

貯金という言葉を使っているけれど、もちろん、お金と同じではない。

使えば残高が減るわけでもないし、利息がつくわけでもない。

それでも、いつかの自分を楽しませてくれる可能性が、手元に蓄えられているような気がする。

今日は読まない。

明日も読まないかもしれない。

でも、読みたいと思った日に、そこにある。

それで十分ではないだろうか。

幸せ貯金は、使い切らなくてもいい

普通の貯金なら、使い道を考えることもあるだろう。

旅行に行く。欲しいものを買う。将来のために残しておく。

しかし、僕の幸せ貯金には、決まった使い道がない。

今日はこの一冊を読む。

次は別の一冊を読む。

何年も手をつけない本があってもいい。

全部を使い切る必要もない。

むしろ、使い切ることを目標にした途端、幸せ貯金は宿題になってしまう気がする。

せっかく未来の楽しみとして残しているのに、なぜ期限を決めて取り崩さなければならないのだろう。

本を読む日は、自分で決めればいい。

読みたくない日には、読まなくてもいい。

別のことを楽しんでもいい。

本は、逃げない。

少なくとも、僕の本棚にある本は、勝手に玄関から出ていったりしない。

……たぶん。

そう考えると、積読はずいぶん気の長い楽しみだ。

何年も待っていてくれる。こちらが忘れていても、棚に残っている。ふと目が合った日に、初めてページを開く。

そのくらいの距離感で、付き合っていけばいいと思う。

人生で読まない本も、きっとある

ここで、一つ認めておきたいことがある。

僕は今、300冊なのか、350冊なのか、400冊なのかわからないほどの積読を抱えている。

そして、おそらく、そのすべてを読むことはない。

人生には限りがある。

これからも読みたい本は増えるだろう。新しい作家に出会うだろう。再読したくなる作品だってあるだろう。

そう考えると、今ある積読の中には、一度もページを開かないまま終わる本があるはずだ。

でも、それでいいじゃないか。

買った本を全部読むことが、人生の目的ではない。

読みたい本を読み、面白い作品に出会い、自分の時間を楽しむ。

僕がしたいのは、それだけだ。

もし、一生読まなかった本があったとしても、買ったときの僕はその本に興味を持っていた。

そのとき、確かに「読んでみたい」と思った。

そして、何年もの間、読みたくなれば手に取れる場所にあった。

そのことまで、無意味だったとは思わない。

10年後に突然読みたくなるかもしれない。

あるいは、10年後も読まないかもしれない。

どちらでもいい。

読まなかった未来を、今から悔やむ必要はないのだから。

読みたい本が残っている人生

考えてみれば、僕は積読を減らすために本を買っているわけではない。

当たり前である。

でも、積読を減らすことばかり考えていると、その当たり前を忘れてしまいそうになる。

本を読むことが目的だったはずなのに、未読の冊数を減らすことが目的になってしまう。

読書を楽しむはずなのに、読んでいない自分を責めてしまう。

それでは、何だかもったいない。

読みたい本がある。

その本を買う。

読みたいときに読む。

読まない日があってもいい。

途中で別の本を読み始めてもいい。

何年も棚に置いておいてもいい。

そして、結局読まない本があってもいい。

読書は、誰かに提出する成果物ではない。

自分の人生を楽しむためのものだ。

だから僕は、積読を何冊持っているのか、これからも正確には把握しないかもしれない。

300冊か。

350冊か。

400冊か。

まあ、どれでもいい。

明日、また書店で気になる小説を見つけたら、きっと手に取るだろう。

そして、すぐに読むかもしれないし、本棚に並べておくかもしれない。

それだけのことだ。

積読があるからといって、何かに追われているわけではない。

むしろ、まだ知らない物語が待っている。

そんな人生は、なかなか悪くないと思う。

僕の幸せ貯金は、きっと一生使い切れない。

それでいいじゃないか。

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