夜、家で静かに本を読んでいる。
物語もいよいよ佳境に入った。
主人公が何かに気づきそうになっている。
僕もページの中に入り込んでいる。
そのとき。
遠くから何かが聞こえてくる。
ブォォォォォォン。
来た。
まだ遠い。
しかし確実に近づいてくる。
ブォォォォォォォォン!!
そして家の近くを通り過ぎる。
ブォン! ブォォォォォォン!!
……。
僕は本から顔を上げる。
存在は確認した。もう大丈夫だ。
君がそこにいることは分かった。
だから安心して先へ進んでほしい。
静かに。
僕はまた小説に戻る。
さっきまで何を読んでいたっけ。
こういうことが、ときどきある。
バイクの騒音。
最初に言っておくと、僕はバイクそのものが嫌いなわけではない。
普通に走っているバイクを見ても何とも思わないし、かっこいいバイクだってあると思う。
エンジン音が好きな人がいることも分かる。
バイクに乗ることでしか味わえない爽快感もあるのだろう。
僕には僕の好きなものがあるように、バイクが好きな人にはバイクの世界がある。
それはいい。
僕がどうしても理解できないのは、
必要以上に大きな音を出して走ることだ。
特に夜中。
住宅街にまで響くような爆音を鳴らしながら走っていくバイクに遭遇すると、僕は毎回ほとんど同じことを思う。
正直、ダサい。
今回は、バイクの騒音がなぜこんなにも気になるのか。
そして、そもそもなぜ彼らはあれほど大きな音を出して走るのか。
僕なりに考えてみたい。
考えたうえで、おそらく最後にはまた同じ場所に戻ってくる。
やっぱり、人に迷惑をかけるのはダサい。
バイクが嫌いなのではなく、騒音が嫌いなのだ
こういうことを書くと、
「バイク嫌いなんですね」
と言われそうなので、もう一度書いておきたい。
バイクが嫌いなのではない。
騒音が嫌いなのだ。
ここはまったく違う。
静かに走っているバイクに対して、窓から顔を出して、
「バイクだ! 許せん!」
とはならない。
そんなに暇ではない。
普通に走っているバイクなら、僕の生活とほとんど交わらない。
向こうは道路を走る。
僕は家で本を読む。
お互い自分の人生を生きている。
非常に平和である。
問題は、その境界線を音が越えてくることだ。
バイクは道路にいる。
でも音だけが僕の部屋まで入ってくる。
窓を閉めていても入ってくる。
頼んでもいないのに入ってくる。
入場料も払っていない。
招待状も送っていない。
それなのに、
ブォォォォォン!!
と、僕の読書に参加してくる。
君はこの小説の登場人物ではない。
僕が腹を立てているのは、バイクという乗り物ではない。
他人の生活に強制的に入り込んでくるほどの音なのだ。
大きな音には「強制力」がある
音というのは不思議だ。
見たくないものなら、目をそらせる。
読みたくない文章なら、読まなければいい。
SNSで見たくない投稿があるなら、スクロールすればいい。
でも、大きな音はそうはいかない。
聞きたくなくても聞こえる。
こちらに選択権がない。
夜中に爆音が響けば、寝ている人だって起きるかもしれない。
勉強している人の集中も切れる。
映画を観ている人にも聞こえる。
赤ちゃんをようやく寝かしつけた人もいるかもしれない。
夜勤を終えて、昼間に眠っている人だっている。
もちろん、僕のように小説を読んでいる人間もいる。
その人たち全員に、
「はい、今から僕の音を聞いてください」
と強制できるのが、大きな音だ。
だから騒音は厄介なのだと思う。
単純に音量が大きいから嫌なのではない。
他人の時間へ強制的に割り込んでくる。
僕はそこに強い不快感を覚える。
そもそも、なぜそんなに大きな音を出すのだろう
ただ、腹を立てているだけでは面白くない。
僕にはずっと疑問がある。
なぜ、彼らはあんなに大きな音を出して走るのだろう。
もちろん、本人に聞いたことはない。
夜中に爆音で走っている人を止めて、
「すみません。現在エッセイを執筆しておりまして、行動原理について30分ほどインタビューさせていただけませんでしょうか」
と聞く勇気はない。
たぶん今後もない。
だから、ここからは僕の想像である。
まず一番単純なのは、
音そのものが好き
という可能性だ。
これは分からなくもない。
僕だって好きな音楽は少し大きな音で聴きたくなることがある。
低いエンジン音や振動そのものに快感を覚える人もいるのだろう。
バイク好きの人にしか分からない気持ちよさも、きっとある。
それなら、少し理解できる。
僕には小説がある。
別の人には音楽がある。
そして、その人にはエンジン音がある。
好きなものが違うだけだ。
ただ、そこで一つ問題が出てくる。
自分が好きな音だからといって、他人も聞きたいとは限らない。
僕は小説が好きだ。
だからといって夜中に窓を開けて、
「みなさーーーん! この比喩めちゃくちゃいいですよーーー!」
と朗読し始めたら、普通に迷惑である。
僕の感動を、近所の人に強制する必要はない。
好きなものは好きでいい。
でも、好きなものをどう楽しむかは別の話なのだと思う。
仲間の中では、それが「かっこいい」のかもしれない
もう一つ考えられるのが、
そのコミュニティの中では、大きな音そのものに価値がある
ということだ。
僕には分からなくても、仲間内では、
「その音ええな」
「かっこいいな」
となっているのかもしれない。
これは別にバイクだけの話ではない。
人間には、それぞれ小さな文化がある。
服。
車。
音楽。
本。
スポーツ。
時計。
スニーカー。
僕にはまったく違いが分からないものでも、好きな人同士なら、
「そこがいいんだよ」
という部分がある。
だから、バイクの音についても同じなのかもしれない。
僕が「うるさい」としか思わない音を、誰かは「いい音」と感じている。
そこまではいい。
価値観は違って当然だ。
ただし、その文化の外側には、その価値観を共有していない人がいる。
仲間内で「最高の音」でも、
午前二時に寝ている人からすれば、
ただの午前二時の爆音である。
文化は自由だ。
趣味も自由だ。
でも、自由だからこそ、どこまで他人を巻き込んでいいのかは考える必要がある。
「見てほしい」という気持ちもあるのだろうか
そして、僕がもう一つ考えてしまうのが、
誰かに見てほしいのではないか
ということだ。
静かに走れば、ほとんど誰も振り向かない。
でも、
ブォォォォォォン!!
と大きな音を出せば、人が振り向く。
道を歩いている人が見る。
家にいる人も気づく。
場合によっては、窓から外を見る人もいる。
一瞬だけ、周囲の意識が自分に集まる。
これはある意味、とても強力だ。
そこで僕は疑問に思う。
もし誰も振り向かなかったとしても、同じ音を出すのだろうか。
山奥。
周囲に家もない。
歩行者もいない。
誰も見ていない一本道。
そこでも同じように大きな音を出すのなら、本当に純粋に音そのものが好きなのかもしれない。
でも、人の多い場所だからこそ大きな音を出したくなるのだとしたら、そこには少なからず、
「見てほしい」
「気づいてほしい」
という気持ちがあるのではないか。
もちろん、これは僕の想像でしかない。
でも、人間には誰にだって承認欲求がある。
僕にだってある。
文章を書いて、誰かに読んでもらえたら嬉しい。
SNSに投稿して反応があれば嬉しい。
「面白かった」と言ってもらえれば、もっと嬉しい。
だから、
誰かに見てほしいという気持ちそのものを、僕は否定できない。
僕の中にも同じものがあるからだ。
ただし「注目」と「称賛」は同じではない
ただ、一つだけ気になる。
大きな音を出す。
人が振り向く。
そこで、
「みんな俺を見ている」
となる。
それ自体は間違っていない。
たしかに見ている。
ただし、
見ている=かっこいいと思っている
ではない。
ここはかなり大きな違いだと思う。
爆音で走れば、人は振り向く。
でも、その中には、
「うるさっ」
で振り向いている人もかなりいるはずだ。
むしろ僕は完全にそちら側である。
「おお、なんてかっこいいバイクなんだ!」
と思って窓の外を確認しているわけではない。
何事やねん。
で見ている。
注目を集めること自体は簡単だ。
街中で突然大声を出しても、全員振り向くだろう。
だからといって、その人が急に街で一番かっこいい人になったわけではない。
人の視線を集めることと、人から好意的に評価されることは違う。
ここを混同すると、少し危ない。
本気でかっこいいと思ってやっているなら、ちょっとやばい
そして僕には、どうしても気になることがある。
あれを、
本気でかっこいいと思ってやっているのだろうか。
もしそうなら、ちょっとやばい。
僕が心配することではないのだけれど、ちょっと心配になる。
爆音で走る。
みんなが振り向く。
「見られている。俺、かっこいい」
もし本当にこういう構図になっているのなら、一度だけ伝えたい。
たぶん、そのうち何人かは「うるさっ」で見ている。
もちろん、本人が「他人にどう思われようが関係ない。俺はこの音が好きなんだ」と思っているなら、まだ理屈は分かる。
ただ、
「周囲からかっこいいと思われたい」
という目的で大きな音を出しているのだとしたら、少なくとも僕には完全に逆効果に見える。
なぜなら僕が思う「かっこいい人」は、
自分の快楽のために、無関係な人へ迷惑をかけない人
だからだ。
自尊心の低さも関係しているのだろうか
ここからは、さらに僕の勝手な想像になる。
「見てほしい」
「自分の存在に気づいてほしい」
という気持ちが強くなる背景には、ときに自尊心の低さも関係するのではないかと思う。
もちろん、
「騒音を出す人は自尊心が低い」
と言いたいわけではない。
そんなことは僕には分からない。
ただ、人間は自分自身で自分の存在をうまく肯定できないとき、他人の反応によって自分の輪郭を確かめたくなることがあるのではないか。
大きな音を出す。
誰かが振り向く。
自分の行動によって周囲が反応する。
その瞬間、
「自分はここにいる」
という感覚が強くなる。
それが好意的な反応でなくてもだ。
怒られる。
嫌がられる。
見られる。
それでも、「誰からも存在を認識されない」よりは強い刺激になる。
もしそうだとしたら、少し寂しい話でもある。
ただ、これはバイクに限った話ではない。
僕たちだって、多かれ少なかれ他人の反応を求めて生きている。
SNSの「いいね」。
仕事での評価。
肩書き。
服。
持ち物。
自慢話。
武勇伝。
「自分はこういう人間です」と外側へ示すものを、人間はいくつも持っている。
僕だって例外ではない。
だから承認欲求そのものを笑う気にはなれない。
問題は、その満たし方なのだと思う。
自分の存在を確認するために、無関係な人の生活まで使っていいのか。
僕はそこに引っかかる。
バイクは「しがらみからの解放」なのかもしれない
もう少し別の方向から考えてみたい。
バイクに乗るという行為そのものには、
日常のしがらみからの解放
という側面もあるのかもしれない。
仕事。
学校。
家庭。
人間関係。
上司。
先輩。
後輩。
締め切り。
予定。
明日のこと。
そういうものをいったん全部置いて、バイクに乗る。
夜の道路を走る。
風を受ける。
アクセルを回す。
自分の行きたい方向へ行く。
誰にも指示されない。
想像すると、これはちょっと気持ちよさそうだ。
僕が一人で本を読んでいるときに、現実から少し離れられるのと似たところもあるのかもしれない。
普段は社会の中でいろいろな役割を背負っている人が、バイクに乗った瞬間だけ、
「何者でもない自分」
になれる。
そういう解放感があるなら、それは分かる気がする。
僕だって、しがらみからは解放されたい。
できるだけ自由に生きたい。
だから「自由になりたい」という気持ちそのものには、むしろ共感する。
ただ、ここで妙な矛盾が生まれる。
自分は解放されている。でも、他人を支配していないか
バイクに乗っている本人は、自由になっている。
仕事から解放される。
人間関係から解放される。
社会のしがらみから解放される。
でも、その自由を大きな騒音として周囲へ放った瞬間、別のことが起きる。
周囲の人間は、その自由に強制参加させられる。
眠っていた人が起きる。
本を読んでいた人が顔を上げる。
会話していた人が一瞬止まる。
赤ちゃんが泣くかもしれない。
誰も、
「あなたの解放感を共有したいです」
とは言っていない。
それでも大きな音には強制力があるから、聞かされる。
ここが僕には面白くもあり、皮肉にも感じる。
自分はしがらみから解放されたいのに、その解放によって他人の時間を支配している。
自分は自由。
でも周囲の人間には、
「俺の音を聞け」
と強制している。
それは本当に自由なのだろうか。
僕は、自由というのは、
他人の自由まで奪わない範囲で成立するもの
だと思っている。
「俺は好きにする。お前らは我慢しろ」
は、自由というより支配に近い。
少なくとも僕には、そう見える。
「迷惑をかける自由」まで、かっこいいとは思えない
もちろん、人間は生きているだけで多少は誰かに迷惑をかける。
僕だってそうだ。
完全に誰にも迷惑をかけずに生きるなんて無理だろう。
生活音も出る。
失敗もする。
誰かに助けてもらうこともある。
だから、
「他人に一切迷惑をかけるな」
なんて言うつもりはない。
ただ、避けられる迷惑をわざわざ増やすことと、生活していればどうしても発生する迷惑は違う。
必要以上に大きな音を出さなくても、バイクは走れる。
だから僕は、
「自分が気持ちいいから」という理由だけで、他人に我慢を要求すること
をかっこいいとは思えない。
自由であることと、好き勝手にすることは同じではない。
むしろ、自分が自由でありながら、他人の自由も尊重できる人のほうがずっとかっこいい。
かっこよさとは、他人を想像できることなのかもしれない
ここまで考えていると、
そもそも「かっこいい」って何なんだろうと思う。
高い車に乗ることでもない。
大きな音を出すことでもない。
人に見られることでもない。
少なくとも僕にとっては、
他人の存在を想像できる人
は、かなりかっこいい。
夜だから少し静かにしよう。
ここには家があるから吹かすのをやめよう。
寝ている人がいるかもしれない。
そういう想像力。
誰からも褒められない。
誰も見ていない。
SNSにも載らない。
「俺、いま近所に配慮しました!」
と投稿する必要もない。
でも、そういう見えないところで他人を想像できる人のほうが、僕にはずっとかっこよく見える。
本当のかっこよさって、案外静かなものなのかもしれない。
それでも腹が立つ。直接注意したくなる気持ちは分かる
とはいえ。
夜中に、
ブォォォォォォン!!
とやられたら、そんな哲学的なことを毎回考えているわけではない。
普通に、
うるさい。
と思う。
何度も続けば腹も立つ。
窓を開けて、
「うるさい!」
と言いたくなる人もいるだろう。
気持ちは分かる。
僕だって、その瞬間だけなら同じ気持ちになる。
でも、直接注意するのはやめておいたほうがいいと思う。
相手がどんな人なのか分からない。
こちらが正しいと思っていても、相手が素直に、
「申し訳ありませんでした。以後気をつけます」
と言ってくれる保証はない。
口論になるかもしれない。
こちらの顔や家を覚えられるかもしれない。
さらに大きなトラブルになる可能性だってある。
騒音で困っていたはずなのに、
気づけば人生に新しい問題が追加されている。
そんなものはいらない。
わざわざトラブルの登場人物にならなくていい
僕たちは警察官ではない。
騒音を出している人を教育する義務もない。
正義感から、
「俺が言わなければ」
と思う必要もない。
継続的な騒音や危険な走行で困っているなら、状況に応じて警察など適切な窓口に相談すればいい。
緊急性があるなら、なおさら自分で対応しようとしないほうがいい。
警察にお任せしよう。
僕はそれでいいと思う。
逃げでもない。
負けでもない。
自分の安全を守るための普通の判断だ。
わざわざ自分から、トラブルの登場人物になる必要はない。
静かな夜を取り戻すために、自分の人生まで騒がしくする必要はない。
いろいろ考えた。でも、やっぱり人に迷惑をかけるのはダサい
ここまで、なぜ大きな音を出して走る人がいるのか、僕なりに考えてみた。
エンジン音そのものが好きなのかもしれない。
仲間の中では、それがかっこいい文化なのかもしれない。
誰かに見てほしいのかもしれない。
自分の存在を感じたいのかもしれない。
そこには承認欲求や、自尊心が関係する場合もあるのかもしれない。
仕事や学校、人間関係といった日常のしがらみから解放されたいのかもしれない。
どれも本当のところは分からない。
本人にしか分からない。
そして、ここまでいろいろ想像してみても、僕の結論はあまり変わらなかった。
やっぱり、人に迷惑をかけるのはダサい。
自由でいたい。
分かる。
好きな音を楽しみたい。
それも分かる。
誰かに見てほしい。
僕にだってその気持ちはある。
日常から解放されたい。
むしろ僕もされたい。
でも、そのために他人の静かな時間を奪っていいことにはならない。
眠っている人を起こす。
勉強している人の集中を切る。
ようやく寝た赤ちゃんを起こす。
家族と話している人の会話を遮る。
そして、僕がようやく入り込んだ小説の世界から現実へ引きずり戻す。
最後だけは完全に個人的な恨みである。
でも、それらを犠牲にして得る「かっこよさ」を、僕はかっこいいとは思えない。
大きな音を出せば、人は振り向く。
でも、振り向かせることと、惹きつけることは違う。
目立つことと、かっこいいことも違う。
そして自由であることと、他人を巻き込むことも違う。
本当にかっこいい人は、自分がどれだけ大きな音を出せるかではなく、
自分のすぐそばにいる、名前も知らない誰かの生活まで想像できる人なのかもしれない。
また遠くから音が聞こえてきた。
ブォォォォォォン。
僕は本から顔を上げる。
今日も元気そうで何よりだ。
存在は確認した。
もう十分である。
僕は窓を閉める。
あとは警察に任せるべきことなら任せよう。
そして僕は、さっき中断されたページを探す。
どこまで読んだっけ。
数ページ戻る。
やっぱり思う。
静かな夜のほうが、圧倒的にかっこいい。
