※この記事には物語の内容・結末に触れる部分があります。
吉本ばななの文章は、本当にすごい。
『哀しい予感』を読み終えて、まず思ったのはそれだった。
もちろん物語もいい。登場人物もいい。失われた記憶をたどっていくという設定にも惹かれる。
でも、この小説で僕が何より好きだったのは、やっぱり文章だった。
光の入り方。風の匂い。夜の静けさ。部屋に流れる空気。人の声。
文字を読んでいるだけなのに、そこにあるものが見えてくる。
いや、「見える」という表現だけでは少し足りない。
その場所の温度まで感じるような瞬間がある。
物語を読んでいるはずなのに、いつの間にか自分までその景色の中に立っている。
吉本ばななの文章には、そんな不思議な力がある。
たとえば、こんな一文がある。
「彼女は昔のことを編むための美しい糸をたぐりよせるような遠い瞳で窓の外を見つめていた。」
(p65より引用)
昔のことを思い出している。
普通に書けば、それだけの場面なのかもしれない。
でも、「昔のことを編むための美しい糸をたぐりよせる」と書かれた瞬間、その人が記憶の奥へゆっくり手を伸ばしている姿まで見えてくる。
記憶には形がない。
過去にも形はない。
それなのに、吉本ばななの文章を通すと、触れられそうなものになる。
『哀しい予感』は、そういう文章でできている。
そして、その美しい文章の中で描かれるのが、「失われたもの」とともに生きている人たちの物語だった。
『哀しい予感』は、失われた記憶をたどる物語
主人公の弥生は19歳。
彼女には、幼い頃の記憶がない。
今の家族と暮らし、弟の哲生とともに日常を送っている。しかし、自分の中にはどうしても埋まらない何かがある。
自分でもうまく説明できない違和感。
なぜか惹かれる場所。
断片的に浮かんでくる記憶。
そして、叔母として存在しているゆきの。
弥生が自分の過去をたどっていくにつれて、これまで知らなかった家族の真実が少しずつ姿を現していく。
この設定だけを聞くと、もっとミステリーのような作品を想像するかもしれない。
「失われた記憶には何が隠されているのか」
「本当の家族とは誰なのか」
そんな謎をひとつずつ解き明かしていく物語。
確かに、そういう面もある。
でも、『哀しい予感』のおもしろさは、謎の答えそのものだけにはない。
むしろ僕が惹かれたのは、真実を知ることで人の見ている世界が少しずつ変わっていくことだった。
昨日までと同じ景色なのに、昨日とは違って見える。
ずっとそばにいた人なのに、今までとは違う存在として見えてくる。
過去を知るということは、昔の出来事についての情報が増えるだけではない。
今の自分まで変えてしまう。
『哀しい予感』は、その変化をとても静かに描いている。
吉本ばななの風景描写は、なぜこんなにも美しいのか
この小説には、派手な描写がそれほど多いわけではない。
それなのに、やたらと景色が残る。
夜。
窓。
光。
空気。
声。
昔の記憶。
何でもない日常の一場面。
それらが妙に鮮明なのだ。
僕が特に好きだったのが、この表現。
「彼の声は闇によく通り、まるで光る道のように鮮やかに夜空を満たすように思えた。」
(p47より引用)
声は見えない。
それなのに「光る道」と表現する。
音を光に変えてしまう。
そして、その一文を読んだこちら側にも、暗い夜の中を一本の声が伸びていくような映像が浮かんでくる。
別のところでは、
「その美しい旋律は遠い昔、いつもそうして、音を見ていたような、そんな甘い気持ちをよびさました。」
(p20より引用)
と書かれている。
「音を聴く」ではない。
「音を見る」。
『哀しい予感』を読んでいると、こういう感覚が何度も現れる。
目で見るものと、耳で聞くもの。
現在と過去。
現実と夢。
記憶と想像。
その境界線が少しだけ溶ける。
だから、弥生が幼い頃に見たという幽霊のような存在さえ、この小説の中では不自然に感じない。
普通なら「幽霊が出てきた」と聞いた瞬間、現実から幻想へ切り替わったように感じる。
でも、この作品ではそうならない。
日常と非日常の境目が、最初から少し曖昧なのだ。
幽霊も、夢も、記憶も、現実も、同じ空気の中に存在している。
だから怖いというより、
「そこにいる」
と思えてしまう。
このリアルさが不思議だった。
景色そのものではなく、「その人に見えている景色」を書いている
なぜ吉本ばななの風景描写がこんなに印象に残るのか。
読みながら考えていた。
たぶん、単純に景色を細かく描写しているからではない。
むしろ、その景色を見ている人間の感情まで一緒に描いているからなのだと思う。
人間は、いつでも同じように世界を見ているわけではない。
楽しい日に見る夕焼けと、悲しい日に見る夕焼けは違う。
恋をする前と、恋をしたあとでも違う。
大切なことを知る前と、知ったあとでも違う。
景色そのものは変わっていない。
変わったのは、自分だ。
『哀しい予感』には、それをそのまま言葉にしたような一節がある。
「私の目が変化したのだ。新しい日々をくぐり抜け、はじめてフィルターをはずした私の心がこの夜の中、哲生のことを今までに見たことのない瞳で見つめているのだ。」
(p112より引用)
「私の目が変化した」。
すごく好きな表現だった。
世界が変わったのではない。
哲生が突然別人になったわけでもない。
自分の目が変わった。
だから、同じ人が違って見える。
同じ夜が違って見える。
これこそ、『哀しい予感』の風景描写の美しさにつながっている気がする。
景色だけを書いているのではない。
人間の心を通過したあとの景色を書いている。
だから美しいのだ。
弥生は「わからない」をそのままにしなかった
弥生には失われた記憶がある。
知らないままでも、生きていくことはできたのかもしれない。
実際、真実を知れば必ず幸せになれるとは限らない。
むしろ逆の場合もある。
知らなければ傷つかなかった。
聞かなければよかった。
調べなければよかった。
人生には、そういうことだってある。
『哀しい予感』の中にも、
「真実はわかればいつも切ない。」
(p56より引用)
という言葉がある。
短いけれど、この物語をよく表している言葉だと思う。
真実は万能ではない。
知れば全部すっきりするわけではない。
真実を知った瞬間、それまで信じていた世界が崩れることもある。
それでも弥生は知ろうとする。
なぜ自分には幼い頃の記憶がないのか。
自分は何を忘れているのか。
ゆきのとは何者なのか。
自分はどこから来たのか。
その答えを求めていく。
ここがおもしろい。
『哀しい予感』は、「真実を知れば救われる」という単純な話ではない。
真実を知ることには痛みがある。それでも、自分の人生を自分のものとして生きるためには、知る必要があることもある。
そんな物語に思えた。
記憶を失っても、その時間はなくならない
記憶について考えると、不思議だ。
自分が忘れてしまった出来事は、自分の人生から消えたことになるのだろうか。
たとえば幼い頃のこと。
僕たちは、自分が生まれてからの出来事を全部覚えているわけではない。
むしろ忘れていることのほうが圧倒的に多い。
それでも、その時間は確かに自分の人生だった。
誰かに抱かれたこと。
泣いたこと。
笑ったこと。
怖かったこと。
好きだったもの。
忘れてしまえば、その出来事を思い出すことはできない。
でも、それによって形づくられた自分は残っている。
『哀しい予感』を読んでいると、記憶とは単なる「過去の映像」ではないのだと思わされる。
忘れていても、人の中には何かが残る。
理由はわからないのに惹かれる。
なぜかわからないのに怖い。
初めて来たはずなのに懐かしい。
そういう説明できない感覚の中に、過去が残っているのかもしれない。
作中には、
「肝心なのは置き忘れてきた部分なんですよ。誰とも分かち合えない。」
(p106より引用)
という言葉がある。
人間には、誰かに説明できる部分だけではなく、自分ですらうまく説明できない部分がある。
それでも、その「置き忘れてきた部分」まで含めて自分なのだと思う。
ゆきのという人の、長すぎる孤独
この作品で、弥生と同じくらい印象に残ったのが、ゆきのだった。
彼女の人生を考えると苦しくなる。
両親を失い、弥生とも離れ、長い年月を生きてきた。
もちろん、孤独というものは外側から簡単に測れるものではない。
一人で暮らしているから孤独とは限らないし、誰かと一緒にいるから孤独ではないとも限らない。
でも、ゆきのの中には明らかに「止まってしまった時間」がある。
弥生は彼女について、こんなふうに感じている。
「この人は、時間の止まった古城の中で、失われた王族の夢を抱いて眠る姫だったのだと私は思った。」
(p68より引用)
ものすごい比喩だと思った。
時間の止まった古城。
失われた王族。
眠る姫。
ゆきのの孤独を「寂しい人」と説明するのではなく、一つの世界として描いてしまう。
彼女の中では、過去が終わっていない。
時間は流れている。
年齢も重ねる。
朝になり、夜になり、また次の日が来る。
それでも心の一部は、ずっと同じ場所にいる。
僕はこの感覚が、『哀しい予感』に流れている大きな悲しみの一つだと思った。
過去に帰ることはできない
人は過去を思い出すことができる。
でも、過去そのものには帰れない。
当たり前のことなのに、ときどきものすごく残酷だと思う。
失った人にもう一度会いたいと思っても、会えない。
あの頃に戻りたいと思っても、戻れない。
だから記憶の中へ帰る。
ゆきのも、ある意味ではずっとそうして生きてきたのかもしれない。
でも、記憶の中に帰ることと、そこで生き続けることは違う。
この作品の冒頭には、
「終わってしまったからこそ価値があり、先に進んでこそ人生は長く感じられるのだから。」
(p3より引用)
という言葉がある。
読み始めたときにもいい言葉だと思った。
でも、読み終えてから戻ってくると、意味が少し変わって見える。
終わったものは、終わったから美しい。
だからといって忘れる必要はない。
大切なものなら、覚えていていい。
何度思い出してもいい。
ただ、そこに自分まで留まり続けることはできない。
人は現在を生きなければならない。
過去を捨てるのではなく、持ったまま先へ進む。
それがこの作品の一つの答えなのかもしれない。
哲生は「支えてくれる人」だけではない
哲生もまた、この物語には欠かせない。
弥生の変化を近くで見ている。
支えることもある。
背中を押すこともある。
でも、単純な「主人公を支える優しい人物」では終わらないところがいい。
哲生にも感情がある。
戸惑いがある。
葛藤がある。
そして弥生との関係も、物語の中で少しずつ形を変えていく。
僕が好きだったのは、
「知らない人にすぐになじむのは、哲生の特技だった。つまり他人なんてどうでもいいと思っているのだ。」
(p101より引用)
という一文。
ちょっと笑ってしまった。
普通なら「誰とでもすぐ仲良くなれる、人懐っこい性格」とでも書きそうなところだ。
それを、
「つまり他人なんてどうでもいいと思っている」
と書いてしまう。
なんだそれ。
でも、妙にわかる。
人に対して必要以上に構えない人は、他人からどう思われるかについても、それほど執着していないのかもしれない。
こういう、人間の性格を一方向から決めつけない書き方も好きだった。
優しい人。
明るい人。
孤独な人。
そんな簡単な言葉では、人間は分類できない。
哲生も、弥生も、ゆきのもそうだ。
それぞれに矛盾がある。
だから人間らしい。
血がつながっていれば「家族」なのだろうか
『哀しい予感』を読んで強く考えさせられたのが、家族についてだった。
血がつながっている。
これは変えることのできない事実だ。
でも、血がつながっているから、それだけで家族なのだろうか。
反対に、血がつながっていなければ家族ではないのだろうか。
弥生の人生を考えると、そんな単純な話ではないことがわかる。
人間の関係は、血縁だけではできていない。
一緒に食事をした時間。
くだらない話をした時間。
喧嘩したこと。
心配したこと。
笑ったこと。
何年も同じ家で暮らしたこと。
そういう無数の小さな出来事が、人と人との関係をつくっていく。
だから、「本当の家族」という言葉は難しい。
血縁上の家族が本物で、それ以外が偽物ということではない。
かといって、血のつながりなんてどうでもいい、と簡単に切り捨てる作品でもない。
血縁も大切。一緒に過ごした時間も大切。
そのどちらかを選ぶのではなく、両方が人間の中に存在している。
僕はそこが好きだった。
家族というものを、きれいな一つの答えに閉じ込めていない。
子供時代から完全に逃げることはできない
この作品には、過去について考えさせられる言葉がたくさんある。
中でも強烈だったのが、
「人間って悲しいものだな、と私は思った。子供時代の呪縛から完全に逃げられるものはいないのだ。」
(p126より引用)
という一文。
これは弥生たちだけの話ではないと思った。
人間は大人になる。
仕事をする。
一人で暮らす。
好きなところへ行ける。
子供の頃よりずっと自由になる。
それでも、自分の中には子供だった自分が残っている。
昔言われた一言を覚えている。
昔怖かったものが、今でもなんとなく怖い。
子供の頃に欲しかったものを、大人になってから買う。
逆に、子供の頃に嫌だったことを、大人になっても避け続ける。
頭ではもう終わったことだとわかっていても、感情はそれほど器用ではない。
だから「呪縛」という言葉はかなり強いけれど、妙に納得した。
過去は終わっている。
でも、終わったからといって影響まで消えるわけではない。
人間は、過去から完全に自由になるのではなく、過去を連れたまま現在を生きているのかもしれない。
恋をすると、風景まで変わる
『哀しい予感』は家族や記憶だけの物語ではない。
恋も描かれる。
そして、ここでも吉本ばななの文章がものすごくいい。
「恋は恋という生きもので、別物なのだ。もう、止まらないのだ。」
(p133より引用)
恋を「感情」と言わず、「生きもの」と表現する。
自分の中から生まれたはずなのに、自分の意思だけでは制御できない。
勝手に育って、勝手に動いていく。
確かに恋ってそういうものなのかもしれない。
そして、その直後には、
「今までのどのような恋も、こんなふうに風景を消し去ったことはない。」
(p134より引用)
という言葉がある。
ここでも風景だ。
この小説では、感情と風景がずっとつながっている。
人を好きになる。
すると世界の見え方まで変わる。
相手しか見えなくなる。
いつもの道も違って見える。
夜も、声も、空気も変わる。
もちろん実際には何も変わっていない。
変わったのは自分。
先ほどの「私の目が変化したのだ」という言葉ともつながってくる。
考えてみれば、人間が見ている世界なんて、いつもそうなのかもしれない。
僕たちは世界をそのまま見ているつもりでいる。
でも実際には、自分というフィルターを通して見ている。
だから、感情が変われば世界も変わる。
『哀しい予感』の風景が美しいのは、やっぱりそこなのだと思う。
「たくさんある」ことが、なぜ悲しいのだろう
個人的に妙に残った言葉がある。
「あんまりたくさんありすぎるものを見ると、人間は不思議と悲しくなっちゃうんだよ。」
(p110より引用)
最初に読んだとき、立ち止まった。
なぜだろう。
たくさんあるなら、嬉しくてもよさそうなのに。
星でもいい。
花でもいい。
人でもいい。
思い出でもいい。
あまりにたくさんあるものを前にすると、自分の小ささを感じるからだろうか。
全部を見ることができないからだろうか。
全部を持つことができないからだろうか。
あるいは、今目の前にあるものも、いつかなくなるとわかっているからなのか。
美しいものを見て悲しくなる。
楽しい時間の途中で寂しくなる。
まだ終わっていないのに、終わる日のことを考えてしまう。
人間には、そういう変なところがある。
だからこの小説のタイトルが『哀しい予感』なのも、なんとなくわかる気がする。
「悲しい出来事」ではなく、「哀しい予感」。
まだ何も起きていない。
でも、何かが失われることをどこかで知っている。
幸せな瞬間にも、終わりの気配がある。
それは悲観的というより、人間が時間の中を生きている以上、どうしようもないことなのかもしれない。
変わることは、少し怖い
弥生の変化を読んでいると、もう一つ印象に残る言葉がある。
「ずっと守り続けてきた自分の小さな、だらしない暮らしが変わることにおびえたのだ。」
(p118より引用)
これもすごく人間らしい。
今の生活に満足しているわけではなくても、変わるのは怖い。
もっと良くなる可能性があったとしても、今までの自分が崩れることには抵抗がある。
人間は不思議だ。
嫌なものから逃げたいと言いながら、慣れてしまえばそこに居続けようとする。
変わりたいと言いながら、変化が目の前に来ると怖くなる。
それは怠けているからではなく、「今までの自分」が失われるからなのかもしれない。
弥生が真実を知るということも同じだ。
知れば、新しい自分になる。
いや、本当は新しくなるのではない。
もともと自分の中にあったものを知るだけだ。
それでも、それまで信じていた自分ではいられなくなる。
だから怖い。
それでも進む。
この作品にある強さは、大声で「前を向こう」と叫ぶような強さではない。
怖い。
悲しい。
寂しい。
それを全部持ったまま、一歩だけ前へ進む。
そういう静かな強さだった。
「わからないままでいいことなんてひとつもないのだ。」
そして、最後まで一番心に残ったのが、この言葉だった。
「ああ、ほんとうに、わからないままでいいことなんてひとつもないのだ。」
(p149より引用)
強い言葉だ。
本当にそうなのだろうか、とも思う。
世の中には、知らなくてもいいことだってある気がする。
すべての真実を知る必要なんてない。
知らないから生きていけることもある。
だから、この言葉をそのまま人生の教訓として受け取る必要はないと思う。
でも、弥生にとっては、わからないままではいけなかった。
ここが大切なのだと思う。
自分は誰なのか。
なぜ記憶がないのか。
自分の家族に何が起きたのか。
なぜゆきのに惹かれるのか。
それは他人の秘密を暴くための「知りたい」ではない。
自分の人生を生きるための「知りたい」だった。
知らなくても毎日は続く。
ご飯を食べて、眠って、朝になれば起きる。
それでも心のどこかに穴がある。
自分の人生なのに、自分だけ知らない場所がある。
その状態から抜け出すためには、痛みを伴ってでも知る必要があった。
だから最後のこの言葉が響く。
知ることは、過去を変えることではない
真実を知ったからといって、過去は変わらない。
失われた人は戻ってこない。
孤独だった年月も消えない。
なかったことにはできない。
ここは重要だと思う。
物語によっては、秘密が明らかになることで全部が解決する。
「そういうことだったのか」と理解し、登場人物が救われ、めでたしめでたし。
でも人生はそんなに単純ではない。
理由がわかったところで、悲しかった事実は悲しい。
なぜ傷つけられたのかわかったとしても、傷ついた時間が消えるわけではない。
真実には、過去を書き換える力はない。
では、なぜ知るのか。
僕は、これから先の自分の生き方を選ぶためなのだと思った。
過去は変えられない。
でも、過去をどう抱えて生きるかは変えられる。
弥生が手に入れたのは、失った時間そのものではない。
その時間も含めて、「これが自分の人生だった」と受け止めるための何かなのだと思う。
「帰る場所」とは、どこなのだろう
そして、この作品を読み終えて僕が最後に考えたのが、「帰る場所」だった。
帰る場所とは、どこなのだろう。
生まれた家だろうか。
育った家だろうか。
血のつながった人がいる場所だろうか。
長い時間を一緒に過ごした人がいる場所だろうか。
それとも、自分が「ここへ帰りたい」と思った場所なのだろうか。
『哀しい予感』には、家族についての大きな真実がある。
だからこそ、「本当の家族」という言葉を簡単には使えなくなる。
血のつながりだけを見れば、一つの答えがある。
でも人生は、血縁関係の図だけでは説明できない。
弥生がこれまで過ごしてきた時間も本物だ。
知らなかった過去も本物だ。
ゆきのとのつながりも本物。
哲生への想いも本物。
どれか一つが本物になったから、残りが偽物になるわけではない。
それら全部が弥生の人生なのだ。
だから僕は、「帰る場所」は最初から一つに決められているものではないのかもしれないと思った。
人は生まれる場所を選べない。
家族も選べない。
過去も選べない。
でも、あるところから先は、
どこへ帰るのかを自分で選ぶことができる。
それは、過去を捨てることではない。
誰かを忘れることでもない。
自分の中にあるものを全部抱えたうえで、それでも「私はここで生きていく」と決めること。
弥生が最後にしているのは、そういう選択なのではないかと思った。
帰るとは、「元に戻る」ことではない
「帰る」という言葉は不思議だ。
普通なら、元いた場所に戻ることを意味する。
家に帰る。
故郷に帰る。
でも『哀しい予感』を読んだあとでは、少し違って感じる。
人間は、本当の意味では過去と同じ場所には帰れない。
自分自身が変わってしまうからだ。
昨日と同じ家に帰っても、昨日の自分ではない。
大きな真実を知ったあとなら、なおさらだ。
だから弥生にとって「帰る」ということは、元の自分に戻ることではない。
変わった自分のまま、もう一度そこを選ぶことなのだと思う。
これがすごくいい。
過去を知る。
傷つく。
世界の見え方が変わる。
それでも、生きていく場所を選ぶ。
その場所は、真実を知る前と同じに見えて、もう同じではない。
自分の目が変わったから。
ここでも、あの言葉につながる。
「私の目が変化したのだ。」
この小説は最初から最後まで、人間が何かを知ることで、世界の見え方が変わっていく物語だったのかもしれない。
『哀しい予感』は、悲しいのに暗くない
タイトルには「哀しい」とある。
実際、描かれていることも悲しい。
死。
喪失。
孤独。
失われた記憶。
戻ってこない時間。
子供時代の呪縛。
決して明るい材料ばかりではない。
なのに、読み終えたあとに絶望だけが残る作品ではなかった。
そこが好きだった。
悲しいことは消えない。
孤独だった時間もなかったことにはできない。
過去は修復できない。
それでも、その後の人生まで失われるわけではない。
人は誰かを好きになる。
誰かと話す。
新しい景色を見る。
昨日とは違う目で、ずっとそばにいた人を見る。
そしてまた生きていく。
悲しみを克服したからではない。
悲しみを持ったままでも、人は新しい時間を生きられるから。
この作品にある希望は、そういう希望だったように思う。
終わるからこそ、美しい
読み終えてから、もう一度冒頭の言葉を思い出した。
「終わってしまったからこそ価値があり、先に進んでこそ人生は長く感じられるのだから。」
(p3より引用)
人生には、終わってほしくないものがたくさんある。
楽しかった時間。
好きだった人との時間。
子供時代。
学生時代。
家族と暮らした時間。
何でもない毎日。
その最中には、それがいつか終わることをあまり考えない。
でも、終わってから気づく。
あの時間は、もう戻らない。
だから美しい。
少し残酷だけれど、本当にそうなのかもしれない。
永遠だったら、あれほど大切には思わなかったかもしれない。
終わりがあるから、人は思い出す。
失うから、大切だったことに気づく。
そして、終わったものを抱えながら、また次の時間へ進んでいく。
作中には、
「どこかでまた、この夜も遠い夢の一部と化す。そういうことの不思議を思う。」
(p86より引用)
という言葉もある。
今この瞬間も、いつか過去になる。
今日の夜も。
今日話した人も。
今読んでいる本も。
いつか「昔」に変わる。
そう考えると少し寂しい。
でも、だから今がある。
『哀しい予感』というタイトルには、そんな時間そのものへの哀しさまで含まれているように感じた。
まとめ|失ったものを抱えて、それでも人は帰っていく
『哀しい予感』を読んで、改めて吉本ばななの文章の美しさに驚いた。
光や風、声や夜。
何気ない風景が、言葉になった瞬間に立ち上がる。
そして、その景色はただ美しいだけではない。
登場人物の感情によって姿を変えていく。
同じ世界を見ていても、人の心が変われば景色は変わる。
弥生は、失われた記憶をたどる。
その先で、自分の知らなかった過去を知る。
家族を知る。
ゆきのの時間を知る。
哲生への気持ちも変化していく。
真実を知ったからといって、失われたものが戻ってくるわけではない。
悲しかった過去が消えるわけでもない。
ゆきのが一人で過ごした時間も取り戻せない。
それでも、知ることには意味がある。
自分がどこから来たのかを知る。
自分の中に何があるのかを知る。
そして、それらを全部抱えたうえで、これからどこで生きていくのかを選ぶ。
僕には、この物語がそんな話に思えた。
「ああ、ほんとうに、わからないままでいいことなんてひとつもないのだ。」
(p149より引用)
この言葉は、すべての真実を暴かなければならない、という意味ではないのだと思う。
少なくとも弥生にとって、自分の人生をわからないままにしておくことはできなかった。
知れば傷つく。
知れば世界が変わる。
もう以前の自分には戻れない。
それでも知る。
そして、変わった自分で生きていく。
だから最後に残ったのは、悲しさだけではなかった。
むしろ、静かな強さだった。
人は過去を選べない。
失ったものを取り戻せないこともある。
子供時代から完全に逃げることもできない。
それでも、これから先をどう生きるかは選べる。
どこへ帰るのかも、自分で選ぶことができる。
『哀しい予感』には、喪失と孤独が流れている。
でも、その奥には確かに愛がある。
過去への愛。
家族への愛。
誰かへの恋。
そして、失ったものを忘れずに、それでも先へ進んでいこうとする人間へのまなざしがある。
だから悲しいのに、どこかあたたかい。
読み終えたあと、僕は「帰る場所」という言葉について考えていた。
帰る場所とは、生まれた場所なのか。
長く暮らした場所なのか。
血のつながった人がいる場所なのか。
大切な人が待っている場所なのか。
たぶん、一つの答えはない。
でも、自分で選んだ場所を「帰る場所」と呼ぶことはできる。
過去を忘れたから帰るのではない。
すべてを知ったうえで帰る。
失ったものも、悲しかった時間も、愛した人も、自分の中に残したまま帰る。
そして、またそこから生きていく。
そんな弥生の姿が、読み終えた今も心に残っている。
あなたにとって、「帰る場所」とはどこですか?
