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『きりこについて』感想|美しいって、いったい誰が決めるんだろう【西加奈子】

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西加奈子さんの『きりこについて』を読んだ。

この小説を読み終えてから、「美しいって何なんだろう」と考えている。

目が大きいことなのか。

鼻が高いことなのか。

顔の形が整っていることなのか。

あるいは、よく言われるように「大切なのは外見ではなく中身」ということなのか。

でも、読み終えた今は、そのどちらでもないような気がしている。

外見か、内面か。

そんなふうに人間を二つに分けること自体が、少し違うのかもしれない。

この小説は、とんでもなく強烈な一文から始まる。

「きりこは、ぶすである。」(p5より引用)

すごい。

いきなりである。

しかも、その後も遠慮がない。

きりこの顔について、

「美男美女家系のそれぞれ悪いところを、ひとつずつもらった、奇跡のような顔をしているのである。」(p8より引用)

とまで書いてしまう。

普通なら、読んでいて嫌な気持ちになってもおかしくない。

でも、不思議とそうならなかった。

むしろ僕は、「この小説はきれいごとでは終わらせないんだ」と思った。

「外見なんて関係ない」

「人間は中身が大切」

そんな言葉だけで終わらせるつもりなら、そもそも「きりこは、ぶすである。」なんて書き出しにはしないだろう。

人間が外見によって傷つくこと。

人を外見で見てしまうこと。

誰かの評価によって、自分自身を見る目まで変わってしまうこと。

そういう人間の面倒くささから逃げずに、この物語は始まる。

目次

自分をかわいいと思っていた、きりこ

主人公のきりこは、両親からたくさんの愛情を受けて育った。

だから幼い頃のきりこは、自分が「ぶす」だなんて思っていない。

自分をかわいいと思っている。

自分の顔も、自分の体も好きだった。

僕は、ここがものすごく大切だと思った。

きりこは最初から自分の容姿に悩んでいたわけではない。

鏡を見るたびに落ち込んでいたわけでもない。

自分を好きだった。

ところが、成長するにつれて「他人から見た自分」を知ってしまう。

そして初恋の相手から投げかけられた一言によって、きりこの世界は壊れる。

自分は、かわいくないらしい。

それどころか、「ぶす」らしい。

その事実を知った瞬間から、自分を見る目が変わってしまう。

でも、考えてみると不思議だ。

きりこの顔は、何も変わっていない。

昨日までのきりこと、今日のきりこ。

同じ顔である。

目の大きさも変わっていない。

鼻の形も変わっていない。

輪郭も変わっていない。

変わったのは、顔ではない。

自分を見るための「ものさし」だ。

昨日までは、自分の目で自分を見ていた。

でも誰かの一言を聞いた瞬間から、その人の目を借りて自分を見るようになる。

鏡の前に立っているのは自分一人なのに、そこには他人の視線まで映り込む。

これは、ものすごく怖いことだと思う。

誰かに名前をつけられた瞬間、欠点になる

そして、これは外見だけの話ではない。

「変わってるね」

と言われる。

それまで自分では何とも思っていなかったのに、一度言われると気になり始める。

「暗いね」

と言われる。

ただ一人で過ごすのが好きだっただけなのに、「もっと明るく振る舞わないといけないのかな」と思う。

「普通はそんなことしないよ」

と言われる。

すると、それまで好きだったものが突然恥ずかしくなる。

不思議だ。

何も変わっていない。

昨日まで普通に持っていた自分の一部分なのに、誰かが名前をつけただけで、それが「欠点」に見えてしまう。

人間は、自分のことを自分で決めているようで、実際にはかなり他人の言葉に影響されている。

きりこの「ぶす」も同じなのだと思う。

自分が嫌いだったわけではない。

誰かに「お前はこういう人間だ」と言われ、その言葉を自分自身が信じてしまった。

だから怖いのは「ぶす」という言葉だけではない。

他人からの評価が、いつの間にか自分自身の評価に変わってしまうことだ。

美しいとは、誰が決めるのか

物語の後半に、こんな言葉が出てくる。

「ぶすって、何だ。誰が決めたのだ。目が大きいのがいいって誰が? 顎の下がなだらかなのは、美しくない? では、美しさとは? 誰が決定する? 誰が?」(p158より引用)

本当にそうだ。

美しいとは、いったい誰が決めたのだろう。

時代によって美しさの基準は変わる。

国によっても違う。

文化によっても違う。

同じ時代、同じ場所で生きている人間同士ですら、好みは違う。

それなのに僕たちは、今この場所で共有されている「美しい」を、まるで絶対的な基準のように感じてしまう。

そして、その基準から外れていると、自分の価値まで低いような気がしてしまう。

でも、よく考えれば変な話だ。

誰かが決めた基準に自分を当てはめて、勝手に落ち込んでいる。

もちろん、「そんな基準は存在しない」と言いたいわけではない。

人間には好みがある。

僕にだってある。

誰かを見て「きれいだな」と思うこともあるし、「格好いいな」と思うこともある。

それ自体を否定する必要はないと思う。

むしろ『きりこについて』が面白いのは、そこまできれいに処理しないことだった。

「外見より中身が大切」だけでもない

「人間は外見ではない。中身が大切だ」

よく聞く言葉だ。

もちろん、言いたいことは分かる。

でも僕は、この言葉に少しだけ引っかかる。

外見ではなく中身。

そう言った瞬間に、人間を「外見」と「中身」に分けて、どちらが価値の高いものなのかを決めてしまっているようにも思えるからだ。

外見は表面的。

中身こそ本物。

本当にそうなのだろうか。

顔も自分だ。

体も自分だ。

声も自分だ。

性格も自分だ。

好きなものも、嫌いなものも自分だ。

誰かに言われて嬉しかった言葉も、傷ついた記憶も、失敗したことも、全部その人の中に残っている。

人間は、そんなに簡単に「容れ物」と「中身」に分けられない。

だから、この言葉が胸に残った。

「うちは、容れ物も、中身も込みで、うち、なんやな。」(p194より引用)

僕は、この言葉が『きりこについて』の一つの答えなのだと思った。

外見を否定しなくていい。

「外見なんてどうでもいい」と思い込まなくてもいい。

中身だけを「本当の自分」にしなくてもいい。

全部込みで自分。

それでいい。

ラムセス二世という黒猫

そして、『きりこについて』を語るうえで絶対に外せない存在がいる。

黒猫のラムセス二世だ。

僕は、この猫が大好きだった。

名前からしていい。

ラムセス二世。

やたらと壮大である。

でも、この猫は単なるかわいいマスコットではない。

むしろ、この物語にラムセス二世がいることで、人間社会そのものを外側から眺めることができる。

きりことラムセス二世は、それぞれ孤独を抱えた状態で出会う。

「ふたりの『孤独』が、お互いを引き寄せたのである。」(p55より引用)

この表現も好きだった。

孤独というと、誰かから離れている状態を想像する。

一人でいる。

誰にも分かってもらえない。

だから孤独は、人と人を引き離すもののように思える。

でも、ときには逆なのかもしれない。

同じような寂しさを持っているからこそ、誰かの寂しさに気づける。

自分が一人だったからこそ、一人でいる誰かを見つけられる。

きりことラムセス二世は、人間と猫だ。

同じ言葉すら持っていなかった。

それでも、孤独が二人をつなげた。

この関係がとても優しい。

ラムセス二世は、きりこを「かわいい」と励まさない

そして僕が好きなのは、ラムセス二世がきりこに、

「きりこは本当はかわいいよ」

と言って救うわけではないことだ。

もっと根本的なのである。

「きりこが、人間界でぶすだなどと言われていることは、ラムセス2世にとっては、どうでも良いことだ。」(p117より引用)

これがいい。

ものすごくいい。

きりこの人生をあれほど苦しめた「ぶす」という評価。

でも、ラムセス二世からしたら、

どうでもいい。

きりこは美人なのか。

ぶすなのか。

そもそも、その問いに興味がない。

人間の美醜というゲームに参加していないからだ。

ここで僕は、人間が「世界の常識」だと思っているものの多くは、実際には「人間社会の常識」でしかないのだと気づかされた。

猫には関係ない。

鳥にも関係ない。

木にも関係ない。

世界全体から見れば、僕たちが必死になっている価値観なんて、ものすごく小さなものなのかもしれない。

猫から見たら、人間の美しさなんて変だ

作中では、人間が猫に似た顔を「美しい」と考えることについても、猫側からの視点が描かれる。

人間は「猫っぽい目」をかわいいと言う。

猫顔。

犬顔。

そんな分類まである。

でも猫からしたら、人間が猫に似ているから何だというのだろう。

猫は猫である。

人間は人間である。

人間が勝手に、

「猫に似ているから美しい」

と評価しているだけだ。

この視点が面白い。

人間は、自分たちの基準を世界の中心に置きがちだ。

でも猫から見れば、その基準そのものが奇妙に見える。

『きりこについて』では、ラムセス二世という猫の目を借りることで、人間が当然だと思っている価値観を何度もひっくり返してくる。

「それ、本当に当たり前なの?」

と。

猫は、自分らしく生きようとしていない

特に好きだったのが、猫たちについて書かれたこの部分だ。

「猫たちは、すべてを受け入れ、拒否し、望み、手にいれ、手放し、感じていた。猫たちは、ただそこにいた。」(p128より引用)

「ただそこにいた。」

簡単そうで、とても難しい。

猫は「自分らしく生きよう」と頑張っていない。

自分探しもしない。

誰かと比べて落ち込まない。

眠ければ眠る。

嫌なら離れる。

甘えたければ近づく。

欲しいものは欲しがる。

猫は自分らしく生きているというより、

自分以外になろうとしていない。

それが、人間にはものすごく難しい。

人間は、すぐに他人を見る。

あの人みたいになりたい。

もっと評価されたい。

普通に見られたい。

嫌われたくない。

立派な大人になりたい。

「自分がどうしたいか」よりも、「自分がどう見られるか」を優先してしまう。

だから、ただそこにいる猫が、あんなにも自由に見えるのだと思う。

「知っている」と「知らない」がまっとうな猫

猫たちについて、もう一つ好きな言葉がある。

「きりこもまた、彼らの『知っていること』と『知らないこと』のあまりのまっとうさを、尊敬していた。」(p129より引用)

人間は、知らないことを恥ずかしがる。

分からないのに、分かったふりをする。

知らないのに、知っているように話す。

「分からない」と言えば、馬鹿にされるような気がする。

でも猫は、知らないものは知らない。

そこに恥ずかしさはない。

考えてみれば、「知らない」と言えることは、とても誠実なのかもしれない。

自分が何を知っていて、何を知らないのか。

その境界をちゃんと分かっている。

人間は知識を増やすことばかり考えるけれど、

自分が知らないことを知っていることも、一つの賢さなのだと思う。

人間は本当に猫より偉いのか

『きりこについて』では、猫の視点から人間社会を見る場面が何度もある。

そして人間は、かなり馬鹿にされている。

でも、それが面白い。

例えば、人間は猫に対して「迷惑をかけるな」「ちゃんとしろ」と言う。

でも人間自身はどうなのか。

仲間外れをする。

嘘をつく。

自分の利益のために誰かを陥れる。

争う。

さらに大きな規模では、戦争までしてしまう。

そんな人間が、

「猫より人間の方が優れている」

と当然のように考えている。

本当にそうなのだろうか。

人間は確かに賢い。

建物を作る。

機械を作る。

医学を発展させる。

宇宙まで行く。

でも、その賢さを使って他人を傷つけることもできる。

知性があることと、立派であることは同じではない。

この作品は、猫を通して人間の矛盾を笑っている。

その笑いが、なかなか痛い。

「嫌だ」と言うこと

中でも強烈だったのが、この言葉だ。

「『嫌だ』という人間の、その訴えを無視出来るくらいの理性であるならば、初めからないほうがいい。」(p138より引用)

僕はここで立ち止まった。

「嫌だ」

それだけでは、なかなか認めてもらえない。

どうして嫌なの?

理由は?

みんなやっているよ。

それくらい我慢しなよ。

大人なんだから。

社会人なんだから。

人間は、「嫌だ」という感覚にまで理由を求める。

もちろん、社会で生きる以上、何でも「嫌だからやらない」で済むわけではない。

責任だってある。

約束だってある。

でも、それと「嫌だと感じること自体を否定する」のは別だと思う。

嫌なものは嫌。

怖いものは怖い。

苦しいものは苦しい。

まず、その感覚くらい認めてもいい。

理性とは、本来、自分の感覚をすべて押し殺すためにあるものではないはずだ。

何の役にも立たないこと

この小説を読んでいると、「役に立つ」ということについても考えさせられた。

猫が鞠をはじく。

誰かの膝に肉球を置く。

何の役に立つのか。

おそらく、何の役にも立たない。

でも、それでいい。

猫が膝に乗ってくる。

犬が尻尾を振る。

夕焼けを見る。

好きな曲を聴く。

小説を読む。

散歩する。

ぼーっとする。

どれも、生産性だけで考えれば大したことではない。

でも、人間はそういう時間に救われる。

大人になると、何でも意味に変換したくなる。

読書をすれば語彙力が上がる。

散歩をすれば健康にいい。

睡眠を取れば仕事の効率が上がる。

それは全部、本当だと思う。

でも、

好きだから読む。

歩きたいから歩く。

眠いから眠る。

それだけでもいいのではないか。

猫にとって「眠る」こと

作中には、こんな言葉がある。

「猫にとって『眠る』ことは、とても、とても高尚なことなのである。」(p123より引用)

これが妙に好きだった。

人間にとって睡眠は、何かのための手段になりやすい。

明日の仕事のために寝る。

疲労を回復するために寝る。

健康のために寝る。

猫は違う。

眠る。

以上。

眠ること自体が目的だ。

考えてみれば、人間は何かをするときに目的を求めすぎなのかもしれない。

何のために?

それをして何になるの?

将来役に立つの?

そんなことばかり考える。

でも人生には、何のためでもない時間があっていい。

むしろ、そういう時間がなければ息苦しい。

「歩くために歩いている」

この文章も好きだった。

「彼女のように『歩くために歩いている』人を、見たことはなかった。彼女は自然だった。そして、幸せそうだった。」(p172より引用)

歩くために歩く。

いい。

駅へ行くためではない。

健康のためでもない。

ダイエットのためでもない。

歩きたいから歩く。

それだけ。

子どもの頃は、こんな行動をたくさんしていた気がする。

走りたいから走る。

石があったから蹴る。

棒を拾ったから振る。

水たまりがあるから入る。

そこに意味なんてない。

でも大人になると、

「それをして何になるの?」

という問いがついて回る。

もしかすると、大人になるということは、「したいからする」だけでは行動できなくなることなのかもしれない。

子どもたちは四六時中「うっとり」している

だから、この言葉にも惹かれた。

「子供たちは四六時中『うっとり』している。」(p35より引用)

子どもは、どうでもいいものに夢中になる。

石。

虫。

葉っぱ。

水。

知らない道。

同じ遊びを何度も繰り返す。

大人から見れば、「それの何が面白いの?」と思う。

でも、本当は逆なのかもしれない。

子どもがくだらないものに夢中になっているのではなく、大人がくだらないものに夢中になれなくなった。

作品には、大人についてこんな文章もある。

「お酒の力を借りないと、馬鹿らしい一言に大笑いすることが出来なくなってしまった大人の自分を、少しのセンチメントをもって、思い返すのである。」(p42より引用)

少し寂しい。

大人になると知識が増える。

経験も増える。

できることも増える。

でも、その代わりに、何の意味もないことに夢中になる力を失っていく。

猫と子ども。

この小説では、その二つがどこか似て見えた。

「役に立つか」ではなく、

「今、そうしたいか」

で生きている。

世界は、肉球より、まるい

そして、この言葉。

「世界は、肉球より、まるい!」(p64より引用)

なんだそれ、と思う。

でも好きだ。

学校で「ぶす」と言われた。

その瞬間、それが世界のすべてに感じる。

職場で嫌われた。

その瞬間、その人たちの評価が世界のすべてに感じる。

でも、そんなことはない。

学校の外には違う人がいる。

職場の外にも世界はある。

町を出れば、また違う価値観がある。

国が変わればもっと変わる。

そして、人間社会から一歩出れば、ラムセス二世の世界まである。

自分を苦しめている価値観の外には、もっと大きな世界がある。

そう考えると、

「世界は、肉球より、まるい!」

という少しふざけた言葉が、妙に頼もしく思えてくる。

自分のしたいことを叶えるのは、自分

この作品で特に胸に残った言葉がある。

「自分のしたいことを、叶えてあげるんは、自分しかおらんと思うから。」(p156より引用)

当たり前のことだ。

でも、その当たり前が難しい。

僕たちは、誰かの許可を待ってしまう。

認めてもらえたら。

背中を押してもらえたら。

自信がついたら。

環境が整ったら。

失敗しないと分かったら。

そのうち。

いつか。

でも、自分が本当にしたいことを知っているのは自分だ。

そして、その「したい」という気持ちを最初に認めてあげられるのも自分しかいない。

誰かに助けてもらうことはできる。

応援してもらうこともできる。

でも、

「僕はこれをしたい」

という気持ちまで、誰かに決めてもらう必要はない。

「自分」の欲求に従う

きりことちせちゃんは約束する。

「『自分』の欲求に、従うこと。思うように生きること。誰かに『おかしい』といわれても、『誰か』は『自分』ではないのだから、気にしないこと。」(p161より引用)

強い言葉だ。

自分の欲求に従う。

思うように生きる。

一歩間違えれば、「好き勝手に生きればいい」という意味にも見える。

でも僕は、そうは読まなかった。

他人を傷つけてもいい。

責任を放棄していい。

そういう話ではない。

ここで言われているのは、

自分の人生のハンドルを、他人に渡さないこと

なのだと思う。

誰かに「変だ」と言われた。

だからやめる。

誰かに「普通じゃない」と言われた。

だから隠す。

誰かに笑われた。

だから好きだったものを嫌いになる。

それを繰り返していたら、自分の人生なのに、決めているのはずっと他人になる。

でも、その人は自分の人生を代わりに生きてくれない。

意見は言う。

批判もする。

でも、結果を引き受けるのは自分だ。

だったら最後は、自分で決めたい。

「誰か」は「自分」ではない

この言葉は、考えれば当たり前だ。

誰かは自分ではない。

でも人間は、それをよく忘れる。

「あなたは変だ」

と言われる。

すると、

「自分は変なんだ」

と思う。

でも、本当は少し違う。

正確には、

「その人は、自分を変だと思った」

だけだ。

主語を戻す。

すると、それは絶対的な事実ではなく、一人の人間の感想になる。

「きりこはぶすだ」

ではなく、

「きりこをぶすだと思う人がいる」。

もちろん、そう言われれば傷つく。

何を言われても平気になれ、という話ではない。

でも他人の感想を、そのまま自分の定義にしなくてもいい。

これは簡単なようで、かなり難しい。

きりこだって、外見で人を見る

そして、この物語が好きなのは、きりこを完全な被害者として描かないところだ。

外見によって傷つけられたきりこ。

だったら最後まで、

「人を外見で判断するなんて最低だ」

と言わせることもできたはずだ。

でも、そうしない。

きりこ自身も、初恋の相手の容姿が変わったことで、心が揺れる。

ここで、きりこは気づく。

自分の中にも、人を外見で見てしまう部分がある。

僕はここがものすごく好きだった。

人間は、そんなにきれいではない。

「外見で人を判断してはいけない」

と思いながら、誰かを格好いいと思う。

かわいいと思う。

タイプだと思う。

反対の感情を持つこともある。

僕だってそうだ。

だから「外見で判断する人は愚かだ」と批判して終わるだけでは、自分だけ安全な場所に立ってしまう。

『きりこについて』は、そこからきりこを降ろす。

あなたの中にも同じものがあるよね。

と。

だからこそ、きりこのその後の気づきに説得力が生まれる。

「ぶすで良かった」という言葉

そして、きりこは言う。

「うちは、『ぶす』で、良かったんや!」(p193より引用)

この一文だけを見ると、誤解しやすい。

「ぶすの方が素晴らしい」という意味ではない。

「美人よりぶすの方が人間として上」という話でもない。

それなら、結局は新しい上下関係を作っただけだ。

僕は、きりこが言っているのは、

「かわいい/かわいくない」というものさしだけで生きる人生から外れることができた

ということなのだと思った。

もしずっと「かわいい」と言われていたら。

もし初恋の相手からも「かわいい」と認められていたら。

きりこ自身も、そのものさしを疑わなかったかもしれない。

かわいいことには価値がある。

かわいくないことには価値がない。

そんな世界の中で生き続けていたかもしれない。

でも、きりこは傷ついた。

そして苦しんだからこそ、そのものさしそのものを疑うところまで行った。

もちろん、傷ついた方がいいわけではない。

言われなくていい言葉は、言われない方がいい。

でも、起きてしまった過去は消せない。

だったら、その過去を自分の中でどう意味づけ直すかは、自分で選べる。

「ぶすで良かった」という言葉には、過去を肯定するというより、

過去に自分の人生を支配させない強さ

を感じた。

美しいから好きなのか、その人だから美しいのか

きりこは、ちせちゃんについて、

「ちせちゃんは、ちせちゃんその人だから、他の誰でもないから、綺麗だと思った。」(p155より引用)

と感じる。

この感覚が、とても好きだ。

美しいから好きになる。

もちろん、そういうこともある。

でも、人と関わっていると逆のことも起こる。

その人だから、美しく見える。

笑い方を知っている。

話し方を知っている。

何が好きなのかを知っている。

不器用なところも知っている。

怒るところも知っている。

一緒に過ごした時間がある。

そうなると、その人の顔は「目」「鼻」「口」というパーツの集合ではなくなる。

その人の顔になる。

美しさというものは、測れる特徴だけではないのだと思う。

関係の中で生まれる美しさもある。

だから「誰が美しいか」という問いには、一つの答えなんてないのだろう。

自分を好きにならなくてもいい

自己肯定という言葉をよく聞く。

「自分を好きになろう」

「ありのままの自分を愛そう」

いい言葉だと思う。

でも僕は、少し大変だとも思う。

毎日、自分を好きでいるなんて難しい。

失敗した日は、自分が嫌になる。

余計なことを言ってしまった日は後悔する。

鏡を見たくない日だってある。

そんなときに、

「自分を愛そう!」

と言われても、無理な日は無理だ。

だから僕は、『きりこについて』を「自分を好きになるための物語」とは少し違うものとして読んだ。

好きになれなくてもいい。

嫌いなところがあってもいい。

でも、それも含めて自分である。

100点をつけなくてもいい。

「最高の自分!」

なんて言わなくてもいい。

ただ、

「まあ、これが自分なんだろうな」

くらいでいい。

自分を好きになることより、自分を自分の人生から追い出さないこと。

僕には、そのくらいの方がしっくりくる。

「自分らしく」すら、頑張らなくていいのかもしれない

最近は、「自分らしく生きる」という言葉もよく見る。

それも素敵な言葉だ。

でも、考えてみると少し不思議だ。

自分らしく生きよう。

そう頑張った瞬間、

「自分らしい自分」

という新しい理想像を作ってしまうことがある。

人の目を気にしない自分。

自由な自分。

好きなことだけをする自分。

それに近づかなければならない。

そうなると「自分らしさ」まで、新しいものさしになってしまう。

猫は違う。

猫は「猫らしく生きよう」としていない。

ただ猫である。

だから僕は、この小説を読んで、

「もっと自分らしく生きよう」

というより、

「自分らしく生きようと頑張らなくても、自分としてしか生きられない」

と思った。

そのくらいでいいのかもしれない。

死ぬまで生きるだけ

最後に、ものすごく単純な言葉が残る。

「自分は、死ぬまで生きるだけの存在である、ということ。」(p205より引用)

生まれる。

生きる。

死ぬ。

それだけ。

でも人間は、「生きる」ということにたくさんの条件をつける。

成功しなければ。

認められなければ。

愛されなければ。

役に立たなければ。

普通でなければ。

美しくなければ。

何者かにならなければ。

ただ生きるだけでは足りないような気がしてくる。

でも猫は、そんなことを考えない。

今日は何も成し遂げなかった。

それでも猫だ。

一日中眠っていた。

それでも猫だ。

誰にも褒められなかった。

それでも猫だ。

ただそこにいる。

そして、いつか死ぬ。

人間だって、本当は同じなのかもしれない。

『きりこについて』を読み終えて

最初の一文は、

「きりこは、ぶすである。」

だった。

強烈だった。

でも、読み終えたときに僕の中に残っていたのは、「ぶす」という言葉ではなかった。

残ったのは、

「自分って、いったい何なんだろう」

という問いだった。

人から見た自分。

自分から見た自分。

社会が求める自分。

なりたい自分。

過去の自分。

今の自分。

どれが本当なのか。

たぶん、全部なのだと思う。

誰かの一言に傷ついた自分も。

他人の目を気にしてしまう自分も。

「外見で人を判断してはいけない」と思いながら、誰かを外見で見てしまう自分も。

好きなことに夢中になる自分も。

くだらないことをしたい自分も。

全部ひっくるめて、自分。

外見か、内面か。

そんな二択ではない。

外見を否定する必要もない。

中身だけを「本当の自分」にする必要もない。

容れ物も、中身も込みで、自分。

そして、その自分のしたいことを、自分に少しくらい叶えてあげる。

誰かに「おかしい」と言われたとしても、その「誰か」は自分ではない。

傷つかなくなる必要なんてない。

他人の目を一切気にしない人間になる必要もない。

人間なのだから、気になる。

比べる。

落ち込む。

ときには自分だって誰かを比べる。

その人間臭さまで捨てなくていい。

ただ最後に、

自分の人生のハンドルだけは、自分で持っておく。

それくらいでいいのかもしれない。

僕は『きりこについて』を読んで、

「もっと自分を好きになろう」

とは思わなかった。

それよりも、

別に、誰かにならなくてもいいんだ。

と思った。

好きになれないところがあってもいい。

直したいところがあってもいい。

誰かの言葉に傷つく日があってもいい。

それでも、自分は自分として生きている。

そして、ときには猫のように生きてみる。

眠いから眠る。

好きだから好きと言う。

嫌なものを嫌だと思う。

歩きたいから歩く。

読みたいから読む。

何の役にも立たないことをする。

誰かに評価してもらうためではなく、自分がしたいからする。

人間には、そんな時間がもう少しあってもいいのかもしれない。

美しいとは何か。

普通とは何か。

役に立つとは何か。

自分らしく生きるとは何か。

誰の人生を生きているのか。

『きりこについて』は、そんな大きな問いをいくつも投げかけてくる。

それなのに、不思議と説教臭くない。

猫がいるからだと思う。

人間のしょうもなさをラムセス二世が外側から眺めている。

僕たちが必死に守っている常識を、

「それ、そんなに大事?」

と猫が横から眺めているような感じがする。

だから笑える。

そして少しだけ、自分の悩みから距離を取れる。

最初に、

「きりこは、ぶすである。」

と言い切った物語が、最後には、

「そもそも、それを誰が決めたんだ?」

というところまで戻ってくる。

その構造が、とても好きだった。

世界は、自分が今いる場所よりも広い。

自分を評価した誰かの言葉よりも広い。

「普通」という言葉よりも広い。

美人か、ぶすか。

成功か、失敗か。

役に立つか、立たないか。

そんな二択だけで世界はできていない。

「世界は、肉球より、まるい!」

本当に、そうなのかもしれない。

そして僕たちは、その大きな世界の中で、

容れ物も、中身も込みの自分として、

死ぬまで生きていく。

自分のしたいことを、たまには自分に叶えてあげながら。

誰かに「おかしい」と言われても、その人は自分ではないのだと思い出しながら。

うまく自分を好きになれない日も、その自分のままで。

それでいい。

『きりこについて』は僕にとって、「自分を愛せ」と強く背中を押してくる小説ではなく、「そのまま自分として生きていけばいい」と、猫の肉球でそっと背中に触れてくれるような物語だった。

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