「あんまり喋らないタイプ?」
今日、職場でそんなことを言われた。
その言葉を聞いて、一瞬だけ考えた。
ああ、そういえば僕、喋ってなかったな。
もちろん、喋っていなかったことくらいはわかっている。
ただ、その瞬間まで「僕はいま喋っていない」ということが、ほとんど意識になかった。
別に怒っていたわけでもない。
機嫌が悪かったわけでもない。
相手のことが嫌いだったわけでもない。
緊張していたわけでもない。
ただ、喋っていなかった。
それだけだった。
そして僕は、その間、たぶん全然違うことを考えていた。
今日帰ったら何をしようとか。
あの本の続きを読もうとか。
ブログに何を書こうとか。
腹減ったなとか。
本当にどうでもいいことを、頭の中で勝手に考えていた。
だから、「あんまり喋らないタイプ?」と聞かれて初めて、少し不思議になった。
そうか。
この人は、僕が喋っていないことを意識していたのか。
僕は意識していなかった。
同じ場所にいて、同じ時間を過ごしていたはずなのに、どうやら僕たちは少し違う時間を過ごしていたらしい。
そこで気になった。
無言が気まずい人と、気まずくない人。
一体、何が違うのだろう。
僕は「沈黙に強い」のだろうか
僕は昔から、無言の時間がそれほど苦にならない。
二人でいても、別にずっと喋っていなくていい。
電車に乗っていてもいい。
歩いていてもいい。
休憩していてもいい。
同じ部屋にいて、お互い別のことをしていてもいい。
もちろん僕だって、途中で気づく。
「あれ、結構長いこと喋ってないな」
さすがにそれくらいは思う。
でも、その次に出てくるのが、
「まあ、いいか」
なのである。
そして、また別のことを考える。
ここで僕は、自分のことを「沈黙に強い人間」だと思っていた。
でも今日、職場で言われた一言をきっかけに考えてみると、少し違う気がしてきた。
強いとか弱いとかではないのかもしれない。
そもそも僕には、
「人と一緒にいるのだから、何か喋らなければならない」
という概念が、かなり薄いのだ。
「喋っていない」と「喋らなければ」は別の話だ
僕だって、沈黙には気づく。
ずっと気づかないわけではない。
「あ、今、無言だな」
とは思う。
ただ、
「あ、今、無言だな」
から、
「何か喋らなければ」
につながらない。
僕の中では、この二つが別々なのである。
雨が降っている。
電車が遅れている。
お腹が減っている。
僕たちは今、喋っていない。
それくらいの感じだ。
ただの状態である。
ところが、無言が気まずい人にとっては違うのかもしれない。
「今、喋っていない」
という事実に気づいた瞬間、
「何か話したほうがいいかな」
「相手は退屈していないかな」
「気まずいと思われていないかな」
「何か話題ないかな」
と、その先へ進む。
僕は進まない。
「あ、喋ってないな」
で終わる。
そして頭の中では、まったく関係のないことを考え始める。
この違いは何なのだろう。
意識のベクトルが違うのかもしれない
考えていて、一つ思った。
もしかすると、意識のベクトルの向きが違うのではないだろうか。
無言になったとき、相手に意識が向く人がいる。
「この人は何を考えているんだろう」
「退屈していないかな」
「何か喋ったほうがいいかな」
「この沈黙をどう思っているんだろう」
目の前にいる相手へ、意識のベクトルが向いている。
僕はたぶん逆だ。
無言になる。
しばらくする。
すると僕の意識は、自分の中へ戻っていく。
今日の晩ご飯。
読みかけの本。
明日の予定。
ブログ。
仕事。
昔あったどうでもいい出来事。
突然思いついたくだらないこと。
目の前に人がいるのに、僕の頭の中では全然違う世界が始まっている。
だから、相手が沈黙を意識している間にも、僕の中では思考が続いている。
僕にとって無言とは、何も起きていない時間ではない。
口が止まっているだけで、頭は普通に動いている。
だから退屈もしない。
そして、退屈していないから、沈黙を終わらせる必要も感じない。
もちろん、これは僕自身について考えた一つの仮説にすぎない。
無言が気まずい人が全員、相手のことばかり考えているとは思わない。
反対に、無言が平気な人が全員、自分のことばかり考えているとも思わない。
沈黙には気づいているけれど気にならない人もいるだろう。
少し気まずいけれど、無理に会話を作らない人もいるだろう。
それでも少なくとも僕の場合は、意識が自分の中へ戻っていく。
だから沈黙を「処理しなければならない問題」として認識しないのだと思う。
「無口な人」と思われても、別にいい
もう一つ、かなり大きな理由がある。
僕は、人からどう思われるかをあまり気にしていない。
「あの人、無口だな」
と思われてもいい。
「全然喋らないな」
と思われてもいい。
極端に言えば、
「おもんない人だな」
と思われても、まあいい。
なぜなら僕は、自分で自分のことを結構おもしろいと思っているからだ。
なんだこいつ。
書いていて僕も思う。
でも、本当にそうなのだから仕方がない。
僕がおもしろい人間なのかどうかを、目の前の人に判定してもらう必要を、あまり感じていない。
もちろん、人から褒められたら嬉しい。
好かれたら嬉しい。
わざわざ嫌われたいわけでもない。
でも、
「この人におもしろい人だと思ってもらわなければ」
とは思わない。
だから、沈黙になったときに焦らないのだと思う。
何かおもしろい話をしなければ。
場を盛り上げなければ。
つまらない人だと思われないようにしなければ。
そういう義務を、自分に課していない。
僕がおもしろいかどうかは、僕が決めている。
なんとも自分勝手な話である。
嫌われても、まあ仕方がない
さらに言えば、僕は嫌われることもそこまで怖くない。
全員に好かれるなんて無理だと思っている。
僕が誰かを苦手になることがあるように、誰かが僕を苦手になることもある。
それはもう仕方がない。
だから、無言でいる僕を見て、
「感じ悪いな」
と思う人がいたとしても、それはそれでいい。
もちろん、仕事で必要なコミュニケーションはする。
挨拶もする。
伝えるべきことは伝える。
質問されたら答える。
話したいことがあれば話す。
ただ、
「嫌われないために、とにかく何か喋り続けよう」
とはならない。
僕の中では、会話と好感度がそれほど強く結びついていないのだと思う。
黙っているから嫌われる。
喋っているから好かれる。
そんな単純なものでもないだろう。
それなら、話したいときに話せばいい。
僕はそう思っている。
無言が気まずい理由は、それだけではない
ただ、ここで一つ気をつけたい。
僕が無言を平気なのは、自分に意識が向いていて、人からどう思われるかをあまり気にしないから。
だから、無言が苦手な人はその逆だ。
そんな簡単な話ではないと思う。
無言が気まずくなる理由なんて、人によっていくらでもありそうだ。
たとえば、純粋に相手を楽しませたい人もいる。
せっかく二人でいるのだから、楽しい時間にしたい。
何か話したい。
もっと相手のことを知りたい。
そう思って会話を続ける人もいるだろう。
これは「沈黙が怖い」というより、単純に人への興味が強いのかもしれない。
逆に、自分がどう思われているのかが気になって話す人もいる。
「つまらない人だと思われたくない」
「怒っていると思われたくない」
「嫌われたくない」
同じように沈黙を埋めていても、その理由はまったく違う。
あるいは、育ってきた環境も関係するのかもしれない。
家族みんながずっと喋っている家もある。
テレビを見ながら誰かが喋り、ご飯を食べながら喋り、車の中でも喋る。
そんな環境で育てば、人と一緒にいる時間と会話が自然に結びつくのかもしれない。
反対に、家族が同じ部屋にいても、それぞれ別のことをしている家もある。
一人はテレビ。
一人は本。
一人はスマホ。
別に喋らない。
でも仲が悪いわけではない。
そういう環境なら、無言に特別な意味を感じないのかもしれない。
あくまで想像だ。
人間なんてそんな単純に分類できない。
だからこそ、おもしろい。
同じ「無言」という時間の中でも、人によって頭の中ではまったく違うことが起きている。
同じ沈黙でも、中身は全然違う
考えてみれば、無言にもいろいろある。
何も気づいていない無言。
気づいているけれど平気な無言。
少し気まずい無言。
ものすごく気まずい無言。
怒っている無言。
考え事をしている無言。
疲れている無言。
安心しているからこその無言。
相手が好きだから、ただ隣にいるだけで成立する無言。
全部、外から見れば同じだ。
二人の人間が黙っている。
それだけ。
でも、その頭の中はまるで違う。
僕はここがおもしろいと思う。
会話しているときは、ある程度、お互いの考えていることが外に出る。
でも黙った瞬間、二人はそれぞれ自分の世界へ戻っていく。
そして僕は、その状態が嫌いではない。
むしろ自然だと思っている。
人間はずっと誰かと接続していなくてもいい。
でも、沈黙を埋めようとする人はすごい
ここまで書くと、
「俺は他人なんて気にしないぜ」
みたいな話に見えてくる。
ものすごく嫌なやつである。
ただ、僕はむしろ、沈黙を埋めようとしてくれる人をすごいと思っている。
二人で無言になる。
僕はぼんやり別のことを考えている。
すると相手が、
「そういえばさ」
と話題を出してくれる。
僕は普通に答える。
また会話が始まる。
こういうとき、今までは何も考えていなかった。
でも今日、「あんまり喋らないタイプ?」と言われてから、少し考えるようになった。
もしかすると、この人はずっとこちらを意識していたのかもしれない。
僕が退屈していないか。
気まずくないか。
何か話したほうがいいのではないか。
そう考えて、話題を探してくれていたのかもしれない。
そう思うと、すごい。
僕にはない種類の人間力だと思う。
だって僕は、そのとき全然違うことを考えているのだから。
向こうが、
「何か話したほうがいいかな」
と僕のことを考えているとき、
僕は、
「今日何食べようかな」
とか考えている可能性がある。
最低である。
人にベクトルを向け続けられる人
僕が「すごい」と思うのは、たくさん喋れることそのものではない。
目の前の人に意識を向けられることだ。
相手が退屈していないかを見る。
話しやすそうな話題を探す。
自分ばかり話さず、相手にも質問する。
相手の答えから、さらに話を広げる。
「この人は何が好きなんだろう」と考える。
僕には、そこまで相手にベクトルを向け続けることができない。
話しているときは、もちろん話す。
相手の話も聞く。
でも会話が終わったら、僕のベクトルはかなり簡単に自分へ戻る。
だから、人に意識を向け続けられる人を見ると、
「人間力あるなあ」
と思う。
僕よりずっと人間というものを大切に扱っているような気さえする。
ただ、僕は僕で、それを無理に真似しようとも思わない。
たぶん疲れる。
僕には僕のちょうどいい距離がある。
ただ、本当に苦しいなら、もう無言でよくない?
とはいえ、一つだけ思うこともある。
沈黙が苦しい。
だから何か喋らなければならない。
必死に話題を探す。
天気の話をする。
仕事の話をする。
休日の話をする。
最近何かあったか聞く。
でも、お互いそれほど話したいわけでもない。
話題が終わる。
また沈黙する。
また焦る。
また何か話す。
その会話まで苦しくなっているのなら、
もう最初から無言でいいんじゃない?
と思ってしまう。
沈黙が苦しいから、会話で埋める。
でも、その会話も苦しい。
だったら、どっちにしても苦しいではないか。
それなら一回、黙ってみてもいいんじゃないかと思う。
もちろん、それができないから困っているのだろう。
僕の「別に黙っていればいい」は、無言が苦手な人からすれば、
「それができたら苦労しない」
という話なのかもしれない。
それでも、もし相手が僕なら安心してほしい。
僕が黙っているからといって、
「この人つまらないな」
「なんで何も喋ってくれないんだ」
なんて考えていない。
たぶん僕は僕で、勝手に何か考えている。
だから、そんなに頑張って話題を探さなくても大丈夫だ。
話したいことがあるなら、いくらでも話せばいい
誤解されたくないのは、僕は会話が嫌いなわけではないということだ。
話すときは普通に話す。
おもしろい話なら聞きたい。
聞きたいことがあれば質問する。
好きなものの話なら、むしろ長くなる。
話したいことがあるなら、いくらでも話せばいいと思う。
僕がよくわからないのは、
「無言になったから喋る」
という会話である。
話したいから話す。
聞きたいから聞く。
伝えたいから伝える。
笑ったからツッコむ。
それでいいんじゃないだろうか。
会話って、本来もう少し自然なものだったはずだ。
「三十秒間、会話がありません。新しい話題を投入してください」
なんて警告はどこにも表示されない。
なのに僕たちは、ときどき自分の頭の中で勝手に警告音を鳴らしている。
ピコン。
沈黙が発生しました。
至急、話題を投入してください。
僕の頭には、たぶんその機能が搭載されていない。
沈黙を「気まずい」と決めたのは誰なんだろう
そもそも、沈黙はなぜ気まずいのだろう。
誰も怒っていない。
誰も喧嘩していない。
ただ二人とも喋っていない。
それだけである。
なのに、
「気まずい沈黙」
という言葉がある。
もちろん、本当に気まずい沈黙もある。
喧嘩した直後。
何か失礼なことを言ったあと。
言ってはいけないことを言ってしまったあと。
それは僕だってわかる。
その沈黙には意味がある。
でも、ただ話題がなくなっただけの沈黙まで、全部「気まずいもの」として扱わなくてもいいんじゃないだろうか。
二人で歩いている。
二人とも黙っている。
一人は空を見ている。
一人は今日の晩ご飯を考えている。
それでいい。
同じ時間を過ごしているからといって、同じことを考えている必要はない。
一緒にいても、一人でいられる関係
僕が心地いいと思うのは、たぶんこういう関係なのだと思う。
一緒にいても、一人でいられる。
別々のことを考えていてもいい。
スマホを触っていてもいい。
本を読んでいてもいい。
ぼーっとしていてもいい。
思いついたら話す。
また黙る。
それでも何も壊れない。
「会話がなくなった。大変だ」
とならない。
むしろ、ずっと喋っていなければ成立しない関係より、僕はそちらのほうが安心する。
何も話していなくても、そこにいていい。
相手に何かを提供し続けなくてもいい。
おもしろい話をしなくてもいい。
気の利いたことを言わなくてもいい。
ただ同じ場所にいる。
それだけでも成立する。
僕にとっては、かなり贅沢な関係だと思う。
無言でいられることは、信頼なのかもしれない
考えてみると、親しい人との沈黙ほど気にならないという人も多いのではないだろうか。
ずっと一緒にいる家族。
長い付き合いの友達。
恋人。
何も喋らなくても、
「怒っているのかな」
「嫌われたかな」
と毎回考えたりはしない。
相手との関係が簡単には壊れないとわかっているからだろう。
そう考えると、沈黙には「何もしなくても大丈夫」という信頼も含まれているのかもしれない。
ただ、僕の場合は少し違う。
まだそれほど親しくない人でも、わりと黙れてしまう。
信頼関係が完成する前から黙っている。
やっぱり僕の場合は、信頼以前に、
「別に喋らなくてもよくない?」
が先にあるらしい。
こうして考えるほど、自分の中の「会話をしなければ」という感覚の薄さに気づく。
無言が気まずい人にも、その人なりの理由がある
とはいえ、無言が気まずい人に、
「そんなの気にしなければいいじゃん」
と言うつもりもない。
それができれば苦労しないのだろう。
相手を気遣う人もいる。
嫌われたくない人もいる。
会話が止まると不安になる人もいる。
人と一緒にいるなら会話を楽しみたいと思う人もいる。
純粋に人と話すのが好きな人だっている。
だから、
「無言が平気な人はこういう人」
「無言が苦手な人はこういう人」
と決めつけることはできない。
ただ、自分自身について考えてみた結果、僕にはいくつか心当たりがあった。
人と一緒にいるからといって、喋らなければならないと思っていない。
沈黙になれば、自分の頭の中へ戻っていく。
途中で沈黙に気づいても、「まあいいか」と思う。
他人から無口だと思われても、それほど気にならない。
おもしろくない人だと思われても、それほど気にならない。
嫌われても、まあ仕方がないと思っている。
そして何より、自分では自分のことを結構おもしろいと思っている。
こうして並べてみると、やっぱり僕はかなり自分にベクトルが向いている。
向こうは僕を考え、僕は僕を考えている
今日の職場での出来事を改めて考える。
「あんまり喋らないタイプ?」
そう聞いてきた相手は、その前から僕が喋っていないことに気づいていたのだろう。
僕は最初、ほとんど気づいていなかった。
途中では気づいていたかもしれない。
でも、
「まあいいか」
で終わっていた。
相手は僕に意識を向けていた。
僕は自分に意識を向けていた。
そう考えると、なんだか申し訳ないような気もする。
向こうが、
「何か話そうかな」
と考えてくれている間、
僕は、
「今日帰ったら何しようかな」
と考えている。
やっぱり最低じゃないか。
でも、それでいいとも思っている。
僕は誰かと一緒にいるときまで、ずっと誰かのことを考えていたくはない。
相手にもそうしてほしい。
僕のことなんて気にせず、好きなことを考えていてほしい。
僕が黙っていても、
「あ、この人退屈してるかな」
なんて心配しなくていい。
僕は僕で勝手に楽しんでいる。
沈黙は、空白ではない
もしかすると、僕にとって沈黙は「空白」ではないのだと思う。
会話が止まっても、頭の中は止まっていない。
考えている。
思い出している。
妄想している。
次にやりたいことを考えている。
どうでもいいことを考えている。
頭の中では、ずっと何かが動いている。
だから、会話がなくなったからといって、急に時間が空っぽにならない。
無言の時間にも、ちゃんと僕の時間が流れている。
そしてたぶん、相手にも相手の時間が流れている。
それなら、それでいい。
無理に二つの時間を一つにしなくてもいい。
話したくなったときだけ、少し重なればいい。
無言が気まずくない人と気まずい人の違い
結局、無言が気まずくない人と気まずい人の違いは何なのだろう。
考えてみたけれど、やっぱり一つの答えにはできない。
他人からどう思われるか。
沈黙にどんな意味を感じるか。
人と一緒にいる時間をどう捉えているか。
相手への気遣い。
不安。
性格。
育った環境。
相手との関係。
そして、意識のベクトルがどこを向いているか。
いろんなものが重なっているのだと思う。
ただ、少なくとも僕の場合はわかった。
僕は沈黙に耐えているわけではない。
最初は沈黙そのものをほとんど意識していない。
途中で気づいても、
「まあいいか」
と思っている。
そして、また自分の世界へ帰っていく。
だから無言が気まずくない。
最低で、最高だ
今日、「あんまり喋らないタイプ?」と言われなかったら、こんなことを考えることもなかった。
自分では当たり前すぎて気づかなかった。
誰かといるとき、僕は思っていた以上に自分のことを考えているらしい。
相手は僕に意識を向けている。
僕は僕に意識を向けている。
そう考えると、少しだけ最低な気もする。
でも、僕はそんな自分が嫌いではない。
誰かと一緒にいるからといって、ずっと喋らなくてもいい。
誰かと一緒にいるからといって、ずっと相手を意識しなくてもいい。
無言になったら、自分の世界に帰ればいい。
話したいことができたら、また戻ってくればいい。
そして、沈黙を埋めようとしてくれる人がいたら、
「ああ、この人はすごいな」
と思えばいい。
僕にはないものを持っている。
でも僕にも、その人にはないものがあるのかもしれない。
だから、無言になっても大丈夫。
僕はたぶん、何も困っていない。
頭の中で勝手に遊んでいる。
無口だと思われてもいい。
おもんないと思われてもいい。
嫌われても、まあいい。
自分では、自分のことを結構おもしろいと思っている。
ずいぶん自分勝手である。
最低だ。
そして、そんな自分でいられるのは、
最高だ。
