「趣味はなんですか?」
大人になると、たまに聞かれる質問だ。
初対面の人との会話だったり、職場での雑談だったり、自己紹介だったり。
僕はこの質問をされても、そこまで困らない。
本を読む。
文章を書く。
音楽を聴く。
映画を見る。
ほかにも、そのときによって興味を持つものはいろいろある。
だから適当に何かを答えればいい。
でも、ときどきいる。
「趣味ですか? 特にないですね」
僕は昔から、この答えが少し不思議だった。
別に「趣味くらい持てよ」と言いたいわけではない。
趣味がなくても生きていける。
休日に何もせず寝ていたっていい。
人間、好きに生きればいい。
ただ、純粋に気になる。
趣味がない人って、何をしているんだろう。
一日は24時間ある。
仕事をして、寝て、ご飯を食べて、お風呂に入れる。
それでも休日くらいはある。
その時間、何をしているんだろう。
テレビを見る。
YouTubeを見る。
SNSを見る。
買い物へ行く。
散歩する。
友達と会う。
家族と過ごす。
ゲームをする。
酒を飲む。
ぼーっとする。
たぶん、何かはしている。
じゃあ、その中に好きなことは本当に一つもないのだろうか。
僕は「趣味がない」と言う人全員が、本当に何にも興味がないとは思えない。
もしかすると趣味がないのではなく、自分の中にある小さな「好き」を、まだ趣味だと認識していないだけなんじゃないか。
あるいは、好きになるところまで掘っていないだけなんじゃないか。
そんなことを考えた。
趣味がない人にも、好きな曲くらいはあるだろう
「何にも興味がありません」
そう言う人にも、好きな曲の一曲くらいはあるんじゃないだろうか。
人生で一曲も「これいいな」と思ったことがない人は、そんなに多くないと思う。
好きな映画だってあるかもしれない。
好きな食べ物。
好きな店。
好きな服。
好きな場所。
好きな芸能人。
好きなYouTubeチャンネル。
好きなお菓子。
何か一つくらい、「これは結構好き」があるんじゃないだろうか。
でも、そこで終わる。
好きな曲を聴く。
「いい曲だな」
終わり。
もちろん、それで何も悪くない。
音楽の楽しみ方なんて自由だ。
ただ、趣味がどんどん増えていく人は、ここからもう一歩進むことが多いように思う。
「これ、誰が作ったんだろう」
調べる。
作曲家が分かる。
「この人、ほかにどんな曲を作ってるんだろう」
また調べる。
別の曲を聴く。
今度は、そのアーティストが影響を受けた音楽が気になる。
インタビューを読む。
昔のバンドの名前が出てくる。
聴いてみる。
「あれ、これもいいな」
そこから、さらに別の音楽へ行く。
最初はたった一曲だった。
でも、その一曲に少し穴を掘ったら、地下でいろんな場所につながっていた。
映画だってそうだ。
なんとなく観た一本の映画が面白かった。
そこで終わってもいい。
でも、
「この監督、ほかに何を撮ってるんだろう」
と思って調べる。
過去作品を観る。
インタビューを読む。
その監督が「この映画に影響を受けた」と話している。
今度はその映画を観てみる。
そこから昔の映画へ行く。
海外作品へ行く。
脚本家が気になる。
撮影方法が気になる。
映画館そのものが好きになるかもしれない。
気づけば最初の一本から、とんでもないところまで来ている。
本も同じだ。
一冊読んだ。
面白かった。
同じ作家の本を読む。
その作家が好きだと言っている作家を読む。
作品の舞台になった土地が気になる。
時代背景を調べる。
文学そのものに興味が出る。
「好き」って、深掘りすると枝分かれしていく。
そして枝分かれした先で、また別の「好き」が見つかる。
趣味が多い人は、最初から好きなものが大量にあったわけではないのかもしれない。
一つの小さな「好き」から、どんどん横へ、下へ、奥へ進んでいった結果、好きなものが増えていっただけなのかもしれない。
でも、興味がないから深掘りしないんじゃないか
ここまで考えて、当然こういう疑問も出てくる。
そもそも、その世界にそこまで興味がないから深掘りしないんじゃないか。
これはその通りだと思う。
興味があるから調べる。
好きだからもっと知りたくなる。
自然な流れだ。
好きでもない曲の作曲家なんて、普通は調べない。
興味のない映画監督のインタビューなんて読まない。
だから、
興味がない → 深掘りしない
は間違っていない。
でも、僕は逆もあると思っている。
深掘りしない → 興味が生まれない。
こっちだ。
僕たちは、知らないものに対して最初から強烈な興味を持てるわけではない。
そもそも知らないんだから。
知らない。
だから興味がない。
興味がない。
だから調べない。
調べない。
だからずっと知らない。
これでは、何年経っても興味は生まれない。
でも、何かのきっかけで少しだけ知ってみる。
すると、
「あれ?」
が生まれることがある。
「思ってたのと違うな」
「意外と面白いな」
「もうちょっと知りたいな」
興味というものは、最初から完成した状態で心の中に存在しているとは限らない。
知ることで、あとから生まれる興味もある。
むしろ、そういうものの方が多いんじゃないだろうか。
興味を持つ「幅」が狭いこともある
もう一つ、趣味が多い人と少ない人では、興味を持つ入口の広さにも違いがある気がする。
街を歩いている。
変な建物がある。
ある人は、
「変な建物だな」
で終わる。
別の人は、
「なんでこんな形なんだ?」
となる。
駅名を見る。
「○○駅か」
で終わる人もいる。
「なんでこの地名なんだろう」
となる人もいる。
知らない料理が出てくる。
「知らない料理だ」
で終わる。
「どこの国の料理なんだ?」
となる。
電車が来る。
乗る。
それだけの人もいる。
「この電車、なんでこんな色なんだろう」
と思う人もいる。
後者は、とにかく入口が多い。
何にでも少し引っかかる。
「なんで?」
「なんやこれ?」
「どういうこと?」
が頻繁に発生する。
すると、当然だけど掘る穴も増える。
十個引っかかって、そのうち九個がつまらなくても、一個面白いものが見つかる。
その一個を掘る。
また枝分かれする。
そうやって好きなものが増えていく。
だから趣味が多い人は、特別に感受性が豊かだとか、人生を楽しむ才能があるとか、そんな大げさな話ではなくて、
まだ好きかどうかも分からないものに、とりあえず引っかかれる人
なのかもしれない。
「興味があるものを探す」のではなく、
「ちょっと気になる」を拾う。
それくらいでいい。
本当は好きなのに「好きじゃないこと」にしていないか
ただ、もう一つあると思う。
本当は好きなのに、自信がなくて「好きじゃないこと」にしている人だ。
たとえば、
「読書は好きなんですか?」
と聞く。
「いや、そんなに読まないですよ。月に2、3冊くらいなので」
いや。
待ってくれ。
月に2、3冊?
十分だ。
素敵だ。
もう立派な読書好きじゃないか。
月に2、3冊読む。
本屋にも行く。
面白そうな本を探す。
読んでいる時間が好き。
それなのに、
「読書好きって言うほどじゃないです」
と言う。
なぜだ。
読書好きになるための最低冊数なんてあるのだろうか。
月10冊?
年間100冊?
100冊を超えた瞬間、
「おめでとうございます。本日よりあなたは正式な読書好きです」
と認定証でも届くのだろうか。
そんなものはない。
月に一冊でもいい。
半年に一冊でもいい。
その一冊を楽しみにしているなら、それでいい。
読書だけじゃない。
「映画が好きです」
「年間何本観るんですか?」
別に何本でもいい。
「ギターが趣味です」
「上手なんですか?」
下手でもいい。
「旅行が好きです」
「何か国行きました?」
近所でもいい。
「料理が好きです」
毎日作らなくてもいい。
趣味に必要なのは、実績ではない。
詳しさも、熱量も、技術も関係ない。
好きなら好き。
それでいい。
なのに、なぜか大人になると「好き」と言うことに資格を求め始める。
詳しい人を知っているから。
自分より上手い人を知っているから。
もっと熱量のある人を知っているから。
「あの人に比べたら、自分なんて」
となる。
でも、それを言い始めたらほとんど誰も何も好きと言えなくなる。
世界には必ず自分より詳しい人がいる。
自分より上手い人がいる。
自分より時間を使っている人がいる。
そんな人と比べる必要はない。
趣味は競技ではない。
好きに順位はいらない。
「やりたいことがない」も同じなのかもしれない
この話を考えていると、「趣味がない」と「やりたいことがない」は、かなり似ているように思えてきた。
「やりたいことが見つからない」
よく聞く言葉だ。
やりたいことが見つかったら始める。
夢が見つかったら動く。
興味が湧いたら挑戦する。
一見すると自然だ。
でも、ここにも同じ問題がある。
やったことがないのに、どうやって「やりたい」と分かるんだろう。
もちろん、見ただけで憧れることもある。
でも全部がそうではない。
なんとなくやってみた。
意外と面白かった。
もう一回やってみた。
前より少しできた。
もっと知りたくなった。
気づけば好きになっていた。
そんなこともある。
つまり、
やりたい → 行動する
だけじゃない。
行動する → やりたくなる
もある。
ここを逆にしてみてもいいんじゃないだろうか。
やりたいことがないから何もしない。
ではなく、
やりたいことがないから、とりあえず何かしてみる。
何でもいい。
ガチャガチャ?別にやりたくない?いい。回せ
たとえば街を歩いている。
ガチャガチャがある。
「別にやりたくない」
いい。
回せ。
欲しいものがない?
知らん。
回せ。
300円入れる。
ガチャガチャ。
出てきた。
「なんやこれ」
それでいい。
別にガチャガチャを趣味にしろと言っているわけじゃない。
でも、そこから何かに引っかかる可能性はある。
「このミニチュア、妙に精巧だな」
メーカーを調べる。
ほかの商品を見る。
「こんな変なガチャガチャあるのか」
専門店を知る。
昔のガチャガチャを見る。
歴史が気になる。
気づけば少し面白くなっているかもしれない。
ならなかった?
それもいい。
ガチャガチャはそんなに好きじゃない。
一つ自分のことが分かった。
それだけでも、何もしなかったときより一個情報が増えている。
本に興味がない?いい。本屋へ行け
「ガチャガチャは嫌です」
分かった。
じゃあ本屋へ行こう。
「本に興味ないです」
いい。本屋へ行け。
別に本を読めとはまだ言っていない。
本屋を歩けばいい。
なぜ本屋なのか。
僕は、本屋ほど**「なんやこれ」の宝庫**になっている場所は、なかなかないと思うからだ。
料理。
旅行。
スポーツ。
映画。
音楽。
写真。
美術。
歴史。
鉄道。
車。
バイク。
建築。
インテリア。
園芸。
昆虫。
動物。
宇宙。
科学。
心理。
哲学。
将棋。
釣り。
キャンプ。
登山。
コーヒー。
お菓子。
ファッション。
文房具。
もちろん小説もある。
人間が「面白い」と思ってきたものが、一つの建物の中に大量に詰め込まれている。
こんな便利な場所はない。
読書好きじゃなくていい。
端から歩けばいい。
棚を見る。
表紙を見る。
タイトルを見る。
「なんやこれ」
と思うものを探す。
「世界の変な○○」
なんやこれ。
「知られざる○○の歴史」
なんやこれ。
自分がこれまで一度も考えたことのなかったテーマが、そこら中から飛んでくる。
その中で一冊でも、
「ちょっと気になるな」
と思えたら十分だ。
本屋は、本を買う場所であると同時に、
自分が何に引っかかる人間なのかを探す場所
にもなると思う。
何も引っかからない?そうか。わかった
「一周しました」
はい。
「何もありませんでした」
何も?
「一冊も興味ありません」
そうか。
分かった。
ここまで来たら仕方がない。
もう目をつぶれ。
「え?」
目をつぶれ。
そして適当に一冊取れ。
「でも、読みたくないです」
知るか。
どうせお前は何を見ても『読みたくない』って言うんだから。
そのままレジまで持って行け。
……まあ、さすがにそれでは可哀想だ。
コーナーくらいは選ばせてあげる。
小説。
料理。
旅行。
スポーツ。
歴史。
科学。
なんでもいい。
「この辺ならまだマシかな」
くらいでいい。
そのコーナーまで行く。
そこから先は知らん。
目をつぶれ。
一冊取れ。
レジへ行け。
買え。
家へ帰れ。
読め。
面白くなかった?
よし。
それでいい。
「こういう本は好きじゃない」
一つ分かった。
文章が嫌だったのか。
テーマに興味がなかったのか。
難しすぎたのか。
逆に、一章だけ面白いところはなかったか。
「この話だけはちょっと気になった」
あるじゃないか。
そこだ。
そこを掘ればいい。
少しでも引っかかったら、モグラになれ
何かに少しでも引っかかった。
そこで僕が言いたいことは一つだ。
モグラになれ。
掘れ。
「なんとなくこの曲好き」
掘れ。
「この映画、結構面白かった」
掘れ。
「この料理うまいな」
掘れ。
「この街なんか好きだな」
掘れ。
「この作家、ちょっと気になる」
掘れ。
好きかどうかを確定させなくていい。
趣味にする必要もない。
ただ少し掘ってみる。
すると地下で、別の穴につながる。
また掘る。
さらに別の世界が出てくる。
面白かったら続ける。
つまらなくなったら?
地上へ戻れ。
そして、また別の場所で、
「なんやこれ」
を探せばいい。
僕はそれくらい適当でいいと思う。
趣味なんて、人生を豊かにするためのものだ。
趣味探しそのものが苦行になったら意味がない。
「嫌い」が分かることも、自分を知ることだ
いろいろやってみると、当然ハズレもある。
むしろハズレの方が多いかもしれない。
十個やって九個つまらない。
それでもいい。
「これは嫌い」
「これは興味ない」
「これは一回で十分」
それも、自分についての情報だからだ。
好きなものだけが自分を作っているわけではない。
嫌いなもの、退屈するもの、苦手なものも、自分の輪郭を作っている。
旅行してみた。
でも観光地を回るのはそんなに好きじゃなかった。
じゃあ旅行嫌いなのか。
いや、知らない街を一人で歩くのは楽しかった。
なるほど。
自分は「観光」が好きなんじゃなくて、「知らない街を歩くこと」が好きなのかもしれない。
映画をたくさん観てみた。
派手な映像にはそこまで惹かれない。
でも登場人物の会話ばかりの作品は妙に好きだ。
なるほど。
映画そのものより、人間の心理や物語に興味があるのかもしれない。
そうやって、
好き。
嫌い。
面白い。
つまらない。
もっと知りたい。
もういい。
を繰り返していると、
自分という人間の形が少しずつ見えてくる。
趣味を探すことは、自分を知ることなのかもしれない
「自分探し」という言葉がある。
なんとなく壮大だ。
旅に出たり、人生について考えたりしないといけないような感じがする。
でも、自分を知るって、もっと小さなことの積み重ねなのかもしれない。
これが好き。
これは嫌い。
これはどうでもいい。
これはなぜか気になる。
これをしていると時間を忘れる。
これは一時間で飽きる。
そういう小さな反応を集めていく。
そのためには、まず反応する対象に出会わないといけない。
頭の中だけで、
「僕は何が好きなんだろう」
と考え続けても、材料が増えなければ答えも増えない。
だから外へ出る。
知らないものを見る。
触る。
読む。
聴く。
食べる。
行く。
やってみる。
そして自分がどう反応するのかを見る。
趣味を探すことは、自分を知ることでもある。
僕はそう思う。
「好き」を見つける前に、「なんやこれ」を増やそう
好きなものがない。
やりたいことがない。
そんなとき、
「好きなものを見つけなきゃ」
と思わなくていい。
いきなり「好き」を要求するから難しくなる。
好きの一歩手前でいい。
「なんやこれ」
これを増やす。
変なものを見る。
知らないものを見る。
普段行かない場所へ行く。
知らない曲を聴く。
知らない本を開く。
食べたことのないものを食べる。
興味がなくても、一回触ってみる。
何も感じなかったら次。
少し引っかかったら、モグラになる。
掘る。
また掘る。
面白ければもっと掘る。
違ったら地上へ戻る。
それを繰り返す。
そうしているうちに、
「あれ?」
と思う瞬間が来るかもしれない。
何度地上に戻っても、なぜかまた掘りたくなる穴がある。
何度離れても、また気になるものがある。
気づけば時間を使っている。
調べている。
誰かに話したくなっている。
たぶん、それが、
自分の本当の「好き」なんだと思う。
世の中は、まだ知らない楽しいことで溢れている
僕たちが知っている世界なんて、たぶんものすごく狭い。
知らない音楽がある。
知らない映画がある。
知らない本がある。
知らないスポーツがある。
知らないゲームがある。
知らない街がある。
知らない料理がある。
知らない文化がある。
知らない遊びがある。
知らない仕事がある。
知らない人たちが夢中になっている、知らない世界がある。
その中にはきっと、
今の自分なら想像もできないくらい夢中になれるもの
だってある。
でも、それは知らないままでは絶対に見つからない。
だから、趣味がないことを悩む必要はないと思う。
「自分には何もない」
なんて思わなくていい。
まだ知らないだけかもしれない。
まだ触っていないだけかもしれない。
まだ掘っていないだけかもしれない。
そして、本当はもう好きなのに、
「詳しくないから」
「上手じゃないから」
「そんなに頻繁にやってないから」
と、自分で好きじゃないことにしているだけかもしれない。
月に2、3冊、本を読む。
十分だ。
素敵だ。
もう立派な読書好きじゃないか。
好きに資格なんていらない。
詳しさもいらない。
技術もいらない。
誰かより強い熱量もいらない。
そして、本当に何も見つからないなら。
まず外へ出てみよう。
ガチャガチャがある?
別にやりたくない?
いい。回せ。
本に興味がない?
いい。本屋へ行け。
棚を歩け。
本屋なんて「なんやこれ」の宝庫だ。
何か一つくらい引っかかるかもしれない。
一冊も引っかからない?
そうか。
仕方ない。
コーナーくらいは選ばせてあげる。
あとは目をつぶれ。
一冊取れ。
レジまで持って行け。
読んでみろ。
面白くなくてもいい。
それもまた、自分を知る一歩だ。
そして、ほんの少しでも、
「なんやこれ」
と思ったら。
モグラになれ。
掘れ。
好きかどうかなんて、掘ってから決めればいい。
僕たちの周りには、まだ掘っていない穴がいくらでもある。
そのどこかに、
「これ、めちゃくちゃ面白いやん」
が埋まっているかもしれない。
世の中は、本当にまだまだ知らない楽しいことで溢れている。
それを知らないまま終わるのは、ちょっともったいない。
だから今日、一個くらい。
「なんやこれ」に、引っかかってみよう。
